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八話:ドレスを脱がせる、指先

 さざ波が鳴る橙色の水平線が見えた。

 城の上階から海を見渡すと、沈む太陽が、波間に光の道を作り、世界の色を変えていく光景を目にできた。


「……綺麗」


 海を間近にみることがなかったパトリシアは、この光景に感激のため息を零しそうだった。

 しかし、今のパトリシアは諸手を挙げて喜べるような精神状態に無かった。

 レナンジェスと、グレースの言葉が脳裏によぎる――。


(王子たちの意見をまとめる……? 私にそんなことができるの……?)


 レナンジェスは、パトリシアの目を見て、ずばり言い放った。

 自分自身を信じていない、と。誰にも期待をしていないのだ、と。


(その通りだわ……)


 パトリシアを一目見ただけで、それを見抜いたレナンジェスの人物観察の能力は流石のものだ。

 伊達に呪術調査隊の隊長を務めているわけではないらしい。

 彼の澄んだ瞳で見つめられると、自分の中の何もかもがさらけ出されてしまうように思った。


 パトリシアは、自分も他者にも期待していない。できなくなったのだ。

 これまでのパトリシアを取り巻く環境が、彼女をそう成長させた。

 そうしなければ、パトリシアはもっと前に、心が割れて砕けていたことだろう。


 自分のことをアピールしても、周囲は何も反応を返さない。

 その孤独感が、自分のなかの自信をすり減らし、他人に接触する無意味さを実感させたからだ。

 虚しい世界だと、パトリシアは萎れた花みたいに項垂れた。


 ……そんな花を見て、「可愛らしい」と言う人はいない。

 ――いないと思っていたのに……。


 ふっと、ヘクトールの顔が頭によぎる。


(どうして……私なんかを愛でようとしてくれるの……?)


 妻として招いたから?

 子孫を残すために、気を遣っているから?


 そんな考えが浮かぶこと自体が、自分の醜さだ。

 ヘクトールは優しい人なのだろう。二等分された人格であっても、彼は二人とも優しい。

 つまり、彼は呪いでどうなろうとも、その心の中心に優しさをもった人物だと分かる。


「ヘクトール様……」

「呼んだか?」

「えっ……?」


 不意に声がして、振り向くと、部屋の入り口にヘクトールが立っていた。

 雰囲気からして、剣の王子だろう。


「グレースがここだと言っていたんでな」


 暫く一人になりたいと伝え、グレースに見晴らしの良いこの部屋を用意して貰ったのだが、彼女が心配してヘクトールに声をかけたのかもしれない。

 ヘクトールは大きな窓の傍に立つパトリシアの隣まで来ると、沈んでいく夕日に顔を向けた。

 黄金の光が、ヘクトールの凜々しい表情を照らし、ところどころに陰を浮かばせる。

 陰影の浮かぶヘクトールの横顔を見たパトリシアは、彼のかんばせに、つい目を奪われていた。


「大丈夫か?」

「は、はい……」

「……大丈夫って顔、してねえよ」


 ヘクトールは、パトリシアに顔を向け、不機嫌そうな声をだした。

 パトリシアは思わず、「すみません」と頭を下げようとしたが――。


「あぁーっ! くそっ! すまんっ」

 と、いきなり大きな声を出して、ヘクトールの方が先に謝った。

 苛立たしげに、頭をガシガシとかき、「ちくしょう」と粗野な言葉を吐き出すので、パトリシアは少し怖かった。


「パトリシア……! お、お前……あっちのほうが、いいのか……?」

「……え、あっち?」

「だから……あいつだよ……。もう一人の、オレ……」

「えっ?」


 剣の王子は、顔を赤らめていた。夕日がそうさせているのかもしれないが、パトリシアからは剣の王子が不機嫌な様子で怒っているみたいに見える。

 しかし、なにやら言いにくそうに、盾の王子のことを口にしたので、パトリシアは何事かと首をかしげた。


「……お前が笑ったって……あいつが言うから」

「あ……」


 昼、盾の王子と共に会話をしていたとき、思わず笑ったことを思い出した。そのことを言っているのだろう。


「てっきり、元気になったのかと思ったら、ここで落ち込んでるし」

「すみま……」

「お前を責めてるんじゃねえ。謝るな」

「う……」


 パトリシアが硬い表情になったのを見て、剣の王子はあからさまに困った顔になった。


「……悪かったよ! オレの嫉妬だよっ! お前の笑顔が見たかっただけだ!」

 まるで小さな子供みたいなことを言う王子は、やけくそみたいに謝る。


「嫉妬……?」

「そ、そーだよ。だから、お前は悪くないから……。謝るな」


 なぜ……、嫉妬をするのだろう?

 どうして、こんな自分を好いてくれているのだろう?

 先ほども浮かんだ、そんな疑問が、剣の王子の言葉でまた蘇ってくる。


「ヘクトール様はやはりお優しい方ですね」

「なんだよ、いきなり」

「人格が分かれても、お二人ともお優しいことだけは、私にも伝わってきます。お城の方々も、王子のことを本当に大事に思っているようです」

「……次期国王だからな」


 ヘクトールは、パトリシアから目をそらし、窓の向こうの夕日を見つめた。

 じわじわと陽が落ちていくと、部屋もそれに比例して闇が広がっていく。橙色の部屋が、群青色に染まり出す。

 暫し、二人は沈黙の中、沈む夕日を見つめていた。


「……あの、ヘクトール様? ひとつ、お訊ねしてもよろしいですか……?」

「……なんだ?」

 消え入るような声ではあったが、パトリシアはどうしても訊きたいことができてしまったので、勇気を振り絞って声を出した。

 ヘクトールは、そのパトリシアのトーンに合わせるような声で、そっと聞き返す。


「……王子は……私のことを……その……好きだとおっしゃってくださるのは……どうしてでしょうか」

「どうして? 言ったろ。一目惚れだった。……お前が可愛いと思ったからだ」

 ヘクトールは、淀みなくそう言った。はっきりとそう言う王子に、パトリシアは視線を下に向け、窓の縁を見つめた。

 窓ガラスに、彼の真面目な顔が映っていたのが、見ていられなかったのだ。


「先ほど、レナンジェス様にお目にかかって、こう言われたんです。『あなたは、誰にも期待していないようにしている』と……」

「なんだと、レナンジェスめ!」

「あっ、いえっ! それで、私はとても感心したのです! レナンジェス様の洞察力は間違いないと……!」

 パトリシアの言葉に、ヘクトールが怒りの声を上げたので、すぐにレナンジェスを弁解した。

 誤解して欲しくなかったし、話したいことの本質は、レナンジェスのことではないからだ。


「わ、私は……自分に自信がなく、誰かに期待を持たないように、諦めているような女です」

「パトリシア……」

「それは、レナンジェス様のおっしゃるとおりで……。たった一目でそう判断できてしまう程、私は歪んでいるのです……」


 パトリシアは灰色の世界で生きてきた。そんな自分は灰被りで、埃にまみれた空気を纏っているのだ。

 覇気のない顔で、曇った瞳で、魅力など微塵もないのがパトリシアという女性だ。


「なのに、王子は私のことを……一目惚れしたとおっしゃってくれた……」

 それはパトリシアには腑に落ちない理由になった。

 魅力がないパトリシアに対し、一目惚れする人がいるなんて、信じられないのだ。


「私をよくご覧ください……。可愛らしいなんて……思えないはずです」

 萎れた花を見るよりも、咲き誇る花のほうがヘクトールには相応しい。

 パトリシアは俯き、王子の目を覚まさせようと思った。

 王子から嫌われたくないと思っていたのに、なぜこんなことを口走ってしまうのだろう。

 そんな後悔がすぐに心を占領してくる。


 パトリシアは自問する。

 これも、防衛本能だと、思い至った。


 レナンジェスが、言った言葉に起因しているのだ。

 ――私は、あなたに期待しています――。

 この言葉が、パトリシアの恐怖を呼び覚まさせた。


(怖いんだ……私は……その『期待』が……)


 期待されてこなかったパトリシアが、誰かから求められたいと願っていた時期はとうに過ぎ去った。

 レナンジェスの言葉を、もっと昔に聞いていたなら気持ちは違っていたかもしれない。


 しかし、今のパトリシアは期待を得ようとして無駄に終わった無関心のなれの果てだ。

 そんなパトリシアには、『期待している』という言葉は、劣等感を突き刺すだけのナイフにしかならなかった――。

 レナンジェスの瞳の奥に潜む、冷たく暗いものに触れたように感じたのも、それだったのかもしれない。


 ガバッ――!


「えっ!? きゃっ……!?」


 一瞬だった。

 自分の身に何をされたのか、パトリシアは理解できず、小さな悲鳴を出した。

 気がつくと、パトリシアはヘクトールに抱きかかえられていた。

 彼の逞しい腕から体温が伝わり、そぐ傍に彼の顔がある。

 ヘクトールはパトリシアを抱き上げたまま、部屋の隅にあった鏡台まで移動すると、パトリシアを腕から下ろした。


「お前こそ、自分のことをよく見てみろ」


 ヘクトールは鏡の前にパトリシアを立たせ、傍にあった燭台に明かりを灯した。

 すっかり暗くなった部屋に、ぽつんと暖色の光が空間を浮かび上がらせる。


 そこには、鏡に映ったパトリシアの姿があった。

 見慣れた自分の姿は、不安げな顔をして、身を竦ませているようだった。


「綺麗な髪だな……」


 そっとヘクトールが、パトリシアの髪を一房撫でた。


「大きな瞳も、美しい鼻筋も、愛らしい唇も……、よく見ろよ」


 彼の指先は、言葉と共にパトリシアの頬をなぞるように、滑り落ちていく。

 くすぐったさと共に、恥ずかしさが溢れてきた。

 ヘクトールの指先にもてあそばれる自分の姿を、見ていられないほどに。


「そういや、ここ……。あいつにキスされてたな」

 熱くなっている耳に、ヘクトールの息が吹きかかった。

 ぞくりとする感覚に、いよいよパトリシアは限界が来て、目をつぶった。


「あいつばっか悔しいから、オレもさせろ」


 もしやまたキスをされるのか……。

 ドキドキと心臓が鳴りだし、体温がぽっぽと上がっていく。

 緊張が走り、汗が浮かびそうになって――。


 こちょこちょこちょこちょっ。


「ひゃあっ!」


 刹那、パトリシアは甲高い声を出していた。

 身を固くさせたパトリシアに襲いかかったのは、王子のキスではなく、首筋をくすぐる彼の指先だった。


「おらおら、どうだ! 笑えっ!」

「きゃふっ、へ、ひぇくとーる様っ!? あふ、あははっ」

「どうだ! オレの指技は! むかし、これでレナンジェスの腰を抜かせて見せたこともあるんだぜ!」

「あはっ、あははっ!! お、おやめくださいっ、王子ぃっ!」


 くすぐってくるヘクトールの指先に、パトリシアは思いがけず身震いして笑い声を上げた。

 まさかこんな手段で自分を笑わせてくるだなんて、誰が想像しようか。


「そら、見てみろ。自分の顔」

「え……」


 ヘクトールが手を離し、一歩後ろに下がった。

 鏡越しにみた彼の顔は、にんまりとしていて、悪戯小僧そのものだ。燭台の火が照らすその顔が、パトリシアの目に焼き付きそうに思えた。


「可愛いぞ、パトリシア」


 そう言われて、パトリシアは鏡の中の自分をもう一度見る。

 笑わされた自分の顔は、なんだかだらしなく、呆けていた。

 なんというか、油断しきったその姿に、恥じらいがまた膨れ上がる。


「ま、全く、特に……そういうことはございませんっ……!」

 可愛らしいとは、やっぱり思えない。

 むしろ、間抜けな姿をしていて、格好悪いように思えた。


「そうか? 女と男じゃ、見え方が違うのか?」

「そ、そう言うことではなくて……」

「初めて、パトリシアがオレたちの姿を見たときも、無防備に驚いた顔をしていた」

「え……」

「その時の顔が、可愛かった」


 ヘクトールは満足そうな顔だった。

 見たかったものを見て、喜んでいる。そういう表情だった。


「それにさっきも言ったが、髪も、肌も、唇も何もかも、美しいと本気で思っている」

「王子……」

「パトリシアは、身構えているよりも、油断している姿のほうが愛らしいぞ」


 パトリシアは、もう言い返す言葉が出てこなかった。

 首筋をくすぐられたときのような、堪らない感触が、自分の中で発生していて、どうにかなりそうだ。


「これが、一目惚れの答えになるか?」

「……」


 パトリシアは真っ赤になって俯いた。

 無防備な、素の自分を好きだなんて、それはまるで……パトリシアそのものを好きだと言ってくれているみたいじゃないか。


(そういえば、寝顔も……)


 寝顔を見られて、可愛いと言われて――。


 パトリシアが着込んだ、期待をしないというドレスを脱がされて、裸にされたみたいだ。


 トントン――。

 ノックの音に、パトリシアはびくんと跳ね上がった。


「夕食の準備が整いました」

 扉を開き入ってきたのはグレースだ。

 夕食の時刻だと報せに来た彼女に、パトリシアは硬い表情を向けるしかできない。

「分かった。行こうか、パトリシア」

 何事も無かったみたいに、ヘクトールはパトリシアの手を取った。

 その手の繋がりさえ、なんだか凄くくすぐったくて、パトリシアは変な声がでないようするので精一杯になったのだった。

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