二話:二人で一人の王子様
潮騒の音。海の香り。ネコのような鳥の鳴き声。
賑わいだ町の中央にそびえる城――。
「ここがエルムヴァニア……」
想像していたよりも、町の雰囲気は砕けていた。
つい数年前まで内戦で荒れていたとは思えない活気のある町を目にして、パトリシアは心の奥にしまっていた、期待感に色を入れていた。
馬車の小窓から見るエルムヴァニアは、さび付いていたパトリシアの心をくすぐる。
この国の妃になるのだという事実に、灰色めいた彼女の世界が、色彩を求めたがっていた。
(……だめだ)
きゅ、と小さな拳をつくり、それを胸元に置いたパトリシアはそんな自分の気持ちを押し込む。
期待することの恐怖を知ったパトリシアにとって、それは防衛本能のように色づいた気持ちに、灰色の錆をまとわりつかせる。
もしかしたら、これからは上手くいくのでは……。
そんな風に考えてしまうことが危険なのだと、パトリシアは自分を戒める。
きちんと考えてみろ。
これまでがどうだった?
今からはどうなる?
(私がここに来た理由……。必要とされた意味は……、エルムヴァニアの跡取りを産むため。求められるのは、跡取りであって、私じゃない)
幸せな結婚生活など想像してはいけない。心がこれ以上冷たくなってしまったら、血の巡りさえ凍り、止まりそうだった。
相手の顔も、性格も、何も知らないのだ。
そんな相手と、国と国の関係性を結ぶために一緒になる。
一国の姫として生まれた以上はそれが女としての役目になる。
そう教わってきた。
これでファウンティアとエルムヴァニアの未来が幸せになるのなら、自分のような価値のない人間にも意味があるのだろう。
(もし、王子から嫌われたらどうしよう。もう、私はファウンティアには戻れない。戻ったら、本当に私の生まれた意味がなくなる……)
浮かれてはいられない。エルムヴァニアの王子、ヘクトールに気に入られ、妃となって息子を産むまでは。
それが役目、唯一、自分に与えられた価値だ。
それができれば……、今度こそ、パトリシアはみんなから褒めてもらえるのかもしれない。
気を引き締めなければ。
パトリシアは胸に添えていた拳をほどき、膝の上にそっと下ろすと、小さく呼吸を整えた。
瞼を下ろし、色を消す。
瞳に宿った光を削り、錆を纏わせ、瞼を開いた。
やがて、城が見えてくる。
ファウンティアの城より、小さい印象を受ける。
しかし、寂しさを感じさせない雰囲気があった。
それはパトリシアの故郷の思い出が、寂しいものばかりだったためなのだろうか。
ファウンティアの城には、冷えた空気がまとわりついていた気もする。
ざぁん、ざぁんと波の音が響く城の塔には、海鳥が止まっていて、ニャァニャァと鳴いている。
ここが今日から私の暮らす世界になるのだ――。
――通された城の謁見の間で、パトリシアは恭しく頭を垂れていた。
「ファウンティアの姫君、パトリシア。よく来てくれたな」
低くしわがれた声に、パトリシアは顔を上げる。
玉座には柔和な笑みを浮かべているエルムヴァニア王がいた。
ヒゲを蓄えているその面持ちは、痩せこけて見える。心なしか顔色もよくない印象を受けた。
まだそんな歳ではないと聞いていたが、エルムヴァニア王はずいぶんと年老いて見えた。
「長旅で疲れているだろう。今日はゆっくりと休んでほしい」
「あ、ありがとうございます……」
しかし、その優しい声は、なんとも言えない安心感を与えてくれた。
優しそうな王だ。ファウンティアの王である父親とは、まったく違う印象を持った。
エルムヴァニアの王は十年ほど前に病で妃を失って以来、後妻をとっていないらしい。
たった一人の王子だけが、今のエルムヴァニア王の家族のはずだ。
その王子の婚約者であるパトリシアには、興味もあることだろうに、彼は挨拶もそこそこにまずはゆっくり休めと言ってくれた。
その言葉に含まれた優しさに気づき、パトリシアは驚きながら感謝を述べた。
「ですが……、お休みの前に、ヘクトール王子にご挨拶をさせて頂きたく……」
「そう畏まるな、パトリシアよ。我らはこれから家族となるのだからな」
「……家族……」
ドキンと胸が鳴った。
嬉しさからではない。恐怖を感じたのだ。
エルムヴァニアの王の優しさは、パトリシアにとって未体験のものだった。
血のつながりがある親兄弟からでさえ、こんなに暖かい言葉を貰ったことがないパトリシアには、どう受け取れば良いのか分からないのだ。
緊張した表情を浮かべていたパトリシアに、エルムヴァニア王は「うんむ……」とうなった。
(ご気分を害された……。笑顔を、浮かべなくては)
自分の対応で、相手の気持ちを害してしまったと考えたパトリシアは、どうにか取り繕うために強ばっている自分の顔を整えようとしたが、それも見抜かれているこの状況では、手遅れだった。
「あい分かった。ヘクトールを呼ぼう」
王は暫し何やら考えている様子だったが、パトリシアとの微妙な沈黙の中で、そう言った。
「他の者は下がれ」
今まで柔和な声だったものが、その瞬間だけは統治者らしい厳格な力を表に出した。
パトリシアだけを残し、謁見の間にいた従者たちは退出していく。
何やら、妙な緊張感があった。
「パトリシアよ。……これは落ち着いてから話そうと思っていたことだが、この際だ。今伝えておこう」
「……」
優しい王の印象はかき消えていた。
一つの国を治める強者だけが持つ威圧感。
そうだ、この気配。これは父が持っていたものと同じだと、パトリシアは察した。
これが、国王としてのエルムヴァニアの顔なのだろう。
(……やはり、そうなのね)
先ほどの優しさは、建前だったのだろう。
これから、パトリシアを見定める試験に似た問答が行われるのだ。
いや、パトリシアを見定めるのではない。健康な跡継ぎを産める母体なのかを確認されるのだ。
ヘクトールの子を宿せるだけの『器』であるかの鑑定だ。
「ヘクトールを呼ぶ前に、一つ約束をして貰おう」
「……なんでしょうか」
「これから語る真実を、決して口外せぬこと」
「もし、それができなければ……」
「処刑もやむなし」
嗚呼……、とパトリシアは安心した。
(期待をしなくて良かった)
――と。
この国ならば幸せになれるのかもしれない。新しい人生が始まり、何かが変わるのかもしれない。
そんな期待を抱いていたら、ここで心が割れていただろう。
「口外致しません。もし、そのようなことになれば、処刑も受け入れます」
「うむ……。では……ヘクトールを連れてくる。暫し待ちなさい」
王は玉座から立ち上がり、奥へと消えていった。カツカツという足音が遠ざかり、ざぁざぁという潮騒が耳に残る。
パトリシアはじっと待った。
暫くすると、足音が近づくのを聞いた。
「待たせたな」
王が玉座に座ると、彼は一つ、ため息を吐き出した。
なにやらずいぶんと神経を揉んでいるらしく、彼が妙に年老いて見えるのは、何か厄介な問題を抱えているためなのではないかと、邪推した。
そして、それは当たっていたことを、すぐに知ることになる。
「ヘクトール、入りなさい」
足音が、近づいてくる。
奥から、男性がやってきた。
「え……?」
パトリシアは思わず声を漏らしていた。
「「エルムヴァニアの王子、ヘクトールだ」」
声が、二人重なって聞こえた。
顔が、ふたつ並んでいた。
ヘクトールと名乗ったその人物は、まったく同じ容姿をして、同じ声をして、二人、並んで入ってきた。
「双子……だったのですか?」
パトリシアの驚きの色を隠せない言葉に、二人のヘクトールは首を横に振った。
その仕草もそっくりで、何かの幻でも見せられているのかという気分だ。
「ヘクトールは正真正銘、私の一人息子だ」
エルムヴァニア王が、重々しくも驚愕の事実を語り始めた。
「我が国は、最近まで黒魔術教団と争っていたことは知っておるか」
「は、はい……」
「その黒魔術教団を壊滅させる際、首魁の呪術師により、呪いをかけられた」
「呪い……?!」
黒魔術を利用した悪魔の呪いだろう。そういった話をまことしやかに聞いたことはあれど、実際に見たことがなかったパトリシアは、王の言葉を信じることができなかった。
「ヘクトールを……分裂させる呪いだったのだ」
分裂――。
その言葉に、パトリシアは二人並ぶヘクトールを見つめた。
「な、なぜ分裂なんて呪いを……」
「跡継ぎを残させないためだろう。この呪いは分裂させるだけではなく、その後一つに戻れなければヘクトールが消滅することが分かった」
「な……」
言葉を失う事実に、パトリシアははしたなくも、口をぽかんと開けたまま、ヘクトールを見つめた。
信じがたい話に、理解が追いつかないが、うり二つの顔が、同時に頷くのを見て、王の語る呪いの話を飲み込まざるを得ない。
「どうやって、呪いを解けば良いのですか?」
「呪いを解く方法……それは……」
恐る恐る聞いた質問に、王が言葉を彷徨わせた。
何か、言いにくいことなのだろうか、パトリシアはこれから夫となる王子に呪いがかけられたことにショックはあった。
一縷の望みを探すように、解呪の手段があることを願った。
「……まだ見つかっていないんですよ」
右のヘクトールが、答えた。
パトリシアは愕然とした。
そして……左のヘクトールが一歩踏み出し、青ざめるパトリシアにこう言った。
「だから、オレたちが消える前に、オレたちの子を宿してくれ」
「……!」
その言葉は、パトリシアが期待してはいけないと言い聞かせた、絶望の未来と似たものだった。
つまり、パトリシアは、この国の跡継ぎを残すためだけの、出産のための母体でしかないということだ。
パトリシアは、ひとつ呼吸を吐き、全身の力を抜いた。
(分かっていたことじゃない……)
そうだ。自分の価値はそういうものだ。
パトリシアを求められているのではない。エルムヴァニアの跡取りを、子孫を残すために母体になる。そういうものだと、覚悟をしてきたはずだ。
「分かりました。私でよければ、喜んでその役目を仰せつかりましょう」
潔くもそう答えたパトリシアに、三人の男性は、複雑そうな表情を浮かべた。
こうもあっさりと、この状況を飲み込むと思っていなかったのかもしれない。
普通の令嬢や姫をここに連れてきたのなら、このような話を蹴っていたことだろう。
だが――パトリシアにはまさに適任だったのかもしれない。
自分の価値がないことを、分かっているパトリシアには、こんな話になるのだろうと、想像できていたのだから。
「驚いたぜ」
左のヘクトールが、目を丸くしていた。
「パトリシア、急な話に冷静になれていないのではありませんか?」
心配そうな声を出し、気遣うのは右のヘクトールだ。
「……?」
パトリシアは、ふと眉を寄せ、怪訝な表情になった。
「あ、あの……ヘクトール様?」
「なんだ?」
「どうしたんですか?」
その応答に、パトリシアはますます疑問が膨らんだ。
「お二人は……本当に、同一人物なのですか?」
右のヘクトールは紳士的で丁寧な口調と、穏やかそうな表情をしている。
左のヘクトールは対照的に、無骨な表情でずいぶんと砕けた口調をしていた。
そう、まるで性格が違うように思えたのだ。
「……そこが、この分裂の呪いの奇妙なところなのだ」
王は、疲弊したような顔をして、ため息混じりに吐き出した。
「ヘクトールは分裂したとき、肉体と共に、人格も分裂したようなのだ」
「人格が、分かれた……?」
そんな話があるのだろうか。
多重人格症という精神の疾患があるという話を、以前学んだことを思い出したが、それに似ているのかもしれない。
「オレは、陰のヘクトール。混沌の性質が強い人格だ」
そう言ったのが、左側のヘクトール。
「僕は、陽のヘクトール。秩序を重んじる性格が強く残っている」
右のヘクトールがお辞儀をして、自己紹介をした。
「で、では……元々のヘクトール様の人格は……?」
「無くなってしまった。二人が合わさることができれば、元の性格を取り戻せるのかもしれない」
王が、こめかみを押さえ、苦悶の表情で述べた。
なぜ、エルムヴァニアの王がこんなにやつれてしまったのか、分かった気がした。
実の息子である唯一の跡取りが、このような状況になって、心身共に参ってしまったのだろう。
おそらく、呪いを解くために方々駆けずり回ったに違いない。
「今も呪いを解く方法を調べさせてはいるが、明確な手段は確立されていない。そのため……最悪の事態を考慮して、二人の子孫を残すこととなった……」
「オレたちが消えちまう前に、嫁を貰って、赤子を産んでもらう」
「……どちらも、ヘクトールではありますが、それぞれあまりに性格が違うため、生まれる子供にも影響が出かねません」
「パトリシアよ、分かるな……?」
二人分の子を宿せということなのか。
とんでもない話に、パトリシアは絶句していた。
つまり、夜伽を二人のヘクトールと共に過ごせと言うのだ――。
「あ、あの、あの……」
流石のパトリシアもこれには狼狽えた。
とんでもない状況になった。これは想定外だ。
赤子を産む覚悟はあれど、二人の男性と共寝するのは想像もできなかった。
思わず、二人のヘクトールを見比べる。
顔はどちらも一緒だ。はっきりいって美しく、男らしいたくましい肉体を持っているのが見える。
そんな二人は、それぞれに性格が対照的で表情が違う。
「「パトリシア、恥じらうことはない。お前は美しい」」
同じ声で反響したヘクトールの声に、パトリシアは血液が煮えたぎり、頭の中が火事になったような気分だった。