表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第一章プロット 『流人の妻』編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/26

第二話 女は黙っていろ

 北条の屋敷では、酒の匂いがすると、男たちの声が大きくなる。


 それは政子が幼い頃から知っていることだった。


 盃が一つ空くたび、誰かの武勇が増える。もう一つ空くたび、昔の失敗が美談になる。さらにもう一つ空く頃には、隣の家の悪口が天下の政の話にすり替わる。


 女たちは膳を運び、酌をし、笑うべきところで笑い、黙るべきところで黙る。


 その日は、伊豆の豪族たちが集まっていた。


 表向きは、狩りの帰りの慰労。だが実際は、平家方の目を気にしながら、近隣の家々が互いの腹を探る場である。


 政子は奥の間の襖近くに控え、膳の進み具合を見ていた。


 酒が強い者。

 酔ったふりをして人の言葉を引き出す者。

 父の機嫌ばかりうかがう者。

 大声で笑うが、頼朝の名が出ると目だけが笑わなくなる者。


 皆、分かりやすい。


 いや、分かりやすいと思ってしまう自分のほうが、おかしいのかもしれなかった。


「近ごろ、山木殿のあたりが慌ただしいようですな」


 男の一人が言った。


 山木兼隆。


 平家方につく伊豆の目代。


 その名が出ると、場の空気が少し重くなる。盃の音まで鈍った。


「京から何か届いたか」


 父、時政が問う。


「確かなことは。されど、どうにも人の出入りが多い」


「ならば、こちらも様子を見るだけでよい」


 別の男が笑う。


「平家の御威光はまだ強うございます。下手に動けば首が飛びますぞ」


「そうそう。伊豆の田舎侍が首を突っ込む話ではありません」


 そこでまた、誰かが笑った。


 政子は黙っていた。


 けれど、胸の内で一つ引っかかる。


 山木の館へ人の出入りが多い。平家方が何かを警戒している。ならば、ただ静観してよいのだろうか。


 警戒とは、恐れがあるから生まれる。


 恐れの先には、必ず何かがある。


 政子は膳を置きながら、ふと口を開いた。


「山木殿が人を集めているなら、こちらも人の出入りを調べておいたほうがよろしいのでは」


 場が、止まった。


 笑い声も、盃の音も、衣擦れも。


 一瞬、誰もが政子を見た。


 その視線は、驚きよりも先に不快だった。


 女が、男の話に入った。


 ただそれだけで、彼らは政子を異物として見た。


「政子」


 父の声が低く響いた。


 それだけで、屋敷の女たちは身をすくませる。


 政子は頭を下げた。


「失礼いたしました」


 だが、男たちの一人が鼻で笑った。


「いやいや、姫様は賢いのう」


「山木殿の人の出入りを調べる、か。なるほど、なるほど」


「女房衆の噂話とは違いますぞ。政は男の仕事です」


 政子は顔を上げなかった。


 顔を上げれば、目が冷えているのを見られる。


 笑い声が広がった。


「姫様は書でも読みすぎたのでは」


「女は家の内を守っていればよい」


「まこと、女が政を語ると家が傾きますな」


 政子はその言葉を、一つずつ覚えた。


 誰が言ったか。

 どんな声で言ったか。

 誰が笑い、誰が笑わなかったか。


 父は苦い顔をしていた。兄の宗時は、何か言いたげにこちらを見たが、結局黙った。


 その沈黙も、政子は覚えた。


 悪意よりも、沈黙のほうが人を傷つけることがある。


「下がれ」


 父が言った。


「はい」


 政子は膳を置き、静かに下がった。


 廊下へ出ると、夜風が頬に当たった。


 涼しい。


 だが、胸の奥は少しも涼しくなかった。


 怒鳴りたいわけではない。


 泣きたいわけでもない。


 ただ、ひどく馬鹿馬鹿しかった。


 あの場の男たちは、政子の言葉の中身を聞かなかった。女が口を開いた、という一点だけで切り捨てた。


 ならば、もし同じことを父が言えば。


 もし同じことを宗時が言えば。


 彼らは膝を乗り出し、真顔で聞いたのだろう。


 政子は廊下の柱に手を添えた。


 女は黙っていろ。


 聞き飽きた言葉だ。


 だが、今日ほど、その言葉の軽さを知った日はない。


 黙っていろと言う者ほど、黙っている相手の考えを恐れている。


 何も考えていないと思いたいから、口を塞ぐ。


 ならば、黙っている間に、もっと深く考えればいい。


「姫様」


 侍女が心配そうに近づいてきた。


「お部屋へ戻られますか」


「いいえ」


 政子は顔を上げた。


「少し、外へ出ます」


「またですか」


 侍女の顔が青ざめる。


「今夜はなりません。先日も宗時様に見つかったばかりで……」


「大丈夫。遠くへは行かないわ」


 嘘だった。


 けれど、侍女を巻き込むわけにはいかない。


 政子は薄衣を羽織り、屋敷の裏手へ回った。


 夜の伊豆は、昼とはまるで違う顔をしている。山の影は濃く、虫の音は耳の奥に入り込む。遠くの館から、まだ男たちの笑い声が聞こえた。


 あの声に背を向けるように、政子は歩いた。


 向かった先は、頼朝のいる館だった。


 理由は、いくつもつけられる。


 山木の動きを知りたかったから。


 頼朝がどう考えるか聞きたかったから。


 源氏の血が、今の情勢をどう見ているか確かめたかったから。


 けれど本当は、ただ一つ。


 自分の言葉を、最後まで聞く者がいるか知りたかった。


 館の近くまで来ると、頼朝は縁側に座っていた。


 まるで、来ることを知っていたように。


 月明かりが横顔を照らしている。手には書を持っているが、読んでいる様子はなかった。


「今宵は、風に当たるには少し遅い」


 頼朝が言った。


 政子は庭先で足を止めた。


「あなたは、いつも人を待っているような顔をなさいますね」


「待つのは、流人の仕事です」


「では、お得意でしょう」


「得意になりたくてなったわけではありません」


 その言い方があまりに静かで、政子は少しだけ笑った。


 頼朝は政子を見た。


「何かありましたか」


「なぜ、そう思われます」


「今夜は、足音が荒い」


 政子は自分の足元を見た。


 荒い。


 そんなつもりはなかった。


 だが、頼朝には分かるらしい。


「宴がありました」


「北条殿の?」


「はい。男たちが酒を飲み、政を語り、女が膳を運ぶ。いつもの宴です」


「そこで何を言ったのです」


「まだ何も話していません」


「あなたが何も言わずにここへ来るとは思えない」


 政子は頼朝を睨んだ。


「失礼ですね」


「二度目ですね、それは」


「では、三度目も言わせないでください」


 頼朝は少し口元を緩めた。


 政子は庭の石に視線を落とした。


「山木殿の館に、人の出入りが多いそうです」


 頼朝の表情が変わった。


 ほんのわずかだったが、政子は見逃さなかった。


 頼朝は書を置いた。


「誰が言っていました」


「伊豆の豪族の一人です。確かなことは分からないと」


「北条殿は何と」


「様子を見る、と」


「賢明です」


 政子は目を細めた。


「あなたもそう思うのですか」


「今の北条殿が表立って動けば、平家方に目をつけられる」


「では、何もしないのがよいと?」


「いいえ」


 頼朝は即座に言った。


「表立って動かないことと、何もしないことは違う」


 政子の胸が、すっと冷えた。


 同じだ。


 自分が宴で言おうとしたことと、同じだった。


「山木殿の人の出入りを調べるべきです。兵か、使者か、京からの書状か。それによって意味が変わります」


「……そう言いました」


「誰が」


「私が」


 頼朝は黙った。


 政子はその沈黙を見た。


 先ほどの宴の沈黙とは違う。


 不快でも嘲笑でもない。


 頼朝は考えている。


 政子の言葉の中身を、見ている。


「それで、笑われましたか」


 頼朝が言った。


 政子は答えなかった。


 答えなくても、頼朝は分かったらしい。


「女が政を語るな、と?」


「よくお分かりで」


「京でも坂東でも、男の言うことは大して変わりません」


「あなたもそう思われますか」


「女が黙っていれば男は安心する、とは思います」


 政子は頼朝を見た。


「では、あなたも私に黙っていてほしいのですか」


「いいえ」


 頼朝は静かに首を横に振った。


「あなたが黙るのは、もったいない」


 その言葉は、夜風よりもはっきりと政子の胸に届いた。


 褒め言葉ではない。


 甘い言葉でもない。


 だが、政子は返す言葉を少し失った。


「……女に向かって、そのようなことを言うのですね」


「女だから言うのではありません」


 頼朝の目は、まっすぐだった。


「あなたは、聞かれなかっただけです」


 政子は息を呑んだ。


 聞かれなかっただけ。


 それは慰めではなかった。


 慰めよりずっと残酷で、ずっと正確だった。


 自分の言葉に価値がなかったのではない。


 聞く側に、その価値を見る目がなかった。


「恐ろしいことを仰いますね」


「そうですか」


「ええ。では、私の言葉を聞かなかった者たちは、ただ愚かだったということになる」


「愚かとまでは言っていません」


「では?」


「恐れているのです」


 頼朝は庭の闇へ視線を移した。


「男は、自分たちが支配していると思いたい。だから、支配しているはずの者が自分より先を見ていると困る」


「私は誰も支配などしていません」


「今は」


 その一言に、政子は口を閉ざした。


 今は。


 頼朝は軽々しく言ったわけではない。


 政子を持ち上げているわけでもない。


 ただ見ている。


 この男は、人の中に眠る可能性を見つけるのがうまいのだろう。


 それが、危うい。


 人は、自分でも知らなかった欲を言い当てられると、逃げられなくなる。


「あなたは、私に何をさせたいのです」


 政子は低く問うた。


「何も」


「嘘です」


「本当に、今は何も。ただ、あなたが何を見るのか知りたい」


「なぜ」


「私は、この伊豆をよく知らない。坂東の男たちの顔色は見える。だが屋敷の奥、女たちの声、下人の噂、商人の怯えまでは届かない」


 頼朝の言葉は淡々としていた。


 だが政子には、その先が分かった。


「私に、耳になれと?」


「嫌なら断ればよい」


「断れるような言い方ではありません」


「ならば、こう言いましょう」


 頼朝は政子に向き直った。


「あなたの目で見た伊豆を、私に教えてほしい」


 政子は笑わなかった。


 ここで笑えば、自分の中の何かをごまかしてしまう気がした。


 頼朝は政子に命じなかった。


 女だから利用するのではない。


 北条の娘だから取り込むのでもない。


 政子の目を欲しいと言った。


 それは、宴席の男たちが一度も求めなかったものだった。


「……山木殿の館へ通っている商人がいます」


 政子はぽつりと言った。


 頼朝は黙って聞いた。


「布を扱う者です。けれど最近、届ける荷が多すぎる。女房衆の衣ならまだ分かりますが、夜に荷を入れる必要はありません」


「武具か」


「かもしれません。もしくは、書状を隠しているか」


「誰から聞いたのです」


「聞いたのではありません。見ました」


 頼朝の目が、わずかに明るくなった。


「どこで」


「市です。山木殿の館へ入る下男が、布屋の者に礼を言っていました。けれど布を買った者の手ではありませんでした」


「なぜ分かる」


「布を買う女房の手は、畳み皺を見るために品を撫でます。あの下男の手は、重い物を運ぶ手でした」


 頼朝はしばらく何も言わなかった。


 政子は少し不安になった。


 馬鹿げたことを言っただろうか。


 男たちはこういう細かなことを嫌う。女の見る小さな違いを、つまらぬことと切り捨てる。


 だが頼朝は、低く呟いた。


「見事だ」


 政子は、今度こそ返事に困った。


「それほどのことでは」


「いいえ。戦の前に必要なのは、そういう目だ」


「戦?」


「いずれ」


 頼朝はそう言ってから、すぐに言葉を引っ込めるように目を伏せた。


 政子はそれ以上聞かなかった。


 聞かなくても、分かった。


 この男は待っている。


 ただ平家の監視の下で老いるつもりなどない。


 いつか来る機を待っている。


 そして政子は今、その機の輪郭に触れてしまった。


「危ない方」


「あなたにだけは言われたくありません」


「私は危なくありません」


「夜に一人で流人の館へ来る姫が?」


「父上には内緒です」


「北条殿が知れば、私は斬られるかもしれませんね」


「斬られるだけで済めばよいですね」


 頼朝は目を瞬いたあと、小さく笑った。


 それは初めて見る、少しだけ人間らしい笑みだった。


 政子もわずかに口元を緩めた。


 けれど、すぐに表情を戻す。


「私は、あなたの味方になるとは言っていません」


「ええ」


「北条のためにならないことはしません」


「それでよい」


「あなたが北条を利用するなら、私はあなたを敵と見ます」


「それもよい」


「よいのですか」


「あなたに何も考えず味方をされるより、ずっと信じられる」


 風が二人の間を抜けた。


 政子はその時、頼朝という男を少しだけ理解した。


 この男は従順な味方を好まない。


 裏切りを恐れるからこそ、自分の利を持つ相手を信じる。


 利で結ばれた関係は冷たい。


 だが、感情だけの関係より長持ちすることもある。


「女は黙っていろ、と言われました」


 政子は静かに言った。


「そうですか」


「だから、しばらく黙ります」


 頼朝が政子を見た。


「ただし、考えるのはやめません」


「それがよい」


「いつか、あの方たちが黙る日が来るでしょうか」


 頼朝は少し考えた。


 そして、言った。


「来ます」


「なぜ分かるのです」


「あなたは、黙らせる側の人だ」


 政子は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 それは喜びではない。


 むしろ、恐れに近かった。


 頼朝の言葉は、政子の未来を勝手に開いてしまう。


 閉じていれば安全だった扉を、少しずつ、音もなく。


「……勝手なことを」


「不快でしたか」


「不快です」


 政子は即答した。


「ですが、覚えておきます」


 頼朝はうなずいた。


 それ以上、二人は何も言わなかった。


 遠くの北条屋敷から、まだ宴の声が聞こえていた。


 男たちは今も酒を飲み、自分たちが世の中を動かしていると思っているのだろう。


 政子はその声を聞きながら、頼朝の館を後にした。


 帰り道、夜露で裾が濡れた。


 不思議と、嫌ではなかった。


 屋敷へ戻ると、宴はまだ続いていた。男たちの笑い声が、夜の湿気に混じっている。


 政子は奥へ戻る前に、廊下の隙間から宴席を一度だけ見た。


 父がいる。兄がいる。伊豆の豪族たちがいる。


 誰も、政子がいない間に何を見てきたか知らない。


 誰も、政子が何を考え始めたか知らない。


 それでよかった。


 女は黙っていろ。


 ならば、黙っていよう。


 その代わり、聞こう。


 見よう。


 覚えよう。


 男たちが声高に語る政ではなく、声にならない政を。


 女房のため息。

 商人の怯え。

 下人の手の皺。

 妻たちの噂。

 盃を置く時の、男の指先の迷い。


 それらはすべて、いずれ武器になる。


 政子は自室に戻り、文机の前に座った。


 今夜は筆を取った。


 山木兼隆。

 布屋。

 夜の荷。

 下男の手。

 父は静観。

 豪族たちは恐れあり。

 宗時は沈黙。


 最後に、少し迷ってから一行を書き添えた。


 ――源頼朝、まだ動かず。されど、火は消えていない。


 墨が乾くまで、政子はじっとそれを見つめた。


 火は消えていない。


 それは頼朝のことでもあり、自分のことでもあった。


 やがて廊下の向こうで、男たちの笑い声がまた上がった。


 政子は筆を置き、静かに呟いた。


「今は、笑っていればいい」


 その声は誰にも届かなかった。


 けれどいつか。


 あの宴席で笑った者たちは、思い知ることになる。


 黙っていた女が、何も知らなかったわけではないと。


 聞かれなかった言葉が、消えたわけではないと。


 北条政子は灯を落とした。


 闇の中で、墨の匂いだけが残っていた。


 それは、まだ誰にも知られぬ戦の匂いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ