ver1.07-感染ウイルス
ユヅキは朝の街並みを見下ろしながら、盛大に欠伸をした。涙で滲んだ景色には、まさに壮観というものが広がっていた。
下階から突き抜ける超高層ビルである企業銀鏡本社を中心に、連なるオフィスビル群。それらは朝日を如何無く反射し、それぞれが個々の太陽であるかのよう。しかしそれに感動を覚えることはあまりない。ユヅキにとっては当たり前だから。……しかし、昨夜のネオンもどきの夜景には流石に嘆息を漏らさずにはいられなかったが。
がちゃがちゃと音を立てながら、ドアノブを必死に動かしているアンナの背中をぼやけた思考で眺める。本来ならイライラするような行動の遅さだが、眠気がそれに勝利しているユヅキの脳内では特に気にならない事だった。
「――じゃ、行こうか」
振り返り、銀色の髪を靡かせてアンナは言う。鞄を後ろ手に持つアンナの姿はとても可愛いのだろう。胸元の青いリボンが僅かに目立つ紺色のブレザーで上半身を覆っているそれは、アンナの体型のスマートさを強調している。また、膝上の短い灰色のスカートがアンナの長い脚を強調していた。
しかし、眠いユヅキにはどうでも良い事だった。
「何、もしかして昨日夜更かししてたの?」
二人して歩きながら、ユヅキに限ってはもそもそ歩きながら、アンナがユヅキに聞いた。
「ん……試しにノーパソでアウラをやってみたんだけどね……いや、良いハンデになったよ」
おかげでレベルもそこそこの奴らに手こずることが出来た。まあ、それが操作性の悪さで手こずるというあまりよろしくないっちゃあよろしくないんだが、新鮮な体験であったことには変わりがない。何だか昔の理不尽ゲーだとか死にゲーだとかそういう鬼畜なものをやってる気分になれた。
ふーん、と特に興味なさそうにアンナはユヅキから視線を外した。
二人して黙って下からエレベーターが来るのを待っていた。扉の上を見れば、数字が見る見る増えているのが見える。
「うっわ……はっや……」
つい先ほど20だと思っていた数字は直ぐに30の数字に変わる。流石超高級マンション。伊達じゃない。
ユヅキはエレベーターに驚くが、本来の住民であるアンナには当然当たり前のことのようで、表情にはなんら変化がなかった。
超高速で降りるエレベーターから降りると、ユヅキは慣性の法則に感謝の念を送りたい気分になっていた。もはや浮遊していた気がする。速すぎ。てか、酔った気もしないでもない。
ユヅキはそう軽く胸を押さえてみるが、アンナは問答無用で先に行ってしまう。あまつさえ置いてくよー、なんて言う始末。溜息を吐きながら、ユヅキはその背中を追った。
元々マンションが凪都市からさほど離れていない為、少し歩けば直ぐに生徒の姿がちらちら見えていた。そしてその生徒達がほぼ確実にこっちへと一瞥を流しているのは気のせいではないのだろう。
ユヅキはそのめんどくさい視線を強引に気にしないことにする。
そして、その制服混じりの歩行者の姿を見て思う。――もし、今ここにオルトロスが出現したらどうなるのだろう、と。
思わず目の前に歩いている人達が血を噴き出す屍に変わる様を想像してしまい、ユヅキは肩を震わした。
「……なぁ、今とかってオルトロスは出ないのか?」
話の内容が内容でぶっ飛んだ話だから、一応ひそひそ声で話す。
「あぁ。その心配はないよ。オルトロスは夜、日が沈んでからしか現れない」
「それは良かった。……でも何で?」
「さあ、よく分からない。けど、まぁ……夜は回線が落ち着いてるからじゃないかな。電波が錯綜してなければ、ウイルスも多分活動しやすいんでしょう」
昨日は滅茶苦茶に早かったけどね、なんていう。
まあ確かに、夜は家に皆帰ってしまうだろうし、そうなれば回線の密度は薄くなる。自然と街に飛び交う電波は制限されてくる……が昼間は違う。ごまんという人間が街をオンライン状態で歩いているのだから。だから、相対的にオルトロスが出現するのは夜なのか。
「……だけどユヅキもやる気になってくれたんだね、良かったよ」
「はっ、んな訳ないだろ。オレはただ今この場で戦うはめになるかどうかだけ確認したかったんだよ」
そうだ。こんな人混みでアンナが襲われたりでもしたら堪ったもんじゃない。それこそ失う存在がショウだとか言ってられる規模ではないんだ。ここでもし、《デュエルサモナー》にでもなってしまったら、きっと学園での……いや、この街での居場所を失うだろう。仮に受け入れられたとしても噂で世界中に広がりマスコミなんかがごちゃごちゃ寄ってくるはずだ。そんなめんどくさいことは勘弁願いたい。
……それにアンナに付き合うのは、アンナが力を取り戻すまでだ。それ以降は知ったことじゃないんだよ……オレのせいじゃないんだ、その後の事は。だから……早く、惰性の世界に戻りたい。
ユヅキはそう思いながら、周りの多量な視線を浴びながら校門を潜った。
そのままアンナと別れ――別れる時に大声で“じゃあね”とか言いやがったが――階段を上り、自分の教室に入った途端、ユヅキは教室の異変に気づく。
そう、感じるのは昨日と同じ空気。浮ついた空気。だが気のせいか……やっぱり気のせいではない。目がユヅキに向けられていた。ちらりちらりと見る者もいれば、まるでおばさんの立ち話の噂みたいに口に手を隠しながら露骨に喋る奴もいる始末。
ユヅキは溜息を吐きながら、がたがたと自分の椅子を引いて寝る態勢に入――ろうとするが、不意に視界が陰に覆われた。訝しみながら顔を上げればそこには笑顔のミナトがいた。
……ああ、笑顔と言ってもだな、こう、オーラがあるんだよ。どんなかっては……そうだな、まるで戦場を駆け抜ける修羅かも知れない。
「ユ、ユヅキくん……?」
「お、おう……お早う、ミナト」
そう、眉毛をぴくぴくさせてる感じだな。気のせいか血管も浮いてなくもない。端的に言えば、こえええええよ。
なんとも形容しがたい笑顔で、ミナトはお早うと返してくる。
「銀鏡先輩と登校したの……?」
「あ、ああ……」
「な、何で……?」
「いや……その、別に特に理由はないんだが……」
へえ、なんて強張った笑顔をミナトは向けてくる。まるで喉元にナイフを突き立てられているかのような圧迫感は、その後に直ぐに来た教師によって解消されたのだった。
授業中もミナトの強烈な視線を浴びることに耐えられなくなったユヅキは、保健室へと向かっていた。
今日は仮病でずっと寝てよう、もしくは早退しよう、丁度テストも昨日で終わったし――そう思いユヅキは保健室のドアを開ける。
「……あれ?」
誰もいない。本来なら居る筈の教員がいなかった。どうしようか、と少し思案した後、ユヅキは無断で寝ることを決意した。カーテン締めて大人しく寝てれば大丈夫だろうと高を括る。むしろ問答無用で寝れるのだからラッキーだろう。
ぼふっと体全体を白いベッドに投げ出すと、ユヅキの全身は心地よい睡眠感へと包まれていった。
体を揺さぶられる音に不快を感じながらも、必死で夢にユヅキは食らいついてた。だが、しつこく掛けられる声に夢からは脱していて、現実との中間地点にいた。
「おい、起きろ!」
怒声と共にユヅキは頭に強い衝撃を受ける。恐らく痛みであるそれは、寝惚けたユヅキに鈍く浸透していく。
唸りながらユヅキが瞼を開ければ、そこにはスーツに身を包んだタクマの姿があった。今はテニス部に顔を出している時の様なポロシャツではなく、ちゃんとした教師の風貌だった。
「ああ……どうも、お早う御座います。タクマ先生……何でこんな所にいるんですか?」
「いや何……ちょっと保険医の先生に知らせることがあってな」
髭が綺麗に剃られた顎を手で軽く摩りながら、少しだるそうにタクマは言った。タクマからは何やら甘い匂いがする。どうやら香水でも付けているらしい。
ふと、ユヅキが時計へと視線を送れば、既に時間は11時を回っていた。
「ほら、早く授業に戻れよ。どうせお前元気なんだろ?」
「え〜……」
「えーじゃない。ほら、とっとと出てけよ」
そう言ってタクマは強引に掛け布団を取り去る。自分の体温で温められていた寒さからの防壁が一瞬にして消滅する――が、保健室の中は温度が高く保たれている為さして驚く事はなかった。
流石に教師に正面から反抗することは叶わず、ユヅキはもそもそと上履きを履いていく。その間、掛け布団を適当なところに置いたタクマは、保険医の机に行きメモを走らせていた。
外に出ると寒いんだよなー、と思いながらユヅキはベッドから腰を浮かせる。
そのままユヅキはのたのたと歩いて行き、扉に手を掛けた所で停止した。
「……先生、ショウってどうしたんですか? 今日もいないんですけど」
ユヅキは顔だけ振り向かせて、机の前で腰を折っているタクマへ問いかけた。
そう、タクマはショウの所属するテニス部の担任だ。そして最も親しい教師と言えるだろう。それは当然だ。ショウはテニス部でも生粋の腕前で、度々合宿で学校を休んでいる。その度にタクマが引率で行くのだから、絆は深くなるというものだ。実際、タクマは人望が厚い。特に部員に関しては常日頃から気に掛けていて、各自に合うプログラムやフォームの情報ファイルを作っては送っているらしいことをショウから聞いた。
見た目もショウに負けず劣らずのそんな爽やか先生は、ん? と一度喉を鳴らしてからユヅキへと向いた。
「ああ、ショウは合宿に行ってるよ。強化選手の」
はぁー……とユヅキはまたも感心する。いつも思ってはいたけれど、ショウはやはり凄い奴だ。
テニスの腕前は県随一、地方でもトップに十分君臨している実力だろう。中学から硬式テニス部に入っているとはいえ、実に素晴らしい腕前と言える。加えて、ショウは“武”だけでなく“文”も疎かになっていはいない。学年の順位では常に一桁台であるから。
それらはユヅキとは決して違う。努力すれば、その分だけショウは伸びているのだ。まさに、正反対だ。そしてユヅキは、そんなショウを常に羨んでいた。同時に、劣等感も感じていた。
しかし今気になることはそんなことではなかった。まだ、ショウ自身で解決していない筈だ。あの夜の出来事に関して。とはいえ、ショウからは一度もコールは来ていない。かと言ってこちらからコールするのは絶対に有り得ない。
釈然としない面持ちのまま、ユヅキは保健室を後にした。
一度教室に戻ってからは、時間が経つのは酷く早かった。それは別に授業に集中していたとかでは決してなく、ただ単に心のスイッチを切って呆けていただけ。何も考える気にはなれなかったのだ。だって、事態は何も解決していない。相変わらずユヅキの世界は広がったままで、めんどくさいことは何一つ解決していない。
騒がしい教室で昼食を取ることも躊躇われ、かと言ってアンナと中庭で昼食を取ることも躊躇われたユヅキは、購買で手に入れたパンを三つ片手に屋上へと来ていた。中庭と同じく酷く寒い屋上。相変わらず、人はいなかった。
ユヅキは一人、タンクの後ろへと腰掛け、パンの袋を開けた。もそもそとかじるが、あまり味が分かってはいなかった。
だけど今は何も考えたくはなかった。今の事も、これからの事も。
でも頭によぎってしまう事。それは、あの二人にどう説明をすればいいのかということ。
ショウに限っては誤魔化すなど不可能だろう。常に人を気に掛ける優しい奴だ。きっと今のテニスの練習中も考えているのだと思う。こうなったら正直に話せば良いとも思った。けれどそれではダメだという事も直ぐに気づいた。きっと正直話せばショウは理解してくれるだろう。きっと望む対応をしてくれるだろう。でもそれは、結局元の関係とは大きく離れてしまう。きっと何処までも気遣うだろう。身体のことや精神面でも。それが嫌だった。良いんだよ。だらけてる自分を呆れながらも構う距離感で。それがユヅキとショウである筈だ。ダメなユヅキとそれを気遣う優しいショウ。理想の構図で、一番安定している筈なんだ。
ミナトは、納得していたと思ったが、納得はしていなかったようだ。基本的に距離を保とうとするミナトがあんなコールを寄越すくらいだ。お世辞にも早いと言える時間帯でもなかった。それでも、ミナトの心の中にコールを煽る感情があったのだろう。震える声などミナトからは滅多に聞けない。
一つ目のパンを大体食べ終わった後、ぎぎぃ――という鉄の扉が動く音が聞こえた。誰か来たらしい。
死角に腰を下ろしているユヅキは、何となく息を殺しながら、訪問者の足音を聞いていた。その足音は何故か確実に、ユヅキの元へと近づいている。
ぬっ、とタンクの影から顔を出した人物は、
「……やっ、ユヅキくん」
長い茶髪の少女、ミナトだった。
昨日とは打って変わって陽気な声で、“いつもの調子”で挨拶をしたミナトは、一緒に食べようなんて言いながら、ユヅキの傍らに腰掛けた。その手にはハンカチに包まれた弁当が用意されている。それで、一緒に昼飯を食べるだな、と分かった。
「……ショウくん。今日も来なかったけど、どうしたのかな?」
しゅるしゅるとハンカチを解きつつ、ミナトは横顔のまま言った。
「ああ、なんか合宿らしいよ。部活の」
「ふぅん……」
そのままユヅキはパンを齧ることを再開し、ミナトは知らなかったななんて呟いてかちゃかちゃと音を立てながら弁当を開け、箸を手に持っていた。弁当箱はユヅキから見れば非常に小さく、まるで幼稚園に持っていくような大きさに感じた。小さくいただきますと言ってから、ミナトは箸を伸ばしていった。
正直、ミナトと楽しく話す気分にはなれなかった。先程までいろいろと考えていたという事もあり、思わず隣にいる存在を煩わしくさえユヅキは感じてしまう。
一体どうすればいいのだろう。そんなことを思いながら、ユヅキは空を見上げていた。
空は青い色を塗りたくられていて、それは疎らに白い雲で穿たれていた。数秒見つめるも、あまり景色は変化していない。まるで不変。それがユヅキには、羨ましく感じた。
隣でご飯を突いていたミナトが不意に動きを止めた。
「あの……」
箸を持った手を膝の上に置きながら、恐る恐る口を開いた。
「ごめん、何でもない」
しかし直ぐにその言葉は訂正され、再びミナトは箸を動かし始めた。
一体何を聞こうとしたのだろうか、などは考えたくはなかった。正直、ミナトの気持ちが分からない。想像はつくが、それが本当かは分からない。
結局人の心は分からないんだ。表向きでは好意的な表情を向けていても裏では凄く不快な感情を向けているのかも知れないし、色々な行動から胸の内を推測したってそれは結局推測でしかない。
〜だろう。結局それでしか人の心は計り知れない。所詮自分はその人物ではないのだから。だからユヅキは人間関係を広げる――世界を広げるという事が怖い。親しいショウの考えることでさえ分からず不安だというのに、他人など更に分からなく怖い。自分は好かれているのだろうか、嫌われているのだろうか。そんなこと考えながら人と接していくなんて、酷くめんどくさい。嫌なんだ、報われないのは。だから蹲って世界を狭くもせず広くもせず、変わらないのが一番楽なのに――。
結局ろくに会話をしないで、何処か重い空気のままユヅキとミナトは自分達の教室へと戻った。