鏡なる湖の花
露の落ちる音とて聴こえんばかりのしじまの夜であった。
濡れそぼった花、散り敷いた花の香気が芳しく、艶やかで柔らかな闇に満ちた。
「それ、八重の。桜が落ちたぞ」
「お静かに遊ばせ」
「何、お静かにとな。これ以上、お静かである夜など、あるまいが」
「とは仰せられますれど、鏡なる湖の、如何様、聞き耳を立てておりますれば」
「ふうむ」
紫と桃色めいた闇の翳りに寛ぐ女が二人。
片や表は紅、裏は紫の紅梅の襲を。
片や表は蘇芳、裏は萌黄の躑躅の襲を。
しどけなくも着こなし、赤い敷物の上にはんなりと座す。
躑躅の襲を着るはやや年増で、口に刷く紅は紅ではなく玉虫の、緑に近いような色だ。
その、白い首を夜空、または花の天蓋に晒すと黒々と流れる髪が生き物のように蠢いた。
「よい、月じゃ」
「まこと」
紅梅の襲を纏った若いほうの女が、眼を追随させて言う。こちらは紅を注していない。
「夜 泣き濡れ 場」
「なんのお話でござりまするか」
「今の、此処を、戯れ言うたのよ」
「わたくしの坊は、いつになったら参りましょうや」
「もう百年ほど待つかもしれぬ」
「わたくしの坊は、どんな姿になっておりましょうや」
「白蛇かもしれぬ、鵺かもしれぬ、愛らしき仔猫かもしれぬぞ」
「わたくしをお笑いになられまするか、玉虫の御方様」
「母が子を想う情の、何をか笑うことがあろう」
玉虫の御方が、若い女の髪をそっと労わるように撫でた。
切れ長の目は痛ましく細められている。
それもまた、母性の一種であった。
玉虫の御方に優しくされ、女ははらはらと真珠の涙をこぼした。
赤い敷物がそれを弾き、露が上方に向けて散った。
「嗚呼、狂おしや……あの子がかどわかされ、人の世で幾年月が流れたか。泣き濡れていればかよう、人ならぬ身となりて久しくなりました…」
紅の、絹の綾織物にも真珠が散る。夢のように。
散った露はもとの一粒より細かくなって、それでもまだその細かさの中に花闇の景色を映し出す。
「…のう、桃枝や」
「はい」
桃枝は口元を袖で覆いつつ、まだ真珠の途絶えない双眸を上げた。
「もう、諦めてはどうかえ」
「御方様!?」
「何に生まれ変わろうと、成る程、そなたは我が子を見誤ることはないかもしれぬ。されど、あちらはどうじゃ?見も知らぬ女に、しかも人ですらなくなった者に、我が子よと言い寄られて、ただ戸惑いはすまいか。そなたが悲しむことになるだけではあるまいかの…」
桃枝が激しく身じろぎした。
黒髪が、扇のようにばあっと舞った。赤が墨染められるように。
花の香気が強くなる。
「左様な、左様なことはござりませぬ、わたくしは、あの子と逢えて喜びこそすれ」
桃枝の手を取って、玉虫の御方がその甲をまた撫でた。
髪を撫で、手の甲を撫で、玉虫の御方の仕草は桃枝を包み、それこそ娘のように慈しんでいる。
「母なれば。桃枝よ。母なれば、我が子が息災であればそれで十分と思わぬか?」
「――――――御方様。もしや何かご存じでおられますのか」
「……………よい、月じゃ」
「御方様」
「………」
「申してくださいまし。仰ってくださいまし。坊の行方を、ご存じであられるなら何とぞ―――――どうか、どうか母めを哀れと思い。お慈悲でございますっ!!」
乱れ乱れる綾織物。
玉虫の御方の柳眉がひそめられ、玉虫色の唇がわなないた。皓歯が見えては隠れ。
その表情のまま、桃枝を凝視していた玉虫の御方は、やがて眼差しをついと逸らした。
「鏡なる湖の…当代様が、嘗てそなたの子であった御方じゃ」
「なんと…」
「当代様にお記憶は無い。無論、そなたを母と慕う心も。鏡なる湖の主は、その心も、どこまでも澄んで情に揺らいではならぬゆえ。天上の御方であらせられるゆえ」
「………」
「そなたがことは、わたくしがこっそりと耳打ちしてあるゆえ、事情はご存じじゃ。母子の情は露ほども無いがそなたを些か哀れに思い、ゆえにわたくしはこれまで、そなたにつき合うて幾夜も数えたのじゃ」
へたり、と桃枝が浮かせていた腰を落とした。
「なんと…わたくしの坊は、もう何処にもおりませなんだか…」
「桃枝よ。得心したなら我らが湖に帰ろうぞ。…の?」
「………」
「桃枝よ」
この会話の間にも、馥郁たる香りが二人の女を取り巻いている。
幽かな月の照る夜闇に魂の抜けたような女と、それを見守る女。
「…玉虫の御方様。桃枝の我が儘を一つ、聴いてはくださいませぬか」
「申してみよ」
「わたくしを此処に、お捨て置きくださいませ」
「愚かを申すものではない!」
「御方様。母とは。母とは愚かが本性でござりまする…」
はっとしたように玉虫の御方が目を剥いた。
「わたくしは此処で朽ち、花木の肥やしとなりまする。もしも湖の当代様がこの地を訪ねられることあらば、その目をお慰めしとうござりまする。お心が届かないのであれば、せめて香りなり、お届け致しとうございまする」
その夜、花の下で、幽かな月の見守る下で、花のような女が眠りに就いた。
一人の母が、何処までも母のままであろうと目を閉じた。
鏡なる湖の当代は、まだそこを訪れていない。