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『尼将軍は微笑まない 〜「女は黙っていろ」と追われた私が、鎌倉武士を黙らせるまで〜』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)
第二章 鎌倉創業編

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第十一話 女の目、武士の耳

鎌倉には、耳が足りなかった。


 男たちは目を持っている。


 誰が何騎連れてきたか。

 誰の太刀が良いか。

 誰が広間で上座に座ったか。

 誰が頼朝に近づいたか。


 そういうものを見る目は、驚くほど鋭い。


 だが、耳は鈍い。


 井戸端で下女が漏らした不満。

 手当所で怪我人が眠りながらうなされた名。

 寺の縁側で老女が呟いた一言。

 船着き場で魚を捌く者が聞いた京言葉。


 そういう小さな声は、男たちの広間には届きにくい。


 だから政子は、耳を作ることにした。


 表向きは、ただの茶会だった。


 奥方たちが集まり、茶を飲み、菓子をつまみ、夫の愚痴を言う。


 だが今回は、少し違う。


 政子は茶会の席で、集まった女たちを見渡した。


 三浦の妻。

 千葉の縁者。

 畠山の若い妻。

 梶原の女。

 そして、小御家人の奥方たち。


 皆、もう最初の頃のような遠慮だけの顔ではない。


 警戒はまだある。


 だが、それ以上に「何を聞けばよいのか」を待っている顔だった。


「今日は、お願いがあります」


 政子が言うと、場が静まった。


「怪しい者を捕らえてほしいのではありません。追ってほしいのでもありません」


 梶原の女が、薄く笑った。


「見て、覚えて、戻る」


「ええ」


 政子は頷いた。


「それだけです」


 三浦の妻が尋ねる。


「何を見ればよろしいのでしょう」


「三つ」


 政子は指を折った。


「一つ、京言葉を使う者。二つ、薬売りや商人を名乗るのに荷が軽い者。三つ、鎌倉の不満をわざと煽る者」


 千葉の縁者が眉をひそめる。


「わざと煽る者とは」


「たとえば、上総殿は不当に扱われている、と言って回る者。帳面は誰かに都合よく書き換えられる、と囁く者。政子が佐殿を惑わせている、と面白がる者」


「最後のものは、よく聞きますね」


 梶原の女が涼しく言った。


 政子は苦笑した。


「でしょうね」


「腹は立ちませんか」


「立ちます。でも今は役に立ちます」


 畠山の若い妻が、不思議そうに首を傾げた。


「侮りが、役に?」


「はい。私を侮っている者は、私の前で油断します。女たちの前でも油断します。だから聞こえる」


 政子は茶碗を置いた。


「男たちが刀で守る場所の外側を、皆様に聞いていただきたいのです」


 場が静かになった。


 政子は続ける。


「これは、危ない仕事です。ですが、危ういと感じたらすぐに離れてください。情報より命が大事です」


 三浦の妻が少し笑った。


「政子様がそれを仰いますか」


「私も、最近は命が大事だと学びました」


「最近でございますか」


「ええ。遅いでしょう?」


 笑いが起きる。


 だが、その笑いの底には緊張があった。


 女たちも分かっている。


 これはただの噂集めではない。


 鎌倉を狙う見えない手を探ることだ。


「得たことは、夫君へ直接言わず、まず私か藤乃へ」


 政子は言った。


「なぜでございますか」


 小御家人の奥方が尋ねる。


「夫君へ言えば、その家の怒りになります。私へ集めれば、鎌倉全体の形が見えます」


 梶原の女が頷いた。


「点を集めるのですね」


「はい」


「では、私から一つ」


「もう何か?」


 梶原の女は茶を一口飲み、静かに言った。


「記録係を悪く言っている者がいます。帳面は北条に都合よく書かれる、と」


 政子の目が細くなる。


「誰が」


「名はまだ。ただ、言い回しが少し妙です」


「妙?」


「北条が筆で坂東を縛る、と」


 場の空気が変わった。


 政子は黙った。


 その言葉は、ただの不満ではない。


 よく考えられている。


 帳面は便利だが、武士にとっては不気味でもある。


 刀ではなく筆で縛られる。


 それを嫌う者は必ずいる。


 その不安へ「北条」という名を添えれば、頼朝ではなく北条への警戒も生まれる。


 政子と時政を切り離す、いや、頼朝と北条の間に小さな楔を打つ言葉だった。


「よい耳です」


 政子が言うと、梶原の女は軽く頭を下げた。


「恐れ入ります」


「その言葉がどこから出たのか、追えますか」


「無理に追えば気づかれます」


「では追わないで。次に聞こえた場所だけ覚えて」


「承知しました」


 茶会が終わる頃には、いくつもの小さな声が集まっていた。


 船着き場で、京言葉の男がまだ見えたという話。

 手当所の近くで、帳面は信用できないと囁く者がいた話。

 上総の兵に、頼朝は北条に頼りすぎだと吹き込む者がいた話。

 小御家人の間で、決まりは大きな家だけが得をするように変えられるという噂。


 どれも小さい。


 だが、同じ方向を向いている。


 帳面を疑わせる。

 北条を疑わせる。

 上総を怒らせる。

 小さな家を怯えさせる。


 敵は、鎌倉の継ぎ目を知っている。


 政子はその夜、頼朝と時政に報告した。


 頼朝は険しい顔で聞いていた。


 時政は、珍しく最後まで口を挟まなかった。


「北条が筆で坂東を縛る、か」


 時政が低く呟く。


「うまい言い方だ」


「父上」


「腹は立つ。だが、うまい」


 時政は腕を組んだ。


「帳面を嫌う者の心に刺さる。北条を嫌う者にも刺さる。佐殿に近い北条を疑わせるにもよい」


 頼朝が静かに言った。


「私と北条を裂きたい」


「それもあります」


 政子は答えた。


「同時に、帳面そのものを“北条の道具”に見せたいのでしょう」


「実際には、鎌倉の道具です」


「はい。ですが、そう見えなければ意味がありません」


 頼朝は頷いた。


「では、帳面を北条だけのものに見せない工夫が必要ですね」


「各家から目付を出してはいますが、まだ足りません」


 政子は考えながら言った。


「帳面を読み上げる場を作ってはどうでしょう」


「読み上げる?」


「はい。米の配分や追加分を、一定の日に各家の目付の前で読み上げる。誰か一人の手元だけに置かない」


 時政が目を細める。


「公にするのか」


「すべてではありません。兵数など伏せるべきものはあります。ただ、米の出入りについては、隠すほど疑われます」


 頼朝は少し考えた。


「小さな家にも見える形にする」


「はい。大きな家だけが得をしているという噂を消すには、見せられる部分を見せるしかありません」


「上総殿は嫌がるでしょうね」


「でしょうね」


 時政が苦く笑う。


「だが、上総殿には逆に言える。帳面を読ませれば、上総が正当に多く受けていることも示せる、と」


「父上、その役をお願いします」


「儂か」


「広常殿へ言うのは、父上が一番向いています」


「面倒を押しつけるな」


「父上が一番お上手ですので」


 時政は政子を睨んだ。


 だが、否定はしなかった。


「……考えておく」


 頼朝が小さく笑った。


 政子も少しだけ笑う。


 それから、表情を戻した。


「もう一つ」


「何でしょう」


「女たちから集めた声を、正式なものにはしないでください」


 頼朝が政子を見る。


「なぜ」


「正式にすれば、女たちは狙われます。茶会は茶会のままでよいのです」


 時政が頷いた。


「名のない耳か」


「はい」


「記録には残さぬが、判断には使う」


「そうです」


 頼朝は少し考え、静かに言った。


「分かりました。ただし、危険があればすぐ止めます」


「はい」


「政子殿も」


「分かっています」


「本当に?」


「……分かっています」


 頼朝はまだ疑わしそうだった。


 政子は視線を逸らす。


 時政が低く笑った。


「佐殿、諦めたほうがよい。政子は分かっている時ほど無茶をする」


「父上」


「何だ」


「そこは黙っていてください」


「女は黙っていろとは言わぬのか」


 政子は一瞬、言葉を失った。


 父は、ほんの少しだけ笑っていた。


 伊豆の頃なら、怒ったかもしれない。


 けれど今は、違った。


 その言葉を、父が冗談として使った。


 それだけで、過去の痛みが少しだけ形を変えた気がした。


「父上には、黙っていただきたい時が多々ございます」


「言うようになった」


「父上の娘ですので」


 頼朝が横で、静かに笑っていた。


 翌日、米帳の読み上げが試された。


 広間ではなく、米蔵に近い小さな場。


 各家の目付が集まり、弥七が緊張しながら帳面を読む。


 最初はぎこちなかった。


 数字を読み間違え、顔を赤くする。


 だが、誰も怒鳴らなかった。


 広常も来ていた。


 腕を組み、不機嫌そうに立っている。


「声が小さい!」


 弥七がびくりとする。


 政子は一瞬身構えた。


 だが広常は続けた。


「正しいことを読んでいるなら、腹から読め! こそこそ読むから怪しく聞こえる!」


 場が静まる。


 弥七は目を丸くした。


 それから、少し声を張った。


 もう一度読む。


 今度は、数字がよく通った。


 広常は満足げに鼻を鳴らした。


「そうだ。帳面で縛るなら、堂々と縛れ」


 政子は思わず広常を見た。


 この男は、やはり不思議だ。


 帳面を嫌がる側でありながら、いったん自分の得になると分かると、守る側へ回る。


 そして守ると決めれば声が大きい。


 本当に便利な大声だった。


 読み上げが終わると、小さな家の目付たちが少し安心した顔をしていた。


 帳面は北条の手元で勝手に変わるものではない。


 少なくとも、そう見せることはできた。


 その日の夕方、梶原の女から短い知らせが届いた。


 ――北条が筆で坂東を縛るとの噂、少し弱まる。代わりに、上総殿が帳面を怒鳴って守っているとの噂、広がる。


 政子は読んで、声を出さずに笑った。


 藤乃が尋ねる。


「どうされました」


「広常殿が、帳面を怒鳴って守っているそうよ」


「まことでございますか」


「ええ。だいたい合っているわ」


 藤乃も笑った。


 その笑いは、久しぶりに軽かった。


 だが夜になると、また新しい知らせが入った。


 船着き場で、薬売りらしき男がついに捕らえられた。


 ただし、男は京訛りではなかった。


 足も引きずっていない。


 薬箱は重い。


 本物の薬売りだった。


 捕らえた者たちは焦った。


 手違いだ。


 だが本物の薬売りは、腹を立てるより怯えていた。


「京から来た薬売りがいたせいで、疑われたのです」


 政子が謝りに行くと、薬売りは震えながら頭を下げた。


「いえ、こちらこそ紛らわしく……」


「悪いのはこちらです。驚かせました」


 政子は薬箱を見た。


 確かに薬が入っている。


 香りもある。


 手も荒れている。


 本物だ。


「薬を扱えるのですね」


「はい。少しは」


「手当所を見ていただけませんか」


 藤乃が驚く。


 薬売りも驚く。


「私を、でございますか」


「疑って捕らえたまま帰すのは、鎌倉の恥です。働きで返す機会をいただけますか」


 薬売りは困惑しながらも頷いた。


「私でよろしければ」


 その薬売りは、意外にも手当所で役に立った。


 薬草の保存、煎じ方、熱を下げる草。


 鎌倉の薬師たちと少し揉めたが、結果的に手当所の薬棚が整った。


 藤乃が感心して言う。


「疑いから、薬棚が整いましたね」


「間違いも、処理を誤らなければ役に立つことがあるのね」


 政子は答えた。


 だが、心は重かった。


 疑うことは必要だ。


 だが、疑いは人を傷つける。


 本物の薬売りを捕らえたことも、記録に残さねばならない。


 間違えたことを隠せば、次にもっと大きく間違える。


 その夜、政子は文箱を開いた。


 奥方たちを耳として使う。

 京訛り、薬売り、帳面への不信、上総への煽りを探る。

 北条が筆で坂東を縛るとの噂。

 米帳の読み上げ開始。

 弥七、声小さい。広常殿、怒鳴って励ます。

 帳面への不信、少し弱まる。

 偽薬売りを探す中、本物の薬売りを誤って捕らえる。

 謝罪し、手当所へ協力。薬棚整う。


 政子は最後に、少し迷って書いた。


 ――疑う目は必要。されど、疑いを正す手も必要。


 書き終えて、息を吐く。


 鎌倉は一日ごとに複雑になっていく。


 敵を探すために人を疑う。


 制度を守るために人を縛る。


 女たちの耳を借りる。


 広常の怒りを利用する。


 頼朝の名で決まりを動かす。


 父の実務で穴を塞ぐ。


 一つ一つは必要なことだ。


 だが、必要だからといって、痛みがないわけではない。


 政子は灯を見つめた。


 女は黙っていろ。


 そう言われていた頃は、楽だったのかもしれない。


 黙っていれば、責任を負わずに済む。


 何も決めなければ、間違えずに済む。


 だが、もうそこには戻れない。


 見てしまった。


 知ってしまった。


 自分の言葉で、少しずつ鎌倉が動くことを。


 ならば、間違いも背負うしかない。


 外では、帳面を読み上げる弥七の声を真似して、若い者たちが笑っていた。


 以前なら、ただからかいで終わっただろう。


 だが今は、その笑いの中に少しだけ敬意が混じっている。


 広常が怒鳴って守った帳面。


 その噂は、明日にはもっと広がる。


 政子は小さく笑った。


 敵が「帳を疑え」と囁いた翌日に、上総広常が帳面を怒鳴って守る。


 鎌倉とは、妙な場所だ。


 そして、その妙な場所が少しずつ形になっていくのを、政子は確かに見ていた。


 女の目で。


 武士たちの耳が拾わぬ声を集めながら。

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