第65話:ヘリオポリスに咲く桜(はな)に 中編
尊は、ギデロン川へと近づき、検査用のサンプリング容器に水を掬うと、水質をチェックした。尊の網膜転写モニターに写し出される、重金属やその他の有害物質の数値は危険値を下回るようになっていた。下回っただけでまだ安全というわけではないが、後数年のうちには浄化装置無しでも安全に使えるようになることだろう。 ブラックホールも危険だったが、汚水の垂れ流しも深刻だったのである。
尊がアマレク人社会に潜入してからのこれまでの10年ほどの間、街の管理を「胤」たちに任せっきりにしていた。しかし、こうしてみんなで地道にまいて来た種は確実に実を結ぼうとしてきたのである。
「検査結果はどうだったんですか?」
アーニャが心配そうに尊をのぞきこむ。尊が難しそうな表情をしていたからだ。
「ええ、順調ですよ。もう少し本腰をいれなければならないようだけど……何とか間に合うでしょう。」
尊の答に安心したのか、アーニャはにこっと微笑んだ。
「元に戻すって大変なんですねえ。」
アーニャの言葉には実感がこもっていた。
「何でもそうですよ。愛情だろうと、信頼だろうと。傷つけるのは一瞬ですが、建て直すにはその何倍もの時間も労力も必要ですからね。」
尊の答えにも実感がこもっている。アマレク人によって放棄された後、深く傷ついた大地を目にしたとき、彼らに抱いた憤りの気持ちを昨日のように思い出せる。もう、かれこれ200年は経とうとしているのに。たとえ傷つけられた大地が癒えたとしても、その時の思いはなかなか消えないのかもしれない。
「ねえ、尊さん、この水は飲めるのですか?」
アーニャは川に手をいれて、その感触を楽しんでいる。
「アーニャ、残念ですが、この水はまだ飲める状態ではないですね。」
アーニャはミーディアンの村の牧場の井戸を思い出していた。少し硬質ではあったが、冷たくて美味しい水だった。
こんなにキラキラと輝く水なのに、汚染されているなんて。アーニャは、環境を破壊してまでてに入れた豊かさって本当に豊かさなんだろうか、と考えていた。
「アーニャ、ランチにしましょうか。」
尊が桜の樹の下に敷物を敷く。つい最近まで二人はミーディアンの村にいて、仕事の合間にこうしてランチを摂るのが習慣だった。一月空けた訳でもないのに、随分こうしていない気がした。むろん、神殿の中にも庭園があり、木々も花も植えられているが、こうして二人きりでゆったりと寛いだ時間を過ごせる、といった雰囲気の場所はなかった。
アーニャの作ったサンドイッチと、尊がカットしたフルーツを二人して平らげると、二人は寝そべって桜の花と、春の空気できらめく空をみていた。アーニャは尊に腕枕を要求する。今日は妹たちがいない分、尊を存分に独り占めできるのだ。
「アーニャは、いつかは故郷に帰りたいのですか?」
尊は流れる雲に目をやったまま、寄り添うアーニャに聞いた。もはやネーヅクジョイヤはいつでも父君に返すことができる。今、神殿で研修を受けているヌーゼリアル人のスタッフが、使い物になればいつでも故郷に帰ることができるだろう。父君は故郷に凱旋し、きっと子どもたちにも自分の故郷を見せたいと思っているに違いない。ところがアーニャは答に詰まっているようだった。
「ねえ、尊さん、あたしの故郷ってどこなのかしら?」
と逆に尋ねてくる。
尊はアーニャの問いの真意を汲みかねていた。
「え、ヌーゼリアル星のことですが。」
尊は解りきった答えをなぜ聞くのかよく解らなかった。
「んー、でもね、あたしが生まれたのはこの星なんですよ。ヌーゼリアルは行ったことも見たこともないもの。父様や母様のような思い入れなんてあるわけ無いじゃないですか。」
アーニャの声は少しあくび交じりだ。
「それも、そうですね……」
尊は、アーニャが母君のお腹にいるときにこの星に遭難してきたことを失念していた。
「でも、向こうでは"王族"だったのだから、ここよりは良い生活が出来ると思いますが。」
少し、意地悪な言い方をしてみた。アーニャはもう一度可愛く欠伸をする。そして身体を尊の方にもう少し寄せて、"胸枕"になった。
「あたしにとっての良い生活って、一つしかないです。こうやって、尊さんのそばにいられる生活ですよ。」
アーニャは顔を上げて尊の顔を本当に近くからじっと見つめる。
「だから、ここがあたしの居場所。だから、どこにも行かないし、帰れなんて言わないでくださいね。ああ、尊さんの良い匂い……これが幸せっていうのかしら。」
尊の胸に顔を押し付ける。少し涙ぐんでいるのかもしれない。尊はアーニャの気持ちを軽んじてしまっていたことを恥じた。
「ごめんなさい。アーニャ。だいぶ言葉が過ぎましたね。私も同じ気持ちです。私もあなたを手放したりはしませんよ。ずっとあなたの側にいさせてくださいね。」
尊もアーニャの方に身体を向け、彼女の頭を抱いてなでていた。アーニャは安心したのか、そのまま目をつむり、やがて、小さく寝息をたて始めた。
エドモンドは、見事に咲いた桜の木々に感嘆の声をあげる。まさに見に来るに値する景色だ。彼はこれまでの職業人生の大半を宇宙船の中で過ごしてきた。「地に足をつける」とは彼らの世界ではリタイアを意味するのだ。彼はしばらくその眺めを堪能した。無論、まだまだ老け込む年ではないが、今は、いつか来るそうした日々に思いを馳せていた。
「おや? こんな所に人が?」
エドモンドは思わぬ先客に気がついた。若い男女が満開の花の下で、仲睦まじく寝そべっている。恋人だろうか、それとも若い夫婦だろうか。見たところ美男美女であり、遠目では一幅の絵のようであった。彼は時を忘れてその風景にみいっていた。




