08 選ばれたのは意外な人物【ダウングレード】
通俗本のこの章は、正本と比べ台詞が多いが相違点は少ない。双方とも共通の口伝から文章が構成されたのだと思われる。ただし、通俗本の表現には『色本』に通じる表現があるため、全年齢向け版での本章は、正本を底本として訳すことにする。
本章では、おかつたちの狙いの一つが明示されている。
能などに残る伝承では、玄翁和尚によって九尾の狐は成仏させられた。その化身である殺生石は砕かれた。それなのに那須に殺生石を称する大石が存在する。しかし、おかつたちがそれには目もくれていない。ただの火山岩で、後世に人寄せのためにそう呼ばれるようになったからだ。
実際は九尾の狐は成仏はさせられず、殺生石は法力によって砕かれただけだった。その人格と霊力も欠片に乗って分裂。飛び散った地それぞれで、呪いを顕現させたので、土地それぞれのやり方で封印された。
玄翁は殺生石が悪用されぬよう破片の位置をくらますため、3ヶ所の「高田」に散ったと話すに留めた。実際には、久保多村に2つの大きい欠片。あとは板鼻、古河、江戸に1つずつが散った。久保多村の2つにはふれず、残り3つが田や湿地に散ったことによるらしい。これについては諸説あり、大きい2つの破片が窪田(=高田の反意)に入ったとことを欺瞞するためだというのも有力だ。なお、人の住まない湿地に落ちた江戸近郊の破片は、瘴気を広く拡散させた。さらに、日本最大の祟り神と呪いの力が合わさったおかげで、道灌の江戸築城に合わせて封印されるまでに「穢土」「葦原中國」をこの世に出現させることになった。
おかつはこの世への恨みの強さで最大の殺生石に選ばれて取り憑かれた。おこうは呪力の大きさを見込まれ、石からの狐復活の依り代に選ばれた。
板鼻の殺生石が選んだのは意外な人物であり、それが堀部の軍政運用の特殊性を生み出す原因となる。
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第8章 欠片の復活
「さあ、さっさと次の目的を果たしちゃいましょう」
おかつは明るく言い放った。御座所の庭には、一行の他に、籠絡された信然と、おかつとの対戦で敗退した信綱しかいない。第1の目的である、さえと憲政の準備はまだできていない。
「まだ何かあるのか?」
そう信綱が訝しむのは無理もない。
「ここはもともと、守護所だったのよね、信綱さん」
「その通り。元は上野介の政務の場じゃ」
上野は親王任国。京から動かぬ皇族が上野守に任じられる。だから、その代官たる上野介が実質的な守護職となり、守護所で政務を営む。武家の世になると、守護は在地の大名が任じられるようになった。
だが、世は乱れる。関八州の武家を統括する鎌倉公方と関東管領の継承を巡って度々の乱が起き、正統な公方は転戦の末に古河へ移り、当代の足利晴氏は古河公方と呼ばれるようになった。関東管領の山内上杉家も同様に板鼻に移り、守護所を御座所にしたのだ。
乱の間に、上野介は消えていた。今は正規の上野介が誰なのかは関東に伝わっていない。各地に上野介を自称する侍が大勢いる。どれが本物なのか知れたものではない。官職名と支配地と実力がまともに一致している守護大名など、薩摩の島津、甲斐の武田、駿河の今川ほか片手で数える程しかいないのが当代だった。
「ここに殺生石の破片が封じられているのよ」
「ああ、能で有名な……」
「うん。石の破片から、わたしとおこうちゃんに取り憑いて九尾の狐は復活した」
「ここにも破片があるというのなら……それも復活させる気か?」
「ええ……」
信綱は九尾の狐を引き込んだことを悔やんだ。九尾の狐が増えるなどとは聞いていない。それでは、人が太刀打ちできるわけがない。自分だって、相手が呪いを封じて互角がやっとだというのに。
まつとりょうはその会話を聞いて悟った。自分たちは依り代として連れてこられたのだと。
「もしかして……」
「おこう姉さんみたいになれる?」
「そうよ……どっちかになっちゃうけどね。楽しみにしてらっしゃい」
おかつが2人に笑いかける。2人は顔を見合わせ、表情が晴れやかになる。崇拝の対象に近づける……そう思ったからだ。
「この祠よね。良かったわ。ぞんざいに扱われたのね、封印するためのぎりぎりの霊力しか残っていない」
祠は奥御殿のすぐ南にあった。半間(約90cm)四方の社である。石は近在に落ちたのだろう。呪いの心得がある者が、遥か昔の上野介と協力して、ここに封じたのだろう。
稲荷明神を祀る祠だったが、手入れされていなかった。おこうが祠に歩み寄り、話しながら屋根に手を触れる。封印の霊力が十分にあれば、おこうやおかつは触れることさえできないはずだ。
「乱の間に祈ったり、祀ったりする人も滅多にいなかったんでしょう。寺社に封じておけばよかったのにね」
おかつも祠に近寄る。そして、2人揃って太刀の柄に手をかける。
同時に抜刀し、それぞれ太刀を2閃。
カツ、カツ、バラバラ……
古い材木が吹き飛ばされるように破片を撒き散らす……祠の4隅の支柱が、2人の太刀で粉砕され倒されてしまった。
ドン……
そのまま壁が崩れ、天井が落下して地面に叩きつけられる音が続く。
「何事じゃ!」
それに驚いて憲政が障子戸を開けて出てくる。ちょうど支度を終えたところのようだ。海老茶の直垂に羽織りと嬬黒の半袴……脚絆、手甲も着け、綿入れの陣羽織もまとっている。十分な旅装束だ。さえも同じ格好で、彼に続いていた。同じ出で立ちの男装で、遠目には兄弟のようにみえる。
「あら、驚かせちゃった? あなたたちを連れ出す以外にもこの御座所に用があってね。お騒がせしたわね。でも、もう力仕事は終わったから……」
おかつとおこうは太刀を収め、祠の残骸に向かって手を合わせる。そして、ぶつぶつと言葉を唱える。
おこうの中のこだまもだ。彼女の念話が、呪いの心得のない者の頭の中にも響く。
(我が同胞よ……我が身体の一部よ……土中から目覚めよ……空に舞い上がれ……)
彼女らに取り込まれた信然も、縁側に座ったまま同じことを念じているようだ。信綱、憲政、さえは、呆気に取られて眺めやるだけだ。
紫の光が祠の残骸の間から発し、ついには、そこから光球が湧き出るように、宙に浮かび上がる。
1尺ほどの球は、ぶうんという音をかすかに立てている。
そして、1間ほどの高さに上昇した。
信綱はそれが九尾の狐の魂だとわかった。禍々しい気を発し、総毛立つ思いがする。さえや憲政には、その気は感じ取れないようだった。信然は超然として冷静だ。おかつとおこうは酔ったような目をして、笑みを浮かべている。祠に近づいてきた2人の少女もだ。
「わたしを選んで……」
「わたしこそ……」
まつとりょうの声に呼応して、光の球体がぐるぐる旋回を始める。
「さあ、力を貸して……一番あなたの力を欲しがってる者に、あなたの力を与えてあげて」
おかつの通る声が響くと……光の玉は、北に向けて弾けるように飛んだ。
「きゃあ!」
「えっ?」
「あれ?」
「何で?」
「あたし……たちじゃないの?……」
光の玉は奥御殿の縁側にいたさえに衝突した。さえの悲鳴があがり、4人の女子が視線をそちらに向ける。さえの体が、紫の光に包まれ、脱力……腰が抜けたように尻もちをつき、脚を広げる。
「さえ……何じゃ……どうなっておる?」
憲政がすぐ横にしゃがみ込むが、あまりに怪異な様子に手を出せない。
「何……やめて……あっ……やだ……痛い……だめ、だめ……いやあっ!」
さえの体が光に包まれる。
「あーー痛い……あっ……いい……だめ……入ってくる……すごい……くる……くるぅ!」
まるで光に体の動きを封じられたようで、体を小さくよじりながら、さえは獣じみた声をあげる。
しだいに、光が体に吸い込まれるように、紫の輝きが薄れていく。
身体が震える。何かが頭のなかに入って来る。体がのけ反り、声も出せず……そうして、光はすっかり消えた。
「あらあら……」
「まつちゃん、りょうちゃん……ごめんね。お預けだわ」
「そんなあ……」
「お姉さんみたいになれるって……」
「あの子……ずるい」
おこうのようになり損ねたと知った2人は泣きっ面だ。
「怒らないで。あなたたち2人はもう一人前だから……頼りにしてるよ」
おこうは2人の前にしゃがみ、左右の手をそれぞれの背中に回して抱きしめてやる。
おかつは苦笑しながら、縁側にひらりと上がり、体を引くつかせているさえの横でしゃがむ。
「聞こえる? 中の子……とりあえず、さえこって呼ぶよ」
[はぁい……]
「どうして、さえを選んだの」
[憲政さんを守る意志に引き寄せられちゃった。すごいよ、執念が。呪いの器はそっちの2人が大きいけど。この子の力が欲しいって思いが強すぎ……]
「そんなに……じゃあ、この子があなたを使う側ね」
[うん、おこうちゃんとこだまちゃんみたいな関係だわ。思いの強さで、この子がわたしに命ずる側になってる。多分、わたしはこの子に似てしまっている]
「憲政さん、あなた、果報者よ。この子、あなたを守りたいから、九尾の狐を取り込んじゃったわ」
「え? そうなのか?」
そう聞いても実感が湧くわけがない。憲政の表情はぽかんとしてる。
「殺生石の魂を引き込む依り代を2人育ててきたのに……でも、まだ石の破片はあるし。水の泡ってわけじゃないから、まあいいわ」
[仕込めば見込みはあるわ、この子。でも……ふふふふ……。本当に心の中で、憲政様憲政様ってすごいわ。つまり……言わなくてわかるわね]
憲政をしっかり手の内に入れておけばいい。そうすれば、どんなに反抗的でも最後は言うことを聞くということだ。
「あなたたち……本当の夫婦になってないでしょう?」
おかつは顔を上げて、唐突に憲政に問いかける。
「え?」
「いいわ……あとできちんと教えてあげるから……ふふふ……楽しみにね。さあ、さえちゃん……しっかりね……」
「うん……」
おかつが抱き起こそうとすると、彼女は自分からしがみついてくる。
「わたしの中に……何かいる……怖い……熱い……」
「大丈夫……すぐに慣れるから」
おこうが呆然と立ち尽くす信綱に話しかける。
「信綱さん……そういうわけで、さえちゃんは、普通の人の手に負える者ではなくなっちゃった。やっぱりあたしたちで引き取るしかない」
「わかった。城下で動きが出ないうちに、立ち去ったほう良いぞ」
「あなたはどうする?」
「堀部領内から戻ってくる甥と合流して、明日か明後日、大沢宿へ出立するさ」
信綱におこうが語りかける。我に返った彼は後悔を完全に吹っ切った。さえが強くなったというのなら、けっこうだ。それに、おかつと手合わせして、ついに転の極意に至れた。これからも彼女たちと関わりを持つことで、自分が身につけている陰流の技をさらに発展させることができる。新しい陰流の創始だって可能だ。
おかつはさえを抱き起こして立たせ……
「さあ、厩に行きましょうか」
「ここからは馬に乗って、ほとんど真東に4里進んで利根川に出る。そして、利根川を船で4里下って、堀部の領内に入る」
「合わせて8里。馬と船を使うし、まだ子の刻に入っていないはずね。夜明けには着けるかしら」
「憲政さんは馬の心得は?」
「大丈夫だ。鍛錬はしておる」
「うん、ご立派……さえちゃんは?」
「わたしも大丈夫よ」
[わたしも手助けするしね]
さえこは、さえの心に働きかけを始めていて、さえも事情を飲み込んだ。堀部領に入るまでは、このまま大人しくしていて欲しいところだ。
馬を使うことでは、まつとりょうも、鍛錬しているから問題ない。信然も心得があり、京から板鼻まで馬で訪れていた。馬での道中はまったく心配ない。
おかつとおこうが松明を持ち、道を照らして進むことにする。信綱が見送るなか、一行は御座所の北門から馬を連ねて出発した。
殺生石の破片が取りつく描写を変更しています。