一話:無関心な世界
その国はここ最近まで内戦が続いていて、情勢がやっと落ち着きだしたころだと聞いていた。
ファウンティア国に住むパトリシアにとって、よその国の出来事の話はどこか現実味がなくて、強い関心を持てずにいた。
――しかし、そこに嫁ぎに行けと言われれば、そういうわけにも行かない。
今まで一度も足を運んだことのない国、会ったこともない王子。その妃になることを、言いつけられた。
別段、おかしな話ではない。
パトリシアも、もう十八になった。十分結婚する年齢だったし、一国の姫である以上、その相手は他国の王子が決められる。
パトリシアの意思は、まったく無関係に、婚姻は結ばれる。それが高貴なる者に生まれた女性の有りようであるし、そういうものだと教えられて育ったので、疑問は抱かない。
「……結局」
パトリシアは、誰も居ない自室で一人、ぽつりと零した。
「私は、何も残せなかったんだ……」
窓から見下ろす城の庭。そこに咲く薔薇でさえ、花弁を誇らしそうにしているのに。
パトリシアは、この国に於いて、誰かに求められたことが、一度としてなかったことになる。
(私を求めたのは……遠い国の王子)
それだって、パトリシア個人を求めたのではない。ファウンティア国との繋がりを求め、国王同士で取り決めた結果だ。
パトリシアは物憂げに、視線を持ち上げ、夜空を見上げた。
雲は見当たらず、星と月が瞬く姿をしっかりと確認できる。星座の形さえ描き出せそうな強い星の光も、パトリシアには羨ましく思えた。
ファウンティア国には、第一から、第三王子までおり、パトリシアは唯一の姫だった。
国政に於いては、王子たちが今後のために取り仕切った。
他国の姫を迎えてこれからの国を担うべく、王や国民に多大な期待をかけられていた。
関心は王子たちに注ぎ込まれ、パトリシアはもはやオマケにもなれていない。
無関心。それがパトリシアの状況だった。
血のつながった父や母、兄上たちからも期待されず、適当に淑女の教えを仕込まれ、あとは政略結婚のための材料にしておしまい。
そんな思惑が透けて見える、周囲の対応は、パトリシアを孤独にさせていた。
期待をされずに、十八年間育ってきた毎日を思い返しても、『無』ばかりを確認できる。
上手な刺繍ができたと報告しても、自分で育てた薔薇の美しさを伝えてみても、返ってくるのは生返事。
パトリシアは、それでもどうにか、人の目を引きたくて、自分はここにいるのだと伝えたくて、できることを精一杯取り組んだつもりだ。
しかし、そうしてできた成果を見せても、「そうか」以上の返答は来なかった――。
「どんな男性なんだろう」
誰もが私に関心を持たない。
私は居ても居なくても、どうでもいい存在だ。
そんな女を娶る王子とは、どんな人なのか……。
(期待を……してはいけない)
褒められたいと、願って伝えて、無関心が返ってくる。それは酷く心を傷つけたけれど、それも慣れた。
慣れたというより、諦めになったと言うべきか。
パトリシアは、どうでもいいもの以上にはなれない。
他国に嫁ごうと、結局それは国同士が決めたものでしかないし、パトリシアがほしいのではなく、跡継ぎがほしいだけだ。
子を授かり、出産すれば、それで役目は終わるだろう。
求められることを、期待すると、心が冷える。
(……そういえば、私……パトリシアって名前で呼ばれたの、いつだったっけ)
姫、としか呼ばない。この国に、姫は自分一人だけだから、それで通じる。
「私、誰だったんだろう……」
頬に冷たい滴が流れ、月光を孕んで落ちていった。
この城で過ごす最後の夜。
その絨毯に落ちた涙の染みさえ、すぐに乾いて消えて無くなる。
パトリシアは声もなく、落涙するしかできることがなかった。
――相手の国の名前は、エルムヴァニア。
ファウンティアの西に位置し、海に面したその領土は豊富な海産物の資源を獲得でき、大陸の玄関口にもなっている。
数年前まで領土内で、いざこざがあったものの、今は平和を取り戻しており、この度ファウンティアとの間で婚礼の話が持ち上がったらしい。
パトリシアの相手の王子の名前はヘクトールと言った。
今年二十歳になるらしく、パトリシアとは二つしか変わらない。
エルムヴァニアの王子は、彼だけらしく、跡継ぎを必要としているのだろう。
その相手に、ファウンティアの姫であるパトリシアが選ばれたのだ。
「強い男を産むのだぞ」
父であるファウンティア国の王が、旅立つパトリシアへ向けた言葉がこれだった。
パトリシアは、静かに頷いてお辞儀した。
返す言葉は、思いつかなかった。
王妃である母も、「しっかりと勤めを果たすように」とだけ言い残し、第一王子であるドミニクとその妻との間にできたばかりの孫の元へと去って行った。
そのドニミクは今遠征に出ており城にはいないし、第二王子も、将来自分の領地となる土地の開発に気が向いているらしく、パトリシアの婚礼に関してはこれまで通りに無関心だった。
城を出ると伝え、別れの挨拶をしても「そうか」の相づちで会話は終わった。
第三王子に至っては、城にいるというのに、書庫にこもって顔も見せなかった。
こうして、パトリシアは風が舞うように、これまで生活してきた城から旅立った。
自分がいなくなっても、僅かな変化さえ与えることができなかった。
馬車に揺られながら、パトリシアはファウンティアを後にする。
エルムヴァニアの城への旅路の途中、パトリシアはこれまでのことを、一人きりで回想していた。
五歳のころ、父上におやすみの挨拶をしても、多忙だからと返事をしてもらえなかったこと。
七歳のころ、母上に美しく育った薔薇を見せても、兄の乗馬姿から視線を動かせなかったこと。
十歳のころ、兄上に刺繍をいれたハンカチを渡しても、その刺繍を見てもらえなかったこと。
幼いころのパトリシアの瞳は、宝石だった。
少女となり、その瞳は鉄になった。
成長し、女性になったときには、錆びていた――。
今は、もうその目には何も映せない。
馬車に揺られ、小窓から見上げた空は憎らしいほどに青々としている。
過去のことをどれだけ思い返しても、心が痩せ細ってしまうだけだ。
これからのことを考えなくてはならない。
(エルムヴァニア……)
数年前まで国内であったもめ事が、どういうものなのかを調べた。
どうやら、一部の黒魔術教団がエルムヴァニアを混沌に貶めようと動き、国が荒れたようだった。
エルムヴァニアの王は啓蒙思想を広めようとしており、神の与える奇跡を踏みにじったとして、黒魔術教の過激派と対立することになったことが起因のようだ。
例えば、この青空。パトリシアは憎らしいとすら思う美しい空が、時には雨を降らせることもある。
その雨は神の恵みだと祈る教団たちの教えに対し、昨今の主流は天候は気圧が生み出す自然現象だと唱える説が広まりつつある。
神の力や、悪魔の魔術など存在せず、全ては人の智により解明できるという学者の考えに賛同する声が増えているのだ。
ファウンティアの第三王子もまさにそんな啓蒙主義を推しており、毎日本と格闘しては、この世の仕組みを学習しているようだった。
パトリシアは、あまり難しい話は分からない。
しかし、神様の存在は疑わしいと、心の中で思い始めていた。
どれだけ祈っても、パトリシアの願いは届かなかったし、愛を祈ることで争いがなくなるというのなら、エルムヴァニアはそもそも内戦などしなかったはずだから。
「どんな国かな……」
海が近い国だと聞いた。
パトリシアは海を見たことがない。
楽しみにすることは、それにしよう。パトリシアはそう決めた。
細やかな希望は、自分を裏切らない自然を選ぶことにした。