表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/26

第十三話 名もなき功

 畠山の縁談話が急がれずに済んでから、三日が過ぎた。


 鎌倉の空は、冬へ向かう気配を少しずつ濃くしていた。朝の空気は薄く冷え、馬屋の藁には夜露が残る。手当所では湯を沸かす煙が早くから立ち、米蔵の前では弥七が帳面を抱えて、今日も誰かに何かを言われていた。


「ですから、昨日の追加分は確認者の印が」


「印、印とうるさい。こっちは朝から腹が減っておる」


「腹が減っていることと、印が要ることは別でございます」


 弥七の声が、以前より少しだけ強くなっている。


 政子は廊の影からそれを聞いて、思わず口元を緩めた。


 人は変わる。


 刀を持たぬ若者も、墨を持てば少しずつ背筋が伸びる。


 そのことを嬉しく思った直後、広間のほうから騒がしい足音が聞こえてきた。


 藤乃が小走りに現れる。


「政子様。佐殿がお呼びです」


「頼朝殿が?」


「はい。評定に関わることで、政子様のお考えを聞きたいと」


 政子は少しだけ眉を上げた。


 最近、頼朝は以前よりも政子を呼ぶことが増えた。


 それは信頼でもある。


 だが、危うさでもある。


 政子が表に近づきすぎれば、また「女が政を動かしている」と言われる。


 その噂を完全に消すつもりはないが、必要以上に燃やすつもりもなかった。


「誰がいるの」


「佐殿、時政様、広常殿、三浦殿、千葉殿。それと、梶原殿も」


「梶原殿も……」


 政子は少し考えた。


 梶原景時。


 最近、頼朝のそばで静かに存在感を増している男。


 よく見て、よく聞き、余計なことはあまり言わない。


 だからこそ嫌われる。


 政子はまだ直接多くを話したわけではないが、梶原の女から伝わる情報だけでも、油断ならない人物だと分かっていた。


「分かりました。御簾の内から聞きます」


「はい」


 広間では、恩賞の話が始まっていた。


 鎌倉へ入ってから、いくつもの小さな働きが積み重なっている。


 山木を討った者。


 石橋山で命を張った者。


 安房から従った者。


 兵を連れてきた者。


 米を出した者。


 馬を出した者。


 敵の動きを知らせた者。


 そのすべてに、何らかの報いが必要になる。


 だが報いは、足りない。


 土地も、金も、名誉も、誰にでも同じようには配れない。


 だから揉める。


「戦場で槍を合わせた者をまず重んじるべきだ」


 広常の声が響く。


「当然だ。戦で命を懸けた者を後回しにすれば、次に誰が戦う」


 三浦義澄が静かに返す。


「それはもっとも。しかし兵糧を出した家も軽くは扱えぬ。腹が減っては戦は続かぬ」


 千葉常胤が頷く。


「また、敗走の折に道を案内した者、舟を出した者、隠れ場所を用意した者もおりまする」


 広常が鼻を鳴らした。


「それも分かる。だが、あまり細かく数えればきりがない」


「細かく数えねば、不満が残ります」


 そう言ったのは、梶原景時だった。


 声は大きくない。


 だが不思議と通る。


「武功は見えやすい。されど、見えぬ働きほど忘れられた時に恨みとなる」


 広常が景時を睨む。


「お前が言うと、どうも陰気だ」


「性分でございます」


「認めるな」


 広間に小さな笑いが漏れた。


 頼朝はそれを見てから、御簾の奥へ視線を向けた。


「政子殿」


 やはり来た。


 政子は静かに息を吸う。


「はい」


「奥から見て、何かありますか」


 広間の空気が少し変わった。


 女に問う。


 それを不快に思った者もいるだろう。


 政子はすぐには答えなかった。


 ここで長々と語れば、反発を買う。


 だが黙れば、呼ばれた意味がない。


「戦場で名を挙げた方々を重んじるのは、当然かと存じます」


 まず、そこを認める。


 広常が満足げに鼻を鳴らした。


「ですが」


 政子は続けた。


「鎌倉が次も戦えるようにした者たちも、忘れてはならないと思います」


 頼朝の目が少し細くなる。


「たとえば」


「手当所で夜通し働いた者。米を正しく配るため帳面を守った者。逃げてきた兵を匿った寺。舟を出した者。怪しい文を見つけた者。馬を失わぬよう世話した者」


 広常が腕を組む。


「それらまで恩賞か」


「すべてに土地を与えるという意味ではありません」


 政子はすぐに答えた。


「ただ、名を記すことはできます」


 広間が静まった。


「名を記す?」


 頼朝が聞き返す。


「はい。土地や金で報いることができぬ働きでも、鎌倉が覚えていると示すことはできます。誰が何をしたかを記し、後の働きと合わせて見る」


 景時の目がかすかに動いた。


 時政は黙って聞いている。


「武功帳とは別に、働きを記す帳を作るのです」


 政子は言った。


「名もなき功を、名のあるものにするために」


 広常が少し難しい顔をした。


「女房や下人の名まで書くのか」


「必要なら」


「それで武士が納得するか」


「納得しない方もいるでしょう」


 政子は正直に答えた。


「けれど、戦場に出た武士だけで鎌倉が保つわけではありません」


 広常の眉が動く。


 不快に思ったかもしれない。


 だが、政子はここで引かなかった。


「上総殿の兵が傷を負った時、手当所で助けた者がいました。傷を隠した兵を叱り、治してまた働けと仰ったのは上総殿です」


「……ああ」


「ならば、治す者の働きもまた、上総殿の兵を支えた功ではありませんか」


 広常は黙った。


 正面から否定はできない。


 自分の兵が助かった事実がある。


「それに」


 政子は少し声を和らげた。


「名を記すことは、褒美だけではありません。責任も残ります。誰が米を運び、誰が舟を出し、誰が文を見つけたか。名が残るなら、軽々しく嘘をつけなくなる」


 時政がようやく口を開いた。


「褒める帳であり、縛る帳でもあるか」


「はい」


「また面倒なものを考える」


「面倒だから意味があります」


 広常が大声で笑った。


「出たな、その言葉!」


 緊張が少し緩む。


 頼朝もわずかに笑った。


 だが景時だけは、笑わずに政子へ目を向けていた。


「政子様」


 低い声だった。


「その帳を誰が扱いますか」


 政子はその問いを待っていた。


「一人ではいけません」


「なぜ」


「一人が扱えば、その者の好き嫌いで名が残ります」


「では複数で」


「はい。表の働きは御家人の目で。奥の働きは奥から。最後に佐殿のもとでまとめる」


 景時は少しだけ頷いた。


「奥の働き、ですか」


「手当、炊き出し、布、薬、病人の世話、使者の保護。そこは女たちがよく見ています」


「女の証言を記録に入れると」


 広間の何人かが顔をしかめた。


 政子はその気配を感じた。


 やはり、ここが引っかかる。


「証言というほど大げさではありません」


 政子は言った。


「ただ、奥で何が行われたかを、奥が知らせるだけです。表の方々が見えぬ場所を補うために」


 頼朝が静かに言った。


「それは必要です」


 その一言で、場は動いた。


 頼朝が認めれば、表立って否定する者は少ない。


 広常が少し唸る。


「まあ、うちの兵が助かったことを忘れられるよりはよい」


 三浦義澄も頷いた。


「寺や舟の者を記すのも悪くない。次に頼みやすくなる」


 千葉常胤が言う。


「名を残すことが褒美になる者もおりまする」


 景時は最後に言った。


「ならば、書式を整える必要があります」


 政子は御簾の内で、少しだけ息を吐いた。


 通った。


 まだ形はない。


 だが、名もなき功を記す帳という考えは、鎌倉の中に置かれた。


 評定が終わった後、政子は小部屋で頼朝、時政、景時と向き合った。


 広常は「帳面の話は眠くなる」と言って去ったが、去り際に「上総の兵を助けた者の名は忘れるな」とだけ言い残した。


 それで十分だった。


「政子殿」


 頼朝が言う。


「先ほどの帳、具体的にはどうしますか」


「まず、名前を決めないほうがよいかと」


 景時が目を細める。


「名を決めない?」


「名をつけると、誰が上か下かの争いになります。武功帳と並ぶものだと思われれば、反発が出る」


 時政が頷いた。


「では仮の控えか」


「はい。『控え』として始めます」


「控えなら、角が立ちにくい」


 景時が静かに言った。


「されど、後で使える」


 政子は景時を見た。


 やはり、この男は分かっている。


 必要以上に言葉を飾らない。


 ただ、その先まで見ている。


「梶原殿」


「はい」


「表の働きについては、梶原殿に見ていただけますか」


 景時は少し驚いた顔をした。


「私に?」


「はい。嫌われるでしょうが、向いておられるかと」


 時政が咳払いをした。


 頼朝は目を伏せている。


 景時は、しばらく政子を見つめた後、わずかに笑った。


「政子様は、人を褒めているのか刺しているのか分かりませぬな」


「両方です」


「正直でよろしい」


 景時は頭を下げた。


「承りました。嫌われ役は慣れております」


「では、奥の働きは私が集めます」


 頼朝が少し心配そうに言う。


「また負担が増えます」


「藤乃たちに手伝ってもらいます」


「それでも」


「頼朝殿」


 政子は穏やかに遮った。


「名もなき功を拾わずに進めば、いずれ名もなき恨みになります」


 頼朝は黙った。


「恨みになってから処理するより、功のうちに拾うほうが楽です」


 時政が低く笑う。


「情けではなく実務か」


「父上の娘ですので」


「よく言う」


 その日の夕方、政子は手当所へ向かった。


 遠い場所ではない。


 鎌倉の中を少し歩くだけだ。


 それでも、見えるものは多い。


 米を運ぶ下男。

 馬を洗う若者。

 薬草を干す女房。

 寺から来た僧。

 船着き場から戻った男。

 帳面を抱えて走る弥七。


 皆、鎌倉を動かしている。


 だが、多くは記録に残らない。


 手当所では、本物の薬売りが薬棚を整理していた。


 先日、誤って捕らえられた男である。


 名を宗円という。


 彼は政子を見ると、慌てて頭を下げた。


「政子様」


「薬棚はどう?」


「だいぶ整いました。ですが、湿気が難しいですな。このあたりは海風が」


「必要なものは?」


「乾いた箱と、風通しのよい棚を。それと、薬草を見分けられる者がもう一人いれば」


 政子は藤乃に目で合図した。


 藤乃が書き留める。


「宗円」


「はい」


「あなたの名を控えに残してよいかしら」


「私の名を?」


「ええ。薬棚を整えた者として」


 宗円は目を丸くした。


「私は、疑われて捕らえられた身でございます」


「だからこそ、働きで返したのでしょう」


「しかし、名を残すほどのことでは」


「名を残すほどのことかどうかは、こちらが決めます」


 宗円は困ったように笑った。


「可愛げがないと噂されるのも分かります」


「あなたまで言うの」


「申し訳ございません。ですが、ありがたく」


 政子は少し笑った。


 手当所の奥では、佐太郎が足を引きずりながら水桶を運んでいた。


「佐太郎。傷は」


「もう大丈夫です!」


「大丈夫な人の歩き方ではないわ」


 周囲の女房たちが笑った。


 佐太郎は顔を赤くする。


「ですが、じっとしていると広常様に怒られます」


「働きすぎても怒られるのでは?」


「……それもあります」


「なら、半分だけ働きなさい」


「半分?」


「桶を一つにすること」


 佐太郎は桶を二つ持っていた。


 気まずそうに一つ置く。


 政子はその姿を見て、藤乃に言った。


「佐太郎も控えに。手当所で水運び。ただし働きすぎ注意、と」


「それも書くのですか」


「書きます」


 佐太郎がぎょっとする。


「政子様、それは広常様に」


「見せてもよいわ」


「困ります!」


「では、無茶をしないこと」


 女房たちがまた笑った。


 手当所の空気が少し明るくなる。


 政子は思った。


 名を残すというのは、褒めるだけではない。


 人を見ていると示すことだ。


 無理をする者にも、怯える者にも、働いた者にも。


 あなたを見ている。


 それだけで、人は少し変わる。


 夜、最初の「控え」が作られた。


 弥七が表の働きの書式を作り、藤乃が奥の働きをまとめる。


 景時は無駄な表現を削り、時政は「長すぎる」と文句を言い、頼朝は最後に目を通した。


 政子は、その様子を見ながら不思議な気持ちになった。


 武士の国を作ると言うと、もっと血と火の匂いがするものだと思っていた。


 だが今、目の前にあるのは、紙と墨と人の名だ。


 薬棚を整えた宗円。

 水桶を運んだ佐太郎。

 傷布を洗った三浦の女房。

 米の不足を知らせた千葉の下人。

 夜道で怪しい男を見た寺の小僧。

 帳面の誤りに気づいた弥七。


 小さな名ばかりだ。


 けれど、それが並ぶと鎌倉の姿になる。


 頼朝が静かに言った。


「これは、よいですね」


 時政が渋い顔で頷く。


「恩賞にはならぬ。だが、後で効く」


 景時も言った。


「人は、見られていると知れば働き方が変わります」


 政子は控えの紙を見つめた。


「見られていないと思うと、人は腐ります」


 頼朝が政子を見る。


「そうですね」


 政子は少しだけ目を伏せた。


 自分もそうだった。


 伊豆の宴席で、言葉を聞かれなかった時。


 女だからと笑われた時。


 見られていないと思った。


 だから、あの痛みを知っている。


 見られない働きが腐る前に、拾いたい。


 それは情けだけではない。


 鎌倉を続けるための実務でもある。


 深夜、自室へ戻った政子は文箱を開いた。


 今日のことを書きつける。


 恩賞評定。

 武功以外の働き、見落とし多し。

 名もなき功を控えに記す案、通る。

 景時殿、表の働きを見る役へ。嫌われ役として向く。

 奥の働きは藤乃たちと集める。

 宗円、薬棚。佐太郎、水運び。三浦の女房、傷布。弥七、帳面。

 名を残すことは褒美であり、責任でもある。


 最後に、政子は少し考えてから書いた。


 ――見られぬ働きは、やがて恨みになる。見ていると示せば、鎌倉の根になる。


 筆を置く。


 外は静かだった。


 今日も大きな合戦はない。


 敵を捕らえたわけでもない。


 派手な逆転もない。


 だが政子には分かっていた。


 今日、鎌倉は少し深くなった。


 表に立つ武士だけでなく、下で支える者たちの名が、初めて紙に残った。


 それは小さなことだ。


 しかし、女は黙っていろと言われてきた政子にとって、その小ささは何より重かった。


 名を呼ばれないこと。


 働きを見られないこと。


 それがどれほど人を冷えさせるか、政子は知っている。


 だから拾う。


 刀の音に消される前に。


 広間の怒号に潰される前に。


 奥のため息に沈む前に。


 政子は文を畳み、文箱へ入れた。


 兄の包み布の隣に、また一枚、鎌倉が増える。


「兄上」


 政子は小さく呟いた。


「今日は、名もなき功を少しだけ拾いました」


 返事はない。


 けれど、どこかで兄が「お前らしい」と笑った気がした。


 政子は灯を消した。


 闇の中、墨の匂いが残る。


 その匂いは、血の匂いより静かで、ずっと確かに鎌倉へ染み込んでいくようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ