3-③
もはや完全に夜型生活となっていた辰樹は、今宵も自室を抜け出していた。
これが元居た現代日本ならば漫、画や小説、ネットサーフィンと、眠れぬ夜に手を付けられる娯楽が溢れているのだが、異世界となればそうもいかない。
寒河江に本の一冊でも借りればよかっただろうかと考え、元の世界では漫画くらいしか読まなかった自分を思い出す。
食堂に誰かいないかと1階へ降りては来たが、以前と違って人の気配は薄い。
つい先日までは遠江が夜通し食堂で作業している姿を見る事ができたが、今はもういない。
放って置くと夜通し作業を続ける遠江に、薬師寺やミリアムがそれではいけないと言い出し、生活管理を始めたのだ。
夜も更けてくると、ふたりは遠江を風呂場に引っ張っていって一緒に入浴して、そして自室に押し込めてしまうのだ。
遠江を無理やりにでも休ませようという配慮だろうが、遠江本人は自室ででも作業を続けているらしいので、どれ程休めているかは怪しいところだ。
そっと、入り口から顔を出して食堂の中をのぞいているが、誰もいなかった。
話し相手を探しているわけでもなかったので落胆する事もないが、そうなればいよいよ手持無沙汰だ。
「……外、出ようか。夜中に出歩く村人もいないだろうしさ……」
何を隠そう朱門辰樹、実は異世界に来てからまだ村の中を見て回っていない。
村人たちとの接触を出来るだけ避けようとした結果、宿屋の周辺をぐるりと一周歩く程度にとどまっている。
なので、一応小さいと言われているこの村が、どれくらいの広さなのかもわかっていないのだ。
深夜徘徊で怒られやしないだろうかと不安が頭をもたげるが、村人たちは自分たちの事を“魔法使いの見習い”だと認識している。
ある程度の奇特な言行ならば「まあ、魔法使い様のやる事だからなあ……」と言って流すのだという。
ならば安心なのかと首を傾げるが、ひとまず外だ。
春先、時期的には4月の末か5月の頭あたりだが、夜風はまだまだ肌寒い。
二の腕を摩りながらどこへ向かおうかと唸っていると、宿の裏手から物音が聞こえてきた。
この時間、おじいさんもおばさんも眠っているはずだから、伊佐美あたりがロードワークから帰って来たのかと思って裏に回ると、意外な人物がそこに居た。
佐藤だ。
普段は来ていない戦士クラスの初期装備、赤色の皮鎧姿で、同じく初期装備であろう槍を振るっている。
素振りのようなものか、標的などは用意せず、回しと突きで感触を確かめている。
時折風切音が鋭くなるのは<強撃>等のスキルを使っているからだろうか。
佐藤の顔付は真剣なもので、食事の用意をしている時や、それ以外で見せる困ったような表情とは別のものだ。
かなりの量の汗をかいていて足元に水たまりなどつくっているくらいだから、かなりの時間同じ動作を続けていたのだろう。
あまりに真剣そうな表情だったので、辰樹は声を掛けるのも躊躇ってしまう。
このまま引き返して夜のお散歩に戻ろうとしたところで、佐藤がこちらに気付いた。
「朱門くん? ……もしかして見てた?」
佐藤も辰樹も、互いに「見つかってしまった……」と気まずい表情になる。
こうなってしまうと、何事もなかったかのように立ち去るのもいけないような気がして、さてどうしたものかと辰樹は頭を悩ませる。
佐藤の方は素振りをやめて槍を立てると、深く息を整えた。
練習を一時中断する、というよりは今日はもう終わり。そう言う雰囲気だ。
佐藤に気を遣わせてしまったかなと、辰樹は頭をかきながらそちらに近付いていく。
気付かれてしまった時にすぐに去れば良かったのだが、もうそういう雰囲気ではない。
何か世間話でもするのが筋だろうかと思うのだが、話題がさっぱり浮かんでこない。
こういった時に東のやり方をいちいち思い出そうとするのは、弱気になっている証拠だろうなと、あえて何も考えずに向き合うことにした。
「ひとりで自主練? 昼間、のぶともたちがやるって言ってたやつに混ざれば良かったのに」
「……うん。ちょとね……」
肩の力を抜き自然体で話題を振れば、佐藤の顔は少し憂いを帯びたように暗くなってしまった。
「いきなり地雷かよ……!」とのけ反りそうになるが、まあいいだろうと気持ちを立て直し、踏み込んでいく。
「そっか。佐藤って結構社交的かなって思ってたけれどさ、もしかして集団行動とか苦手な人?」
「うん……。ううん。どっちだろうね? 人がたくさんいてね、賑やかなのは、嫌いじゃないよ? でもね、練習とか、訓練とか、そういうのになると、なんか構えちゃうかなー」
構える。
ということは過去、そういった集団での練習時に何かがあったのだろう。
そのあたり果たして聞いても良いものかと佐藤の顔を伺えば、「うん、言っちゃおうか」と顔を上げたところだった。
「朱門くん。お散歩ついでにお話聞いてくれる?」
「いいよ。どうせやることなかったんだし」
「そっか。委員長の時も、お話聞いてあげてたっていうもんね。もしかして、お悩み相談して回ってるの?」
「あれ、何? そう言う事になってるの?」
「……東か?」と、親友が遠江との事を吹聴したのだろうか勘ぐり、今もどこかで見張っているのではないかと思わず周囲を見渡してしまう。
「……まあ、話たい事があったら聞くよ。俺、親身になんてなれないけれど、それでも大丈夫?」
「その方がいいかな。こっちの悩み話ちゃって、私よりも深刻になられたら困るし……。だから、朱門くんが話を聞いて、適度に聞き流してくれる人なら、安心かなって」
「んー。普通、そう言う時ってさ。親身になってくれた方が嬉しいものじゃないの?」
「別に甘えたいわけじゃないからね。甘えたいわけじゃないんだけれど、そう思われても仕方ないかなって感じの話だし……」
「雑談程度に流すよ。それに、俺もあんまり女の子とべたべたするの苦手だし?」
「……薬師寺さんが言ってた事って、まさか本当に?」
……あの年上同級生、クラスの連中に何吹き込んでやがるんだ……。
あとで問い詰めようと辰樹が固く決意していると、佐藤がストーンを操作して皮鎧を装備から外して、汗でぐっしょりと濡れ色が変わってしまったタンクトップの裾に手をかけた。
目の前に辰樹が居るというのに、躊躇いもなく脱ごうとしているのだ。
「あのさ、佐藤? ここに男子いるんだけれど? OK?」
「え? あ、そっか。ごめんごめん、お見苦しいものを……」
……いや、見苦しいどころか、じっくり直視したいけれどさ? さすがに、ねえ?
――などとは言葉にせず、辰樹はそそくさと佐藤に背を向ける。
佐藤はと言えば、辰樹が背中を向けたのを良い事にそのままタンクトップを脱ぎ去り、それを雑巾のようにしぼって布に含んだ汗を落とす。
背中を向けている辰樹の耳にも大量の水音が聞こえてきて、本当にどれだけの運動をしていたのかと呆れ返る。
もう振り向いても大丈夫だと声が掛かり辰樹が振り向くと、佐藤は麻製の目の粗いタオルで頭を拭きながらストーンを操作していた。
おそらくは脱いだ服を収納しているのだろう「便利便利」と小さく呟いている。
辰樹たちスクロール所持者は、衣服を装備品の延長として扱えるため、着替えなどもストーンの操作で一括して行うことが出来る。
佐藤の姿はおそらく寝間着なのだろう薄手のシャツにカーディガンのようなものを羽織った姿だ。
どこか座れる場所はないかと裏庭を見渡すが、結局、薪割り場所のスペースで小さな椅子をひとつ見つけただけだった。
辰樹はそれを佐藤に進めて、自分は壁に寄り掛かる形で落ち着いた。
「あ、お水。飲む?」
佐藤が差し出す水筒を思わず受け取った辰樹だが、軽く振って中身が半分くらいだなと確認して、さてどうしたものかと一瞬迷う。
あれだけの運動を行っていた佐藤が補給をしていないわけがないので、これを飲めば間接キス成立だ。
臨むところだと肩を竦めて見たものの、水筒の中身を少しだけ口にしただけですぐ佐藤に反してしまった。
我ながらこういった事に弱いなと平静を装って胸を撫で下ろす辰樹だったが、水筒を受け取った佐藤が底を天に向けんばかりで一気飲みしている光景に思わずずっこけそうになってしまう。
なんというか、無防備過ぎというか、辰樹を異性としてまったく意識していないのではないかと勘ぐる程の物怖じの無さだ。
男女のそう言った彼是に無頓着なのか、それとも、そう言った部分に気が回らなくなっているくらいに、何かを思いつめているのか。
水筒の中身を空にして一息ついた佐藤の表情を見ていると、おそらくは後者なのだろうなと、辰樹は勝手に結論付ける。
「……私さ、一年の時までバレー部だったんだ……」
そうして、月がやけに明るく思える夜空の元、佐藤は話し出した。
◇
佐藤は中学からバレーボールをやって来て、中学時代は全国大会に出場するくらいには強いチームだったそうだ。
レギュラーでこそなかったものの、メンバー多い中、常にベンチ入りするくらいには動けたとも。
練習は厳しかったものの、チームの雰囲気は良かった事が上達に一役買ったのだとも言っていた。
そうして高校に入ってもバレーボールを続けていた佐藤だったが、先の言葉の通り、一年生の冬に退部している。
「前にも話したかな。私の家、両親共働きでね。弟妹たちたくさん居て、下の子は保育園とかだから、面倒見る人が必要で……。中学の時はおばあちゃんが居たんだけれど、高校入学の前に病気で死んじゃったから……」
そうして、高校でもバレー部に入部した佐藤ではあったが、弟妹の面倒を見る必要があったとして、度々部活に顔を出さない日が続いたのだという。
新入部員で、しかし部活を休みがちとなれば、辰樹にもその後の展開というものが何となく見えてくる。
「久しぶりに部活に顔を出して、なんかおかしいなって感じて、あーやっぱり? って感じで気付いちゃったんだ。私、あんまりよく思われてないんだなーって」
部員たちの佐藤を見る目は冷たかったという。
辰樹も、自分の学校の部活事情は東経由でいろいろ聞いた事がある。
さらさらと人の話を聞き流している節が辰樹でも思わず耳を疑うような問題が度々起こっているのが、特に運動部だった。
「……聞いた話で悪いけれどさ。うちの学校のバレー部って、結構酷いってね」
「へえ、どんな感じに伝わってるの?」
「今時スポ魂漫画でもお目に掛かれないような、コッテコテの体育会系。三年生が二年生に滅茶苦茶理不尽な事言ったりやったりで、その二年生のストレスが一年生にも回って来て……。で、今度は一年生の中で逆三角形にヒエラルキー組まれてたとかなんとか?」
辰樹ですらあまり口を大きくして言いたくない事、「え、それダメだろ?」と素で口を突くレベルのやり取りが日常茶飯事だったのだと言う。
「だいたい合ってると思うなー。その、逆ヒエラルキーの頂点だった事、あるから」
苦笑いで佐藤は言うが、要はいじめの対象ではないか。
辰樹がそう指摘すると、佐藤は「わかってる」と困ったように笑って見せた。
「だから、私がバレー部だったのは、一年生の秋まで。ちょうど三年生の先輩が引退して、一、二年生だけのチームになってからだね。……それまでは、三年生の目もあったから結構回りくどくやられてたのがはっきり直接的になって来たから、家族の面倒見るのと両立できないって理由で、辞めちゃった。逃げちゃったんだ……」
佐藤がバレー部を抜けた後も、その悪習は脈々と受け継がれているらしいと、辰樹は東経由でそんな事を聞いている。
小耳にはさんだり聞き流したりするならばまだしも、当事者から直接話を聞かされると、なんというか、言葉に詰まるものがある。
しかし、これで佐藤が集団での練習や訓練に構えてしまうと言った理由もはっきりした。
その、部活時代の体験と重ねてしまうのだろう。
3-Cの面々からそう言った仕打ちを受けると本気で思っているわけではないだろうが、辛かったり不愉快だった体験を思い出す事になるのは確かなはずだ。
佐藤自身が、いつも辰樹たちに見せている顔を、そう言った不愉快な記憶が歪ませてしまうかもしれない。
クラスメイトに対して、いつもの顔を見せられるかわからない。
それが佐藤の懸念なのだろうなーと、辰樹は漠然と察した。
「そんで、皆に混ざって練習するのは抵抗あったけれど、それでも自分だけ練習しない、訓練しないのは抵抗あるから、こうしてひとりで自主練って感じ?」
「……うん。そんな感じ、かな……。うん……」
頷きつつ「そうだ」と告げる佐藤だったが、どこか気のない返事のように、辰樹には見えた。
まるで、「そう言う事にしておいてくれ」とでも言いたげな口ぶり、歯切れの悪さだ。
そもそも、聞き流してくれと言って話し始めた割には、まだ話の確信を話していないような気さえする。
昼の自主練に混ざらなかったのは、部活時代の辛い思い出が原因。
故に団体の練習には混ざらないが、それでも戦士クラスとしてこのままではいけないと思い、ひとりでこっそり隠れて訓練していた。
こうして改めて言葉にしてみると、どこもおかしい部分などないように思えるが、佐藤の煮え切らない表情と、残ったこの違和感はなんだ。
佐藤は嘘を言っているわけではないし、辰樹の指摘が的を外していたわけでもなさそうだ。
ならば、佐藤がまだ言っていない事があるのだろうか。
部活時代の体験以外に、クラスメイトたちとの集団行動に混ざれない原因があるというのだろうか。
……まあ、そこまで踏み込んむものじゃないよね?
佐藤が話を聞いて欲しいと言ったのは本当だし、こうして過去の事を辰樹に話はした。
その話にはまだ先があって、しかし、佐藤自身はその重要な部分を話そうとしない。
いや、話そうかどうか迷っている、というところだろうか。
今まで佐藤が話した中に、まだ話していない部分を匂わせるような単語はあっただろうか。
辰樹は少し考えて、「……ああ」と腑に落ちた。
「……別にさ、それは“逃げ”じゃないと思うけれどね?」
何気なく言うと、佐藤の肩がびくりと震えた。
固くなった表情で辰樹を見てくるあたり、これが“当たり”だろう。
「……朱門くんって、もしかして相手の考えている事わかっちゃうタイプの人?」
「それは東の方だよ。あいつは俺に対してはガチで心読んでくるから……。俺のはさ、単に相手の地雷踏んでるだけだよ。佐藤が何かまだ気にしてる事がありそうで、それでまだ話してない事何かなーって思って口走ったら、はい、大当たり?」
思わず口に出してしまったが、まずかっただろうか。
先日の男鹿の時も思ったが、こうして相手が言わずにいる事を、指摘するべきなのか、そうするべきではないのか。
相手が話さない事をわざわざ掘り返すのは無粋だと思うし、ああして言い淀んでいるのはこちらに何か聞いて欲しいという表れなのではとも思う。
後者だった場合、勝手に言えばいいのになーと、突き放してしまうだろうなと辰樹は思うのだ。
いくら攻略支援を買って出る事になったとはいえ、そういった面倒くさい感情の機微にまで気を配るのは、大変な労力を要するのだから。
そういった面までいちいち面倒を見切れはしないと考えてはいるが、まあひとまずは佐藤の反応だ。
辰樹が思わず口を突いて出てしまったという事は、これが彼女にとっての地雷である可能性が高い。
己の地雷を踏まれて、普段温厚で気さくな自分を保っているクラスメイトは、どう態度を変えるのか。
「逃げじゃない、か……。ううん、私は逃げてるんだよ。昔も、今も」
佐藤は困ったような顔でそう切り出す。
これは、切り込んで欲しかったのか。
それとも、指摘されてしまったから、これを切っ掛けにして話してしまおうという魂胆なのか、辰樹には計りかねる。
しかしまあ、どちらでもいいかと、耳を傾ける事をやめはしない。
最初に佐藤にも言った通り、辰樹は聞き流す事を宣言している。
自分自身が人の事情を重く受け止めないように、そして佐藤が話しやすいように。
「部活を辞めたのって、確かにダメ押しは、いじめられたからなんだけれどね? でも、その前から逃げたいなって、思ってはいたの」
「バレー部から?」
「うん。ううん。バレー部っていうより、あの雰囲気から、かな……」
佐藤が言うには、自分がいじめられているという事実はそれほど苦ではなかったのだと言う。
それはそれですごいなと辰樹は思うが、それもそのはずで、佐藤にとってはもっと耐えがたいものを見続けていたからに他ならない。
バレー部の、チームの雰囲気の悪さ。
それが、佐藤にとって一番耐えがたい事だったのだ。
自分が害される事よりも。
「部活の上下関係云々って、お父さんとかお母さんの時代にも普通にあったって聞いてたし、そんな事されてまで部活続ける程、私はバレーボール好きじゃなかったんだ。中学の時は、なんていうか、皆で目指す場所があって、どういう練習しようかとか、強い学校の練習試合とか見に行ったり……。高校の時よりも全然大変で、かなりの時間部活に割いてたけれど、それでも全然苦じゃなかったの」
「楽しかったんだろうね?」
辰樹がそう口を挿むと、佐藤はしみじみとした様子で「うん」とひとつだけ頷いた。
佐藤がバレーボールを続けていたのは、決してバレーボールという競技が好きだったからではない。
同じ部活の仲間と和気藹々、切磋琢磨して、そうして皆で同じものを目指している空気が好きだったのだ。
「だからね、逃げたの。自分の一番落ち着く場所に」
「家?」
「うん。そう。弟妹たちの面倒見るのは本当だけど、上の子はもう中学生になるし、ご飯も簡単なものなら自分たちでつくれるし、下の子の面倒だって見れる。なのに、私は弟妹たちを理由にしたの。理由にして、見たくないものから逃げたの」
そうして、逃げぐせが付いてしまったのだと、佐藤は自嘲気味に笑った。
「それからね、何かあると、すぐに安心できる場所に逃げよう、逃げようって考えちゃって。気付いたら逃げ出す事ばっかり考えるようになっちゃった。こっちの世界に来てからもそう。よくわからないまま戦士のクラス選んじゃって、それで戦うのが怖いからって、食堂に引きこもってお料理ばっかりしてるの……」
「それ、東も言ってたけれどさ。皆が助かってるんだから、別に気にする必要はないんじゃない?」
「そうかもね。でも、私はそう言ってもらえるのを良い事に、そう言ってもらえるままに甘んじてるんだよ? 卑怯じゃ、ないかな……」
「佐藤はさ、卑怯だとダメな人?」
辰樹の問いに、佐藤は「そう言うわけじゃないけれど……」と歯切れ悪く言葉を止めてしまった。
良くは思っていないのだろうが、そう言ってしまうと、今までの自分をどう見ていいかわからなくなるのだろう。
逃げる癖が付いたのは、そうして逃げ場に出来る安息の場所があったからだ。
佐藤のとってのそれは家であって、弟妹たちの面倒を見る事だった。
そんな中、意味もわからず異世界に連れてこられたとなれば、佐藤は相当焦ったのではないかと辰樹は考えている。
ただでさえ非日常に放り込まれてストレスが溜まるところ上に、息を整えられる場所へ届く鍵は、未だ闇の中なのだ。
そんな状態でも炊事場と言う安全地帯を見付けられた事は、佐藤にとっては幸運な事だったのだろう。
例え、いつものような“逃げ”であると本人が思っていても。
「状況に甘んじている事は卑怯なのかもしれないけれどさ、誰にも害を与えていない時点で、卑怯かどうかの問題じゃないと思うよ。確かにそれが卑怯な事、ズルだったとして、でもそうしないと佐藤は精神的にまずいんじゃない?」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「こっちの世界に来て、まず真っ先に安全地帯を確保した佐藤のやり方は、俺は間違っているとは思わないよ。俺たちが一番恐れるべきなのは、精神的に再起不能になる事だからね」
例え命を落としても、ゲームシステムの恩恵で復活する事が出来る。
しかし、痛みを伴う死の体験は、果たしてどんな悪夢を復活後の自分たちに見せるのだろうか。
現にひとり、用水路にはまって死にかけたクラスメイトがいるが、まだ本調子には程遠い状態だ。
ステータス上のではHP全快だとしても、一度体に刻み込まれた痛みは幾度も反芻され、そして精神を蝕んでいるというのだ。
このゲームのシステムには、精神に作用する魔法やスキルは、かなり高位のレベルにならないと取得する事が出来ないようになっているのだと、以前遠江が言っていた。
一度精神を病んでしまうと、回復するには長い時間と療養が必要になるのが現状なのだ。
そんな環境下に置いて、余計なストレスなどなければ無いほど理想的だ。
セラピストという概念すら存在しないこの世界においては、そう言ったストレスケアを自分たちで行わなければならないのだ。
「……再起不能だなんて、そんな大げさな事……」
「そう思う? 現にさ、高屋敷はまだ体調崩したままだよ。ステータス上はHP全快で、体の方も万全になったはずだけど、ずっと寒気に襲われてて、まともに身動きが取れてない」
未だ自室で療養中のクラスメイトの姿を思い出したのか、佐藤は表情を陰らせて俯いてしまう。
高屋敷を気遣っているのか、それとも自分がああなってしまった姿を想像したのか。
……まーずったかなー。
怖がらせてしまっただろうかと、辰樹は渋い顔で頭をかく。
言葉が尖っていたのは自覚していたが、これでは聞き流すというよりは突き放すような形ではないだろうか。
これでは佐藤の“逃げ”を肯定するはずが、精神を病んだ挙句の再起不能を喚起する形に成ってしまった。
やはり慣れない事をするべきではなかったと、そんな後悔が辰樹の胸中に渦巻くなか、新たな人物が裏庭に足を踏み入れた。
足音はふたり分だ。
◇
「朱門? ……と、佐藤か?」
疑問を投げかけてきたのは、背の高い、橙色のバンダナ頭の伊佐美。
そして、その後ろからは腕肩のストレッチをしている男鹿が顔を出す。
聞けば、ふたりともフィールドワークに出ていたのだという。
元々は別々の時間に出発したはずが、帰り際、村の入り口付近で一緒になったのだとか。
「ふたりとも、体動かさないと眠れない系?」
「……男鹿はそうかも知れねえが、俺のは慣らしだ。自分の体と、ゲーム上のステータス? パラメータ? ってやつとの、摺り合わせだ」
格闘技をやっていた伊佐美からすると、現状の自分の肉体はかなり違和感を覚えるものなのだという。
それは男鹿も同じのようで、朝方ののぶともたちとの訓練の時に自らのスキルを試してみて、そこで初めて違和感を覚えたのだという。
「男鹿も格闘技か何かやってたの? 柔道とか」
「朱門、かなりイメージで言ってるよな? 俺は、格闘技はやった事がないよ。中学の頃まで野球部だったってだけだ」
野球部という単語に、ぼうっとした様子で話を聞いていた佐藤がわずかに反応する。
同じ部活の経験者という事で意識したものだろうか。
そうすると伊佐美も確か拳法部だったなと、辰樹は東から吹き込まれた情報を頭の中から引っ張り出す。
「なんだ、俺以外みんな運動部だよ。そうした連中が夜出歩いているとさ、なんか夜練みたいになってるよな?」
辰樹がそう言うと、伊佐美は「はあ?」と怪訝な顔をして、男鹿は何かを思いついたかのように表情を輝かせた。
「あ、その、皆……」
と、男鹿は、裏庭に期せずして集結した面々に対して呼びかける。
「夜練、やってみないか? ……なんて」
声に緊張が混じるのは、男鹿自身こうして複数人を前にして話をするという経験がないからだろうか。
もしもそうだとするならば、先日の辰樹や東とのやり取りは随分と落ち着いて自然なものだった。
東の気さくさやのぶともたちの後押しが緊張を和らげていたのだなと思い至ると、この面子は確かに人が悪い。
「夜練って言っても、具体的には何するのさ?」
「……そうだな。伊佐美が言ってたような、体感のズレなんかは、実際に体を動かしたり、スキルを使ったりすれば、少しは埋めていけると思うんだ。そう言うゲーム面、スキル面の話なら、俺は少しは、力になれると思う」
男鹿の言う事は本当だろうなと、辰樹は怪訝な顔を向けてくる伊佐美に、頷きを持って応える。
のぶともたちと一緒に、この世界での立ち回り方を打ち合わせ、ユニットの成長プランを組んでいたので、スキル面に関しては一通り把握していると言っても過言ないだろう。
他にも、レべリングの方法などについて独自の考えを纏めていたり、相手の意見を聞いて方針を修正する柔軟さも持ち合わせている。
「代わりに、と言ってはなんだが、伊佐美には戦い方を教えてほしいと考えているんだ。その、実際の格闘技を、というわけじゃなくて、このゲームシステムで採用されているスキルで、どんな戦い方が出来るのか、とかを……」
男鹿の要求に、伊佐美は最初、嫌そうな顔をしていた。
辰樹が見るに、おそらくは格闘技を教えろと言う部分が引っかかったのだろうが、その原因がどういった事情なのかまでは考えが及ばない。
だが、男鹿が続けて「ゲームシステムに……」と言ったところで少しだけ表情が和らいだので、伊佐美の引っ掛かりはやはり“格闘技”という単語そのものなのだろうなと、暫定で結論付けた。
「……俺は、人にものを教えられるほど器用じゃねえし、人間が出来ちゃいねえ。精々動き方に口出しするくらいだぞ」
困った様にため息を吐いて伊佐美が言う。
これはOKと言う事なのだろう。
はっきりと了承したと言わないのは、伊佐美の中でもそう言った動き方を教える事を渋っているせいだろうか。
そんな事を漠然と考えていると、その伊佐美が横目で辰樹を見てきた。
「……お前も、やるか?」
夜練を、と言う事だろう。
辰樹はうっと息を詰め、少し考える。
伊佐美は何故、こちらに話を振ってきたのか。
食堂での御堂との一件があったからだろうか。
無表情に近い仏頂面は何を考えているのかわからず、だからと言って理由を聞けば「じゃあ、いいわ」と話をなかった事にされそうな雰囲気がある。
……考えすぎかなー。
「んー。俺も混ぜてもらおうかな?」
ちょっと考えすぎているなと感じたので、辰樹は何も考えずそう答えた。
そうして驚くのは、無意識の自分が参加の方に傾いた事だ。
てっきり断って深夜徘徊コースかなと漠然と思っていたので、自分の答えに自分で困惑してしまっていた。
驚いたのは辰樹だけではない。
夜練に混ざるかと問うた伊佐美も少し目を見開いているし、男鹿や佐藤も驚いたような顔をしている。
それらの反応に、辰樹は自分と言うクラスメイトがどういった目で見られているかと言うのを、なんとなく再確認したような気分になった。
「なんと失礼な」とも、「まあ、そうだよなー」とも思うのだ。
ともかく、これから夜の暇な時間にやる事が出来たのはいい傾向だ。
実際、深夜で寝静まった村の中とはいえ、ひとりで見て回るのは少し気が引けていたのだ。
練習時間は日が沈んでから、参加不参加は基本自由で、どちらの場合もストーンに一報入れる手筈とした。
練習内容は基礎体力づくりと戦士クラスのスキルのテスト。
開始は明日の夜から、期間は未定。
誰かが根を上げるまで、もしくは満足いくまでやろうという計画だ。
そうして今夜は解散というところで、佐藤が辰樹たちを呼び止めた。
思いつめたような顔をしている佐藤に、事情を知らない男鹿と伊佐美は怪訝な、と言うよりは心配そうな表情を浮かべる。
先に佐藤の話を聞いていた辰樹には、彼女が皆を呼び止めた理由が何となくわかった。
逃げ癖が付いてしまった己を恥じて、これを期に、変えようとしているのだ。
「私も、夜練参加していいかな……?」
こうして、戦士組4人による夜間訓練が開始される事となった。




