05 真夜中の大潜入戦
九尾の狐・玉藻前が日本史上に残る大妖であっても、全能ではない。川をひとっ跳びするような身体能力は鍛錬よりも呪術の賜物だ。物理的な戦いのみならば、究極まで鍛えた人間の武芸者に負けることもある。一騎当千と言っても、敵に呪術師がいて、備えもある万の将兵と対すれば屈することもある。
だから、一度は玉藻前は討伐されたのである。
玉藻前は、そんな自分の力量の限界を知り、人の世の仕組みも洞察していた。かつては朝廷に取り入る策略を弄した所以である。
その玉藻前が融合したおかつも、玉藻前の嗜好と自分の眠っていた才能とが相まって、戦略を練ることを好んだ。戦術的な策を練り、準備することも怠らなかった。その周到さは、この章に表現されている。
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第5章 管領御座所潜入
正月20日、戌の刻(19時)。板鼻の東、半里の郊外。
前の日の昼、倉賀野城下に出現して、おかつたち一行は、一旦、北へ向かった。町人や旅人たちの注目の的になり、物好きたちが尾行してきた。しかし、そいつらは呪いの雷鳴で嚇し、引き返させた。接触を断ち、北の白井や箕輪に向かったと思わせたかったのだ。
そうして人目を遠ざけてから西へ方向を転じた。板鼻の郊外に達し、堀部の密偵が用意した忍び宿に入った。
住人が逃散した農家らしい。壊れたところもない。この季節の関東は、空っ風が吹いている間は雨の心配はない。しかし、風がきつい。
風を防げ、暖を取れるのは、まつとりょうにはありがたかった。夕食を終え、囲炉裏に薪をくべているが、夜の冷え込みは厳しい。座っているおかつに、彼女たちが左右に寄り添い、おかつは肩に手を回して抱き寄せる。
おこうはおかつの正面に座り、囲炉裏の火の番をしている。
「亥の刻(21時)に入ったら動くわよ」
りょうとまつはおかつの体に自分の体をすり寄せる。おかつの柔毛で覆われた体から伝わる体温が暖かい。それだけでなく、彼女たちには期待もあった。
りょうが物欲しそうにつぶやく。
「少しだけでも気持ちよくしてくれないの?」
「わたしやおこうちゃんの呪いの力を満すことが必要なら、そうするけどね。残念だけど、その必要はないし……今はあなたとりょうを疲れさせるわけにはいかないの」
おかつが答えると、刹那的な快楽嗜好の強いおこうも、にこにこしながらうなずく。
「いろいろ準備は終わってる。管領と姫様を連れ出したら、利根川に隠した船まで夜のうちに馬で走る。後は明るくなる前にできるだけ川を下って、堀部領内に舞い戻る」
「御座所が空っぽということはない。血を見ずには済まない。強い呪いで御座所を打ち壊すわけにもいかないしね。大変よ。あなたたちも、戦力なのよ。今までいろいろ稽古をつけてきたでしょ、頼りにしてる」
「やっぱり恐い……」
まつがおかつにしがみついてつぶやく。りょうも不安げな表情のままだ。
おかつとおこうだけで派手に片付けてもよかった。正面切って御座所を襲撃した方が楽だ。落ちぶれ、夜の守りの兵も少ない管領の御座所が恐いわけがない。
だが、幼いが自分たちを補佐したり、後継したりする者を育てなければ……。場数を踏ませなければならない。
それに板鼻の御座所には、自分たちが望んでいるものが一つある。彼女たちを後継者に仕立てるために必要なものが……。ここまで来たら引くわけにはいかない。
昨日丸一日と今日の昼まで御座所の周りを物見する時間はたっぷりあった。
夜は兵が40ほどもいて、10組に分かれて交替で門番、屋敷内外の見回りをしている。常時20人は起きているようになっていた。
板鼻で戦になった場合に備えた山城が西の里山に築かれていた。しかし、城下町との交通の便は悪く、普段は使われていない。兵糧と飢饉の際の備蓄米を兼ねた米倉を管理する役人と番兵がいるだけで、時折、修繕を行うくらいだった。
御座所には夜明けから100人ほどの武士が出入りする。兵の調練もしている。まだしも、夜に襲撃をかけた方が楽だった。
今日の御座所には、混乱の様子がうかがえた。倉賀野に彼女たちが出現したこと。北の白井か蓑輪方面に消えたこと。いろいろと輪のかかった噂話を各地で堀部の密偵が広めたせいだ。
「御座所には1人2人、手強そうなのがいるけどね。あたしやおかつ姉さんに敵うわけないわ。そいつらが出てくるまでに、淡々と1人ずつ消していけばいいのよ」
おこうが事もなげにいう。
ただし、将兵に調練の指導をしていたのは相当の武芸者だ。上泉信綱とやらいう兵法家だろう。
忠久は安田淡路守と五分と言っていた。しかし、兵に稽古をつけている身のこなしを見た限り、淡路守より手強い。攻めはともかく、守りの動きは信綱の方が上手だ。おかつは彼の力量をそう見積もった。
淡路守もそうだが、強力な武芸者はそれと意識せずに、呪いを駆使している。「気」「気合い」という曖昧な言葉で表現されるものだ。それは無意識の呪いで、太刀筋を見切ったり、動きを速くしたり、防御力を高くしたり、力を強くしたりしている。淡路守は攻め、信綱は守りの力を気で高めている。
もちろん、彼女が呪いの力を存分に使えば、1分の負けもない。
だが、この1年お目にかかったことがないくらい強い法力を備えた僧もいた。和華の前夫である和同に及ばないが、油断はできない。
もう1人、腕前はまあまあと思われる武士が1人いた。堀部と津山の合戦で、おかつとおこうが津山家の軍勢に加わることを最後まで拒否した男。作事奉行の高橋だ。自分に差し向けられた刺客から、依頼主の名として告げられたことがある。
「上泉とかいう人は何を考えているのかしら……。こちらの殿様に渡りをつけるくらいなら、こんなにしっかり備えなくていいのに」
信綱が堀部家に通じたいのか、それとも自分たちをおびき寄せて討とうというのか計りかねた。
「どのみち、邪魔が入らないように、兵40人には全員死んでもらうことになるかしら」
おこうが楽しそうな笑顔とともにつぶやく。
「上泉さんや法力僧がどれくらい、私たちの動きを敏感に察するかね」
おかつが応えると、おこうが動きを確認する。
「南の表門の4人を倒し、本殿に入る。櫓の上の弓兵は私たち、門番の槍兵はまつちゃんとりょうちゃん。それから、本殿内で仮眠している20人の寝込みを襲う。その間に遭った見回りの兵たちも討つ。
それで奥の院へ進む。そこまでに上泉と法力僧が気づく。あたしとまつちゃんとりょうちゃんで、その場に駆け付けてくる兵たちを平らげる。
お姉さんは上泉とお坊さんを倒しちゃう。手こずっていれば、あたしが助ける。終わったら2人を連れて、厩に行って、各自馬に乗って船まで走る」
(それと、例のものもね。奥の院の側の庭の小さな祠)
「そうね、あたしたちにはそれも大事」
おこうとこだまが敢えて聞こえるように会話を交わす。それが何を意味するのか、まつやりょうには悟らせないが、おかつとおこうとこだまには重要なことがあると思わせる。
「まつも、りょうも、おこうちゃんの言った流れをちゃんと覚えておくのよ。頭の中で繰り返してね」
「何か1つ間違えば、全部無駄にならない?」
りょうが疑問を口にする。おかつはにっこりして、それに答える。
「そうね。でも、『2人を連れ出す』を変えないのなら、今、流れの中のどこにいるのかがわかっていると、そこから新しい流れを考え出すのが簡単になるわ」
「そういうものなの?」
「うん、特に人を動かす側に回るとね。事前にいろいろ考えて、何をするのかを伝えないと、あなたたちが困っちゃうでしょう」
「ああ、うん。そういうものなのね」
ことごとく教えることだらけだけど、おかつもおこうも、それが苦ではない。
かわいいから、持てるものはすべて渡したい。話は尽きない。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。余計な荷物は密偵が回収して大沢宿に送り届ける算段になっている。置いていってかまわないわよ」
4人とも簡素で濃い藍色の直垂で、袴は踝までの半袴……小素襖と呼ばれる装束だ。太刀と小太刀を腰に差し、10本のくないを並べて差した革帯を襷掛けにする。
満月から4日後の月ははっきり欠けているが、まつやりょうも夜目を鍛えている。普通に歩くには十分な明るさだ。
東から正門である南門に出る道を進むと、ほどなく御座所が見えてくる。門前以外も仄かに周囲が明るいのは、土塀の内側の各所に篝火が焚かれているためだ。前には、城下町にあたる町も発達している。1万人は住んでいるだろうが、亥の刻を過ぎてしまえば、町の外縁の色町以外は静かなものだ。
2人の門番が槍を構えて、警戒しながら彼女たちに誰何の声をかけてくる。甲冑は着けておらず、小素襖姿である。門上には弓を持った2人の兵が周辺を伺っている。
「誰だ?」
「失礼いたします。旅の者ですが、道に迷ってしまって」
「こちらの明かりを目当てに歩いてきたんです。ここは関東管領様の御座所ですよね」
おかつ、おこうが先に立って受け答え、まつとりょうは、やや後ろに控えていた。服装は男のなりだが、2人とも年齢なりの娘の声だから、門番も警戒を解く。野盗や追いはぎに遭わないために、女が男装で旅をすることは珍しいことではない。くないの並んだ革帯は重武装に過ぎるが、あり得なくもない。
篝火を焚き続けている御座所が遠目に目立ち、目印にするのも不思議はない。
門番は疑うこともなく、普通に受け答えしていた。
「そうじゃ。夜更けに大変だったな」
「このまま、その大路を南にまっすぐ進めば、何軒か旅籠があるぞ」
「教えていただいて、ありがとうございます。お礼に一つ、良いことを教えて差し上げます」
「何じゃ?」
「敵襲です……ふふふ」
おかつとおこうが門番たちの前から左右にどき、まつとりょうがそれぞれ門番たちに駆け寄り、そのまま体ごとぶつかる。門番たちは完全に虚を突かれ……2人が抜刀した太刀が鳩尾を貫いていた。
「か……」
「ぐふ……」
2人の太刀は、門番たちの背中にまで突き抜けていた。
おこうとおかつは、門番たちの前から退く瞬間に、胸前に襷掛けにした革帯からくないを抜く。それを素早く門上にいる弓兵たちに投擲する。
「げ……」
「がは……」
剛力により高速で投げ放たれたくないは、弓兵たちの喉ぼとけに突き刺さる。深く根元まで喉に埋まり、先は延髄に達していた。門番4人は、とも息を奪われ、声を出す間もなく、櫓の中に倒れ込む。
まつとりょうが体を引き、門番たちの体を足で蹴押しながら太刀を引き抜く。彼らは膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せに倒れた。
「あ……はぁ……やった……」
「ん……はぁ、はぁ、はぁ……人を……やった……」
2人につけていた剣術の稽古は報われた。どちらも、人を初めて殺したことに興奮し、混乱していたが……。
「落ち着いてね、2人とも」
「大丈夫。人はどうせ死ぬものなんだから、気にしないで」
おかつとおこうは、2人に声をかけながら近寄り、それぞれ肩に手を置く。そして、気持ちの高ぶりを鎮めるために念を送る。頭の中の血の巡りを抑えて、心の臓の脈動を沈め、気持ちを落ち着かせる。
「はぁ……ふぅ……ふぅ……」
「はーー……はーーー……」
幼い二人の息が深く大きくなる。目がぎらぎら見開いているが、呼吸が和らいでいく。
「おいで……行くわよ」
「2人とも上手くやれた……あたしにすぐに追いつけるよ」
急がない。
おこうが跳躍して門の側の土塀の向こうへ姿を消す。そして、門脇の小さな木戸を内側から開け、三人を招き入れる。
板鼻関東管領御座所
警護の侍たちは4人1組で10組いる。南門、北門、庭の見回り、屋敷内の見回り、待機の5組が起きていて、5組は仮眠している。戌の刻(19時)に警護の配置につき、亥・子・牛・寅・卯の各刻限に遊軍役の待機組が仮眠者を起こし、順次に各所の組と交替。それまで番についていたものが仮眠に入る。
南門の番を屠ったから、残りは9組。
今は亥3つ刻(22時半)。手間をかけると交替のばたばたに出くわす。仮眠者の眠りが深い間に、邸内に潜り込みたい。できるだけ簡単に大勢を屠りたい。
「見えない壁を作りて、音を遮れ……」
おこうが遮音の壁を作り出す呪いをかけ、足音や布ずれの音が消える。
本殿の正面玄関の右側の壁に4人がへばりつくと、玄関に人の気配が近づいてくる。
呪いで玄関の周辺は音が本殿に伝わらなくなっている。
呪いを唱えた気の動きを法力僧か信綱に察知されるかもしれない。しかし、何もせずにみんなが起きたら、御座所を破壊するほどの呪いを使う羽目になる。憲政とさえを傷つけないためには、それは避けたかった。
おかつとおこうは小太刀を、まつとりょうは太刀を抜く。邸内の見回りは、本殿の表玄関と裏玄関の木戸を開けて表に一旦出て、門の異常のないことを確認してから邸内の順路に戻ることは確認済みだ。
「殺るわよ……」
1人、2人、3人、4人……門外に出て外の清涼な空気を深呼吸して眠気を覚ますのだろう。玄関口の右に潜むおかつたちに、注意が向いていない。
門上の櫓に人影がいないのを見回りの連中が気づく。
ズブリ……
連中が声をあげるより一瞬早く、おかつたち4人が見回りの背後に忍び出る。おかつとおこうは、小太刀を延髄に埋め込むように突き刺し、まつとりょうは短いが強いふりで顎の下と首の継ぎ目に刃を埋め込むと、引き斬ってしまう。
おかつとおこうが刺した2人は微声も立てられずに事切れる。まつとりょうの斬りつけた2人は短い悲鳴を上げるが、傷から血を激しく吹き出して、こちらも崩れ落ちる。
「あぁ……くぅ……」
「やっ……ひどい……」
首を斬られた兵たちは崩れ落ちる前に、振り向こうとしたせいで、傷口をまつやりょうに向け、そのせいで、返り血を2人は激しく浴びる。思わず声が出て、その場に立ちすくむ。体が硬直し、思考も止まりそうだった。
おかつとおこうは、気を鎮める呪いをすぐに2人にかけ、平静を保とうとした。
「あぶない、あぶない」
「うん……大丈夫よ、2人とも……こわくない。赤は綺麗な色でしょ。大丈夫……」
まつもりょうも、顔は赤に染めたままだ。まず抱きしめ、安心感を高める。体を離すと2人の手に手ぬぐいを持たせ、太刀の血脂をふき取るように手を導く。単純な動きをさせて、自分を取り戻すきっかけを与えるのだ。おかつとおこうの声にうなずきながら2人が反応する。
大丈夫……こうして、幼さの残る彼女たちに人を殺すことの感覚が植え付けられていく。
北門の番と庭の見回りを含めて、残りは8組。
「さあ、ここからは、簡単に始末していくよ」
おかつが、まつとりょうを鼓舞する。
玄関に入ってすぐに東西に伸びる廊下に進む。西側(左側)に進めば、番兵たちの詰所で、番兵たちが仮眠をとる6畳間が廊下を挟んで並んでいる。東側は下役のものが来客に会ったり、打ち合わせに使う4畳半の間が並んでいる。
西側の一番手前の部屋の一方から男たちが小声で談笑しているのが聞こえてくる。遊軍として詰所に待機している連中だ。再び遮音の呪いをかけ、襖を開け放ち、部屋の中に踊り込む……
「何だ、お前たち……」
「わ……やめ……」
「ぎゃ……」
「助け……」
太刀で喉や首筋を深く斬られ、男たちは倒れ、昏倒する。出血が激しく、半刻持てばいい方だろう。まつとりょうも、今度は硬直しない。残りは7組。
寝ている連中は5組いる。そいつらは命を奪うところまでやらなくていい。一突き深々と傷を負わせて動けなくすればいい。速く仕事をすることが第一だ。
とにかく素早く。指示はしないが、おかつの顔にかすかに笑みの浮かぶのを見て、3人はそう悟る。簡単な仕事だと。
1部屋目……4人それぞれが4つの布団に刃を突き立てる。短い悲鳴が次々あがる。残り6組。
2部屋目も同じことだ……残り5組。
そして、3部屋目に行こうと廊下に戻ったときに、横から霊気が押し寄せてきた。
「突き当たりの障子を蹴破って、庭へ!」
おかつが叫び、廊下の中央に仁王立ちになる。小太刀を鞘に収め、太刀を抜く。
おこうが率先して廊下の突き当りに向かって駆け、庭に面する障子を蹴破る。まつとりょうがそれに続き、3人とも庭へと躍り出る。
……ガンッ……ゴンッ……
本殿の方から伸びてくる廊下から角を曲がって、おかつの正面に2つの影が急に迫る。大きな人影がほとんど飛んでくるみたいだ。
右から頭部へ、左から腹部に迫る太い金棒。
頭部へ迫る棒は太刀で下から跳ね上げ、空振りさせた。まともに受け止めたら、太刀が折られてしまう。しかし、太刀を戻して腹部への一撃を防ぐのは間に合わない。仕方がない。真後ろに飛び退いた。
一度ではない。さらに繰り返して飛び退く。
3人が障子戸を破った突き当たりから、おかつ体が庭に躍り出る。
屈みながら、ざーっと背後に滑るように地面に降りる。
「お姉さん、大丈夫?」
「ええ……驚いたわね。とんだ伏兵……ふふふ……」
こんなに早く気づかれるとは思わなかった。予定は大きく変えねばならない。でも、突然の出来事にもおかつは動じておらず、笑っていた。
彼女たちを追うように、破壊された障子戸から庭に飛び出したのは、阿吽の仁王像に生き写しの2体の夜叉だった。