13 合戦にならなかった合戦
天文4年正月29日、長尾景房が率いる3000人の上野勢に氷室城は包囲された。
さらに東の半田村からは、堀部家次席家老の梶川出羽守が800の騎馬武者が出兵。上野勢が到着する前に、氷室城の南北の街道筋を断っていた。城のすぐ東にある大沢宿も、梶川の手勢が囲んでいた。
氷室郡城にいたのは600。
梶川勢が内応していたら3800対600。堀部家は城に拠れるとしても、まったく相手にならない。領内の兵が糾合すれば堀部家が逆転できただろうが、それには時間が足りなかった。
だが、この戦いは合戦とは呼びえない意外な結末を迎えた。「氷室城夜戦」は『堀部相国記』が書かれるまでまったく注目されていなかった。『相国記』の成立までには時代も経ていたので、実際にあったのかと疑われていたが、今は文書などでの確認も取れ、極少数の強兵で行う「麻痺作戦」「麻痺戦術」の手本として軍事史に刻まれている。
九尾の狐を巡る展開も、もう一段、状況が動き、歴史的に大きな展開点となる。
<氷室城夜戦 直前の布陣図>
城兵の配置は省略。
梶川勢の□や上野勢の◇は、1つが兵100人の目安。
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第13章 真の狐姫の誕生
正月29日の申四つ(午後4時半過ぎ)。城の本殿に隣接して築かれた天守櫓から西を望むと、秩父の山地から降りてきた上野の兵たちが、城の北面から西面に続々と展開している。
氷室城の本丸は周囲よりも15間ほど高い台地の上にある。その周りに西の新井川から東の十重川へと流れる小河川の熊川の流れを利して、堀を巡らしていた。台地の上には石垣や壁を巡らし、本丸としている。本丸の東は峻険な崖地で、その麓には堀をつけている。二の丸は北・西・南に堀と塀・石垣を外周に巡らせて形成。主な城下町は城の南側にあり、そこも追加的に堀と木柵が作り付けられていた。
常識的に600の兵で守るなら、二の丸の北面に200、西面に200、南に100を配し、残りの100を遊軍として本丸に残しておくというところだ。城下町は見捨てる格好だ。
天守の櫓の最上階には、忠久とさえ、おかつ、おこう、和華、憲政、佐々木和泉守がいた。
それぞれ、敵の布陣を確認している。上野諸将に無知な狐屋敷の面々には、和泉守と憲政が旗印や特徴を教えていた。
さえと忠久は仲の良い父娘が会話する様子だが、そんなに甘い話はしていない。
「父上、わたしは本当に憲政様のお側で、戦いに出ていいの?」
「母上は上様との婚儀自体に反対だ。偉すぎるし、早すぎるだと。お前をまだ手元に置いておきたいのだな。わしからは、好きにやらせてやれと言っておいたから案ずるな。お前の中には、ややこしい者もおるしな」
[ややこしいとはご挨拶ね]
「お主らは悪の権化で、超絶的な力を持っておる。淫糜な世界の住人だということも間違いなかろう。人の親としては複雑なもんだ」
[そうねえ……むごたらしい殺し方はするし、男も女も関係なく交わるしね]
「お前と上様が狐どもから離れられないというのもわかっとる。それでもよい。お前が生きていて上様を守れればな。わしも助かる」
敵が布陣した各所で、早くも篝火や焚火が灯り始めている。
「お主は上野の情勢を知っているな。布陣の意味がわかるか? 南の堀は浅く、脆い木柵が囲っているだけだ。そこに最近まで揉めていた箕輪長野家と厩橋長野家の陣がある」
「町人がいるから城兵は守りにくいところ。敵は占拠したら略奪もできる。手柄にはつながり難いけど、意気が上がっていない兵たちには丁度よい持ち場」
「安中、由良、小幡を、こちらが守りやすい二の丸前面に置いたのは、どう思う」
「陰険ね。景房様は若いし、年長の安中様、由良様、小幡様を煙たがっていたわ。旗本衆は事実上は安中様の配下だし。兵の数を減らして力を弱めたい。逆に倉賀野様をそっちに置かないのは、信頼している証拠……」
「それだけ読めるなら、和泉も顔負けだ」
[わたしが取り憑いたせいもあるわね。狐は策略好きなのよ]
「なるほどな。軍師の駒が増えるのは喜ばしい。それで、景房が北に自分の陣を持ってきたのは、どう見る?」
「責任感の表れね。一番守りが固いから自分で立ち向かいたい。ただ、あの人は大嫌い」
「ほう?」
[憲政さんを誑かした……あなたをそういう目で見ていたからよね]
「人の娘を……許さん」
「父上、駄目ですよ。策を狂わせるようなことをしては」
「大丈夫だ。どのみち景房の首は討つ。今していることは、すべてそこに通じている」
「景房様の首を取ったら?」
「あとは狐たちの呪い次第だ。軍勢は所詮、人の集まりじゃ。主将を失い、想像もつかない恐怖に襲われれば崩れる。戦をすっかり変えてしまいたい。兵をなるべく損じず、それをそっくり引きこむようにな」
今回の上野の軍勢は田上城合戦を経験していない兵が多い。彼らがおかつたちの桁違いの妖術を見れば……。
「だいぶ暗くなってきた。そろそろ降りて支度をしましょう」
「和泉、織部、内山……城兵はすべて城下町に回せ。もし敵が攻め寄せたら、城下町の民を守って逃がせ。兵も町民も、全員城下から退散してかまわん」
「はっ!」
「和華さんも残ってね」
「はいはい」
おかつの声で、一同は階下に降りた。忠久は控えていた旗本の将に指示を出した。おかつが和華を残すのは、和華の不思議な声を使わせるため。戦意を高めたり、町民に言うことを聞かせることができるからだ。
忠久、おかつ、おこう、まつ、りょうに、おかつ配下の足軽五人、信然、さらに憲政とさえ……13人が本殿から二の丸へと向かう。
忠久は続いて、憲政とさえに声をかける。
「上様とさえ……初めて人を殺めるかもしれないので、お覚悟を」
「うむ、わかった」
「はい……父上」
全員が甲冑を付け、太刀と小太刀で武装している。まつとりょう、5人の足軽は馬上で扱いやすい一間槍を持っている。二の丸の北東端の堀に3艘の船があった。一同は分乗し、堀の対岸、二の丸の北東に出る。
そこには裏切るという噂話でもちきりの梶川出羽守が、迎えに来ていた。
「御館様……ご苦労様にございます」
「うむ。謀反の夢が早くも終わりで、残念だな」
「なあに、いつでも下剋上の機会はございますゆえに」
「寝首をかかれんよう首に鉄の板を巻いて寝ることにしよう。いかさまに付き合せてすまんな。勇将の看板に傷がつくかもしれん」
「仕事ですから。気にせんでくだされ。景房を見知っていた拙者が、あの日、城中にいたのも何かの縁でござろう」
経験を積んだ武将たちの冗談混じりのやり取り……。即興で景房を出兵に誘う謀略が組み立てられたことを臭わせる。
「ここからは拙者と6名の選りすぐりの騎馬武者が帯同いたしますぞ。20騎で3000を蹴散らそうというのですから、皆、頭の箍が外れていますな」
一同のために馬が用意されていた。出羽守と6名の騎馬武者も合わせ、20人の騎兵団となる。
「周囲に怪しまれぬよう、お静かに。常歩で進みましょう」
街道上は白井長尾の兵が見回りしていることを用心し、まず北へ向かい、原野を西へと進む。
戌一つ(午後7時)ころ、すっかり夜の帳が降りていた。
「ここからは陣形を作って進むわよ」
白井長尾の陣の真北、半里(2km)ほどの位置だ。おかつの声掛けで一同は停止し、隊列を調整する。信然は黒夜叉……黒い鬼をを呼び出す。2体の脚は馬並みに速い。
先頭はおかつの操る足軽5人、その左右に信然が呼び出した黒夜叉。
おかつとおこうが次。
続いて神剣を抜いた忠久。
次の列は憲政とさえ、その左右は、まつとりょうが固める。
その後ろに僧侶である信然が続く。
そして、全体の後衛に梶川と配下の6人の騎馬武者。
20人の騎兵団は、白井長尾勢の本陣に向け、速度を上げながら真っ直ぐに進んだ。
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「あまり気を抜かぬように各所を見回って参れ。酒は程々にと」
「個々に叱責しなくて良いぞ。侍大将や組頭に注意するようにと触れ回れば良いからな」
「兵力差はあっても、城攻めは城攻め。恐ろしく思う兵もおる。一杯ひっかけるくらいは、大目に見たいな」
「ただ、羽目を外し過ぎないように、注意はしておきませんと」
景房と行政は本陣の騎馬武者たち20人ばかりに、そう指示した。行政は明日早朝に開く軍議の前打ち合わせに来ていて居合わせた。今夜は偃月でほとんど月明かりはない。本陣内の篝火を盛んにし、机に城の絵図面を広げた。木札に家名と兵数を書いて、配置を確かめる。
自分たちが布陣した北の神田門を抜けば、城中へ大兵力が雪崩れ込める。固く守っているだろうが、門扉は木造だ。早朝から火矢を射掛け、燃やしてしまって構わない。
自分たちで、この禄でもない乱のけりをつける。
東の大沢宿は梶川勢が包囲し、狐たちも封じると約束していた。
丸1日かからぬ惣懸りでお終いだ。
景房と図面に鳩首し、流れを確認して話し合う。景房は決して愚劣な武将ではないと、行政は思った。人の上に立つには欠けているものもあるが……。
その時だった。
ピィ――――――!!
カンカンカンカン!!
北の方から敵を見つけたときに鳴らす、呼び子の笛や鉦の音が聞こえた。
「敵の騎馬兵です。20騎ほど」
「真っ直ぐ本陣に向かってきます」
味方の騎馬が口々に報告しながら戻ってくる。北に10騎ばかりを見回りに出していた。それが当たった。
「北の集落に潜んでいたのか? 槍兵、北に向かって槍襖を組め! 弓兵、ここで横隊を組んで、矢をつがえろ! 騎馬は左右を固めろ!」
「お前ら、周囲に本陣に敵襲だと触れて参れ!」
景房の声に「おう!」と将兵が応える。行政は伴の者を伝令に出した。
騎馬20を南に回したが、この本陣にはまだ80の兵がいる。
槍兵40が2列横隊で槍襖をつくり本陣を守る。弓兵20が本陣内の自分たちのすぐ後ろで横隊を組み、矢を弓につがえる。北から戻ってきた10騎と陣に残っていた10騎が左右を固めた。
月明かりがないせいで、敵兵はなかなか見えてこない。
だが、矢が遅れても槍襖で敵の足はすぐに止まる。そうすれば、左右から騎馬で包んで揉み潰せる。周囲の兵も駆けつけてくるだろう。
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「さあ、行くわよ」
「みんな、目を伏せて」
本来なら闇夜で視界が不自由なのは、この20騎も同様だ。しかし、おかつ、こだま、さえこの呪いが、全員の夜目を効くようにしていた。松明なしで、馬の騎乗に不自由を生じないという程度ではあったが。それでも昼間並みの速歩が可能だった。
一行と長尾の兵との距離が30間(約54m)のところ……弓兵が20騎の存在を目に留め、弦を引こうとしたところで、若い女の声が2つ響く。
「火球飛翔!」
「雷電招来!」
おこうが馬上で右手を差し上げる。すると頭上に一間ほどの火球が浮かぶ。彼女が右手を前方に振ると、火球は矢のような速さで兵の列のやや右側に飛んでいく。
そして、おかつの見つめる先の弓兵の列に、細い滝のような雷が五本落ちる。
ボウっ!
ターン!
「ぎゃあ!」
「ひぃ!」
「あぁぁ熱い……熱いぃぃぃ!」
「助けて……助けて……」
おこうが放った火球は槍兵の右半分の列を貫いて止まらず、弓兵の右端側も巻き込んだ。直撃された槍兵と弓兵が何人も黒焦げの骸となった。直撃は免れても、衣類が燃え、地面を転げまわる兵も何人か。
落雷は烈しい光だけでなく、威力も伴っていた。落ちたところには地面に穴が開き、煙が立つ。穴のなかには、ひしゃげて焦げた人の体がめり込んでいた。雷の衝撃波で昏倒する者もいた。
弓兵は真ん中の数人を残すのみ。槍兵も右側の半分がほぼ失われた。
さらに火球は本陣の向こうにある神社に当たり、火事を起こしていた。
陣の左右では、馬が暴れ、武者たちに御すことができなくなっていた。
強い光で視界も奪われ、残った兵は戦う用意さえできない。
「ぎゃあ……」
「やめろ……」
「うりゃ」
「せりゃ」
残った槍兵の視界が回復しないうちに、堀部の先頭の5人の足軽たちが襲いかかる。馬上から短槍を突きかける。
さらに筋骨隆々の黒い鬼たちが、長い錫杖を振り回しながら左右の馬群にそれぞれ踊り込んだ。馬を抑えるのに必死な騎馬武者を次々に殴り落としていく。
視力を取り戻したわずかな兵が自暴自棄の態で、忠久以下の列に槍を構えて突っ込んでいく。
忠久、まつ、りょうが、それらの生き残りたちを討つ。憲政、さえ、信然への接近を許さない。
さえも、小さな火球で兵を一人倒していた。昼のうちに、さえこに習った成果だった。
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雷鳴と火球の明るさに視界を奪われ……視界が戻ってきて、自分が立っていられることは幸運だったと、景房と行政は思った。
黒焦げになった死体……そして、たった20騎の騎馬武者たちが、残りの徒立ちの兵を次々平らげる。こちらの騎馬武者は黒鬼たちがなぎ倒していく……。
これは不味い……。
憲房は、衝撃波で倒れた弓兵たちのなかに自分から倒れ込んだ。
惨状に呆然とした行政は、それが命取りになった。
ドスっ! ドスっ!
「ぐはっ!」
ドンっ!
行政に先頭の足軽たちが急接近し、槍の穂先が2つ胸に埋まった。肺腑を突かれ、行政は苦しげな息を呻きとともに吐き出す。そこへおかつの振るう太刀が首を襲い、跳ね飛ばした。
「もう誰も立っていない。片付いたかしらね?」
「拙者らは出る幕がござらんよ」
おかつは馬の足を停めて周囲を見回す。後衛の出羽守は彼女らの呪いを間近で見て、改めて威力に舌を巻いた。
神田門の周辺の兵たちは動きを止めた。遠目に見えた雷鳴と火球で足がすくんでしまった。神社と周囲の叢林が燃え盛り、恐怖心を煽った。
倒れた兵たちの間に紛れた景房は薄目を開ける。誰もこちらに注目していない。兜が倒れ込んだときに脱げていた。目立つ装飾がなくなったおかげで、ひとかどの武将と思われていないようだ。そっと、手を動かし、隣の意識のない兵の弓と矢を引き寄せる。
……いた。あの餓鬼め。雌餓鬼もか。畜生め。ここはやり過ごすしかない……
「すごいな、義父上……現実の合戦とは、こんなに激しいものなのか」
憲政の姿を微かな視界に捉えた。忠久にかけた憲政の親しげな声が、景房の負の感情を高ぶらせた。
忠久は抜刀していた神剣を鞘に収め、辺りを見回す。
「景房の死体がどこにあるのかわからんな」
「わたしが最後に討ったのは?」
「倉賀野行政だ……行政は死なせたくなかったが、仕方がないか」
憲政がおかつの問いに答える。
「黒焦げの死体のどれかなら、ちょっとわからないわね」
「そっちの倒れてる弓兵の間には?」
……くそ、こっちに注意が向く。もう駄目か。それならば道連れにしてやる……
景房は跳ね起き、片膝を立てた態勢で矢をつがえて弦を引く。
「死ね!」
「憲政様!」
景房は武芸でも無能ではなかった。矢は正確に憲政に向けて放たれた。刹那のことで、おかつとおこうさえ呆気に取られていた。
さえだけが動けた。景房が弓を構えるときに、両手にそれぞれ五寸ほどの大きさの火球をまとわせ、馬腹を蹴った。手綱はさえこが見えない尻尾で操った。
さえの馬は景房と憲政の間に割って入り、さえは両手の火球を景房へ放つ。
「きゃあ……」
「ぐはぁ……」
さえの胸に矢が突き立つのと、火球が景房の胸と腹に当たるのが同時だった。
炎の塊が景房の身体を背後に跳ね飛ばす。火球は左右に転がって消えた。火の熱ではなく、衝撃で心の臓と腹の臓物が破裂し、景房は絶命した。
憲政が馬を飛び下り、さえの馬の轡を取る。おこうとおかつと信然が馬を降りて近寄り、さえの身体を馬から降ろす。忠久も馬を飛び降り、駆けつける。
おかつとおこう、信然は、呪いをかけながら冷静に矢を引き抜いた。事態は思ったよりも悪かった。
「どうなのだ?」
「心の臓の傷を塞いだけど、間に合わないかしら」
「あたしも今血を流すように呪いをかけたけど……」
(これ以上は打つ手がない)
「そんな……」
「何とかしてくれ」
忠久が、そして憲政が、絶望的な声で懇願する。
「わたしたちだって仲間は失いたくないのよ」
「うん。呪いをかけても……これは……」
(矢が貫いたところが悪すぎる。心の臓が確実に止まる場所よ)
おこうの呪いでかろうじて血を流しているが、心の臓の鼓動は止まって動かない。
微かな念話が漏れ聞こえてくる。
「い……生・き・た・い……生……き……た……い」
[力が欲しい? 生きる力が?]
「……ほ……し……い…憲政様……守る」
[なら、わたしに呑まれなさい。体が作り変えられるから。心の臓も置き変わるわ]
さえのなかでのさえことの冷酷な対話。呑まれろとは容赦のない言い様だ。だが、さえは憲政を守りたいという一心だ。さえこにすべてを売り渡す決心を固めた。生きていれば守れる。
「うん……」
[あなたを射た男を憎みなさい!]
「離れて」
おかつは憲政と忠久、信然に注意した。砂塵を舞い上げ、さえに向かって四方八方から冷たい風が吹き込んでくる。
信然は転げるようにその場を離れた。
忠久は離れようとしない憲政の襟首を持ち、引きずった。忠久はこれと同じ場面を氷室郡戦役で見ていた。おかつと玉藻前が完全に融合するその場面を……。だから、憲政を助けられた。
ドーンっ!
三人が三間ほど離れたところで、小さい爆発音。同類であるおかつとおこうは、空気の破裂に耐えられたようだ。おかつに抱き留められて息絶えていたはずのさえの体が、むくりと起き上がる。
小柄な体に九本の尾が生え、袴の布を破って、うねうねと波打つように蠢いていた。
「こいつ……もう死んでる……つまらないわ」
それはさえとさえこが合体し、半人半狐の“小おかつ”になった者。おかつも最初そうだったように、暗黒の心はそのまま。景房への憎悪を活力に動いている。
そいつは景房の屍に近寄り、足を持って捕まえて放り上げる。そして、抜刀すると、空中にいる間に屍を八つに切り刻む。首が胴から離れ、四肢がもげ、身体も刻まれ落下した。さえの身体能力を呪いで最大に引き上げているからできる芸当だ。
「もっと殺す……」
不気味に赤く光る眼……殺す対象である上野の軍勢は山ほどいた。
無益な殺生はさせない……忠久は余計な血を流させたくなかった。
さえを取り戻したい……憲政はその一心だった。
「あ、待ちなさい」
「あ~あ……殺されちゃうよ」
おかつとおこうが同時に声をあげた。忠久と憲政がさえにすがりついたからだ。
その時、何かに感応するように忠久の神剣の柄が強い光を周囲に放った。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
忠久と憲政が、さえにそのまま抱き着いて動きを停める。さえから化け物じみた大きな唸り声が発せられて、周囲は騒然とした。
漆黒の闇夜……それにもかまわず、神田門周辺の兵たちはおびえ、脱兎のごとく、西へ逃走を始めた。
「さえ……戻ってこい」
「上様、このまま押さえて。頼む……」
忠久は2人から離れて、神剣を鞘から抜く。刀身までまばゆい光を放っていた。
そして、その峰で、さえの肩と叩く……
バシンっ!
すると、剣から放たれた光が、さえの中に吸い込まれて……。
「ぐぅ……はぁ……んぅ……ふぅ……」
邪悪な気が光とともにさえの体の中に吸い込まれて消える。さえの心の中で真っ暗な闇が裂けて光が射した。
憎悪に歪んだ表情が、苦しそうになり、それが穏やかな顔へと戻っていく。そうして、さえがぎゅうっと憲政を抱きしめ返す。
「憲政様……憲政様……」
「戻った……すごいな、全身ふかふかだ。ずっと抱いていたい」
「恥ずかしい……こんなになってしまって」
「馬鹿言え……ちょっと驚いたが、かわいいくらいだ」
おかつより幼くて小柄な分、さえには子狐のような愛嬌があった。
「なるほど。わたしの場合、神剣の明神の力を玉藻さんは浴びてた。そこへおっかあの情で真っ黒な状態から引き戻された。今回は順番は入れ違ったけど、それと同じになったのね」
「嫉妬しちゃうわぁ。こだまちゃんとわたしがああなれないのは、わたしに黒さも情も足りないせいなのね」
(あなたは今を楽しく生きてるものね。それにしても、自分の同類が表面から消えたのは残念……)
「さえちゃん、堀部のお姫様だし、憲政さんの正室だし、本当に狐姫だね」
「そういうおまつ姉さんも、元は津山家のお姫様だし……早くああなりたいね」
まつもりょうも、半人半狐に変貌したさえを羨望の眼差しで見る。
他愛もない会話の傍らで忠久は呼吸を落ち着け、神剣を鞘に再び収めた。心のうちでは、さえの変貌に戸惑っているのだが……。吹っ切って事態の対応だけを考える。まず、切り刻まれた体のそばに落ちていた景房の首を、念仏を唱えながら拾い上げる。そして、首の切断面から頭頂にさらしを巻いて結び、足軽の槍先にかける。
「ほかの連中は、もう戦意を失っているな」
「残ってる連中の陣に行ってみましょう」
「ああ……」
おかつとおこうは太刀に雷の力をまとわせる。それを灯りの代わりにし、槍先に掛けた景房の首を見せつけながら南へ進む。残った上野の兵たちは、次々とその場で降伏した。
憲政も姿を見せると、逆らう理由も吹き飛んでしまう。諸将は改めて恭順の意を示す。忠久の家宰就任も承諾し、生命を安堵され、正式の和睦交渉を翌朝に行うことになった。
この氷室城夜戦により、上野の混乱と憲政の武蔵への出奔で始まった天文4年初頭の乱は大きく動いた。20騎で主将を討ち果たしただけで、合戦が合戦にならないうちに終幕を迎えたのだ。
そして、この勝利は、関東管領という権威と上野国一国を、忠久が手に入れることをも意味していた。
――了――