01 不可能任務はない
『堀部相国記』通俗本1535年関連部分の訳出について
本書は、1620年頃に成立したと考えられている『堀部相国記』の通俗本(色本版、艶本版ともいう)の抄訳である。
同書通俗本は、正本と比べて脚色・潤色・物語的創作部分も多いとされ、小説的文体を採っているために資料的価値に擬義を呈する者もいる。そえゆえに奇書扱いする声もあるし、性的描写もあるために色本・艶本の名を奉られることもある。
しかし、堀部忠久と一門・同盟者・家臣団の事績を豊かに描写し、幾多の史料批判の結論として、堀部家の内幕を最も詳細に伝えているとも言われている。
今回訳出したのは、1535年(天文4年)、当時は武蔵の国人に過ぎなかった堀部忠久が、関東管領の家宰に就任した経緯を記している。
全13章。なお、章は元本では改ページをしてあるだけで、本稿での章番号、章題は、訳者が便宜的に付けたものである。
なお、本書は、18歳以下の歴史研究に供するため、通俗本から性描写部分を削除している。
第1章の正本の該当箇所は、さえの書状を引用し、単に忠久が救援を依頼し、和華が引き受けたというだけの記述で終わっている。通俗本では、堀部家内にあって特別な地位を締めていた狐御殿の面々や忠久との関係や役割分担がうかがえ、描写の誇張を割り引いても両者の関係性の強さが浮き彫りになっている。
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第1章 狐御殿での会議
天文4年正月15日(現在の2月下旬)。梅の花がほころび、寒中に小春日和もしばしば。氷室郡・田上郡を従えた堀部忠久が、大沢宿領主・和華のもとを訪れたのは、そんな時節だった。
「突然のお越し、どうされました?」
狐御殿の本殿1階の広間は庭園に面していて、日当たりのよい一角が白梅で満たされ、目に麗しい。
「いやなに……おなごは、やはり難しいと思ってな」
「御家の奥向きの話ですか? それはわたしどもには手に余りますが……」
大沢宿の主・和華、その直臣で九尾の狐の化身であるおかつ、九尾の狐の片割れ・こだまが憑依しているおこうの3名は、堀部家の禄を食む身でありながら、礼においては忠久と対等とされていた。広間でも、忠久は君主がいるべき上座ではなく、庭を見る客座に座り、それを向かえる和華・おかつ・おこうは、庭を背にした亭主の席にいた。上座・下座は空いていた。忠久は客であるとの席次だ。
新春とは言え、空気は冷える。狐御殿の住人のうち2人は胴衣に袴、寒さよけに綿入れや毛皮の袢纏を羽織る姿で、士分であるとともに、忠久に対して畏まっていないことを表していた。おかつは狐の毛皮をまとっているも同然のため、薄手の着物だ。3人とも男装だが、微妙に色合いの異なる薄紅色の布を使っていて、女性であることを示していた。
「奥向きのことではない。実は、余には世継ぎの清次郎のほかに、娘が3人かおる。この話は聞かせてなかったと思うが、長女が関東管領のところに人質に出ておってな……」
「あら、かわいそう。それじゃあ、去年の田上城合戦の時、殺されちゃったでしょう?」
年若いおこうが話の腰を折るように、甲高い声で茶々を入れた。歯に衣着せぬ言い方だが、忠久は嫌な顔もせずに受け答える。
「それそれ、余もそう思ったのよ。余が管領に弁明もせず、挙げ句に合戦で大勝を収め、家宰と有力武将を討った……当然、管領家からの音信は当不通になった。絶交され、娘は帰って来ない。管領御座所の板鼻(現・群馬県安中市)におる密偵にもわからんという。これは生きてはおらん……と思って一日、涙にくれたこともあったのよ」
「殿様が涙にくれたなんて言うと白々しい気もするけど、普通は死んだって考えて当たり前ね」
狐の耳が頭の上に付き、背後に九本の尾が伸びている半人半狐のおかつが、忠久のお涙頂戴の態度に、素っ気なく応じる。
「だが、生きておったらしい。というのは、書状が届いた。ただな……、娘の書いた字ではあるが、過去の書付があれば真似ることはできるから、本物という確証はない。内容は……読んでみてくれまいか?」
書状はおこうが朗読することになった。
「前略 御父上様。
幸か不幸か、さえは生きております。人質たるが役目でございますから、一朝事があれば命を取られるのは当然と思っていましたし、書状一本寄こして頂けぬのも諸事に御多忙故というのも理解しております。
しかしながら、一年に渡り御父上は管領家の質問状にお答えせず、御座所への召喚にも応じない。わたしは針の筵に座らされた挙げ句、田上城合戦での御父上のご大勝の報。戦場から帰還した将兵に太刀を突きつけられたときには、覚悟を決めていても、涙がこぼれて止まりませなんだ。父上から何のお助けもなく見捨てられるのかと思うと口惜しく、情けなさと孤独を感じました。
わたしが今日あるのは、管領様が命まで取るなとおっしゃったお陰であり、堀部が上野に攻め込んきたときにこそ、人質の真価を発揮してもらえればよいとの仰せのお陰でございます。
わたしは今、管領様のお情けを毎日いただいております。箕輪長野家から出奔され、管領直臣となられた上泉伊勢守に2人して警護していただき、仲睦まじく暮らしております。
ただ、上野国内は荒れに荒れ、新しく管領家宰となった長尾景房様は、わたくしが申すのも何ですが、若気の至りという事どもが多く、国内をまとめることもままならぬご様子。管領家は御父上の大勝で大いに兵を損じたがゆえに、御座所の板鼻を保つのが精一杯にございます。管領様も御自身の無力をお嘆き遊ばし、いっそ頼れる者に管領家宰を……いや、いっそ管領職そのものを任せてしまった方がよいのではないかと、無気力に愚痴をこぼす毎日です。これではまた我が身に危険が及ぶことが心配され、合わせて恩人である管領様の御命を保つこともままなりません。
まだ、わたくしに御父上の情が残っておいでなら、何卒この窮状からお救いくださいませ。一度見捨てられた命ではございますが、一縷の望みをこの書状に託し、お届けいたします。重ねて、2人の窮状をご察しいただき、お救いくださいますようお願い申し上げます。草々。さえ」
おこうは読みながら、何度か吹き出しそうになった。和華も、おかつも、文に込められた慇懃無礼な恨み言に微苦笑を浮かべる。読み終えたおこうが言葉を発する。
「怖い娘さんね。娘さんと管領の歳はいくつ?」
「どちらも13歳じゃ」
「あら、初々しい夫婦ね。奥方や重臣がたのご意見は」
「奥は娘より怖い。書状が本物か偽物か詮議もせず、即刻救援の兵を挙げろと言った。弟も従弟も奥に扇動され、娘を救うべきだと書状を送ってきた。だが、重臣どもは……まあ、冷淡じゃな。こういうご時世だし、姫が向こうの御館とくっついているというのなら、生死を共にすべきだろうとな」
「あはは……板挟みね。わたしたちに話を持ってきた理由はわかったわ」
おかつが「おかしくておかしくてしょうがない」という笑顔で指摘する。
「さえという娘、きっとお殿様にそっくりね。図々しくて。あなた、手紙を読んで惜しくなったのね。そうじゃなきゃ、こんな不確かな話、一切を握りつぶして見殺しにするでしょう」
「わかるか……」
忠久はにやりと微笑み、おかつがそれに応じる。
「わかるわよ。こんな豪気な手紙を、年端もいかない娘が書いてくるとしたらね。頼もしくて仕方がないんでしょ。それに本物が届くのなら、管領の側にしっかりした協力者がいるわね」
「どちらも当ってる。娘ながら側に置いて、いろいろ手伝って欲しいと思った。我が娘に、こんなに喧嘩を売りつける才があるとは思わなんだ。協力者もちゃんとしたやつを捕まえている。書状に名前の出てきた御仁の手の者が届けてきたのよ」
「上泉伊勢守?」
「その通り。上野で右に出る武芸者はおらん」
「安田さんとやったら?」
おかつは堀部家中で、かつては津山家随一の勇将だった安田淡路守の名を出して比較しようとした。おかつと淡路守は、何度か稽古を行っているが、おかつが7分までは勝つという戦績だった。
「槍術でも剣術でも、五分五分という評判じゃな」
「そう。それは楽しそうね。一度、手合わせしてみたい」
そこで和華がとぼけた調子で話を混ぜっ返す。
「狐御殿で引き受ける意味がわからないわ。お殿様の娘でしょう? わたしたちはやっぱり普通の家臣扱い?」
(そうよね……ただ働きなの?)
おこうに憑いている九尾の狐の片割れ、こだまも沈黙を破る。
「適当な人材がいない。兵を挙げさせようという謀略の可能性はあるし、2人の命だけのために兵は動かせん。余の領地には、信頼できる乱破や素破はおらん。呪い師たちだけでも足りない仕事だろう。わしが他領に置いている者は、ただの密偵で、荒事は任せられん。だから、お主らへの『依頼』じゃ」
「おかつちゃんやおこうちゃんなら、そりゃあ、何でもできますけどね。不可能はない。でも、依頼なら、きちんと条件を示していただかないと。うちの子たちを安く使われたくないわ」
(わたしも使われるなら楽しい方がいいわ)
和華の言葉もだんだんときつくなっていく。こだまも刹那的な願いを強い念で発する。
和華とこだまの声に念がこもったせいで、忠久は肝を冷やす思いに捕らわれた。和華は呪いの力が入った声をつかって、人心を操ることができる。おかつも、おこうのなかのこだまも、人の感情を読んだり、情念を操作することはできる。忠久は稲荷明神の力のこもった無銘神剣が側にあるから、彼女たちの力を削ぐことができるが、万全ではない。
「お主らと腹の探り合いをしてもしょうがないことは重々承知しておる。2人を当家の領内に連れてきてほしい。大沢宿を関東管領の御座所として構わない。お主たちに駒として差し出すということじゃ。御座所にふさわしい造営が必要なら、金は堀部家から出す。窯場の製品の売り出し、半田村と協力しておる食肉の売り出しにも、全面的に協力する」
「管領を迎え入れて、あなたはどうするつもり?」
おこうが鋭く問いただす。
「上野・下野の長尾一族が輪番で独占してきた管領家の家宰職を、余がいただく。ゆくゆくは余か、余の総領が関東管領に就任する。憲政殿の希望が管領職を他人に譲って楽になりたいというのなら、それを叶えてやるのが、舅の責というものじゃろう」
「えー、お情けをいただいてるって、体だけ契ってるだけでしょ? 管領のお手つきというだけで、正室や側室というわけでもないでしょう?」
「わしは室くらいもらっておると思うがな。多分、頼りない男の尻を蹴飛ばしたい性格だろうし、あれは。いや、事実はどうあれ、くっついてもらう」
「男親なら、娘を頼りない男に取られることに反対しなさいよ」
おこうの話を混ぜっ返すような言葉が続き、冗談めいたやり取りがつづいていたが、おかつは聞き流しながら、思案していた。板鼻へ行かねばならない理由があった。
……あそこには欠片が一つ……誰に憑かせようか
おかつの思案は、忠久の思惑とは別のところへ向いていた。それを知ってこだまも密やかに笑う。
ともあれ結論としては、おかつとおこうが中心となって、憲政とさえの救出を策することにまとまった。最悪の場合、さえだけでも構わないと留保条件はついたが。