02 混沌の上野に二人の幸せはない【ダウングレード】
『相国記』の正本も通俗本も、この部分は田上城合戦以降の上野の混乱した状況を伝えている。山内上杉家には有力家臣として長尾一族と長野一族がいた。しかし、管領家宰・長尾景長と箕輪城主・長野業正が田上城合戦で討たれたお陰で、国内に抑えが効かなくなり、何より家宰に就くべき長尾一族に適齢の後継者がなく、国内は麻のように乱れた。
正本は客観的な叙述でこの事情を伝えるが、通俗本は上杉憲政を中心とする会話劇で上野事情を記す。また、章の終盤は通俗本を色本と呼ぶ者がいる理由が明らかになっているのだが、本書は18歳未満向けのため、あらましのみを伝えている。。
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第2章 山内上杉の混乱
「実質的に幽閉されておるようじゃな。正月というのに、鬱々とした気分じゃ」
正月16日。3人の武将が上座にいる少年を興味深く見つめていた。少年は関東管領・上杉憲政。3人の武将は、新田金山城(現・群馬県太田市)の主・由良成繁、碓氷郡の国衆・安中長繁、箕輪長野家を出奔して管領直臣となった上泉伊勢守信綱である。
「申し訳ございませぬ。父が馬鹿なことをしなければ……」
上座から見て右手側に控えている内掛け姿の少女が三つ指を突いて頭を下げる。
瓜実顔に柳眉、通った鼻筋、目は切れ長……儚いが鋭い、そんな印象を与える容貌。話す声ははきはきしていて、物怖じもしていない。この場にいる誰もが、実はこの娘に好感を持っている。
「そのことに関して詫びを言うのは、もうやめろと申したはず」
その少年、関東管領・上杉憲政は、少女を嗜める。暮らし向きは良くて当たり前だから、ふくよかな丸顔している。と言っても、太っているという印象はない。
美男とは言い難いが、目つきは鋭く、鼻筋も通っている。ただ、覇気というものを周囲に感じさせなかった。
天文2年9月の田上城合戦で、少女の父親が率いる軍勢は、少年の名で差し向けられた軍勢の主力を完膚なきまでに叩き潰していた。
憲政は自嘲の笑いを顔に浮かべる。
真面目に関東管領の務めを果たそうと思ったら、今の上野は全く思わしくない。
上野・北武蔵要図(赤文字は堀部家傘下)
上杉家と上野・下野に根を張る長尾一族は、代々切っても切れない縁であり、これまではいくつかある長尾家のいずれかが家宰となり、山内上杉家の公儀を取り仕切ってきた。上野のすぐ東隣にある下野・足利(現・栃木県足利市)にある足利長尾家が家宰を引き受け、当主の景長が多くの兵を武蔵国境の平井城(現・群馬県藤岡市)に入れ、関東管領の御座所である板鼻と連絡を密にし、武蔵国の傘下大名・国人とも連携を取ってきた。
だが、いざ景長が討たれると、それを引き継ぐ者がいない。
長尾一族の有力者が総社(現・前橋市総社町)に集った合議で、白井長尾家(現・群馬県渋川市)の景房を家宰に就けることに決まったが、25歳で力量不足は否めなかった。そもそも景房は総社長尾家からの養子で、家中は今ひとつ景房を盛り立てようという気概に乏しかった。景房を養子に出した総社長尾家も、幼児の義孝を当主とし、前当主で隠居・出家である顕景が後見するという体制で積極的に動けない。平井城は隣接する甘楽郡を支配する小幡憲重が数百の兵を入れて抑えていたが、武蔵への備えには不十分だった。
「景房が悪いのではない。関東管領家の権威自体がもはや終わっているのだ。そもそも齢13の何の取り柄もないこの餓鬼に、大の大人が従う道理がない。それでも、支えてくれる者がいるから今ここにおれるのだがな」
長年の乱の結果として、9歳で管領に就任した憲政は、自分が単なる御輿だと理解していた。田上城合戦の時でも11歳。誰だって戦場に出そうとは思わない。未だに初陣を果たしていないが、無理もなかった。
「達観しているな」
下座にいた由良成繁は思う。上野の大名・国衆は足利長尾家の力でまとまっていた。自分も含めた彼らがどこまでこの若輩の管領を支えるか、成繁もわからなかった。実際、足利と接する桐生庄(現・群馬県桐生市)の佐野助綱、越後境への入り口に当たる沼田庄(現・群馬県沼田市)の沼田顕泰は、完全に自立の方向に動いている。佐野氏は機織物で産業が豊かだし、沼田氏は近年、沼田城を築けるほど農政が好調だった。
そんななか同席の安中長繁は管領の警護役を自任していた。根拠地の碓氷郡は隣接する信濃国の小大名・国衆がまとまっていないため、峻険な碓氷峠を超えて攻められる心配はない。そして、安中の庄は板鼻のすぐ南西あった。
「由良殿、安中殿、ここにおられぬ小幡殿が方々に睨みを利かせているから、今は何とかなっております。堀部も攻めて来る気配はないし、成田など武蔵の諸将も矛を逆さまにしようとまではしていません。ただ、武蔵の境が破られたら手の施しようがござらん。景房殿には軽挙せず、しばらくここにに腰を落ち着けていただいた方がよいでしょう」
そう言ったのは、安中の推挙で管領の側に出仕するようになった上泉信綱だ。箕輪(現・高崎市箕郷町)長野氏は当主の長野業正が戦死し、業正の弟・業氏派と、重臣たちが担いだ長男で幼児の吉業派に分裂。城を業氏が抑えたが、にらみ合いが続いている。厩橋長野家(現・群馬県前橋市)の長野賢忠が劣勢な吉業派に味方し、五分の争いに発展した。
景房は調停しようと出兵したが、膠着している。
信綱は吉業こそが正統だと主張していたが、争いに与せず、吉業派に「二心あり」と疑われ、箕輪から逃げ出さざるを得なかった。
一介の武芸者として諸国を渡り歩こうと思っていたのだが、安中に誘われ、主のさらに主を守ることにしたのだ。
今は憲政たちの身辺警護のほかに、憲政と管領の旗本に槍術や兵法を授けていた。そして、憲政の意を受け、さえも庇護している。
「一度、景房を召喚して、お主たちとともに軍議を持ちたい。成繁、手配してくれるか」
「はっ!」
「うむ、よしなに」
「はっ! それでは、我々は一旦下がります」
「信綱は残ってくれ。警護や稽古のことで相談したいことがある」
信綱がさえを庇護するのには、理由もあった。憲政自身が堀部に害されたわけではない。一方で自分の窮状を招いた原因であるのなら、埋め合わせもして欲しいという思いがある。他の武蔵の諸将が扇谷上杉や北条になびくなら、堀部と関係を改善するのも一策だ。堀部は「売られた喧嘩を買って勝っただけ」という態度で終止し、自立はしても逆らわずの構えだったのだし。
そういう堀部を頼るという発想を示唆したのが信綱であり、さえを利用することも助言もした。おかげで、堀部に渡りをつけるところまで信綱が実行する羽目になってしまったが。
「例の件だが、どうじゃな?」
「使者に立った甥が申すには、二つ返事で承知し、お人も良さそうで信頼できるとの話ですが……拙者には、今一つ計り兼ねます」
「父は権変の塊のような人ですから、油断なされぬように」
さえが父と別れて、板鼻に人質に来たのは5年前で、まだ幼女だった。連絡役の侍、2人の女中と小さな居館に住んでいたが、一昨年の戦が始まるとそれらの者は夜逃げ。さえは取り残され、独力では逃げられないと悟って、敢えて管領の御座所に捕らえられにきた。座敷牢に入れられ、戦の直後には首を跳ねられそうになったのを、憲政の声に救われた。
そういう経緯で、さえと父の交流はほとんどなく、母親との書状のやり取りも戦で途絶えた。父親の現状も、ほとんどわかっていない。だが、見捨てられた恨みは強く、その怨情のみで父を評価する。
「わたしは、憲政様が父に騙されないか、それだけが心配です」
信綱は書状の文面を見て、恨みの念を理解しているので、さえの酷評もわかる。それだけに、さえが憲政への感謝を愛情や忠誠心に昇華させ、憲政もそれをいとおしむようになったのもわかる。
「具体的にどうするかは、まだわかりません。御館様を助けるにしても、重臣方と協議が必要とのことです。また、明日にも甥を氷室城に送りたいと思います」
「うむ、よろしく頼む」
板鼻から田上城は約10里、田上城から氷室城へはさらに10里。かなりの健脚でも1泊2日……普通は2泊3日の行程だ。結果がわかるまで時間がかかる。
そうした確認をして信綱が広間から下がる。信綱は本殿内に居室を持ち、自分の門弟、憲政の馬廻衆、奥女中の一部を指揮して2人の警護を行っている。
日が沈みかかっている。
明け方に起き、朝食、武芸の稽古、政務や引見や合議、午後は古今の書物の講義講読と政務・引見の残務と日課をこなすのが、憲政の毎日だ。自分自身の意志を差し挟む余地はあまりない。管領家の吏僚に押し付けられる御輿としての役割を、淡々と果たすことがほとんどだ。
「今日のお役は御免じゃな、奥に引くぞ」
本殿から奥への渡り廊下を渡りきると、周囲から目線がさえぎられる。すると、憲政の右隣にさえが並び、憲政はさえの手を握る。2人とも顔赤らめ、歩みを止めて、お互いの目を見つめ合う。色気づいた童の男女はとても初々しい。
信綱など近臣たちは、さえは憲政の手が付いていると思っているが、実は、完全に交わったとは言えない。
お互いに惚れ合っているのは間違いない。憲政も、さえわも、お互いの窮状を自分になぞらえ、お互いを助け合えるはずだと思っていたからだ。
女中たちは、この2人は今日の夜はどうなるのか興味津々で、好奇の目で見ていた。あまりにも新鮮で、意地悪な気持ちもあった。
男女の契り、まぐわいというものを、2人はまるで教わっていなかった。乱の中で幼少のままに誕生した管領の婚儀に近臣はあまりにも無頓着で、何とかしようとした矢先に、家宰は討ち死にした。さえも同様で、彼女についていた大人たちは管領もしくは管領家の高位の家臣の手が付く可能性に無頓着で、戦が起こるとさっさと逃げてしまっていた。
寝る時刻には、何か用が起こった時のために待機する女中が、隣の間で床につく。その女中たちは、その夜、2人はどうしたかを翌朝、話の種にしていた。
夕食後、闇が深くなると、番の女中は襖の向こうの出来事に、聞き耳を立てる。
そういうことに、憲政も、さえも無頓着だった……何も教わっていないのだから、当然といえば当然。
「ちゃんと教えてもらっておけばよかった……」
「俺もだ……俺のすること、いやじゃないか?」
…………
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18歳未満向けの訳本としては、ここまでが掲載の限界である。このあとは『相国記 色本版』と呼ぶにふさわしく、2人の挿入を伴わない性行為が描かれ、それを隣室に控えている女中が覗き見ているという情景が続く。
本書の年齢表記はすべて数え年であるから、現代の満年齢では憲政も、さえも12歳相当である。戦国時代の栄養状態を考えれば、両者の発育は今の小学6年生の平均に達していなかっただろう。それでも、明治に至るまでの我が国における性倫理・性道徳は高いものではない。その年齢で性行為がスタートしても不思議はない。親と子が部屋が別室で眠れるような家なら、子の方にも夜這いがかかるのは当たり前なほどだ。
一方で、この時代の建物の構造は、隣室との区切りは襖のみということも多い。男女の営みを家族・同居者の耳目からシャットアウトすることは難しく、若年者も普通に家庭生活を送っていれば、性行為に関する知識を覗き見るなどで、自然と得られただろう。そうした生活上の体験がなかったが故に、2人の性行為への知識は不完全であり、挿入を伴わない行為となっていたのだ。