ver1.05-感染ウイルス
「退け――よっ!」
手の平に食い込む嘴を指で掴んで、横に薙ぎ払う。が、向こうも飛んでいる身だ。そのまま放物線を描いて地面へと墜ちるなんてことにはならず、バサバサと巨大な翼を大きく羽ばたかせるだけでまたも空中で滞空してしまった。
顔の前で両手を交差させているアンナに、ユヅキは黒い兜のまま勢いよく振り返る。
「莫迦野郎! 何でデュエルサモナーにならないんだよっ!」
「……私は、もう成れないんだ」
今度はユヅキが驚く番だった。その言葉に、聞き返したくなるが――。
「――ッ! 来るよ! ユヅキ!」
――そんな暇はないらしい。
マスクの下、ユヅキは舌打ちをして前へと向き直る。化け物を見据える間、思う事は“前提が崩れてしまった”という絶望感。
「……後で説明して貰うからな!」
そう言って、赤い瞳を煌めかせてユヅキは睨む。
とは言え、どうすれば良いのだろう。相手は飛んでいる。こちらは翼などない。既に30メートル以上飛んでいると思う。化け物は様子見のように、上空から赤い瞳で睨みつけてくる。つまりは、こちらからは何も出来ない。……試しにジャンプしてみようか。
ユヅキは両手を地に着け、セットポジションを取った。高く跳ねるならば勢いをつけなければ高くは上がらない。嘗ての経験を生かす。スタブロ――スターティングブロックがないのが残念だが、仕方がない。無いからと言って、自分のフォームであるクラウチングフォームを崩すよりかはマシな筈だ。
ぐ、ぐ、と足首を地面に押していると、
「な、何してるの……?」
後ろからアンナの訝しげな声が聞こえるが、無視する。実際滑稽な姿なのかも知れない。鎧姿でお尻を上げて――しかもその尻は十中八九アンナの方へと向けられているのだから。
鎧は意外と軽い。細身なだけあって軽量型なのかも知れない。これなら――と一息肺に空気を込める。
「――う、おぉおおおおおおおお!!」
ユヅキは地面を蹴った。自身の進む方向へと、地面との角度をより少なく、反対側に加えられた力は反作用の法則によってそのほぼ全てをユヅキの推進力へと置き換える。
この瞬間に思い出す。同級生に言われた言葉。“お前は忍者みたいだな”――と。
ユヅキはただでさえ腰の低い走行で、より一層腰を低くする。それは、ばねの様に反動を溜める為に。
忍者の、何が悪い。忍者なら――!
「翔べる筈だろぉぉおぉおおおおおおおおお!!!!」
ユヅキは片足で力強く踏み込む。先程のように斜めに、前屈みではなく、縦の起動に近づいた踏み込み。その体のバネ、踏みこみの反動。それらを如何無くユヅキは全身で受け止める。
それと同時に、オルトロスは敵と見做したユヅキへと赤い唇を刃のように立て、落下していた。
右腕を体の後ろに左腕を前に伸ばしたユヅキは人間では有り得ないほどの跳躍をする。真っ直ぐ、軌道は斜めに。隕石の“逆”のように、夜空を突き抜ける。
交差する二つの影。
迫る赤い嘴に、黒き騎士は左の手の平で標的であるオルトロスの頭部を捉え、
「うぅぅぉぉぉおおおおおおおおおおお!!」
勢いよく、右の手の平を嘴へと叩きつけた。またも、圧倒的な速度を伴って。腰を捻り、弾丸のように手の平は嘴を砕いていく。
ごしゃ――という奇妙な音をユヅキは聞き取った。そのまま、オルトロスは地面と回転しながら落ちて行く。
よっしゃ、と心の中で小さくガッツポーズを取ったユヅキだが、地面を見て絶句する。そう、自分は異常に跳躍していた。目測……多分、25メートル弱。50メートルの半分っぽいから、そんなもの。そしてそんな高さといえば、それは4階建とかの高さである。
それを、ユヅキは落ちなければならない。既に上昇は殆ど収まっている。放物線の頂点には達しかけているのである。
「う、う、ぁああああああああ――!」
近づいてくる地面を見て、ユヅキは先程は殆ど真逆の叫び声を上げる。降下し始めた数瞬後、風が全身にぶつかっているのをユヅキは感じた。
怖い――。全身を包む浮遊感が、背筋を支配するのに時間は殆ど掛からなかった。
とにかく、両足でしっかりと着地しなくてはならない。両足を広げ、膝の力をある程度抜いて、クッションのように衝撃を受け流さなくては――。
と意気込んで着地したものの、衝撃は殆どなかった。いや、無かったというの語弊がある。ユヅキはその両足を折るであろう衝撃が、一切気にならなかった。精神的だけでなく、身体的にも。
流石に驚いて、数瞬自分の足を見つめるが、自分が吹っ飛ばした存在を思い出す。
前方へと視線をやれば、体全体を痙攣させながら地面に横たわっている怪鳥の姿があった。赤かった嘴は粉々に砕けていて、地面に散らばっている。それは直ぐに赤い光の塵芥となって霧消してしまった。
「……後、一回殴れば」
きっとゲームで言えば瀕死状態。なんとかセンターに持って行かなくては回復しないだろう。
けれど怖いものは怖い。慎重に、様子を見ながらすり足で近づいていく。
未だにバサバサと翼を地面の上で鳴らしている様子は、本当に不気味だ。生き物っていうのは生命の危機に扮した時に最も力を発揮すると聞く。だったら――。
そう頭に過った途端、オルトロスはパッと体をひっくり返し、爪のある両足で地面にしっかりと立ったではないか。
やっぱり――そう思いながらじりじり近づいていると、突然、全長何メートルかのその巨大な翼を広げ、飛翔した。その速度は先程と同じ、いや、むしろ早く感じるほどの殺気。赤い鳥類独特の、獲物を狙う切れ長の眼玉が標的を捉えた。その標的はユヅキではなく――アンナ。
「しまっ――」
そうユヅキが呟いた時にはもう遅かった。オルトロスは降下態勢に入った。先程のように助走をつけるような距離は存在していない。それに今からフォームを立てていては間に合わない。
一瞬の思考の間にはも、オルトロスは上空を羽ばたき、ユヅキの頭上を越えていた。一直線に、赤い瞳は軌跡を描いてアンナへと墜落していく。
――――ユヅキの脳裏に、一つの未来が浮かんだ。
胸を穿たれる少女の姿。細い身体は嘴に犯されつくし、純白の銀長髪は赤く染まる。
止めろ。
血飛沫が近くにある噴水のように巻きあがり、オルトロスの体に浴びていく。
止めろ。
そのまま少女の体から力がなくなり、虚ろな瞳をこちらに向けて――。
「――止めろぉぉぉおおおおおおおおお!!」
ユヅキが駆けた――その直後、ユヅキの手には、オルトロスの首根っこが鷲掴みされていた。
「――え?」
驚く声は二つ。ユヅキとアンナ。ユヅキは一瞬で、離れていた距離を縮めていた。
二人の丁度間に、オルトロスがユヅキの手に掴まれている。動かない自分の体を外そうと、必死にその大きな翼をばたつかせていた。その様子を、何よりユヅキ本人が驚いていた。
必死にオルトロスは抵抗しているが、ユヅキの指が深く食い込んでいる為、徐々に力がなくなっていった。翼の勢い、羽ばたく範囲が狭くなっていき、全ての動作が停止した。くたり、と首を傾けると、体の端から白い光の粒子になって崩れていく。それを、ユヅキは驚き停止したまま、見つめていた。
その体の全てが消えた時、
「……ユヅキ?」
アンナはユヅキの顔――兜を覗きこんだ。赤い瞳は動く事が一切ない。そのまま、同じようにユヅキの体も崩れていった。
「ユヅキ!?」
しかし、それは鎧だけだった。崩れた鎧の奥には、少年本来の肌色の指が露出されていた。
その様子にアンナが安堵の息を漏らした束の間、ユヅキの身体は前方に傾いた。それに対し留まることなく、ユヅキは倒れて行った。
慌ててアンナは呼びかけながら少年の鎧を受け止める。意外と重かったらしく、ユヅキの体が地面すれすれまでにアンナと腕と一緒に下がり、結局地面に軟着陸してしまった。
再度のアンナの呼び掛けに応えないユヅキの意識は、オルトロスが雲散した時にはもう既になかった。
“――そっか、ごめんね。ユヅキ”
そう言って、ミナトは微笑む。本当はとっても綺麗な景色だったのだろう。傾いた夕日が斜めに差し込む校庭に、それを後光のように輝かせる風景は、ミナトは。
だけどぼろぼろのユヅキの心に辿り着く事はなかった。ユヅキの心は、ぼろぼろになった自分の体と、心と、強烈な劣等感しか感じなかった。汗ばみ泥だらけの身体が気持ち悪くて、皮が剥けた足の裏や膝や顔が痛くて、結局レギュラーになれなかった自分が酷く惨めだった。
走るのが好きだった。ランナーズハイというもの、あれを体感してから走ることの虜になった。開ける視界。流れる景色。吹き抜ける風。燃える心臓。踏み込んでいく脚。自分がまるで風になったような感覚に、心が震えた。
だから、だから練習を積んだというのにどうして報われなかった。《アイツら》の二倍以上も練習をしてきた自信がある。なのにどうして。努力は裏切らないんじゃなかったのか。神は平等ではなかったのか。
もう二年も終わるというのに。後は無いんだ。なのにどうして、こんなにも脚が動かない。どうして何度やっても、抜かれてしまうんだ。
――嗚呼、そうだ。こんなことはよくある事。昔から何度も体験して来たさ。期待に裏切られた絶望感。努力に見放された虚脱感。
そしてその度にミナトは傍へと来てくれた。タオルも持って来てくれたし、ドリンクも持って来てくれた。けれど何より――掛けてくれる言葉に、居てくれる事に救われたんじゃないのか。
だっていうのに、どうしてこんなことをしてしまったのだろう。そして、どうして素直になれなかったんだろう。
ミナトは寂しそうにユヅキを見つめて、自分の膝にぶつけられたエナメルバッグを重そうに手に持った。そのまま丁寧に、ユヅキの隣へと置く。しかしそれをユヅキが目で追う事はない。ただ汚れた拳を握りながら、誰もいないグラウンドを睨み続けるだけ。
ごめんね、そうもう一度ミナトは言った。砂が擦れる音で、初めてユヅキはミナトへ顔を向けた。しかしもうミナトは横顔を見せるだけで、拙い走りで遠くへと行こうとしていた。見せる横顔は酷く切ない。そして、気のせいだろうか。夕日に光る滴が落ちていた。そんな気がする。
どうして呼び止めなかったのだろうか。
――ごめん。
そんな一言で済むのではないか。どうして喉が動かなかった。どうして拳を握るだけで終わったんだ。
プライド? そんなものに比べたら――。
ミナトの背中はどんどん小さくなっていく。それがどうしてか、見慣れない背中に見えてしまう。もう手の届かない、触れることの出来ない、そんな乖離的な焦燥感。
走れば良かった。その為に脚があるんだろう。
だから――走れば良かったのに――。
次の日から、少女が目の前に現れることはなかった。
「……ああっ、良かった! 良かった……ユヅキぃ!」
夢? と思いながら目を開ければ、
「……アン、ナ?」
視界一杯に逆さまな眼帯をしたアンナの泣き顔があった。ルビーのように澄んだ瞳は濡れていて、目尻からは滴が今にも落ちそうだった。思わず、その情けない表情にぎょっとする。
瞬く度に、ポタポタと涙が落ちていた。頬に。額に。その垂れる涙の軌道を囲う様に、銀色の髪も垂れていた。
視界がアンナの涙で、髪で、泣き顔で構成されている。まるで世界にアンナだけのようだ。
「うん、私だよ……もう、目ぇ、覚まさないかと思ったよぉ〜〜〜〜!」
「――ッ!? オイ! ……うぷっ」
そう言ってアンナは、膨らみを感じることが出来る胸板へとユヅキの頭を抱き締めた。そこで気付く。ユヅキはアンナに膝枕をされていたことを。後頭部にはやたらと柔らかい感触があるし、鼻からはやたらめったらフルーティに甘い匂いがするし、っていうか前も無駄に柔らかいし! ふ、ふっくらしてるよ!? ま、ましゅまろぉ!?
あたふたと暴れようとしてユヅキはまたも気付く。自分の身体が全く動かなかった。指と口、その程度しか動かない。
「身体……動かねえや」
「うん、うん……」
その頻りに頷く様子を見て、こりゃ完全に話聞いてないな、とユヅキは溜息を吐く。
とりあえず自分で状況整理をしてみることにした。……場所は公園らしい。アンナの嗚咽の声と共に噴水のどばどばという音が聞こえるからだ。時間は……アンナの様子から判断するにもしかしたら一時間単位で幾らか経っているのかも知れない、と覚悟する。身体の冷えで判断しようかと思ったが、何かおぼろげで当てにならない気がするので止める。そう、あとは身体の問題か。まあ、苦しいという事はなく極端に疲れた状態、な気はするが……どうなんだろう。
と粗方ユヅキが頭を巡らせ終わり、殆ど通常通りの思考に戻った頃には、アンナは大分落ち着いていた。
「……落ち着いたか」
「……うん、ごめん」
「で、どのくらい経ったの」
「え……五分くらい? ……そんなに経ってないかも。……一分? 二分くらい?」
「…………」
「え、何で黙るの? ……怖いよ、ユヅキ」
「……いや、何も言うまい」
それじゃあ身体に冷えなんて感じる訳がない。ただ“おちた”だけじゃないか。ああ、でもただとは一概に言えないか。何せ気絶した理由がデュエルサモナーに依るものなのだから。だからって泣くこたぁないと思うんだが……。
そう眉毛を曲げながら、ユヅキは溜息を吐いた。
そして、泣いて目を赤くしている少女を見て思った。――後悔せずに済んで良かったなぁ、と。