2-⑤
翌日、朝食の時間に食堂を訪れた辰樹と東は、スクロールの紙面をキーボードのようにタカタカと打ち鳴らす遠江の姿を見つけて、思わず顔を見合わせてしまった。
確かにパソコンと同等とは言っていたが、スクロールにキーボードなどついてはいない。
目の下にクマくっきりで、薄っすら笑みまで浮かんでいるので、ついに気でも触れたかと遠江の身を案じたふたりだが、恐る恐る彼女の手元を覗き込んだところ、どうやらそうではないと確認できた。
遠江のスクロールにはインクでキーボードが描かれ、それを打つ事で右手側の紙面上に区切った個所に文章が印字されるという仕組みらしい。
スクロールを、本当に簡易のパソコンとして使用しているのだ。
そういう使い方も出来るのかと慄いていると、食堂のカウンターの方からふたりに声がかかった。
「あ、おはようふたりとも。委員長ね、昨日から寝てないみたいなの」
朝食の準備をしているおばあさんを手伝っていた佐藤だ。
「……あ、じゃあ、あれからずっとやってたんだ委員長」
「おやおやーん? たっきー、委員長が心配になって眠れなかったのかなん?」
「お昼寝すると夜眠れないよね」
「あ、そゆこと?」
結局、朝食の時間も遠江は作業を続けていた。
佐藤が気を使っておにぎりをテーブル横に置くと一旦手を止めて礼を言っていたので、そのくらいの余裕はあるようだ。
しかし、作業を止めてまで食事を取ろうとは思わないようで、用意してもらったおにぎりもすぐに食べきってしまい、手元を再開させるという具合だった。
そういった時間経て、遠江が再び手を止めたのは昼食時の前だった。
「それじゃあ、お昼前で申し訳ないけど、テストに付き合ってね」
「その前によー、委員長寝た方が良くない? すんげー顔色悪いぜ?」
東の心配をスルーしてスクロールの説明を始める遠江だったが、委員長呼びへの突っ込みを怠っているのであまり余裕はないようだ。
さて、遠江が新たにスクロールに付与した機能は、昨日言ったような音声チャット、装備品やアイテムの転送をはじめ、パソコンやスマートフォンに搭載されているようなアプリケーションの数々だった。
「アップデートには、スクロールの持ち主の承認が必要って事にすれば、勝手に自分のスクロールにインストールして不具合があった、なんて言いがかりもないよわよね?」
「どうなんだろう……。まあ、文句が来たらさ、自己責任って事で突っぱねればいいと思うけど。それより、パソコンなんかと同じって考えると、ウィルスとか怖いよね?」
「おいおいたっきー、ウィルスとか、んなもん誰がつくるんだよ?」
「誰か、ね。私でこれくらいの事が出来るんだから、誰かがウィルスを作れてもおかしくはないわね。大丈夫よ、もうウィルス対策はしてあるんだから」
遠江が顎に手を当てて言うのを、辰樹と東が「いやいや」と手を振って突っ込んだ。
ただでさえ未知の領域に手を出しているというのに、そこにウィルスなど仕込もうなどという考えは、少なくとも辰樹と東にはなかった。考え付いたとしても技術的に無理だ。
しかも、遠江はそういったケースを想定して、すでに対策まで考えているというのだから尋常ではない。
「さあ、それじゃあ付き合ってもらうわ! まずは音声チャットからね。共有化のメールは送ってあるから、一度村の別の場所に移動してもらって、そこからスタートね!」
遠江の顔は疲労の色が濃いが、それにもまして楽しそうだった。
心底充実しているのだろうなと、辰樹は彼女のその表情に、少しだけ羨ましさを感じる。
自分はこれまでの人生で、こんなに清々しい顔をした事があっただろうか。
そして、これから先、こんな顔が出来るだろうかと。
◇
スクロールテストは順調に進み、陽が落ちる頃には遠江が一晩かけて再現したアプリケーションのほとんどを稼働しさせ、使用する事が出来た。
今のところ目立った問題はなく、またスクロール本来の機能に不具合もない。
いよいよ、アップデートするためのメールをクラス全員に送ろうかという頃には、夕食の時間も終わり、夜も更けかけていた。
アップデートに際して、食堂には遠江をはじめ、協力関係にあるクラスメイトたちが集まっていた。
辰樹、東、そして薬師寺やミリアム。
厨房でおばあさんの手伝いを終えて戻ってきた佐藤と、同じく手伝いをしていた石動という女子生徒(辰樹は良く知らない)。
お馬鹿コンビ+αの陣内、溝呂木、男鹿の3人組。
そして、最近宿に戻ってきた寒河江と、しばらくのあいだ自室に籠っていた蘭堂という女子だ。
この蘭堂という女子、薬師寺の話では昨年彼女と同じクラスだったのだという。
ならば、必然的に彼女もダブりという事になるが、そのあたりの事情は今は省こう。
「こうして見るとよ、結構残ってたんだな。うちのクラスのメンツ」
東はそういうが、それでも12人だ。
自室で引きこもっている生徒もあと2人ほどいるのだが、それを含めても半数に満たない。
「残ってくれてるだけでも良かったわ。協力してくれてるみんなに感謝しても足りないわ」
遠江はスクロール上のキーボードを操作して、メールの最終チェックを終える。
今からアップデートを了承した場合に再生させる、音声バージョンを録音しようとしているのだ。
どうせメールで音声を送るならば、目の前で聞いてもらった方がいいと考え、東が取り計らって宿屋に残っている面子をこうして食堂に集めたのだ。
「みんな、集まってくれてありがとう。それじゃ、録音始めるね……」
スクロール上に印字した“録音”という字に指で触れて、遠江は語り始める。
「この音声が再生されているという事は、スクロールのアップデートを了承してくれたのだと思います。まずは、その事に感謝します。ありがとう。メール本文と同じ事をもう一度、私の口から言わせてください」
「私は、この3-Cのクラス委員長として、みんなを纏めて、魔王を倒して、元の世界へ帰るんだって考えてました。でも、いろんな人にその考えを否定されて、正されて、私は、その……反省しました」
「反省はしたけれど、でも、私は自分の考えが間違っているとは思っていません。言い方や当たり方がきつかったとは思うけれど、魔王を倒してみんなで元の世界に帰る事が間違っているとは、思っていません」
「私はこれ以降、この世界では委員長を名乗りません。クラス委員長だった頃と同じように、みんなと接する事は、もうしません。けれど、私はみんなの事が心配です。クラスメイトってだけの赤の他人同士かも知れないけれど、それでもみんなとはクラスメイトだから。3-Cの仲間だと思っているから。だから、裏方としてみんなを支えていこうと思います」
「魔王を倒して、このゲームを攻略するという考えは今も変わりません。そのために協力してほしいという気持ちも。けれど、みんなには無理強いも強要もしません。スクロールのアップデートを了承したからと言って、力を貸せとは言いません。でも、ちょっとだけ、空いた手を貸してくれる人がいるのなら、是非その手を借りたいと考えています」
「みんなが、攻略の他にこの異世界でやりたい事があるのなら、私は邪魔はしません。攻略の妨げにならない限りは。逆に、みんなのやりたい事を、私の方でサポートします。と言っても、スクロールの最適化くらいしか、今は出来ないけれど……」
「以上です。スクロール関係で何かあれば、いつでも連絡してきてください。それと、攻略に行き詰った時にも連絡を下さい。私が、私に協力してくれるみんなが、力を貸します。出来る限り、力になります」
ほんの1分ほどのメッセージはすぐに保存され、メールに添付されて、クラス全員に送信された。
深く息を吐いてテーブルに突っ伏す遠江に、東をはじめ、食堂に集まったみんなから拍手が送られる。
顔を上げかけた遠江だったが、思いがけず起こった拍手の雨に、その動きを途中で止めてしまった。
照れくさくなったのか、感極まったのか、それをわざわざか確認する程、無粋な者はいなかったようだ。
そうはして、その夜は解散となった。
遠江は食堂に残り、メールの返信がないか待つと言っていた。
佐藤が苦笑しながら夜食の準備をする中、遠江の表情はすでに眠そうだ。
ひと仕事終えて満足だが、この先が少し不安でもある。そう言いたげな表情だった。
◇
一番早い返事は翌朝に届いた。
というより、本人がやって来た。
「いよう、委員長。メール読んだぜ、ってか聞いたぜ? いやあ、驚きだよな、巻物に手紙来るわ音出るわで」
豪快に笑いながら早口に言うのは、小麦色に日焼けした体格の良い男子生徒、猪瀬だ。
竹を割ったような快活な男で、顔も美形、二年生の夏まではサッカー部に所属していて、それなりのモテていたらしいとは東談。
戦士クラスを選択しているにも関わらず、上はシャツ1枚、下はレザー生地の七分丈のズボンと軽装だ。
性格的にも単独行動など取らず最初から遠江に協力していてもおかしくないと思われる人物だったのだが、ならば答えは明瞭だ。
寒河江と同じく、この村の別の場所で、数日のあいだ缶詰になっていたのだ。
「猪瀬くんは、村のどこに居たの?」
「おう。村はずれにな、なんかー、いかにも職人って感じの爺さんがいてよ? ちょっと弟子入りしてた」
「はあ? 弟子入りって、なんのだよ」
「鍛冶だな。刀鍛冶とか興味あってな。でも、ちょーっと想像してたのと違ったんだわ! わっはっは!」
東の問いにあっけらかんと答えて豪快に笑う姿に、遠江も東も毒気を抜かれて苦笑いするしかない。
「で、まだ弟子になって日が浅いから仕事場の片づけなんかさせられててさ、それで、こんなもん見つけたんだよ。お師匠に聞いたら好きなだけ持っていけって言うから、とりあえずたくさん加工して持って来た」
そう言って猪瀬が手元に何かを出現させる。
スクロールの設定改変で、アイテム等も意志ひとつでこうして手元に転送できるようになったのだ。
猪瀬が取り出したのは、手に収まるサイズの黒い石版だった。それを、遠江に向けて放る。
「わ! ちょっと! ……あれ、軽い?」
受け取った黒い石版は表面が滑らかで、非常に軽かった。
「いやあ、それが出来たの、まったくの偶然なんだがな? ……河を伝って山の方から流れてくる泥土の中に、黒い綺麗な石っころみたいのがあるんだよ。黒曜石っつうか、磨製石器の破片みたいなやつ。でよ、師匠にが言うには、大昔の魔法使いが、魔法の触媒かなんかで使っていたって話なのよ」
大昔の魔法使いが使っていた。
その言葉に、他のテーブルで読書に耽っていた寒河江や、朝の打ち合わせ中だった3人組が、バタバタと席から立ち上がり、遠江と猪瀬のいるテーブルに駆け寄ってくる。
詳しい話をと迫るみんなをどうどうと諌め、猪瀬は「いいか?」と前置きして語り出す。
「こいつの元になった石っころっていうのが、なんでも魔力を通したり溜めたりするっていう特性があるらしいんだわ。それで、大昔の魔法使いは、その石っころを加工して、魔法を使う際の触媒にしたり、魔法器っていう、……なんつーの? 増幅アイテム? みたいなやつをつくっていたらしいんだよ」
頷き、興味深そうに猪瀬の話を聞く傍ら、遠江は受け取った黒い石版を、角度を変えて凝視している。
「……その石っころをな? 結構な数集めて型に入れて、炉の高温で一晩くらい熱し続けると、溶けてそういう風な形に固まるんだわ。でまあこれが、表面つるつるで軽くて、なーんかに似てるなーと思ってな? もしかしたら、スマホみたいに出来るんじゃねえかなって。魔法の触媒にしていたって言うしよ?」
「いや、さすがにそりゃ……」
触媒の意味をあまり良く理解していない猪瀬に苦笑いで突っ込む東だったが、辰樹自身は案外そういう事もできるのではないかと考え始めていた。
猪瀬の話を少し遡ると、魔法器という単語が出てきている。
それが具体的にどういったものかまではわからないが、もしかしたら魔法の補助等に用いられたアイテムの類なのではと、辰樹はあたりを付ける。
さてどうだという視線を遠江に向ければ、スクロール上のキーを素早くタイプした遠江が「うん」と、自信ありげにひとつ頷いたところだった。
「出来るわ! ありがとう猪瀬くん! すぐに、この石にスクロールの機能を同期させるから! この加工石、数はどれくらいあるの?」
「おうよ! もちろんクラスの人数分拵えてあるぜ? 抜かりはねえってな!」
東以下数名が、「できんのかよ!?」「あんのかよ!?」と真顔で遠江と猪瀬を交互に見るが、遠江の方はすでに作業に取り掛かっているし、猪瀬は豪快に笑っている。
「なっはっは。役に立って何よりだー。それよか、ここってメシ出るのか?」
「あーなるほどそっか。いのっちお前、文ちんと同じで、こっち来てすぐに弟子入りしたのかよ……。この宿に居るとな? おばあちゃんと、めぐみんたちがメシつくってくれるぜ?」
「女子の手作り!? いやあ、最高じゃねえか!」
作業続行する遠江の対面の席にどかっと座る猪瀬。どうやらここで朝食を取っていくつもりらしい。
「あー、そうだそうだ。やりたい事助けてくれるとか、そういう話だったけどよ、俺も協力するぜ? 今はまだ鍛冶場の掃除しか任せてもらえねえけど、こういう素材系のもんに触る機会は多いからな。なんかあったら言ってくれよ。遠江も、東も!」
そう言って、猪瀬は再び豪快に笑った。
顔は二枚目に分類されるだけに、こういった豪快な親父染みた仕草が驚きだ。
頭に捻じり鉢巻きでもすれば似合いそうな雰囲気があり、職人気質なのだなと、辰樹は朝食の皿をテーブルに置きながら事態を見守った。
そうして正午に差し掛かる頃には、スクロールは最初にして最大のアップデートは果たす事になる。
スマートフォンと同等の携帯性と操作性を併せ持つ、携帯端末“ストーン”の誕生だ。
その仕組みはただ単に、スクロールの機能を猪瀬の持ってきた黒い加工石に転写しただけ、というもの。
だが、いちいち「巻物を開く」という面倒な動作無しにスキルや呪文、パラメータの確認が出来るのは、膨大な数の呪文を把握する必要がある魔法使い組にとっては重宝するものだった。
「何より、インクの節約になるわね」
「委員長……、いや、遠江、すんごい量のインク使うもんね」
ストーンの端末はクラスメイトのスクロールに転送され、遠江のアップデートを承認すれば誰でも使えるようになっている。
このストーンの成果をいち早く体感できたのが、陣内たち3人組だった。
特に、魔法使いの陣内などは、呪文の展開速度が飛躍的に上がったとして、相方の溝呂木を巻き込んで食堂で大はしゃぎだった。
ストーンの本体となる加工石を持ってきた猪瀬はというと、朝食を摂るとすぐに鍛冶場の方へ引き上げてしまった。
帰り際、遠江から2、3注文されるのを快諾して、豪快に笑いながらの退場となった。
◇
それから程なくして、“のたうつ牡鹿亭”にまたひとり、クラスメイトが戻って来た。
いや、正確にはふたりなのだが、もうひとりの状態が状態なだけに、その様子を目の当たりにした誰もが“ひとり”とカウントしただろう。
何せひとりの方が、気絶しているもうひとりの方を担ぎ上げての登場だったからだ。
「……すまん。誰かこれ、手当できるヤツ、いないか?」
昼食前の時間で人が疎ら(それでも、チーム遠江の面々や寒河江は居すわっているのだが……)な食堂に、低く重苦しい声が響いた。
ちょうど、東にエビぞり固めを決めていた辰樹が振りかえって入り口の方を見て、思わず吹き出してしまった。
食堂の入り口に立っていたのは、伊佐美泰寅だった。
ただし、全身ずぶ濡れで、額のオレンジ色のバンダナは微妙にずれていて、そして肩に巨大な何かを担いでいた。
誰かが「……熊?」と問いかけるように呟いたが、伊佐美はこれが答えだとばかりに、担いでいたものを食堂の床に転がした。
それは熊ではなく、熊のように大きな人間だった。
伊佐美同様全身ずぶ濡れで、灰色のローブを纏った、太ってメガネをかけた男だ。
「おおい! おいおい、とらさん、それ! 高屋敷じゃん!?」
東がエビぞりを極められたまま腕だけで這って入り口の方へ移動する。
一緒に移動する形となった辰樹は、はて、高屋敷とは誰だったかと首を傾げる。
薬師寺やミリアムが駆け寄って行き、うつ伏せから仰向けに転がして、苦しそうに呻いているメガネ顔を見て、……それからしばらくして「ああ」と頷いた。
「確か、アナログゲーム部の……」
「そう! その高屋敷だよ! たっきー思い出すのおっそいよ!? あとエビぞりそろそろやめね!? ちなみにフルネームは高屋敷仁! 通称“お館”! 昨日の朝くらいまでは村に居たはずなのに、夕方くらいに忽然と姿を消しちまってたんだわ! これが!」
テンション高くノリ突込みする勢いで東がまくし立てるのを、辰樹は喧しそうに聞き流す。
いつもならば話を聞き流していた事を追及される場面なのだが、今日の矛先は高屋敷を担いできた伊佐美に向けられた。
「つうかだよ!? とらさんも今までどこ行ってたんだよ!? とらさん初日は一緒に居たろ!?」
エビぞり固めのせいか高まったテンションが下がらない東は一息にまくし立てると、伊佐美は至極面倒くさいという顔をして睨み返した。
「……初日のあの空気の悪さで、誰があんたらとつるもうとか思うんだよ。俺は御免だね」
苛立たしげに言う伊佐美に、椅子から立ち上がりかけた遠江がしゅんとしてしまう。
空気の悪さと言われて、原因が自分にあると自覚しているからだろうか。
そんな遠江の様子を見て、伊佐美は困ったようにため息を吐いた。
「……まあ、そういうのも、なくなったみたいだしよ。昨日の夜メール見て、戻ってみるかって思ったんだ。……で、だ」
そう言葉を止めて、伊佐美は床に転がしたクラスメイトを見る。
「……こいつが、用水路に詰まってもがいていたんだ」
「用水路って……。高屋敷、何やってんの……」
どうしたら用水路に詰まる事が出来るのかとみんなが微妙な顔をする中、ミリアムと一緒に高屋敷の様子を見ていた薬師寺が「うん」とひとつ頷いた。
「呼吸も脈拍もあるけれど、体温が低い……。低体温症だね?」
「……ああ、そうだ。風呂の場所とか確認してなかったから、ぶち込もうにもな……。それに、魔法かなんかで一発回復とか出来ないかと思ったんだ。なんか、そういうのがあるんだろ?」
なるほど。だから、風呂の場所を聞くのではなく「誰か何とかできないか」なのか。
しかし、実際どうにかできるのだろうかと辰樹は顎に手を当てる。
辰樹がキャラメイク時に閲覧したのは自分が選択した戦士クラスのデータだけだ。
回復系統のスキルや魔法を扱えるのは、今の時点では僧侶クラスの薬師寺やミリアムに限られる。
僧侶クラスのふたりはお互いのスキルを確認し合い、短い時間で打ち合わせを終えて、ミリアムが<治癒>のスキルを使用する。
「……一応、ゲーム的にはHPが回復した状態になったけれど、それはあくまでゲーム的には、の話だからね。肉体的には動いたり運動したりするのは大丈夫なんだけれど、体感的には衰弱してるまま、みたいなの。そう言う“ゲーム面での状態”と“実際の体調”をすり合わせないといけないから、数日間は絶対安静にしてもらった方がいいと思うの……」
高屋敷の症状を説明する薬師寺は、この異世界に来てから誰も見た事がないような真剣な顔だった。
食堂に集まった誰もが固唾を呑んで聞き入っていると、ふと我に返ったかのように、困ったような笑みで誤魔化し始めた。
一度凍ってしまった場の空気を弛緩させようと、辰樹にエビぞりを極められていた東がするりと抜け出し前転して起き上がり、ぞりっと坊主頭を撫でて見せる。
「さっすが僧侶クラスっすね、お春さん! あ、つーことはこれ、結構面倒なんすね? HPが全快しても、直前の状態が瀕死だったりすれば、体感が瀕死のままって事っすよね?」
「うん、そだね。仁ちゃんの場合は軽度ではあったけれど、しばらくは手足の感覚が戻らないと思うの……」
薬師寺の説明を聞いた辰樹は、薄っすらと冷や汗をかく。
先日、この食堂で御堂の右手を踏みつぶして骨肉を砕いてしまった事を思い出したのだ。
今の薬師寺の話が本当ならば、御堂はあの後右手の自由がしばらく利かなかったのではないか。
……まあ、どうでもいいか。
心配はしたものの、2秒で意識の外へ追いやった。
「でも、そうするとよ? もしも、HPが0になっていっぺん死んじまったら、しばらくは死んだ感触ってのが、残ってるって事か……?」
東は何気なくといった風にそう呟いて、「しまった」とばかりに口を閉じた。
それをこの場で言う事で、居合わせた者たちにいらぬ不安を与えると考えたのだろう。
だから辰樹は、再び東に技をかけて、今一度注目を集める。
「んぎゃあ! 痛い痛い! たっきー痛い! なんで技掛けんのよ!?」
「なんとなくだー。怪我したり病気になった感覚が残るっていうなら、そういう事態を避けるように行動しろって事だろ? 怪我しないよう、死なないように。みんなそれぞれ気を付けてけばいいって事を言いたかったんだろう、一真?」
「……たっきー、フォロー、下手」
思わず息を詰めた辰樹は、さらに力をかけて東を黙らせる。
お馬鹿コンビのいつもの馬鹿騒ぎを真似てみようとは思ったが、慣れない事をして滑ったのを自覚せざるを得ないのが、辰樹はそこはかとなく悔しかった。
そんな辰樹を見かねてか、薬師寺が「まあまあ」とっ仲裁に入る。
「確かにね、体感の誤差は生じちゃうんだけれど、それを緩和する事も出来るんだよ? 魔法使いとか僧侶のスキルの中に、そういうのを緩和する薬品を生成するものもあるの」
「それって、痛み止め、みたいなやつ?」
「そうそう! それでね、まだ材料があんまり集まらないから作れないけれどね、いずれは精神面の負荷を緩和させるものもつくれるようになるはずだよ?」
「ほう」と頷いた辰樹と東は、しかし別々なものを連想していた。
「アロマとか、お香っすかね?」
「覚せい剤とか幻覚剤とかかな」
今度は東が辰樹にプロレス技をかけ始めて、重く成りかけた雰囲気は何となく有耶無耶になった。
その様子を面倒くさそうに眺めていた伊佐美は、ため息をひとつ吐くと気だるそうに立ち上がった。
「……まあ、ゲーム上のなんとかってのと、体感のズレってのは、確かに酷いわな。ここ数日で身に染みたわ。だから、しばらく宿近くうろついて慣らす事にする」
それは、しばらくは宿で寝泊まりするという事だ。
踵を返して食堂を後にしようとする伊佐美に、遠江が待ってくれと声を掛ける。
「あの、ごめんなさい……。私は……」
「他のやつ等、手伝うんだろ? やればいい。俺は別に、協力とかはいらんから……」
遮るように言って立ち去ろうとした伊佐美に、辰樹を放り出した東が待てと声を掛ける。
「待てよ、とらさん。まだ行かせるわけにはいかねえ……!」
東の強い口調に足を止めた伊佐美は、肩ごしに坊主頭を睨み返す。
人を射殺せそうな視線に物怖じする事無く、東は口を開く。
「頼む、高屋敷を運ぶの手伝ってくれ! 俺とたっきーだけじゃ、絶対もってけねーから! この巨体!」
東が大げさな動作で手で指し示した先、辰樹が高屋敷の巨体を抱え上げようとして、出来ずに顔を真っ赤にしていた。
その様子に毒気を抜かれたのか、伊佐美は面倒くさそうな顔をしながらも高屋敷を持ち上げるのを手伝った。
この一連の流れですっかり肩の力が抜けてしまったのか、申し訳なさそうな顔で立ち尽くしている遠江に、伊佐美は「もう気にしてねえよ。そんな顔すんな」と呟いて、辰樹や東と一緒に高屋敷を風呂場に運んで行った。




