私の夫は、私が死ぬまで私を愛さない
侯爵家嫡男のアルベルトは、昔から私に優しかった。幼い頃、庭で転んだときもそう。
『大丈夫か?』
膝を擦りむいて泣いていた私に手を差し伸べて、立たせてくれた。
あの頃の私は、その手がひどく大きく見えた。
ええ、今でも覚えている。あの人の手は、いつだって私を助けてくれた。
私は幼い頃から身体が弱かった。
少し走っただけで息が切れ、季節の変わり目には必ず熱を出した。
だから、何をするにも周囲から心配された。
『無理をしてはいけないよ』
『疲れたら休みなさい』
『あなたは身体が弱いのだから……』
そんな言葉を、何度聞いたか分からない。
けれど、アルベルトだけは笑わなかった。
社交界に出るようになってからも、私が疲れていることに気づけば自然に休ませてくれた。
重い物を持とうとすれば、何も言わずに取り上げてくれて、夜会の途中で顔色が悪くなれば、誰より早く気づいてくれる。
だから私は、ずっと思っていた。
アルベルトは、私を大切にしてくれていると。
そして、それはきっと、愛してくれているということなのだと。
「おめでとう!!」
やがて私たちは結婚した。
侯爵家の嫡男と伯爵令嬢。幼い頃から婚約していた私たちの結婚は、周囲からも盛大に祝福された。
結婚してからも、彼は変わらなかった。
「今日は顔色がよくないな」
「いえ、少し疲れただけです」
「それを無理していると言うんだ」
そう言って、私を椅子に座らせてくれる。
夜会から帰れば、まず私の体調を確認したり、体調を崩したときには、夜通しそばにいてくれたり。
私は幸せだった。
幸せだと、思っていた。
けれど、結婚して一年が経った頃から、胸の奥に小さな違和感が残るようになった。
(彼は優しい。私を大切にしてくれる。なのに……)
どうしてだろう、どこか遠いような気がするのは。
たとえば私が新しいドレスを着て彼の前に立ったとき。
「どうでしょう?」
「ああ、よく似合っている」
そう言って微笑んでくれる。
素直に嬉しい。嬉しいはずなのに、なぜか物足りない。
私が彼のために贈り物を選んだときも。
「ありがとう」
そう微笑んでくれるだけ。
もちろん、それで不満を言うほど子供ではない。
アルベルトが優しいことは分かっている。
分かっているからこそ、余計に分からなくなった。
(私は何を欲しがっているの……)
ある日の夜、私は体調を崩した。
熱に浮かされながら目を覚ますと、ベッドの脇には彼がいた。
「……アルベルト様?」
「起きたか」
「ずっと、ここに?」
「ああ」
彼は私の額に手を当てる。
「まだ熱があるな。もう少し眠れ」
「でも、お仕事が……」
「君より優先するものではない」
その言葉がやっぱり嬉しくて、胸がいっぱいになった。私は愛されているーーそう思った。
けれど翌朝。
熱が下がって私が笑うと、彼はいつものように優しかった。
でも、ただそれだけ。
昨夜はあれほど心配してくれたのに。今朝にはまるで何事もなかったかのようだった。
そのとき、ひっそりと胸の奥に浮かんだ考えを、私は必死に否定した。
(もしかして……)
私が苦しんでいるから、大切にしてくれるだけなのではないか。
病弱な妻だから。守るべき妻だから。
夫としての責任を果たしているだけなのではないか。
そんな考えは、一度浮かんでしまうとなかなか消えてくれない。
そして、ある日のこと。
書斎の扉が少しだけ開いていたことに気がついた私は、廊下で足を止めた。
中にいたアルベルトは、一枚の古い肖像画を見つめていた。そこに描かれていたのは、幼い頃のアルベルトと一人の少女。
ヴィオラ・ハミルトン伯爵家令嬢。彼女は彼の幼馴染だ。
かつて社交界では、二人が結婚するのではないかと噂されていた女性。
私はその名前を知っていた。
けれど、彼から彼女について話を聞いたことは一度もなかった。
私は何も言わず、その場を離れた。
その夜は、なかなか眠れない時間を過ごした。
アルベルトは、あの女性を今でも想っているのだろうか。だから私には、愛していると言えないのだろうか……。
そんな疑念が、頭から離れなかった。
数日後、ヴィオラが社交界に戻ってきた。そして、彼女は私の前に立って笑った。
「アルベルト様とは、昔から親しくさせていただいていました」
「……存じ上げております」
「昔は、私たちが結婚するものだと思われていたんですよ」
何も答えなかった。いや、答えられなかったと言ったほうが正しい。そんな私を見て、ヴィオラは楽しそうに続ける。
「アルベルト様は、とてもお優しい御方でしょう?」
「ええ」
「あなたに対しても?」
「もちろんです」
そう答えると、ヴィオラは小さく笑いながら。
「それは、あなたが病弱だからではありませんこと?」
胸を刺されたような気がした。
「どういう意味です?」
「アルベルト様は昔から責任感の強い御方ですもの。守るべき相手は、たとえそれが仕方なく結婚した相手とは言え最後まで守るでしょうね」
「……」
「でも、それと愛情は別でしょう?」
否定したかった。そんなことない!と言いたかった。けれど、言葉が出てこなかった。
「あなたは、本当にアルベルト様に愛されていると思っていらっしゃるの?」
その問いが、胸の奥に残った。
私は屋敷へ戻ってからも、ずっと考えていた。
彼は私を大切にしてくれる。私が傷つけられれば怒ってくれて、ヴィオラに侮辱されたと知ったときも、彼は彼女を厳しく咎めていた。
けれどそれも、夫として当然の義務と割り切っているだけなのでは……。
私が病弱で、それでも妻で、守るべき存在だから。
もしそうなのだとしたら、私は、彼にとって何なのだろう。
私はアルベルトを愛している。
だからこそ、知りたかった。私は、病弱な妻として大切にされているだけなのか。
それとも、一人の女性として愛されているのか。
「嫌……!」
怖かった。聞きたくなかった。
答えを知ってしまえば、今まで信じていたものが壊れてしまう気がしたから。
それでも、勇気を持って聞くことにした。違う。もう聞かずにはいられなかった。
「失礼いたします」
「君か。どうした、こんな夜中に。眠れないのか?」
「いえ。アルベルト様にどうしてもお尋ねしたいことがありまして」
「なんだ?」
「アルベルト様。あなたは……私を愛してくださっていますか?」
アルベルトは、答えない。
ただ私を見つめ、そこから視線を逸らした。
私は必死に笑おうとした。
けれど、うまくなんて笑えるはずもない。
「……そうですか」
それ以上、何も聞けなかった。きっとあの沈黙が答え。彼は私を愛していない。
きっと、そういうことなのだ。
その日から、少しずつ考え始めた。
このままでいいのだろうか。アルベルトのそばにいる限り、私はきっと、この人に愛されているのかどうかを気にし続ける日々を送る。
ならば一層のこと、一度離れたほうがいいのではないか。
誰かに愛されているかどうかではなく、自分自身が何をしたいのか。それを考えてみたい。
「しばらく、領地へ戻らせてください」
彼にそう告げると、驚いたように私を見た。
「理由を聞いても?」
「……自分が何をしたいのか、考えてみたいのです」
彼はしばらく黙ったあと、やがて小さなため息と一緒に告げた。
「分かった」
引き止めなかった。私は、そのことに胸が痛んだ。
(やっぱり、この人は私を愛していない……)
あくる日、私は実家の領地へ戻った。
そして初めて、自分自身の人生と向き合った。
亡くなった父から受け継いだ領地は、決して豊かではなく、私は今まで、領地経営について何も知らなかった。
最初は何度も失敗した。
家臣たちにも心配された。
「お嬢様には難しいかと……」
なんて言われたこともある。以前の私なら、その言葉に従っていたと思う。
けれど、今は違った。
「いえ、やってみます。やらせてください!」
分からないなら学べばいい。
失敗したなら、やり直せばいい。
誰かに決めてもらうのではなく、自分で決める。
そうして少しずつ、領地は変わっていった。
一年、二年、三年……。
気がつけば、領地は以前とは比べものにならないほど発展していた。王都でも私の名前が知られるようになっていたほどに。
かつては『病弱なだけの令嬢』と呼ばれていた私が、自分の力で領地を立て直した。
その事実を、私は素直に嬉しいと思えた。
誰かに褒められたいからではない。もちろん、彼に認めてもらいたいからでもない。
自分で決めて、自分でここまで来た。
その事実が嬉しかった。
そんな頃、ヴィオラが再び私の前に現れた。
「随分とお元気になられたのね」
その言葉には、隠しきれない悪意があった。
「お元気なのはよろしいけれど、でもアルベルト様に捨てられたことには変わりないでしょう?」
「……私たちは離婚はしていません」
「同じことですわ」
ヴィオラは鼻で笑った。
「アルベルト様があなたを迎えに来ると思っているの?」
「思っていません」
私は首を横に振りながら、本当に、そう思っていた。ヴィオラはそれを見て満足そうに笑う。
けれど、その後も彼女は私への中傷を続けた。
領地経営など偶然うまくいっただけ。
病弱な令嬢に何ができるというの?
所詮、アルベルト様に見捨てられた女。
そんな噂が社交界に流れた。
さらに彼女は、侯爵家の内部情報まで利用して私を陥れようとした。けれど、ヴィオラの行動には一つの誤算があった。
彼女が侯爵家の使用人を通じて情報を手に入れていることに、侯爵家側は早い段階で気づいていたのだ。
そして、その使用人から報告を受けたアルベルトは、敢えてすぐにはヴィオラを問い詰めなかった。
誰に何を話したのか。どんな情報を渡したのか。そして、その情報を何に使おうとしているのか。
すべてを確認するために、彼女を泳がせていたのだ。
使用人たちから上がってくる報告は、その都度、書面に残された。
ヴィオラが誰と会ったのか。何を話したのか。侯爵家のどの情報を求めたのか。その情報が誰の手に渡ったのか。
証拠は一つずつ積み重ねられていった。
それだけではない。
ヴィオラが社交界で私について語った内容も、彼女の言葉を聞いた貴族たちから証言を取っていた。
最初は、ただの悪意ある噂だと思われていた。けれど調べていくうちに、それらが偶然ではないことが分かった。
ヴィオラは私の評判を落とすため、意図的に複数の貴族へ同じ内容を吹き込んでいたのだ。
さらに侯爵家から得た情報を利用し、私の領地に不利益が生じるよう仕向けようとしていた。
そしてついに、それらを裏付ける書面と証言が揃った。ヴィオラが私を陥れようとしていたことを、誰も否定できないほどの証拠が。
それらが社交界に知れ渡ったとき、今まで私を笑っていた人たちは一斉に態度を変えた。
「まさか、そこまでしていたなんて……!」
「侯爵家の情報まで利用していたのか!?」
「セシリア嬢への噂も、すべて彼女が流していたのね」
もちろん、ヴィオラは必死に否定した。
けれど、彼女が誰に何を話したのか、その証言や、どの情報を利用したのか、その記録もすべて残っていた。
そして、その情報によって私を陥れようとしていたことまで、すべて繋がっていた。
もう言い逃れはできず、ヴィオラは社交界で完全に信用を失った。
侯爵家も、家の情報を利用して私を陥れようとしたことを重く受け止め、彼女との関係を断った。
そしてアルベルト自身も、最後まで彼女を庇うことはなかった。
ヴィオラは侯爵家から絶縁された。
私を追い落とそうとした彼女自身が、最後には誰からも信用されなくなったのだ。
「……そう」
私は、それを知っても胸がすっとすることはなかった。ただ、もう終わったのだと、そう思っただけ。
それからしばらくして、王家から正式に私の領地改革が評価された。
「ありがとうございます!」
私は初めて、自分の人生を誇らしいと思った。
そんなある日。
アルベルトが公務で領地を訪れた。三年ぶりに見る彼は、少しだけ疲れているように見えた。
「久しぶりだな」
「はい」
以前なら、胸が高鳴っていたと思う。
けれど今は、不思議なくらい穏やかだ。
「随分、変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ」
アルベルトは領地を見渡しながら。
「君がここまでやったのか」
「はい」
ゆっくりと微笑んだ。
「すごいな」
その言葉が、ただ嬉しかった。
でも私は、もうそれだけで自分の価値を決めたりはしない。
アルベルトと離れてから、私はたくさんのことを学び、そしてようやく、一人でも生きていけると思えるようになった。
だからこそ、疑問に思った。
この人は、なぜ私をあんなにも大切にしてくれたのだろうと。
いや、もっとある。
なぜ離れると言った私を責めなかったのだろう。なぜ今でも、私が幸せだと知って嬉しそうにするのだろう。
その答えを知ったのは、それから間もなくのことだった。
父が亡くなる前に残していた手紙。
それは、アルベルトへ宛てたものだった。
私は震える手で、その手紙を読んだ。
そこには、私の知らなかった父の想いが書かれていた。
私が幼い頃から身体が弱かったこと。
何をするにも、誰かに頼る癖がついてしまっていたこと。
そして、父が何より恐れていたこと。
それは私が「誰かに愛されなければ、自分には価値がない」と思って生きてしまうこと。
だからアルベルトに頼んだのだ。私を守ってほしい、と。
ただ守ってほしいのではない。私が自分自身の人生を選べる人間になるまで、愛情で縛らないでほしい、と。
私は手紙を読み終えて、しばらく動けなかった。
あのときの沈黙。
私が愛しているかと尋ねたときの、アルベルトの表情。
体調を崩した夜、朝までそばにいてくれたこと。
私が離れたいと言ったとき、引き止めなかったこと。
そして今。
私が幸せになったことを、心から喜んでくれたこと。
全部、全部繋がった。
アルベルトは、私を愛していなかったのではなかった。私が誰かに愛されることに縋らず、自分自身で人生を選べるようになるまで、敢えて愛していると伝えなかったのだ。
私はアルベルトのもとへ向かった。
けれど、すぐに「戻りたい」とは言えなかった。
「あなたに愛されるために生きるつもりはありません」
彼は静かに頷いて。
「分かっている」
「私は、自分で選びたいのです」
「ああ……」
そう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「君が自分の意思で、私を選ぶまで待つ」
その言葉を聞いたとき、私はようやく分かった。この人は、ずっと私を待っていたのだと。
私は自分の人生を振り返った。
幼い頃から、ずっとそばにいてくれた人。私が転べば手を差し出してくれて、無理をすれば叱ってくれた。
病気になれば朝までそばにいてくれて、私が離れたいと言えば、私の意思を尊重してくれた。
そして、私が一人で立てるようになったとき、何より嬉しそうに笑ってくれた。
私はずっと、愛されている証拠を言葉で欲しがっていた。でも今は違う。一人でも生きていける。誰かに必要とされなくても、自分には価値があると思える。
だからこそ、それでも私は、この人と生きたいと思った。
「アルベルト様」
「なんだ?」
「私は、あなたを選びます」
彼の目がわずかに見開かれた。
「誰かに愛されたいからではありません」
「ああ」
「私が、あなたと生きたいと思ったからです」
彼は、しばらく何も言わなかったけれど、ようやく笑った。
「……そうか」
私たちは、もう一度夫婦として生きることになった。もちろん、以前とは違う。
私を守る人と、守られる私ではなく、それぞれが自分の人生を持ち、そのうえで隣にいる。そんな夫婦に。
そして、その夜。
私はふと、昔のことを思い出した。
「ねえ、アルベルト様」
「なんだ?」
「あの頃、私はずっと思っていました」
「何を?」
「私の夫は、私が死ぬまで私を愛さないのだと」
アルベルトは驚いたように私を見る。
「愛していないから、言ってくださらないのだと思っていました」
「……違う」
今度のアルベルトは、迷わなかった。
「君が、自分自身の人生を選べるようになるのを待っていた」
「はい」
「もう、待つ必要はない」
アルベルトは私の目を見つめた。
「セシリア、愛している」
胸の奥が、じんと熱くなった。
ずっと欲しかった言葉だった。けれど今は、それがなくても私は生きていける。
でも、だからこそ。この言葉が嬉しかった。
「私も、愛しています」
アルベルトが私の手を取る。
「では、今度は死ぬまで一緒にいよう」
「はい」
昔の私は、愛されなければ生きていけないと思っていた。でも今は違う。一人でも生きていける。それでも、私はこの人と生きたい。
それが、私自身が選んだ人生だから。
私の夫は、私が死ぬまで私を愛さない。
そう思っていたけれど、本当は違った。
私が自分の人生を選べるようになるまで、あの人は愛を言葉にしなかっただけ。
そして今、私は自分自身の意思でこの人を選んだ。
これから先、何年、何十年経っても。
きっと私は、今日と同じように思うのだろう。
この人を選んでよかった、と。
そう思いながら、私は隣にいる夫の手を握り返した。




