暗幕
シムコは空港内のレストランで働いている。
滑走路が一望できるデッキ・フロアにあるレストランで、女性客に人気の店である。
その厨房にシムコはいた。
30を目前にした彼女はコックの経験が豊かであるが、結婚して仕事を辞め、この店でアルバイトとして働き始めてからまだ1年に満たないくらいであった。
しかし彼女の仕事ぶりとキャラクターに、スタッフ達とはすっかり打ち解けていた。
今日も11時に店は開店したが、客はまだ入らなかった。
シムコは仕込みを進めた。
鍋に並々と入れられたトマト・ピューレに砂糖、アーリオオーリオ、コンソメを加え、セロリとパセリの茎、ローズマリーを縛ったブーケ・ガルニを入れたところで客が入ってきた。
オープン・キッチンではないので、新規の客が入ったかどうかは、キッチンのスタッフにはわからない。
ぼちぼち入ってきたオーダーを他の2人のコックと共にこなしながら、たまにトマト・ソースの鍋を底を擦るようにかき混ぜた。
少したまったオーダーを全て出し終え、4回目にかき混ぜた時、シムコの視界がパッと暗くなった。
「え?」
シムコは停電かと思った。
視界が暗くなったとはいえ、トマト・ソースの香りとオーブンの待機音、グツグツとスタンバイするパスタ鍋の音は聞こえているので、意識はあるからだった。
シムコは首を右に向け、ホールに続くパントリーの方へ向いた。
今は昼であり、いくら停電だとしても、ホールの一面ガラス張りの窓からは光が充分に差し込むはずだからだ。
それも、ないのだ。
というより、何も見えなかった。
目を閉じているより、何も見えなかった。
目玉を落っことしたのではないか?と思うくらい、とにかく真っ暗、いや、"真っ黒"であった。
"真っ黒"になってからこれまでの時間、わずか3秒であった。
それから2秒後ホールから、ガシャン、と何かを落とすような音と、少々の戸惑うようなざわめきが聞こえた。
シムコは静かに、手探りで(と言ってもすぐにわかったが)トマト・ソースの鍋の火を消した。
その次に、共にキッチンにいたコックの声が聞こえた。
「あれ・・あれ・・?!見えない!!へ!?」
コックはチキンのソテをしていたはずだが、何か慌ててガシャガシャしている。
次に、ホールから女の声が聞こえた。「えっ・・やだ、どうしよう、ハナミどうしよう、あたし、目が見えない、見えない」。次にまたホールから男の声が聞こえた、またはパントリーから女の声が、少し離れたところから皿の割れる音が、そして悲鳴と何かが崩れる音が聞こえた。「痛い!」という声も聞こえた。
この間シムコはただ立っていた。暗闇の中で聞こえる音をただ聞いていた。
なにが起こったのか。
目が、見えない?私は目が見えなくなったのか。
皆?皆、目が見えないって?
コックの「あちい!」という大声で確信した。
私たちはいま全員、目が見えていない・・。
相変わらず皆思い思いの悲鳴をあげている。
シムコは初めて、怖くなった。だが悲鳴はあげなかった。
人が泣いていると自分は冷静になる現象なのか、ただただ怯えて呆然と声も出ないのか、自分でもわからなかった。
もしかしたら、目が見えなくなったのは自分だけではないということがわかって安堵した部分もあるのかもしれない。
「店長ー!」
シムコは大声で叫んだ。近くに店長がいるかどうかはわからないが、叫んだ。
だが、その声は周囲の絶叫にかき消され、同化してしまった。
シムコは自分の声を聞いてもらえるよう、もう一度はっきりと叫んだ。
「店長!!カラダです!カラダシムコです!私は、落ち着いています!店長、返事をしてください」
「カラダさあーん!」
少し裏返った声で、店長が返事をした。パントリーの出口、ホールとの境い目あたりにいそうだ。
「店長!」シムコは手探りで調理台を伝い、店長のいるであろう方向へ向かった。
「店長、店長も目が見えませんか?」
「見えない、カラダさんもですよね?」
「はい、突然、見えなくなりました。真っ暗です。」
「あたしも見えないよおー!」近くにいたパートタイマーの主婦も、取り乱した声を上げた。
「とりあえずこのままでは危険すぎます、お客様の数は把握できていますか?皆を、近くまで集めませんか」
その時、今まで聞いたことのない爆音が耳をつんざいた。
ビリビリと窓ガラスが振動するのを感じた。
店内は、ぎゃああ、という悲鳴と混乱で満ちた。
シムコは爆発音が聞こえたと同時にしゃがみ込み、頭を抱えていた。恐らく全員が、似たような体制をとっていたかもしれない。
爆発音のほんの少し前に、『キイイイイ』という音が、近づいてくるような音がしていた気がする。
もしシムコの予想が当たっていたなら、最悪だ。
まるで、飛行機が墜落したかのような音だったからだ。
店内の悲鳴が優先してしまい意識の裏に消えていたのだが、何とか心を落ち着けて思い出してみると、ドーン、というような音は、遠くから数回聞こえていたのだ。
まさか。突然目が見えなくなったのは、私たちだけではないのか。つまり。最悪だ。
「皆さん!!モシオカです!店長です!!この店の、店長です!!
目が、見えていないのは、全員のようです!危険なので、皆さん、むやみに、動かないで!!」
モシオカは、ゆっくりと言葉を区切って叫んだ。
彼もまた怯えていた一人なのだが、このような状況でシムコと「会話」ができたことで、表面だけでも落ち着きを取り繕う余裕ができた。
モシオカは、自分の近くに来るように、と声を出し続けた。両手を前後に伸ばし、近くに来れた人間に触れ、その人もまた手を伸ばし次の人間と手をつなぎ、それを繰り返すよう指示した。
客およびスタッフ達は、必死でその指示に従った。
なんとか全員が一箇所に集まった。そして座った。
「なんでこんなことになったの」
「さっきの音は何だ。まさか飛行機が・・」
人が近くにいることで、少しの落ち着きを取り戻した人々は悲鳴をやめ、意味のある言葉を話すようになった。
「テロだ・・第四次世界大戦なんだよ。盲目になる神経ガスでも撒かれて。あの爆音は攻撃なんだ」
「なんだっていいわ、ここから逃げましょう。さっきから聞こえる音が飛行機の墜落した音だったら、ここが一番危ない」
「目が見えてないのに、むやみに動き回る方が危ないよ。しかもここは4階なのに。」
「じゃあこのままじっとしているの!」「なんまんだぶ・・なんまんだぶ・・」「お経とかやめてよ縁起でもない!!」「ちょっと誰だか知らないけど、喚くのやめてよ」「うるさい、あんたこそ誰よ、黙ってよ!!」
その時また、比較的近くであの爆音が聞こえた。人々はひぃぃ、と声を漏らし縮こまった。喚いていた女の声のした方からツンと、アンモニア臭が漂った。お経を唱えていた老婆はそれを止め、うううと高い声で呻いた。隣にいたシムコは、握っていた皺々の手をより力強く握った。
「皆さん聞いてください、私はここのスタッフのカラダです。やっぱり、目が見えなくなったのは、私たちだけじゃないと思います。あの音も・・飛行機だと思います。
ここは空港だから、ここに向かっていた飛行機が墜落してきたのだと思うのですが、日本中の空を飛行機は飛んでいます。どこに行っても、危ないことには変わりがないと思います。
外へ行けば、車の事故に巻き込まれるかもしれないし、その前に、無事に空港を出られないかも。
混乱した人々の下敷きになるか、人に押されて階段やエスカレーターから落ちるかもしれません。とりあえず、今はここにいましょう」
「いつまで・・」誰かが問うと、モシオカが答えた。
「僕も今はここにいた方がいいと思います。じっとしていた方が今は安全だと思います」
「だからいつまでここにいるの!」
「いま外から聞こえる悲鳴や、雑踏や破壊音が聞こえなくなったら、僕が様子を見に・・・伺いに行ってきます。少なくとも今は店の外に出るより、ここにいる方が安全です」
シムコ達のいる4階はこの空港の最上階に当たり、この階のウッド・デッキには滑走路を眺めるための広いテラス・スペースとこの店しかないため、そこまで人はいなかった。階下や外からは、遠く騒がしい声や音が聞こえていた。
それがいつ静かになるかはわからないが、そんなに時間はかからないだろうとシムコは思った。
きっと、むやみに動く人間は何かしら事故にあって死ぬか動けなくなってしまうだろう。
我々のようにじっと静寂を待ち、生き延びた人間とコンタクトが取れれば何かわかるかもしれないし、救助が来た時大勢の方が見つけてもらいやすい。
待とう。もしお腹が空いたら、キッチンの奥に行ってパンでも取ってこよう。厨房にいて、食材も山ほどあるのに調理ができないゆえにパンしか食べられないなんて、皮肉だな、と思った。アイス・クリームもあるな、そうだ、食料があるだけ私たちはましだ。大丈夫、何とかなる。
保育園に預けた子供のことが気がかりであったが、今は見えていない目の前のこと、自分が生き延びることが最優先である。待とう。待って、お腹が空いたらパンを配って・・、トイレはすぐそこにあるし、そして皆を落ち着かせて・・。
その時、シムコの目が見えた気がした。見えた、というよりは、真っ暗な視界がカメラのフラッシュを焚かれたように真っ白な光に変わったような感じだった。
一瞬、刺すような熱と風、爆音があった。
その数秒前に、『キイイイイ』という音が聞こえたような気がした。




