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溺愛シリーズ

完璧騎士様は私の前でだけ泣き虫です 〜帝国の至宝に溺愛されています〜

掲載日:2026/03/08

「君の瞳は、まるで朝露に濡れたすみれのようだ。一生、私だけの花園に閉じ込めておきたい」


 ……また始まった。

 帝国の至宝、聖騎士スカーリス・グレイヴァルト様による、中身がスッカスカな口説き文句の乱れ打ち。  囲まれている令嬢たちは頬を染めてうっとりしているけれど、遠巻きに見ている私からすれば、あれはもう一種の伝統芸能か何かに見える。


(よくもまあ、あんなに恥ずかしい台詞がスラスラ出てくるものね)


 私は手にした王宮の極上クッキーを、行儀悪くも指先で弄びながら、冷めた目でその光景を眺めていた。

 スカーリス・グレイヴァルト。

 白銀の甲冑に聖剣。純白の髪はやたらと神々しくて、遠目から見れば聖像そのもの。

 そのくせ夜会では黒衣に着替え、「夜闇に溶ける騎士」だの何だのと令嬢たちが勝手に盛り上がっている。

 対して私は、アデリナ・ベルトラン。没落寸前の男爵家を支えるために、夜会ではタダ飯を食らうことと有力者への顔繋ぎに必死な、地味な女だ。

 彼と私は、住む世界が違う。

 あんな完璧な生き物と、明日明後日の家計を心配している私が、交わるはずがない。

 ――そう。あの日、土砂降りの裏路地で彼が私の膝に顔を埋めて「ひとりは嫌だぁぁ!」と号泣し始めるまでは、本気でそう思っていたのだけれど。




 一ヶ月前。あの日は、酷い土砂降りだった。

 私は家計を助けるための内職帰り、近道をしようとして、王城近くの薄暗い裏路地に足を踏み入れた。

 そこで私は、見てしまった。

 路地裏のゴミ溜めの横、泥水にまみれて座り込み、子供のように肩を震わせている黒い塊を。


「……ひっ、ふぇぇ……暗い、よぉ……怖い、よぉ……」


 聞き覚えのある、けれどおよそ似つかわしくない情けない声。

 反射的に足を止めると、水たまりを叩く私の足音に、その塊がビクッと跳ね上がった。


「ひゃあっ!? だ、誰っ!? 食べないで、僕、美味しくないからっ!」


 勢いよく振り向いたのは、昼間の凱旋パレードで見たばかりの聖騎士スカーリス・グレイヴァルト様だった。

 ただし、その顔はひどいものだった。

 真っ白な髪は泥に汚れ、夕映えを写しとったように美しい瞳は真っ赤に腫れ上がり、鼻を真っ赤にしてグズグズいわせている。


「……スカーリス、様?」

「あ……。あ、ああ……」


 彼は私を認めた瞬間、一秒ほど石のように固まった。

 それから、絶望したように顔を覆い、今度は地べたに突っ伏した。


「見られた……死ぬ。僕の騎士人生、終わった。今すぐ魔獣に食べられて消えてしまいたい……でも食べられるのは痛いから嫌だぁぁぁ!」


 じたばたと足をバタつかせる姿は、さながら駄々をこねる五歳児だ。

 私は呆気にとられ、傘を差すのも忘れて立ち尽くした。

 泣きじゃくる彼を説得して話を聞きだしたところ、どうやら夜会の帰りにマダムの馬車に押し込まれ、既成事実を作られそうになって必死で逃げ出してきた結果、この路地迷路で迷子になったらしい。


「あの、大丈夫ですか。……ほら、立てます?」


 おそるおそる手を差し伸べると、彼は縋るような目で私を見上げた。

 そして。


「っ、行かないで……! お願い、僕を独りにしないでぇ……!」


 彼は私の膝に顔を埋め、泥で汚れた私のスカートをぎゅっと握りしめた。

 帝国の至宝。最強の聖騎士。

 その体は、寒さと恐怖で、子犬のようにガタガタと震えていた。


「怖いんだ。……誰もいないのは、怖い。……僕、本当は、剣なんて持ちたくないんだ……っ」


 ……重い。

 物理的にも、感情的にも。

 でも、その震える指先が、どうしても放っておけなかった。


「……分かりましたから。鼻水、私の服で拭かないでくださいね。あとでクリーニング代、請求しますよ」

「うっ、ぐすっ……払う、払うからぁ……!」


 これが、私と「帝国の至宝」の、最悪で最高に情けない出会いだった。




 そんな最悪の出会いから、一ヶ月。

 クリーニング代どころか、実家の借金ごと買い叩かれそうな勢いで、私はこの「帝国の至宝」に懐かれてしまっている。


「……アデリナ。また食べているのか。それ、四枚目だろう」


 聞き覚えのある、低くて冷徹な声が降ってきた。

 振り返れば、そこには第一王子セリオン・ジルヴァニア様が立っていた。この華やかな夜会において、一人だけ「仕事中です」というオーラを隠そうともしない、私の数少ない――というか唯一の、身分を超えた知人だ。


「あら、セリオン様。失礼ですわ。まだ四枚目です。……で、そちらの『英雄様』の調子はどうなんです?」


 私は顎で、令嬢たちの中心にいるスカーリスを指した。

 セリオン様は深いため息をつき、眉間を指で揉みながら、声を潜めて言った。


「最悪だ。さっきまで控室で『お腹が痛い、行きたくない、暗いのは嫌だ』と床を転げ回っていたのを、私が無理やり礼服に詰め込んで放り出した。今のアイツは、ただの反射で喋っているだけだぞ」

「……お疲れ様です、殿下」

「まったくだ。アデリナ、お前からも言ってやってくれ。口説き文句のレパートリーが尽きてきたからって、ポエム集の丸暗記はやめろとな。朝露に濡れたすみれ? 昨日食ったサラダの間違いだろう」

「あら、素敵な表現じゃありませんか。中身が空っぽな彼にぴったりです」


 私が毒づくと、セリオン様は少しだけ真面目な顔をして私を見た。


「……笑い事ではない。あいつのあの薄気味悪い浮名を揉み消すのも、限界がある。今日はマダム・ロランが虎視眈々とあいつの背後を狙っている。夜会が終わる頃には、またあいつは泣きながらお前のところへ逃げ込むだろうよ」

「勘弁してください。私の部屋のクッキー、もう在庫切れなんですから」


 冗談めかして言ったけれど、胸の奥が少しだけチクリと疼く。

 スカーリスは、私に依存している。

 私が「大丈夫よ」と言って頭を撫でてやれば、彼は震えを止めて、翌朝にはまた「完璧な聖騎士」の仮面を被って出かけていく。

 ――でも、それはいつまで続くのだろう。

 私はただの貧乏男爵令嬢で、彼は国を背負う英雄だ。

 私が彼の「唯一の避難所」で居続けることは、きっと許されない。

 そんな私の予感は、この数分後に、最悪な形で的中することになる。


「アデリナ・ベルトラン嬢、ですね。……折り入ってお話が」


 背後からかけられた声は、澱んだ沼の底から響くような重苦しさがあった。

 振り返れば、そこには我が家が抱える莫大な借金の、最大の債権者――バルカヌス伯爵が立っていた。

 孫がいてもおかしくない年齢の彼は、脂ぎった顔に歪な笑みを浮かべて、私を見下ろしている。


「伯爵閣下。ご機嫌麗しゅう」

「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。お前の父とは既に話がついておる。……お前が私の五番目の妻になると頷くなら、ベルトラン家の負債はすべて私が肩代わりしよう。お前の弟の学費も、領地の立て直しも、すべてだ」


 ……ああ、ついに来た。

 いつか来ると思っていた終わりの合図だ。

 親も説得済み。あとは私の一言。

 断る理由なんて、どこにもない。私さえ頷けば、家は救われ、弟の将来も守られる。


(妥当な落とし所だわ。……これでいいのよ。アデリナ。あんたは、最初からこうなる運命だったじゃない)


 私は、震えそうになる指先をドレスの裾に隠した。

 そして、ふと視線を感じて顔を上げる。

 ホールの中心。

 令嬢たちに囲まれ、相変わらず朝露のすみれがどうのと宣っていたはずのスカーリスが、こちらを見ていた。

 完璧な仮面が、今にも剥げ落ちそうなほど蒼白になっている。

 夕映えの瞳が、絶望に揺れている。

 彼は、聞いていたのだ。聖騎士の優れた聴覚が、残酷にも私たちの会話を拾ってしまったらしい。


(……そんな顔をしないで、スカーリス)


 彼は今にも、こちらに駆け寄ってきそうだった。

 けれど、ここで彼が私を助ければ、彼の騎士としての名声は地に落ちる。不名誉なスキャンダルに巻き込まれ、今の「帝国の至宝」という地位を失うだろう。

 独りぼっちが何より怖い彼から、その居場所を奪うわけにはいかない。


(私がいない方が、貴方はきっと――本当の英雄になれるわ)


 私は彼から視線を外し、伯爵に向き直った。


「……光栄なお話です、閣下。ですが、あまりに急なこと。……お返事は、少しだけ待っていただけますか? 淑女として、心の整理をしたいのです」

「ふむ、よかろう。三日後の夜会で、正式に婚約を発表することにしよう。それまでに、良い返事を聞かせてくれ」


 伯爵が満足げに去っていく。

 私は逃げるようにテラスへと足を向けた。

 背後で、スカーリスが囲んでいた令嬢たちを「失礼」と短く遮る気配がした。

 いつもなら「また後ほど、愛しい妖精たち」なんてキザなセリフを吐くはずの彼が、今は一言も発さず、足早に私を追ってくるのがわかる。

 外に出ると、夜の冷気が頬を叩いた。

 テラスの隅、人目のつかない暗がりに辿り着いた瞬間。


「……アデリナッ!」


 背後から、ひどく掠れた声で名前を呼ばれた。

 振り返る間もなく、私の肩に、強烈な重みがのしかかる。


「嘘だ。嘘だと言ってよ、アデリナ……! 結婚なんて、あんな、あんなお爺さんと……! 僕がいるのに、僕が守るって言ったのに……!」


 スカーリスは私の背中に顔を埋め、子供のように泣きじゃくりながら、私の腰を折れんばかりの力で抱きしめた。

 その体は、あの日、裏路地で出会った時よりも、ずっと激しく震えていた。


「……アデリナ、嘘だ。行かないで、行かないでよ……っ!」


 スカーリスの腕の力が強まる。彼の鍛えられた腕が私のドレスをきしませ、彼の荒い呼吸が首筋に直接かかる。

 いつもなら「苦しいわよ」と笑い飛ばせるところなのに、今の彼の震えは、冗談で済ませられるほど軽くはなかった。


「離して、スカーリス。誰かに見られたら、貴方の評判に傷がつくわ」


「そんなの、どうでもいい……! 評判なんて、全部あげるよ。英雄なんて名前、いらない……っ。独りにしないで、アデリナ。君がいない世界なんて、真っ暗な裏路地に戻るのと同じだ……!」


 情けない声。帝国の至宝が、一人の女の背中に縋って、涙で声を詰まらせている。

 私はゆっくりと彼の腕を解き、向き直った。

 月光に照らされたスカーリスの顔は、ひどく美しくて、そして救いようがないほどボロボロだった。


「スカーリス、聞きなさい。……私の実家の借金は、私の問題よ。貴方が肩代わりするなんて、そんなの、お伽話の王子様じゃないんだから」


「僕が払う! セリオンに、給料の前借りを頼んで……!」


「……馬鹿なことを言わないで。貴方には、もっと相応しい人がいるわ。高貴で、美しくて、貴方のその『仮面』を支えてくれるような、立派な聖騎士の妻がね」


 私は努めて冷静に、一文字ずつ釘を刺すように言った。

 本当は、その言葉が自分の胸に一番深く突き刺さっているというのに。


「私は、貴方の『逃げ場所』でしかないの。……でも、逃げ場所は、いつか壊さなきゃいけない。貴方は本当の英雄になれる人よ。私がいない方が、きっと」


「……っ、アデリナ。君は、僕を……捨てるの?」


 スカーリスの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。

 彼は震える指先で、私の服の裾をぎゅっと、まるで命綱を掴むように握りしめる。


「嫌だ……。あんな、君を物みたいに扱う奴のところへ行くなんて、絶対に、嫌だ……! お願い、僕を見てよ。僕だけを見て……っ!」


 彼はそのまま、崩れ落ちるように私に抱きついてきた。

 彼の額が、私の肩に預けられる。

 泣きじゃくる大型犬のような、あまりに無防備な甘え。

 私は一度だけ、彼の柔らかな白髪に指を差し入れ、優しく撫でた。


「……三日後。夜会で婚約が発表されるわ」

「…………」

「もう、裏路地で泣いちゃダメよ。スカーリス・グレイヴァルト様。貴方は、誰よりも強くて……完璧な、騎士なんだから」


 私の指をすり抜けて、彼の手が力なく落ちる。

 背中越しに聞こえる彼の嗚咽を振り切って、私はテラスを後にした。

 ――これでいい。

 これで、彼は私のいない場所で、本当の「帝国の至宝」になれる。

 そう自分に言い聞かせても、ドレスの裾に残った彼の指の感触が、いつまでも消えてはくれなかった。




 三日後の夜会。会場は、葬列に向かうような重苦しい空気……に感じているのは、私だけだろう。

 周囲は、バルカヌス伯爵と私の「年の差婚約」というスキャンダラスな話題に、下卑た好奇心を隠そうともしていない。


 私は、悪趣味な金の刺繍が施された、深紅の重苦しい礼装を纏うバルカヌス伯爵の隣に立っていた。

 彼が動くたびに、古い蔵のような埃っぽさと、安っぽい香水の匂いが混じって鼻を突く。

 私の指先は冷え切り、感覚を失っている有様だ。


(これでいい。ベルトラン家は救われる。……スカーリスも、きっと、そのうち私を忘れて、本当の英雄になるわ)


 ふと、ホールの入り口が騒がしくなった。

 現れたのは、今夜の主役でもないはずの男。

 スカーリス・グレイヴァルト。

 純白の髪は夜のシャンデリアを反射して白光を放ち、夕焼けを溶かしたような琥珀色の瞳は、いつになく鋭く冷徹に見える。

 今夜の彼も、一切の装飾を排した、真夜中のような漆黒の礼装を身に纏っていた。

 その隙のない美しさに、会場の令嬢たちが一斉に息を呑む。

 けれど。

 一瞬だけ視線が交差したとき、私は見てしまった。

 彼の唇が、微かに、けれど絶望的に震えているのを。


「……っ」


 私は咄嗟に目を逸らした。

 見てはいけない。助けを求めてはいけない。

 私の役目は、ここでバルカヌス伯爵の横で、人形のように微笑むことなのだから。

 その時、スカーリスの隣を歩くセリオン王子の足が止まった。

 彼は、立ちすくむスカーリスの肩に手を置き、衆人には聞こえないほどの低い声で囁いた。


「――スカーリス。また、逃げるのか?」


 その一言に、スカーリスの背中が大きく跳ねた。


「ここで逃げれば、私はもう、お前のスキャンダルを隠してはやらないぞ。……お前のその、醜いくらいに必死な『本性』をな」

「…………ッ!」


 スカーリスは、自分の拳を、白くなるまで握りしめていた。

 逃げたい。今すぐここから消えて、泣き叫びたい。

 そんな彼の心の声が、私には聞こえるようだった。

 けれど、スカーリスは逃げなかった。

 ガタガタと、膝の震えが止まらない。琥珀色の瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。

 それでも、彼は一歩。

 死地に赴くような悲壮な覚悟で、私の元へと踏み出した。


「お、お待ちください……ッ!!」


 静まり返ったホールに、スカーリスの、少し裏返った叫びが響き渡った。

 バルカヌス伯爵の脂ぎった顔が不快そうに歪み、会場中の視線が「夜闇の騎士」へと突き刺さった。

 スカーリス・グレイヴァルトは、そこに立っていた。

 いつもなら優雅に流すはずの純白の髪は乱れ、琥珀色の瞳は激しく揺れている。


「……グレイヴァルト卿。何の真似だ、これは」


 バルカヌスの濁った声が、威圧的に響く。

 スカーリスの肩が、ビクッと跳ねた。


(……逃げて、スカーリス)


 私は悲鳴を飲み込み、ドレスの裾を強く握った。

 彼の足元が見える。黒い礼装の裾から覗くその足は、情けないほどガタガタと震えていた。

 彼は今、この場から逃げ出したくてたまらないはずだ。誰よりも孤独を恐れ、誰よりも衆目に晒される恐怖を知っている彼が。

 けれど、スカーリスは一歩、前に踏み出した。


「……っ、その……アデリナ、嬢との、婚約は……っ」


 声が掠れている。

 いつもの甘い、女性たちを蕩けさせるような透明感のある低音ではない。

 喉に何かが詰まったような、今にも泣き出しそうな、あまりに無様な声。


「……認め、られません……っ! 彼女は、私の、宝物なんです……!」


 会場が、凍りついた。

 「宝物」なんて、お伽話の騎士様でも言わないような稚拙な言葉だ。

 けれど、その言葉を絞り出すスカーリスの顔は、あまりに必死で、あまりに醜く歪んでいた。


「な、何を馬鹿なことを。身の程をわきまえよ、若造!」


 バルカヌスが激昂し、私の腕を乱暴に掴み上げる。


「痛っ……」


 思わず漏れた私の小さな声に、スカーリスの顔色が変わった。


「……っ、離して、ください……っ! 彼女に、触れるな……!!」


 スカーリスが、駆け寄る。

 足がもつれ、一瞬よろけそうになりながらも、彼は私の前に立ちはだかった。

 いつも私の服の裾を握っていたその手が、今は震えながらも、私の手首を掴むバルカヌスの腕を振り払う。


「怖い……っ、僕は死ぬほど、怖いんだ! 皆が僕をどう見るか、明日からどう言われるか……考えただけで、吐き気がする……っ!」


 彼は叫びながら、ボロボロと大粒の涙を零した。

 琥珀色の瞳から溢れるのは、英雄の象徴などではない、ただの臆病な男の涙だ。


「でも! アデリナが、あんな奴のところへ行くのを黙って見ている方が、もっと……もっと怖いんだ! 独りにしないでくれ、アデリナ……!! 僕を、捨てないでくれ……っ!」


 彼はついに、衆人環視の中で私の腰に抱きつき、子供のように声を上げて泣き始めた。

 会場は騒然とし、バルカヌスは顔を真っ赤にして絶句している。


「……馬鹿ね。本当に、馬鹿なんだから」


 私は、呆れ果てて溜息をついた。

 けれど、私の手は自然と、彼の純白の髪を優しく撫でていた。

 その温もりも、その震えも。

 ああ、やっぱり。

 世界で私だけが知っている、私のための騎士様。

 その時、背後から「やれやれ」という聞き慣れた声がした。


「……ようやく言ったか、このヘタレが」


 セリオン王子が、優雅に、そして確かな足取りでこちらへ歩いてくる。

その手には、何枚かの書類が握られていた。


「バルカヌス伯爵。騒がせて済まないが、君には少し、話を聞かせてもらいたいことがあってね。……ああ、ベルトラン家の負債についてもだ。全て『公正な形』で整理させてもらうよ」


 王子のその言葉が、チェックメイトの合図だった。




 騒乱の夜会から数日。

 王都の社交界は、今や一つの「伝説」で持ちきりだった。

 ――『愛する女を奪うため、帝国の至宝が涙ながらに伯爵に立ち向かい、その真実の愛に心を打たれた王子が不浄を裁いた』。

 ……まあ、だいたいそんな感じの、美化されすぎて原型を留めていない騎士道物語だ。


「……やれやれ。お前が衆人環視であれだけ派手に泣きじゃくったおかげで、バルカヌスの汚職調査を『愛に殉じた騎士を救うための正義の断罪』として民衆に売り込めたよ。感謝してくれ、スカーリス」


 王宮の執務室。セリオン王子が、呆れ果てた顔で書類を放り出した。

 ベルトラン家の借用書は、バルカヌスの不正蓄財の証拠として没収され、正式に無効化された。

 すべてはセリオン様の筋書き通り。……ただし、スカーリスが「自力で一歩踏み出すこと」が、その計画を発動させるための絶対条件だったのだ。


「うっ、ぐすっ……。でも、セリオン……僕、もう外を歩けないよぉ……あんなに大きな声で、捨てないでって言っちゃったんだよ……?」


「……安心しろ。令嬢たちは『なんて純粋で情熱的な愛なの!』と、お前のファンクラブの会員数を倍増させている。……まあ、お前のその情けない顔を見ているのは、私とアデリナだけで十分だがな」


 セリオン様は私に「あとは頼んだぞ、猛獣使い」と目配せをして、部屋を出て行った。

 残されたのは、豪華なソファの隅で丸まっている夜闇の騎士(笑)と、私。


「……スカーリス。いつまで泣いているの。ほら、顔を上げなさい。せっかく借金もなくなったんだから、お祝いにクッキーでも食べましょう?」

「アデリナぁ……!」


 スカーリスは、待ってましたとばかりに私の膝に飛び込んできた。

 漆黒の夜会服ではなく、今は柔らかな部屋着。

 純白の髪が私の太ももをくすぐり、琥珀色の瞳が涙で潤んで私を見上げる。


「本当に、行かないよね……? 伯爵のところに行ったり、しないよね?」

「しないわよ。あんなに大騒ぎしちゃって、もう私を貰ってくれる人なんて、この国に一人しかいないじゃない」

「……っ、僕だね!? 僕が、一生かけてアデリナを……アデリナの、逃げ場所になるからっ」


 震える指先が、私の右手の薬指をぎゅっと握る。

 あの日、裏路地で私の服の裾を握っていた時と同じ、必死で、臆病で、けれど何よりも温かい指先。


「逃げ場所になるのは、私の役目でしょう? 貴方は、外ではちゃんとかっこいい『至宝』でいなさい。……じゃないと、またセリオン様に怒られるわよ」

「……う、うん。頑張る……。でも、一日一回は、こうして甘えさせてくれないと、僕、心臓が止まっちゃうからね?」


 彼は私の手の甲に、深い、深い愛を込めて口づけをした。

 それは夜会で見せるような中身スッカスカの芸事ではない。

 魂を削り出すような、ひたむきな依存の証。


「……はいはい。わかったわよ。……愛してるわ、スカーリス」

「……っ! もう一回、もう一回言って! アデリナぁぁ!」


 また、泣き笑いの顔で縋り付いてくる。

 帝国の至宝、聖騎士スカーリス・グレイヴァルト。

 彼は今日も、世界で一番美しく、そして世界で一番かっこよく――私だけに、無様な姿を見せている。


 そんな彼の震える背中を抱きしめながら、私はこの「重すぎる幸せ」を一生背負っていく覚悟を決めるのだった。


外では完璧な紳士、家では大型犬。

そんな彼との共依存ラブコメ、お楽しみいただけましたでしょうか?

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