06 柔と剛、剛と剛
『相国記』1935年のくだりの山場は、今回訳出する御座所の庭先での戦闘である。
さえと憲政を傷つけないという条件で、呪いに自ら制限を設けて戦うおかつとその指示で動く他の3人に対して、夜叉、信綱、信広、信然、襲撃を免れた兵が対峙する。
正本でも詳細な戦闘の叙述がなされる。両者の戦術行動の意図が分かりやすく表現されている。
なお、板鼻の関東管領御座所は、現代に至るまで一切の遺構が発見されていない。
図版は『相国記』の記述から繋ぎ合わせた想像図である。これはいわゆる政務と私生活のための「館」であり、本格的な軍事拠点は別に近在していた(高崎市内の板鼻城跡)。御座所の遺構が発見されていないのは、後の上野国平定戦の際の破壊が徹底されていたからだと考えられている。
板鼻関東管領御座所(再掲)
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第6章 篝火に照らされての闘い
本殿の障子戸から軽やかに庭に飛び入り降りてくる夜叉たち。おかつは庭の端の方にある書院を背に、夜叉たちに向き合う。
土塀のうちだと、庭の明るさが一段と実感できる。篝火がそこかしこに焚かれていて、ぱちぱちと薪が爆ぜる音が聞こえる。
「おこうちゃん、こだまちゃん、お願いね」
「うん」
(任せて)
「まつ、りょう、あなたたち2人は、わたしの背中を守ってね。ついてくるのよ」
「わかった」
「やる」
夜叉とおかつたちが対峙すると、本殿の縁側に、信綱、信広、信然が姿を見せる。
そして、仮眠を取っていた兵たちもわらわらと、夜叉に続いて庭に降りてくる。その数12名。
北門の番兵は動かず、庭の見回りの兵も建物の向こう側にいると考えていいだろう。
「それじゃあね……」
おこうが一声発すると、脱兎のごとき勢いで北に駆けだす。門番と見回りを制圧するのが彼女の役割だ。
「ちっ……」
信綱が舌打ちをする。北に走られても打つ手がない。してやられている。
九尾の狐がやってくると予想していたから、信広と手を組んだ。狐の実力を測るのに適した法力僧が来て安堵もしていた。
だが、昨日の朝から不意に彼女らが倉賀野の城下に現れたという話が伝わってきた。4人の男装の女子の姿で、北に向かって消えてしまったという。
今日は昼過ぎから辻褄の合わない噂話があちこちから報告されてきた。各所の長尾家、長野家の居城・居館が襲われただの、家督争いで膠着状態だった箕輪の軍勢が打ち破られただの……。
正しい情報を集めるために方々に人を派遣するよう手立てを打った。出方をうかがうはずだった。
確実だったのは彼女たちが北に向かったということだけで、忽然と姿は消えていた。ここに現れるという期待もあったが、それが今夜になるとは思えなかった。すべてこちらを混乱させるための策だったと悟っても手遅れだ。
「倍の兵があれば……それくらいでやっと彼女らの実力をじっくり見極められたろうに。遠慮などせず、門弟を御殿の夜番に入れておけば良かった」
そんな信綱の思いとは別に、信広と信然は、おかつの姿を見て、敵愾心をあらわにする。
信広は太刀を抜き放ち、生き残りの兵たちを率いるつもりで庭に降り立った。信綱との事前の打ち合わせで、非常時には信綱が全体と奥御殿の守り、信広は兵たちを率いるという分担を決めていた。そして、信然の夜叉が狐と対峙し、連携しながら狐を防ぐ。3者が上手くつながれば、討てないまでも持ちこたえられる。そんな手はずだった。
外に使いを出して、援軍を引き込みたい。だが、北門から使者を出すは無理だろう。むしろ、狐が1匹待ち受けているところへ、女中や使用人が走らないように祈るだけだ。
北が無理なら、生き残りの兵が南門に走り、使者に出れば……。
「信広殿、誰かを城下に使者に……」
信綱がそこまで言いさしたところに、おかつの大音声が響く。
「攻めてらっしゃい! 女子供3人に怖気づいているの? 男で、武士でしょう? かかってきなさい!」
若い女の声。嘲りと笑いの混ざったその声は、高く鋭く、怒りと憎悪を激しくかきたてる。感情を操作する呪いの篭った声だった。
12人の侍と信広だけではない。奥御殿、女中の詰所の障子まで、たーんっという音とともに開け放たれ、女中が数人、さらには一組の少年少女が、猛った感情にとらわれ、おかつの方を凝視していた。
「父の手の者……?」
おかつの呪文に当てられたさえが、奥御殿の縁側に出て、呆然と庭にいる人影を見ていた。
「来たのか……?」
憲政もそれに続いて出てきて、さえに並んで縁側に立ち尽くす。
2人とも、乱れた寝間着姿だった。
おかつは、音声とともに、夜叉に左半身を向け、右半身を引いて弓を構えるがごとくに太刀を立ててかまえる。
そこへ夜叉二体と12人の兵と信広が、夜叉を先頭に一斉におかつに殺到する。
憎悪の感情をねじ伏せたのは、信綱と信然だけだ。さすがに、さえや憲政、女中たちまで、闘争状態にはならなかったようだが……。
使者を出すどころではない。夜叉と侍たちは、いきなり全力戦闘状態だ。
「うぉぉぉぉ……」
「突っ込め!」
「殺ってしまえ!」
「これはまずい……」
「雷鳴を! 光だけを! ここに!……」
侍たちが雄たけびをあげ、信綱がつぶやいた瞬間、おかつが呪いの力をふるう。
おかつはただの剣豪ではない。堀部忠久と同等以上の策略家という意味での兵法家であり、呪い師だ。戦いの方法の引き出しがとんでもなく多い。
おかつの声が響いた瞬間、太刀に向かって音のない雷鳴が空から落下してくる。
その眩い光はおかつを見ていた者の視界を奪ってしまう。まつとりょうは、あらかじめ顔を伏せ、光が目に入らぬようにしていた。
彼女たち以外の者が目をくらませているうちに、次々に悲鳴があがる。
「ぎゃっ」
「げ……」
「ぬぅ……」
「ひげっ!」
「ああっ……」
「そんな……そんな……」
最も動きの素早い夜叉と信綱の動きが停まった刹那に、おかつは夜叉の左横を跳躍し、夜叉の後からおかつに迫っていた侍の群れに踊り込み、左右に太刀を振るう。そうしてたちまち4人を討ち取る。すべて首に深手を負い、激しく血を振り撒きながら倒れた。
りょうとまつは、おかつの動きを追随……。2人の侍の膝を深々と斬った。
信綱が視力を取り戻すと、物言わぬ骸が4体と膝を押さえて呻く2人が地面に転がっていた。
「ちっ……手数を減らされるのか……」
信広や兵たちの太刀でも、おかつの背後を守る2人の童女を片付けることができる。そうすれば、おかつの身体に傷を負わせられ、余計な力を使わせられる。いきなりその手数が半減だ。
舌打ちしながら、信綱は裸足のまま庭に下り立つ。
今は、おかつをぐるりと取り囲む格好だ。北に信綱がいて、さえと憲政のいる奥御殿を背にしている。西に夜叉たち。南から東に侍たちが囲む。まつとりょうは、おかつと侍たちの間にいて、おかつを守る。
皆が光に視界を奪われている間に、おこうは屋敷を飛び越え、北門を制圧しているだろう。庭の見回りの兵たちも始末されただろう。ここで何とかするしかないと、信綱は考えた。
「信然! やつに呪いを使わせるな!」
信然が客分ということも忘れ、信綱は呼び捨てに叫んでいた。
「なまさまんだば さらなん けいあびもきゃ まかはらせんだきゃなやきんじらや さませ まなさんまら そわか」
信然は冷静さを取り戻し、仁王の真言を唱える。2体の動きを連携の取れたものにしようと念じたのだ。
「かかってきなさいっ!」
そこに、再びおかつの声が発せられる。
またもや感情を激した夜叉たちは、おかつに挑みかかっていく。侍たちもだ。
今度は夜叉の動きが速かった。
ガンっ! ガンっ!
二つの六角棒がおかつの頭へと突き入れられる。おかつは冷静にそれを左右に薙ぐようにして、柔軟に防御に徹する。
おかつとおこうの太刀は、旧津山家一門の周防守邸で手に入れた業物だ。肉厚で幅広で頑強なつくりだった。反りは小さく、刃先の方に重心がある。普通の者が使ったら振り回されてしまうだろう。
それを大沢宿の製鉄所で鍛えなおした。そこにおかつとおこうの呪いをいくつも乗せた。
だが、その太刀でも、夜叉の頑強そうな六角棒の打撃を受け続けるのはためらわれた。
ガンっ!……ブンっ!……ガンっ!……ブンっ!……
おかつはやり方を切り替えた。すべてを受け止めるのではない。一方の棒を太刀で流し、一方の棒は身体の動きで躱す。
体の正面は信綱に向けて牽制。西にいる夜叉には左半身を向けて、突き出した左腕で間合いを図る。太刀は右手一本で持ち、速い突きを横から叩いて軌道を変える。
そこにもう一体の棒が突き込まれてくる。これは躱す。体をかがめ、あるいは頭をお辞儀するように下げて避ける。
後ずさりはしない。下手に後退すると、信広と6人の侍たちを引き受けているまつとりょうの動きを圧してしまう。普通の人とはいえ、音に聞こえた坂東武者だ。管領直属の精兵で、最近は信綱が稽古をつけている。身についている武術は並みではない。
むしろ、おかつの背中に侍たちを寄せ付けない少女たちの剣術が異常と言えた。上背、手の長さ、打ち込みの深さ、力の強さ……いずれも優っている水準以上の侍の剣撃が受け流されていた。
さらに四尺七寸ばかり(140cm)の童女二人が、三尺(90cm)の太刀を振り回して、おかつから侍を遠ざけようとする。尋常ではない素早さだ。男たちを踏み込ませない。
たおやかそうなまつと、無邪気そうなりょう……しかし、二人の目つきは鋭く、尋常ではない気を放つ。男たちの剣を避け、鋭い速度で太刀を突き出し、振り回す。
「ちっ、ちょこまかと……」
「女子供と、舐めるな。手加減するな」
……大丈夫、おかつ姉さんがすぐに夜叉を何とかする。おこう姉さんも戻ってくる……
そう信じている少女2人の狂信的な戦いぶりに、侍たちは気圧された。彼らの舌打ち混じりの言葉が、おかつに聞こえ、にやりと笑みが浮かぶ。
自分にも、2人にも、動くものがよく見える呪いがかかっている。
2人の動きも最大限素早く引き上げている。
信綱と信然は、おかつに呪いを使わせていないと思っている。しかし、おかつの肉体操作の呪いは、無言でかけることができる。
お陰でおかつには余裕があったのだが、信綱にはそれが見切れていなかった。
「自分が加われば勝てる」
そう思った信綱は太刀を両手持ちの八相に構える。
夜叉の突きが再びおかつの頭部に伸びてきた刹那だ。
「取った!」
信綱は勝利を確信し、それに合わせて、おかつに向けて体ごと突進した。
そして、おかつの喉へ、太刀の切っ先を電光石火で突き出す。
だが、おかつはそこから消えた。
夜叉たちの突きも、信綱の突きも、空を切った。
おかつは人の目に留まらぬ速さで、その場にしゃがみ込んだのだ。
そして、そのまま右脚を軸に体を高速で回転させ、それに合わせて夜叉の方へ太刀を振り抜く。
「ぐはっ……」
ずぅんという音とともに夜叉が一体倒れ込む。
おかつの太刀がその夜叉の右足を膝から切断していた。
さらに、信綱の左の腋から背には、まつとりょうの太刀の斬撃が襲っていた。
「ちぃ……」
信綱は後ろに飛び退き、致命傷は避けた。しかし、着物はわき腹から背中に横二筋にぱっくり切られ、地肌にも赤い筋が2本ついていた。そこから鮮血が滴り落ちる。
「げっ……」
「ぐっ……」
「はっ……」
少女たちが不意に信綱に襲いかかり、背を向けたれた信広と六人の武士たちだったが……奥御殿の屋根から、くないが飛んできて、彼らの首筋に突き刺さっていた。屋根の上にはおこうがいた。
「残念ね。惜しかったわ。でも、これまでよ」
立ち上がったおかつは、残った夜叉に激しく斬りかかる。
夜叉もかくやという激しく重い斬撃。太い六角棒だから折れないで済んでいる。
おかつは右に左に太刀を躍らせ、肩口から袈裟懸けに夜叉の巨体を切断しようと、左右に切り返しながら幾度も斬撃を繰り出す。それを受け止める六角棒。
ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ……
重い衝突音。剛と剛の力のぶつかり合い……
闘いの様相が一変して夜叉は戸惑う。受け止めるのが精いっぱいだ。
おかつは太刀の刃がこぼれるのも構わない。何合も太刀と棒がぶつかり合う。
事態を打開しようと、夜叉は自ら六角棒をおかつの太刀にぶつけに行く。
棒の頑強さに任せ、おかつの太刀を弾き飛ばそうというのだ。
しかし、呪いで強化されたおかつの腕力は、まったく夜叉に力負けしなかった。
「がぁ……」
さらに何合かのぶつけ合い。夜叉の目論見とは逆に、おかつの太刀が夜叉の棒を右外へと弾き飛ばした。
その勢いに負けて夜叉は棒を手放す。ずんと音を立てて、地面に棒が落下する。
拾いに行くまでもない。
切り返されたおかつの太刀が、ずしんっと夜叉の右肩から左胸まで斜めにめり込んだ。
血は出ないが、夜叉の力が奪われる。
おかつはそのまま、夜叉の腹部を蹴り飛ばす。夜叉の体がそのまま後ろによろよろと後ずさりし、どすんと仰向けに倒れ、ぴくりともしない。
そうして、おかつは脚を切断されてじたばたしている夜叉へと近づく。その胸元に太刀を突き立て、背中まで刺し通す。
人間の魂を吸収するときの恐怖も、精力を吸収するときの快感もない。
だが、力が流れ込んでくるのを、おかつは感じていた。善神の霊的な力を奪うことで、彼女の力は一段と強くなった。
庭にある小さな祠の横……信綱を剣の間合いにとらえらえる位置に、おこうが屋根から飛び降りる。おかつとおこうで信綱を挟み撃ちにできる位置取りになった。
「あーあ、あたしも夜叉の霊気が欲しかったなぁ」
おこうの残念そうな声が響くなか、信然は縁側にへたり込む。戦闘経験の豊富な法力僧なら、すぐにも脚を斬り飛ばされた夜叉を回復させていただろう。だが、その場の雰囲気に呑まれ、戦いを見るだけになっていた。経験不足は否めなかった。
「勝負あったわね……ふふふふ」
信綱に正対したおかつが、微笑みかける。
その背後では、まつとりょうが倒された侍たちの心の臓を太刀で突き、とどめを刺していた。
九尾の狐の打倒に賭けていた高橋信広は、そこであえなく絶命していた。