04 そう簡単に自由にさせない
上泉伊勢守信綱は、新陰流の開祖となる武芸者・兵法家である。その片鱗はこの当時から見られ、箕輪長野家を離れて初めて開花した。この事件ののち、信綱は自称の官位を武蔵守に改め、しばらく大沢宿に滞在した後、日本各地を旅して回る。そして、技と心身を鍛え上げ、門弟たちを糾合して武蔵に帰還する。それは『堀部相国記』を彩るもう一つのストーリーである。
信綱はただの武辺者ではなく、複雑な精神構造を持つ。さえと憲政の意を受けながら、何故か堀部の手の者を手抜きなしに迎え撃とうとした。その真意が語られる。
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第4章 信綱の矛盾
「ご助力かたじけない」
「いえ。これは拙者にとって、生涯をかけての仕事です。仕事である以上、謝意は無用。津山家中で狐を止められなかったことへの償いでもありますし……」
正月18日、板鼻の関東管領御座所の館の一室……。上泉伊勢守信綱が頭を下げた相手は、元・津山家作事奉行の高橋治五郎信広だった。
氷室郡戦役では、津山家の方針に逆らい信広はおかつとおこうを討つべしと訴えた。そのお陰で9月1日合戦の直前に閉門・蟄居の処分を受けた。
合戦後、田上城に乗り込んだ堀部忠久にも、同じことを言いはなった。おかげで盟友の郡奉行・山科亮助暁家ともども改易され、所払いとなった。
まだ30代で、武将としても行政家としても経験が深い。だから、周辺の国衆・大名から仕官を誘う声は数多あった。
だが、2人が選んだのは、独力で九尾の狐を阻止することだった。家財は処分し、家族とも離縁し、牢人に。京都の常念宗総本山や信濃の諏訪大社と渡りをつけた。そうして九尾の狐の封じ込めに乗り出した。今は信綱を通じて関東管領家に協力している。
「山科殿は、いかがされておられます?」
「諏訪大社に出向いていております。程なく向こうの神官を連れて参ります」
常念寺総本山と諏訪大社にはそれぞれ、田上城下にいた住職・和同と神主・鴫沢が戻っていた。彼らはそれぞれの中で実力者であり、九尾の狐退治に本腰が入ろうとしていた。
信広や暁家は上野国に移った。各地で野盗や野伏、修験者、彼らと組む物の怪を手当たり次第に唆した。大沢宿のおかつとおこうのところへ送り込んだのである。
2人はおかつによる最初の虐殺現場を知っている。「普通の人間や物の怪では、あんな大妖にかなわない」とわかっていた。
堀部家は「九尾の狐は実は弱く、怖くもない」という噂を流していた。おかげで大沢宿を略奪できればいいと、彼女たちに挑む馬鹿者は大勢いた。
いわば負の実績づくりである。2人はひとかどの武将だ。無謀なだけの野盗がどれだけ死のうが同情などしない。冷徹に「九尾の狐は弱敵ではない」ことの証を立てたのだ。関東には粗悪な呪い師しかいないから対抗できないと、常念宗と大社に理解させたのだ。
和同と鴫沢は狐に煮え湯も飲まされていた。その二人が信広や暁家の代弁者となった。これだけの者が狐に討たれたと事実を突きつけ、それぞれの上層部を説得した。
やっと九尾の狐を退治するという気運が生まれた。信広は京都に出向き、法力僧を一人連れ帰った。暁家は今、諏訪大社から神官を連れてくる途上にある。
「そちらが、京都から来られた僧の方ですね」
「はい。信然と申します。お見知りおきください」
身軽な装束に袈裟だけかけた若い僧侶は、涼しげな微笑を顔に浮かべている。
「すごい気だ」
「さすがに上泉殿。わかりますか」
「しかし、私でも九尾の狐の退治などできませぬ」
武芸者としての信綱は信然の霊力を、強力な「気」として感じ取っていた。しかし、信然の言葉はあくまでも謙虚である。
「私を推した和同さまに、私の実力は及びません。その和同さまを含めて四人の呪い師が狐に翻弄されたというのですから……。ただし、私はまだ『一人目』です。これから何人か、総本山から人が送り込まれてくるし、ほかの宗派にも協力を仰いでいくでしょう」
「そうなると頼もしい」
「この御座所の守りもお手伝いさせていただきます。私は僧としては特殊な法力を授かっております。陰陽師が式神を呼び出すように、私は夜叉を呼び出せるのです」
「ほう。夜叉とは、物の怪の類ではなかったのですか」
「はい。夜叉は護法善神です。破壊の神が仏に帰依して守護者となったもので、何種類もおります。一番わかりやすいのは、仁王さまですね。形相が恐ろしいので、普通の鬼と混同されやすいのです」
「どのような力が使えるのです?」
「私が使える夜叉には攻めに使える呪いはありません。しかし、呪いを防ぐ力は滅法強うございます。それに怪力、素早い動き……並みの武芸者ではかないませんな」
信綱の目が光り、不敵な笑いが浮かぶ。
「一度、手合わせ願えんかな。面白そうだ」
信綱が信然に願うと「自分の言葉が挑発めいて聞こえたか」と信然は思った。断るか……一瞬逡巡したが、武士とは戦ってこその者かと思いなおす。まして信綱はひとかどの兵法家で、ここの守りの算段もつけねばならない。夜叉の実力を知らせておくためにも、受けるべきだと思いなおした。
「ようございます。1体だけでよろしゅうござるか?」
「嬉しい。お願いする」
「高橋殿はどうされます? 2体呼び出すことができますが」
「拙者は遠慮しておくよ。武芸者としては並みだからな。敵わんことはわかっておる」
「承知……」
信綱は廊下に面した障子を開け、草履をつっかけ、太刀を腰に差しながら庭へと出る。
「なまさまんだば さらなん けいあびもきゃ まかはらせんだきゃなやきんじらや さませ まなさんまら そわか」
信然は大数珠を手に、縁側で立って一心不乱に真言を唱える。三度繰り返すと、目の前の庭の地面に白い光の柱が立ち、そこから目が眩むような強い光を発する。その光がやむと寺の山門に安置されている仁王の片割れ、吽仁王にそっくりな鬼が立っていた。
背の高さは7尺(210cm)ばかり。筋骨隆々として威圧感がある。
「これが、私の使う夜叉でございます。仁王さまの眷族でございます」
握っている独鈷杵を体の前に突き出すと、左右の小さな剣先が太く長く伸びる。2間(3.6m)ほど長さの六角棒になった。それを地面に立て、背の丈5尺(150cm)と少しの信綱を見下ろし、睨みつける。
太刀を鞘から抜いて晴眼に構え、信綱は信然に問いかける。
「御座所の守りを疎かにできんので、寝込むような傷は負いたくない。そういう手加減はできますか?」
すると、夜叉が頷く。
「大丈夫です。普通に夜叉にお話しください。人語を解します故に」
「助かる。たまたま当たってしまったらしょうがないが、お手柔らかに頼む」
信綱も刀身を返し、峰打ちで戦う構えだ。体の部分をすっかり切り落とされなければ、大抵の刀傷は法力で回復できる。それを敢えて言うこともあるまいと信然は思った。
夜叉は六角棒と化した独鈷杵の中央を両手で持ち、右半身を前に出した半身の状態で腰を落とし、槍のように腰だめで構える。棒の先端の先に信綱の眉間がある。
お互いの得物の先が、触れるか触れないかという間合いで、信綱は晴眼に構えを解いた。無造作に切っ先を降ろし、太刀を右手のみで持ち、自然体で突っ立っている。
……今度こそ転の境地に至れるだろうか……
信綱には人外の者と戦うという恐怖もなければ、気負いもない。惜しむらくは無心にはなり切れていない。相手の動作を読みたいという執着があった。
夜叉は戸惑っていた。これまで幾多の侍や物の怪とも戦ってきた。だが、信綱はどれとも違っていた。誰もが己の筋骨隆々たる姿に恐れをなすか、蛮勇に任せて打ちかかってきた。信綱はただ自然体で突っ立っている。自分の発散する気を受けても、涼しい笑顔を浮かべている。
「ぬ……これは」
「これが上泉殿の武の極意か……」
信然と信広は廊下に立って、成り行きを眺めていた。信然は夜叉が戸惑う姿を初めて目の当たりにしていた。信広も信綱の立ち会いは初見だった。夜叉の攻撃的な気を受け流す様を見て、思わず感心してしまう。
ひゅぅ……
一陣のからっ風が吹いたと思った刹那だった。それを合図にしたように、夜叉が物凄い勢いで棒を信綱の顔面にめがけて突きを入れる。しかし、信綱は右足を下げて、体をさばく。半身になりながら、その棒を避けていた。
夜叉も避けることは予測していて、すぐに棒を引く。信綱が動いた先に、今度は胸元をめがけて棒を突き出す。
だが、信綱はさらに体をさばいて、夜叉の右の方へと回り込んでいく。信綱の動きの滑らかさに、突きが追いつかない。
文字通りに一瞬の攻防だった。
その後も、夜叉は信綱の顔へ、喉へ、腹へ、胸へ……何度も何度も突きを繰り返す。
信綱は夜叉の右へ右へと回り込みながら体をさばき、棒を当てさせない。ちょうど、夜叉を中心に、円を描くように動いていく。
「転を極意とする闘術を極めたいと聞いていたが……。なるほど、球が転がるがごとしだな」
「人にこれほどの動きができるとは。ここまで夜叉の突きがしのがれたことはございません」
信広と信然は、信綱の動きに呆れてしまっていた。
夜叉も突きの速さと突く場所を巧みに変える。単調にならないように攻めている。だが、当たらない。信綱はここまで、体の捌きと移動だけでしのいでいる。
しかし、信綱は生身の人間で、夜叉は疲れ知らずの霊的存在……いつかは信綱が疲労して片が付くと、2人は思っていた。
その時は意外に早く訪れ、信綱が自然体からやや腰を落とし、夜叉の右へ回り込む速度が落ちた。夜叉はそれを見逃さず、棒を長めに持ち替えた。
そして、棒を胸にめがけて突き出し、信綱が避ける。信綱の腰が砕けたと見えたその瞬間、右へ棒を薙ぎ払った。
棒の横撃か決まった……はずだった。
だが、そこに信綱はいなかった。動きが衰えたように見えたのは誘い……。腰を落としたのは、跳躍の予備動作だった。
信綱の体は棒から遠ざかりながら、夜叉の右手の方から背後へ、体を捻りながら跳躍。着地した瞬間に、自分の左足で夜叉の左の膝裏を蹴り飛ばした。
膝裏を蹴り押された夜叉の左膝がすとんと曲がって落ち、態勢が崩れかかる。反射的に夜叉は、棒を右足の横の地面に突き立てて、体を支える。転ばぬように踏ん張ったのだが……
カチャ……
信綱は夜叉の真後ろから、太刀の峰を右の首のところに当てていた。首を斬り落とせることを示していたのだ。
「これまで戦場でまみえた敵や稽古をつけた門弟の誰よりも速い。それに威力のある突きでござったな。また機会をみてお手合わせ願いたい」
夜叉は護法善神であるから、負けても激昂することはない。信綱が太刀を鞘に納めるのにあわせ、独鈷杵を元の形状に戻す。そして、信綱に対して、片膝をついてしゃがみ、首を垂れて恭順の姿勢を示した。
信然も自分たちと信綱の実力を知り、満足の行く顔をしていた。
「次は、もう1体の夜叉も呼び出しましょう」
「いやいや、さすがに2体いては避け切れない。それにしても、夜叉がもう1体いる。信然殿の法力があり、私の剣が合わされば、九尾の狐も何とかならんですかな。勝てぬまでも、退転させるくらいは……」
「拙者も微力ながらお手伝いします。暁家が連れてくる神主殿が間に合えばよいのですがね」
信綱の声に信広が応じる。信然は微笑むが、それでも九尾の狐に勝てまいと、冷静に計算していた。信綱の太刀に法力を付与しても、どれほどか……。
そんな信然の表情を見て、信綱も自分の言葉が儚い望みであることを悟った。
……その実、私は本気で九尾の狐を倒したいと思っていないと知ったら、この2人はどうするのかな?……
そんなことを思いながら、信綱は懐から手ぬぐいを取り出し、汗を拭きながら座敷へと戻る。
彼が九尾の狐の備えを強化するのは、他に意味があった。本当に堀部家に憲政とさえを預けるに足る力があるかを知りたかったのだ。信綱は策にも長けている。憲政という少年の「自分の実力相応に生きたい」という願いを託するに足る相手なのか。堀部家と九尾の狐の力を、自分のできる限りの準備の下で迎え撃ち、見極めるつもりだった。
憲政は腐っても関東管領だ。関八州の政を任せられる実力者に渡したい。
それだけの人物に庇護を願うことが最上だ。さえに堀部家へ文を書かせたのも、それが狙いだ。堀部忠久が挑発に乗ってくると判断したのである。もちろん、大きな戦を仕掛けてくるわけがない。九尾の狐を動かしてくるだろうと確信していた。
……普通に働きかけても、信頼に値する実力があるかはわからんからな。信広と信然には悟られぬようにせねばならぬが……
信綱がこんな風に考えたのも、信綱は田上城合戦で箕輪城の留守居を命じられ、呪いの強烈さを直に味わってないからだ。
「夕刻に飯を食いながら、改めて夜の備えを協議しましょう。それまでゆるりとお休みくだされ」
「はっ」
「誰か、お2人を客間まで案内せい」
信綱は先ほどの座敷に1人戻ると一息つきながら、改めてどのように備えるかを思案し始めた。