07 計算違いはたまにあること
信綱とおかつの手合わせをこのパートは描いている。
九尾の狐の強さと、その強さが万能ではないことが、この章にも表れている。
おかつは信綱の備えは見事に外した。だが、攻撃的な呪いを封じた戦いなら、極限まで鍛えた人間でも太刀打ちできた。そのことが本章では明らかになっている。
さらに正本では、さえがおかつに対して、主君の娘として権威をもって振る舞ったように描かれる。しかし、通俗本では、おかつに対して居丈高に振る舞うさえが、おかつに「いじられている」様子が描かれる。
そして、おかつと信綱のそれぞれの計算違いへの対処の仕方が、正本にはない心理描写として興味深い。
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第7章 信綱との対戦
「おこうちゃん、お坊さんは任せるわ。音は遮ってね。わたしは信綱さんと話をするから」
「はぁい……」
おかつは夜叉に勝利するや、こそこそとおこうに囁く。夜叉と信綱に集中できたのは、おこうが北門と庭の見回りを制圧したおかげ。信綱にまつとりょうが一撃加えられたのも、おこうが侍たちを倒したおかげ。おこうにも霊力で報いるのなら、夜叉を失い呆然自失の法力僧を与えるしかない。
背中に傷を負った信綱は、立ってはいたが、痛みは激しく、顔をゆがめている。
左脇から背中にかけて斬られたせいで、左腕を使えない。右手だけで太刀を持っているが、構えておらず戦意を感じられない。
おこうが縁側の信然を惨殺してしまうのは確実。おかつは信綱が救いに出ないように注意を引かねばならなかった。さえと憲政について話もつけねばならなかったし。
「あなたが、上泉信綱さんよね? 関八州でも一、二を争う剣豪の……」
「そんな偉い剣豪かどうかは知らんが、いかにも……上泉伊勢守だ」
おかつは太刀の構えを解き、太刀を持った右手を下げて自然体に。声も自然な感じで信綱に話しかけた。その信綱の左横の本殿でおこうが遮音の呪いをかけ、信然を座敷に引き込んだが、信綱は注意を払っていなかった。
「じゃあ、もう、戦う理由はないかしら。堀部の殿様の依頼で、ここに来てるのよ、わたしたちは」
「うむ……」
信綱はうなずき、奥御殿への道を開ける。元々、屋敷の守りを固めたのは、さえと憲政を奪おうとする者の実力を計るため。負けは明らかで、彼女らに抵抗する意味はなくなっていた。
侍たちは討たれ、夜叉も倒された。本殿の方を振り返れば、法力僧とおこうの姿が見えない。妖と僧が相容れるわけもない。何らかの形で殺されていると思った。
100人の兵を用意し、要所を門弟に采配させていれば……。そう思わないでもないが、兵法家としての未練というものだ。
信綱は奥御殿の縁側に出てきていた、さえと憲政を見やった。
「あの2人が、堀部の姫と関東管領・上杉憲政様だ」
「あなたたち、さっさと着替えなさい。武蔵までの道のりは冷えるからね。馬で掛けて寒くない旅装束にしなさい」
おかつが奥御殿へ近寄り、鋭い声で命令した。それに対して、さえはむっとした顔をし、憲政は苦笑を浮かべる。さえは表情のままの不機嫌を声にした。
「何でわたしたちに命令するの? 父の家臣なんでしょう? そこはお願いするのじゃなくて?」
「残念だけど、違うのよ。わたしたちは、殿様の盟友。お互いに協力し合う関係。上も下もないの」
「何それ? それでなくとも管領様の御前なのよ。お控えなさい!」
「そちらの管領さんの権威も関係ないの。わたしはわがまま勝手に動く。そういう獣。物の怪なのよ」
「何なの、この女……」
「あら、生意気って言いたいの? それは残念だけど、あなたの方よ。力もない子どものくせに」
「何ですって?」
「ほらほら、偉ぶってだめよ。でも、かわいいから許してあげてもいいかしら」
さえとまつのやり取りを、まつ、りょう、憲政は眺めていた。
まつとりょうは、さえが生意気な口を利くのに、最初はむっとしていた。2人にとって、おかつは崇拝の対象だったから。しかし、さえの方がからかわれる会話になっていくと、顔に微笑を浮かべる。
憲政は終始冷静に見ていた。彼の頭脳はなかなか明晰だ。おかつの叫び声には呪いがこもり、憎悪する気持ちをかき立てられたと感じ取っていた。その影響は、さえにはより大きかった。それが尾を引いている。だから、おかつに対して当たりが強くなっていると思った。
熟慮して憲政が発した言葉は、さえへの助け船にもなった。
「よいよい。着替えよう。ちと間をもらおう。恐らく女中どもも役に立たなくなっておるからな。自分たちで着物を探すところからやらねばならん」
「憲政様。そんな軽々に言うことを聞いては……」
「よい……お主の父上に動いてくれるように願ったのは、我らだぞ。そこな女はその盟友と言っておるのだから、礼を欠いてはならん」
それを聞いて、おかつはにこにこしていた。
……さえは、からかい甲斐のある子ね。朱雀女みたい。憲政さんは思慮と分別がある。2人ともりょうと同い年だっけ。人って違うものよね……
朱雀女というのは、大沢宿にいる陰陽師兼薬師のおせんのことだ。四聖獣の朱雀を式神として使える。呪いの力量ではおかつとおこうを同時に相手取って互角である。しかし、性格はからかわれることに慣れていない。さえは彼女に似ている。そう、おかつは思った。
それに対して、憲政には少年とは思えない君主としての度量があった。ただ、先年の氷室郡戦役で討ち死にした津山の御館と同じ、人生を投げ捨ててる気持ちが強く滲んでいた。まだ子どもなのに。
そして、狐の嗅覚は、2人から栗の花の香りを強く感じていた。
……子どもなのに、やることはやってるのね。そっちも楽しめそうね……
「じゃあ、憲政さん、よろしくね。わたしは信綱さんと話があるから、適当にゆっくりね」
「うむ。では、しばし……」
憲政とさえが部屋に引っ込んで障子を閉めると、おかつは、おまつとりょうに周りを警戒しながらくつろぐように言いつける。
信綱に近づくおかつ。じっくりと観察する
……誠実そうでいい男ね。精悍って言葉が板についてる。普通の背丈で安田さんより細い。素早そう。口髭も似合ってる。本当に理知的で、兵法家って感じ……
今のおかつには殺気がない。信綱も警戒を解く……緊張も解けたのか、痛みに顔が歪み、膝をついてうずくまる。
「あら、効いてるのね。やっぱり一手お手合わせ願いたいの……だから……」
おかつは身をかがめて寄り添い、左手を信綱の背中の傷に伸ばす。治癒の呪いをかける。
「治してあげる」
「うむ……ふぅ……これは助かるな。呪いで傷が癒せるとは」
「兵法家としては、どうかしら……戦場で、こんな傷を癒せる呪い師が何人もいるとしたら」
「ほう……それは面白いことになるな」
「堀部の領地は、そういう土地になるわ」
「九尾の狐は国を滅ぼすというのが、信広殿や寺社の言い分だが。考えが逆だな」
「わたしの望みは物の怪も闊歩できる国にするというだけよ。合戦で有利になること、戦場の外でも強くなることだけを考えている。そして、わたしたちの国では当然、人も生きていけるようにしたいわ」
「ほう……」
「それを、最初は津山の殿様が、戦ったあとは堀部の殿様も容れてくれたから、力を貸すことにしたのよ。……どう? 大丈夫?」
何度もおこうの手が切り傷の上を行ったり来たり。二本の刀傷がみるみる消えていった。
信綱は立ち上がり、左腕をぐるぐる振り回す。
「ああ、大丈夫だ。これは本当に戦場で役に立つな」
……あの夜叉を圧倒した相手だ。今度は無心になれそうだな……
力加減の話し合いなどはしない。もうお互いの力量は読めている。
どちらも剣を返して、峰打ちで戦う構えだ。とはいえ、鉄の棒での殴り合いも同然。事故で重傷を負っても、それは運命と両者は覚悟している。
信綱は数歩、おかつから離れて、左前の半身の八相に構える。太刀は両手で持っている。
おかつも信綱に左半身を向けて構える。ただ、信綱に対して、体を真横に向けている。横一文字の構えだ。そして、左手を前に突き出す。おかつはこの構えを好んで多用する。
互いに右腕は相手から離れた位置に引き、やや斜めにして太刀を立てている。太刀の長さを誤魔化し、間合いを読みにくくするためだ。
……打ち込む隙がないわね……
おかつは攻め手を見つけあぐねた。敗退を受け入れ、傷の手当てまでされたせいか、信綱からは特別の憎しみも気負いも感じない。力みが抜けている。
おかつは体の負担になり過ぎない程度に、体の動きを速める呪いを使っている。だが、それでも剣撃を信綱に受けられてしまう……おかつはそう読んでいた。
信綱は完全に忘我で無心。おかつの目をじっと見ている。感情を読み取れるおかつが何も読み取れない。
自分から仕掛けるしかない……自分も無念にして……
飛び込むように、信綱に向かって跳躍。
右手と太刀を信綱の首をめがけて振る。
カンッ
信綱は左半身を下げて避けようとするが、避け切れずとみて、太刀でおかつの太刀を払おうとした。太刀の峰同士がぶつかり鈍い金属音が響く。
おかつは反撃を予期しながら太刀を引く。すぐに切り返しの一撃を信綱に叩き込むが……
カンッ、カンッ、カンッ、カンッ、カンッ
おかつの予想に反し、信綱は反撃せず、受けに専念した。
おかつは左右に太刀を切り返し、剣速を上げながら、左に右にと首、肩、二の腕へ、太刀を打ち込もうとする。
だが、すべて受けられた。
おまつとりょうは目を丸くして、両者の打ち合いを見ている。侍たちの剣速など比較にならない打ち合いに驚くばかりだ。
……人間としての肉体の強さは、あっちがずっと上。わたしの呪いと、向こうの気の力の上乗せで、ほとんど互角かな。いや…………
互角どころか、おかつの剣速を信綱の反応が上回るようになり……
ビュン、ヒュン、ビュン、ヒュン、ヒュン……
ついに、おかつの太刀が空を切る。信綱は体の裁きだけで、おかつの剣を避け、左へ左へと回り込み始める。夜叉を相手にしたときの転の動きだ。迷いがなく、無念無想のまま、おかつの剣先をことごとく避けた。
おかつが腹部への斬りつけも入れたせいで、大振りになったのも不味かった。
ガツッ
信綱は小さく太刀を上から下に振り抜く。太刀の峰がおかつの右手首を撃つ。
「くっ……」
痛みでへたばるほど、おかつはやわではない。だが、衝撃は強く、太刀を落としてしまった。後ろに跳びすさり、両手に炎をまとわせる。太刀はなくとも、自分にはより強力な戦いの術があるという示威だ。
だが、これで立ち会いは終わりだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……見えた……これだ。できたぞ」
信綱は太刀を下段に構え、激しく息をついだ。一気に汗が吹き出す……体の消耗が激しかった証拠だ。絞り出された言葉が、彼の闘術が完成の域に入ったことを物語っていた
「剣術の勝負では、まだ1人にしか負けていなかったのに。すごい守りね。計算通りには勝てないものだわ」
「はぁ……はぁ……その負けた相手は、安田淡路守殿かな?」
元・津山家で、今は堀部家中随一の槍名人……おかつは頷く。
淡路守が氷室城に所用があるときには必ず大沢宿に立ち寄る。その際に、木刀と木槍による稽古は何度もやっており、おかつが以前に読んだように、10戦すれば3戦は淡路守が勝っていた。
信綱は刀を鞘に収める。おかつは炎を引っ込め、落とした太刀を拾って、やはり鞘に収めた。
「わたしと一緒に来ない? 大沢宿で稽古の相手をしてほしい。あなたの剣の技をいくらでも引き上げてあげるわ」
「そいつは……面白そうだ」
「でしょう? あの子たちにも剣術を教えて欲しいし。憲政さんと姫の先行きも見守れるわ」
「だが、簡単にはいかんな。ここの後始末……それと屋敷にいる門弟たちの身の振り方も決めねばな。堀部に使いに出した甥も、明日か明後日には帰ってくる。すれ違いになるのは避けたい」
「あら。それなら、後で来てくれるのね」
「……む……」
信綱は考えこんでしまった。この女たちは世の中をすっかり変えてしまいかねない。それも物の怪なのだ。本当に人の住める国になるか保証の限りではない。物の怪が人を虐げるような国になったら……計算違いではすまされない。
そんな思案をしているそばに、おこうがやって来た。
「お取り込み中、ごめんね。お姉さん、ちょっといい?」
「?」
おかつは鷹揚な笑顔をおこうに向けた。信綱の結論は簡単に出ないだろうと悟ったからだ。少し考えさせたかった。
「お坊さん……仲間にしていい?」
「え? 殺したのじゃないの?」
「あは……ちょっといい男だったし。久々に男とまぐわうのもいいかなあなんて思って……」
「わたしたちが闘ってる間に、何をしてたんだか……」
話の間に、縁側にゆらりと力が抜けた風に立つ僧侶。だが、まとってる霊気が今は黒かった……。
(私たちの仲間になってくれるって。あたしたちとの体の相性もいいみたい。いい方に計算違いだよ)
こだまもふざけ半分に言ってくる。
最初はまぐわいながら破戒を後悔させ、いたぶって恐怖させながら凄惨に殺そうと思ったのだろう。
だけど、信念の霊気がよほど美味だったのだろう。体内に入ってくる男の精気も……。
味方になるように、頭の中を作り変えるよう呪いを使ったに違いない。
僧侶は縁側にあぐらに座り、命令を待つようにおこうとおかつを見やっていた。静かに。目に生気はない。おかつが使役している五人の足軽たちと同じだ。
面白い。この黒い霊気なら使える。
「さっきの夜叉を呼び出せる?」
「いえ。できなくなりました。代わりに、悪鬼を呼び出せるようです」
夜叉を操るときと同じ真言を唱えると、祠の横に黒い霧が立つ。そしてそこから出てきたのは、夜叉と同じ顔だが、鋭く短い角が二本生えた嬬黒の肌の鬼だった。杖のような細い金棒を持つ。先ほど対戦した夜叉より力強く見える。
「黒夜叉でございます。地獄の入り口から呼び出しました」
信綱は顔をしかめる。おかつには武将としての知性が感じられる。しかし、おこうは刹那的で、物の怪に近い。この調子で、人を悪に染められるのなら、世の中は悪い方向に向く。
信綱は真剣に頭の中で算盤を弾いていた。ここまでいろいろな間違いをおかしていた。これ以上は間違いたくない。
……おかつに与力して良いのか……
……それとも、彼女らを止めるべきなのか……
……待てよ。今彼女らに反しても、ただ殺されるだけだろう……
一つだけ確かなことがあった。殺されてしまったら、止める機会は永遠に回ってこない。
……彼女らに付き従おう。ただし、上手く立ち回りながらだ……
信綱の腹は決まった。