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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

俗に言う、一目惚れ

作者: トモ倉未廻
掲載日:2026/03/11

 春が来た。

 失恋した。

 高校生活の始まり、めくるめく華やかな新生活の入り口で、俺は恋に破れて途方にくれた。


 校門から伸びる桜並木の先で、この世の幸福を全部かき集めたような笑顔をした幼馴染みが手を振ってくる。

 一緒に登下校できたのは結局、入学してからの五日間だけだった。肩をぶつけあったり、耳元で囁きあったりして、ずっとふたりで歩き続けられるんだと盲信していたのに。

 今、俺はひとり立ち尽くして、幼馴染みの遠ざかる背中を見送っていた。

 どんなにあいつだけを見つめていても、現実は容赦ない。俺との距離がひらくにつれて、その隣を歩く小さな背中が当たり前のように、視界に入り込んでくる。

 一斉に開花した桜の花びらたちが風に攫われ、舞い踊り、小さな背中の律儀な校則基準の膝丈スカートをふわりと揺らす。

 ふと同じタイミングでふたりは顔を向けて、目がかち合って、はにかむように微笑み合った。幼馴染みの手がぎこちなく、彼女の肩に落ちた薄紅色に伸びて――……、そこで俺は身体ごと目をそらして、彼らとは正反対のバス停に向かって走り出していた。

 これ以上、見たくはなかった。


 ――当分、バスには乗らないかも。

 ――徒歩通学なんだよなぁー、あいつ。


 今朝のバス停での幼馴染みの呟きが、放課後になった今でも心の底をじんわりと冷たく濡らしている。

 俺は「ふぅん」とどうでもいい振りを決め込んで、興味のないバスの時刻表をわざとらしく目を細めて凝視していた。印字された数十分刻みの数字たちを心の中で黙々と唱えて、何巡かしたところで「付き合うんだ?」と他愛なさを装って、ようやく質問する。

 声は震えていなかった。

 照れるように笑った幼馴染みに、俺はあっという間に脳内を埋め尽くした言葉たちを黙殺して、「おめでとう!」と声のトーンをあげる。

 1ミリの本音も入ってない祝福は軽々と、桜の花びらの如く重力を忘れて、途方もない高さで青空に吹き飛ばされていった。


 失恋した。

 

 放課後の校門で頬を赤くしたあいつに、小柄な女の子を紹介された。

 時々裏返って引き攣る幼馴染の声は、息継ぎのタイミングを見失ったまま、言葉を吐き出し続けていた。一気にまくし立てられる、知りたくもない彼らの馴れ初めに、俺は「あ、うん」「なるほど」と相槌を打つぐらいしかできなくて、でも頷くたびに、重く、硬く、心が冷たさに沈んでいくのが分かった。


 失恋、したのだ。


 気づけば、バス停に辿り着いていた。

 足を止めて、あがった息を整える。

 帰宅部はとっくに下校していて、部活がある生徒達が帰るにはまだ早い時間帯。

 バス停には俺ひとりしかいなかった。

 ……ひとり。ぽつんと、たったひとり。

 いつもなら、あいつがいた。時間が早くても遅くても、他の生徒達がいてもいなくても。俺達は並んで、ベンチが空いてたら座って、どうでもいい話をしていたはずだ。

 喉の奥で、幼馴染みの名前を呟いていた。

 振り向いて、笑いかけてくる――、瞬きをしても見えるはずのない姿を探して、最後に、自分ひとりきりの影しかない地面に視線が落ちる。

 ぐらり、と地面が震えたようだった。

 あ、と思ったときには、影と靴がいっそう近くなっていて、自分がいま、崩れ落ちるように蹲ってしまったのだと知った。

 地面は、一ミリさえ揺れ動いていない。何かが軋んで、崩れようとしているのなら、それは外ではなく俺自身の中だった。

 失恋した。

 今日一日だけで幾度も繰り返してきた単語が、ここに来てようやく、俺の中で理解され、諸々の意地を根こそぎ殲滅し尽くした瞬間だった。

 

 幼馴染みの恋に、興味があるなんて思われたくない。

 みっともなく、声を震わせたくない。

 お似合いのカップルだと、……祝福したい。


 でも、このバス停に伸びる影は、俺のひとり分だけ。

 一生このまま、崩れたまま、立ち上がれない気がした。


 風が吹いた。

 並木道から遠く攫われた花弁がひらりと、地面に落ちる。

 一枚の、くすんだ花びら。たった一枚の。

 涙が、こぼれた。

 最初は何か分からなかった。視界が曖昧に輪郭を溶かし、じわりと熱い感覚に目蓋を動かせばぼろりとこぼれ、視界がクリアになった。それが頬を伝って、落ちて、ズボンの太股にシミを作ってようやく、涙の形が見えた。

 眼球自体が眼窩の中で、ぐつぐつと涙で煮られている。

 目蓋を閉じてやり過ごそうとするものの、目蓋で押しやられた涙が、目尻から止め処なく落ちていく。結局、耐え切れずにまた眼を開けて、しばらくして眼を閉じる。

 そうして何度目かに目蓋を押し上げて、少しだけ顔をあげた時に、自分以外の靴が視界の端にあるのに気づいた。


 誰かが、いつから、そこにいた?


 目を瞬いて、ゆっくりと顔をあげる。

 少しくたびれたような履き潰された靴、クリーニングから返ってきてすぐのような、皺がないものの薄らと色が抜けた制服のズボン、ブレザー、緩く結ばれたネクタイは俺よりも二学年上の赤色。

 三年生。

 もう少し顔を上向けると、視線がかち合った。

 かつん、と空中で音が鳴った気がした。

 見覚えがないようで知っている、時々バスのなかで見かけた顔。

 俺に覆い被さるようにして見下ろしてくる、目。

 視線がぶつかる反動なんてあるわけもないのに、身体が小さく揺れる。

 ぶつかって、はねる。

 だからこそ、我に返った。

 上級生が眉をひそめた。

 呆けて見上げている俺の阿呆面が、涙の跡も蒸発してしまうぐらいの熱を伴って、赤くなる。

「百面相みたいな顔になってるけど、大丈夫か?」

 耳朶をそっと撫でていくような、低くてよく通る声だった。

 同じバスを使っている生徒が蹲って泣いているところに出くわしてしまって、当惑しているのだろう。

 無視しようにも、ここにいる理由はきっと一緒。しかも相手は一年生。

 その上思いっきり視線がかち合い、何秒間も見つめ合ってしまった。

 大丈夫? という言葉に込められた無数の意味が、頭の中で一気に弾け込んだ。

「──……、あっ、す、すみませんっ!」

 俺は慌てて立ち上がった。 

 少し前までもう一生立ち上がれない気がしていたのに、あっさりと伸びた膝に狼狽える声が上擦る。

「だ、大丈夫……です! すみません!」

 言うそばから零れ落ちる涙を、親指の腹で何度も拭った。

「すみませんっ、あの……っ、本当に大丈夫なんで……っ」

 矢継ぎ早に取り繕う。けれど誤魔化しきれない感情が、口を開くたび、存在を主張して目尻から溢れ出ようとする。

 何度も親指の腹で拭い取って、隠すように笑えば、それはそれで吊り上げた顔の輪郭に沿って涙が伝い落ちていった。

 泣くな、と、ぐいっと親指に力を込める。擦った場所を涙が濡らして、ひりついた痛みが目尻を刺す。

 本当は、泣き止みたくないんだろ。

 だって、失恋したんだから。

 耳元で囁く声は、俺の本心のようにも、女の子に笑いかける幼馴染みの無邪気さにも聞こえて、目尻にまた涙をためていく。

 

 ふと、冷たく柔らかいものが、目の端に触れた。


「そんなに擦ったら、目に悪いぞ」


 上級生が目を細めて苦笑いする。

 思わず見開いた目から、またひとつ涙がこぼれた。が、頬まで伝い落ちることはなかった。

 伸びた彼の指先が、俺の涙を拭っていた。

 温度の低い感触が、何度も擦られて熱を帯びた俺の目尻を気遣うように、ぎこちない慎重さでそっと撫でてくる。

 

 熱の中に、冷たさがずるりと入り込んできた。

 

 痛々しくひりついていた目尻の熱が、次第に冷たい指先に熱を移していって、しばらくして皮膚に伝わっていた僅かな温度差よりも、手が触れる感触を強く感じ始めて、——気づいた。

 桜の花びらが一枚、ひらりと上級生の肩に落ちる。

 あとは、なかば理性で、なかば防衛本能といってもいい。

 

「だ、大丈夫、ですッ!」

 

 声は、悲鳴に近かった。

 失恋した俺の今際の叫びだった。

 いろいろと瞬間的に感じたものを拒絶したいのと放っておきたいのが、ない交ぜになって困り果てた末に、飛び出した声だった。

 飛び退くように距離をとって大袈裟に首を振り、踵を返して駆け出していた。

 さしづめ、何か得体の知れないものから逃げようとする小動物のような、身体の芯から突き上げられる衝動だった。

 逃げなければ、どうにかなってしまいそうで。

 そんな中で、弱り目に祟り目、なんて言葉が、頭の中で点滅した。

 赤色灯のようにひらめいて、耳鳴りのように甲高く血管を流れていく血液の音が、踏み切りの警報機のように鳴り響く。

 無視したいのに無視できない。

 目をそらしたいのにそらせない。

 

 顔が熱い。

 

 煮えたぎって涙が溢れ出た眼球ではなくて、顔の全部が。

 軽々しい。とか。俗物。とか。不純。とか、そんな言葉が、さっきの弱り目に祟り目よりも物凄い勢いで頭の中を埋め尽くす。罵声のような激しいうねりが竜巻の如く、心の中をぐちゃぐちゃにしていく。

 遠くなるバス停を振り返れない。

 足を、止められない。

 目尻が熱い。

 ――ただ、

 もし今、泣いているのだとしたらそれは、どうしようもない羞恥心のせいだ。


 今日俺は、失恋した。

 新生活の入り口で、恋に破れて、途方に暮れた。

 だというのに。


 桜の花びらがひとひら、風に乗せられて途方もなく高く空に舞い上がるのが、見えた。

 触れられた目尻のほんの僅かな温度差を、この瞬間も俺は忘れられなかった。


 (終)

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