ブラ3はお好き? ~アンニュイな雨の休日の午後に~
年末恒例の第9公演を終え、楽屋口を出ると、出待ちの人たちが傘をさしている。期待は外れた。チェロのケースはかさばるので、傘をさしていても濡れてしまう。後始末が面倒なのだ。
「ゆうちん?」
女性の声がして、一瞬血の気が引いた。私のことを、こう呼ぶ女性は一人しかいない。
振り返ると、彼女がいた。
「やっぱり、ゆうちんだよね。まだ、チェロやってたんだぁ。確かに、あんなに上手だったら、やめるのもったいないもんね」
「まあ……な」
島林渚左は、大学時代のオーケストラ部の1年先輩。大学2年生から社会人2年目頃までの間、半同棲関係にあった。だが、とんでもなく激務なポストに異動してから、足が遠のき、その関係は自然消滅していた。あれから約10年。
「ねえ。せっかくの再会だからさ、これから飲みにいかない?」
「まあ……いいけど」
それまで話していた、合唱で出演した渚左の友人は、2人に遠慮してくれた。
手近なところにワインバーがあったので、2人で入る。
それからは、渚左の独壇場だ。大学のオケ部時代の失敗談の思い出から始まり、当時の友人たちの近況まで、しゃべりまくる。オケの人間どうしが、かなりの数で結婚していると聞き、驚いた。しかも、そのカップリングが意外だったりもする。
「へえ。そうなんだ」
私は、相槌を打つばかり。あきれるほどの朴念仁。昔からそうだ。渚左が、こんな自分と付き合ってくれた理由は、今でもわからない。
店のBGMで、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章がかかる。
――ねえ。ブラ3ってさあ、アンニュイな雨の休日の午後にピッタリの曲だと思わない?
ふと大学時代の渚左の言葉が蘇った。おぼろげだが、それに対して肯定的な返事をしたと思う。ちょうどその頃。ブラームスにはまって、いろいろな曲を聞きまくっていた。
大学生といえば、大人ではあるが、今思えば子供っぽい純真さが随分残っていた。
ブラームスの交響曲第3番の第3楽章は、 Poco allegretto、3/8拍子、三部形式で、ハ短調。ベートーヴェンの後継を自認するブラームスは、渋い作品が多い。が、ブラ3の3楽章は、陰りのあるロマンチックな旋律が支配的で、その中で異彩を放っている。
この曲は、映画「さよならをもう一度」の主題曲として取り上げられて以来、映画音楽として広く認知され、単独でムード音楽として定着して有名となった。
曲冒頭の旋律は、まずはチェロのやや高音域で提示され、鮮烈に印象付けられる。チェロは、「憂い顔の騎士」とも比喩される。音色がマイルドで棘がない。やや高音域で奏でられる旋律は、テノール歌手が声を張って何かを訴えているかのように聞こえる。マイナーの調性で陰りのある旋律は、おそらく口説き文句ではなく、内面に留保された心の声での告白なのだろう。
今思えば、渚左がああいう発言をしたのは、チェロが活躍するから、気を使ってくれたためかもしれない。
しかし、あの頃から私も成長した。
作曲家は、湧き出るインスピレーションそのままに、曲を書いているわけではない。作曲当時の私生活が作曲に直接影響するのか? と問われれば、私は否定的に考える。
ブラ3を解説する文章を読むと、作曲当時の若いアルト歌手との恋愛感情が、この曲に影響を及ぼしたとされているが、いかがなものだろう?
音楽の作曲は、しばしば綿密に計算されて構築した建築物に例えられる。そこへ一時の感情が入り込む余地は、あるのだろうか?
あれから成長した私は、ブラ3の第3楽章を聞いても、「計算」が鼻につくようになってしまった。例えれば、かわいらしいと思っていた女の子のしぐさや声が、実は「計算」だと知ったガッカリ感のようなものだ。
「これブラ3だよね。私、大好きなんだ」
ブラ3のことを考えていただけに、渚左の発言には驚いた。以心伝心というやつか?
彼女の発言に、おそらく他意はない。が、彼女は、まだ少しは私に心を寄せてくれているのではないか? もしかして、まだ心が通じ合っているのか? そんな都合のいい考えが思い浮かぶ。
大学の頃の渚左は、自分を飾ることをほとんどしない人だった。少なくとも化粧はまったくしていなかった。服装には、それなりに気を使っていたが、私と付き合い始める前、一段と気を使っているように感じた。あれは、私に対するモーションだったか?
今日の渚左は、化粧もちゃんとしているし、服装も年相応のレディといった風のドレスを着ていて、なかなか似合っている。
あたりまえだが、あれから約10年たった渚左も、成長しているはずだ。その彼女には、今の生活がある。そこに、自分の入る余地があるのか? そう考えると自信がない。
心の葛藤とは裏腹に、渚左に話を合わせる。
「ブラ3は、ちょうど去年の秋の演奏会でやったんだ。前にOBオケでやったときは、練習不足で満足いかなかったけど、今回はリベンジできたよ」
「そうなんだ。聞きたかったなあ。T響って、レベル高いよね。たまに管楽器のミスが聞こえなかったら、プロと区別がつかないよ」
「入団オーディションではコンチェルトを弾かされるし、プロの先生を呼んで厳しく審査するからね」
「弦楽器で入団オーディションがあるなんて、あまり聞かないよね」
「うちとS響くらいかな。でも、S響は入団時だけだけど、うちは定期的に更新オーディションもあるから」
「うわっ。それは厳しいね」
そこで、話が途切れた。朴念仁のくせに、音楽のこととなると、つい饒舌になる。渚左の顔が、こころなしか曇って見える。
「もうオケはやらないの? 大学のOBが集まってるYオケとかあるでしょ」
「もう、ぜんぜん練習してなくて……この間、思い切って練習台もマレットも捨てちゃった。でもね、最近合唱を始めたんだよ。ママさんコーラスってやつで、あんまりじょうずじゃないけど」
「そうなんだ。じゃあ、さっき会ってた人は、同じサークルの人?」
「うん。すごくじょうずで、Sフィルハーモニック・合唱団とかけもちしてるんだ」
「へえ。そういうことなんだ」
昔みたいに、オケを通してつながる道が断たれ、淡い期待は消えた。むしろ、社会人で続けられる方がレアなのだと、思い直す。
渚左は、今の暮らしぶりについて話してくれた。突っ込んで聞けなかったので確証はないが、総合すると、何年か前に結婚したらしい。相手は、私の知人ではなさそうだ。
「ゆうちんってさあ、結婚してないの?」
「まあね」
「えーっ! どうして? ゆうちんって、モテるのに。ゆうちんを狙ってた女の子って、結構いたんだよ」
「ほんとかよ。初めて聞いたよ」
「ゆうちんってさあ。ミステリアスで、いかにもアーチストっていう感じのオーラを出してるから、ちょっと近寄りがたいところがあるけど、付き合ってみると味があるっていうか……ブラームスみたいな?」
「どこがブラームスなんだよ!」
「だから、噛めば噛むほど味が出るってところだよ。スルメイカみたいだって言うでしょ」
なんだか、褒められた気分がしない。ブラームスは、親しく交際していた先輩作曲家シューマンの妻クララへ熱烈な思いを寄せ続け、生涯独身だった。私には、独身を貫くポリシーはない。
クララは、遺伝子疾患で精神病となったシューマンを献身的に支え続けた。夫が自殺した後は、男社会である音楽界において、女流ピアニストの走りとして活動を続け、子供たちを立派に育て上げた。ブラームスは、子供たちの子守をするなど、クララに献身している。
クララは、お札の肖像画に採用されるほど、社会的評価の高い人物だ。が、ブラームスとの関係を考えるとどうなのだろう? ブラームスはクララへの思いを心に秘め続けたわけではなく、相当に熱烈な手紙を送っている。彼女は、ブラームスの思いを重々承知していたのだ。
私は、思わずにはいられない。クララは、計算高い女だったのではないかと……。
渚左は、帰り際に、こう言った。
「今度、電話するね。携帯番号は変わってないよね?」
「ああ。変わってないよ」
この言葉の意味を考え込んだ。単なる社交辞令と思ってしまえば、真に受ける方がバカげている。が、渚左は、ほとんど「計算」しない女だったはず。言葉そのままの意味だったら? 逡巡しつつも、なぜか少し期待している自分がいた。で? 期待? 何を? 相手は人妻だぞ。
本気で待っていたわけではないが、彼女から電話は来ない。
そのうちに、またとんでもない激務が舞い込んできた。数カ月間、終電で帰れず、タクシーで帰宅する日々が続く。私には、よくよく仕事運がないらしい。私の心は悲鳴をあげていた。激務が続いたストレスで、中程度の鬱病を発症してしまったのだ。仕事も、しばらく休職することになった。当然、オケもやめた。
心が弱ったことで、私の音楽の趣味はガラリと変わった。オーケストラを派手に鳴らす曲は、刺激が強すぎて負担に感じる。聴くとして、室内楽やバロック・中世時代のおとなしい曲じゃないと無理だ。
そんなとき、ネット上で、雨の日に聞く曲を集めた曲を収録しているCDを発見して、衝動買いした。今の自分にピッタリだと思った。
CDが届いた日。しとしとと雨が降っていた。休日ではないが、休職中。
CDには、ブラ3の3楽章が収録されていた。渚左の感性は、世間的に一般な感性と一致していたわけだ。
聴いてみると、「計算」が鼻につくことはなかった。というより、そこまで気を回す余力が、今の自分の心にないと言った方が正確か。
そうなって、あらためて気づいた。音楽を聴くときに、演奏者としての視点で聞き続けてきたことを。それは、楽曲分析を前提に曲を聞いていることにほかならない。
――聴きたいものを、自分の感性に素直にしたがって聴けばいい。
あまりに当たり前すぎることが、胸にストンと落ちた気がした。
音楽だけではない。男女間の関係にしても、裏に「計算」があるかなどと邪推して、いいことがあるのか? 何が楽しい? 自分の心へ素直になれば、それで十分だ。おそらくその先に、これまで得られなかった何かがある。
その後、復職した私は、再びT響でオケ活動を再開した。
職場の同僚の女性と交際を始めた。渚左のときは、なし崩し的だったが、彼女の方から近づいてきた。今の彼女は、自分からデートへ誘ったら、あっさりと受け入れられた。そして、彼女と結婚した。
渚左もおしゃべりだったが、妻は、それに輪をかけたおしゃべりだ。下町生まれの江戸っ子で、職場の幹部が相手でもタメ口をきく豪胆さも持っている。
Yオケにエキストラを頼まれた。メインはブラームスの交響曲第2番。大学時代に渚左と一緒にやった曲だ。
演奏会が終わり、楽屋口から出ると妻が待っていた。私を見つけると、手を振って近づいてくる。
「立見さん?」
女性の声がして、一瞬血の気が引いた。声で分かった。渚左だ。
「島林さん、じゃなくて、名前が変わったんだよね?」
一歩下がって控えている男性が目に入り、ピンときた。どうりで、「ゆうちん」と呼べないはずだ。
「これ、うちの旦那」
「どうも」
「どうも」
おざなりに紹介された彼は、ボソリと一言だけあいさつした。が、私もにた者どうしだ。
少しだけ嫉妬の感情を覚える。が、なぜか腑に落ちた。穏やかで優しそうな雰囲気が、どこか自分とにている。
「ねえ。誰? もしかして、元カノ? やだぁ。ゆうさんのスケコマシ!」と、妻が私の肩をど突きながら言う。怒ってはいない。冗談めいたニュアンスだ。
「え? まあ……そんな感じ?」と、答えかねていた私に代わり、渚左が答えた。
「昔のゆうさんって、どんな感じだったの?」
「ゆうちんはさあ……」
私の不愉快そうな視線に気づくと、2人は、少し離れた場所へ移動した。コソコソと何かを話している。
残された夫2人の会話は、これだけだった。
「お互い苦労しますね」
「まあ……そうですね」
でも、いやな苦労じゃない。