完璧騎士様は私の前でだけ泣き虫です 〜帝国の至宝に溺愛されています〜
「君の瞳は、まるで朝露に濡れたすみれのようだ。一生、私だけの花園に閉じ込めておきたい」
……また始まった。
帝国の至宝、聖騎士スカーリス・グレイヴァルト様による、中身がスッカスカな口説き文句の乱れ打ち。 囲まれている令嬢たちは頬を染めてうっとりしているけれど、遠巻きに見ている私からすれば、あれはもう一種の伝統芸能か何かに見える。
(よくもまあ、あんなに恥ずかしい台詞がスラスラ出てくるものね)
私は手にした王宮の極上クッキーを、行儀悪くも指先で弄びながら、冷めた目でその光景を眺めていた。
スカーリス・グレイヴァルト。
白銀の甲冑に聖剣。純白の髪はやたらと神々しくて、遠目から見れば聖像そのもの。
そのくせ夜会では黒衣に着替え、「夜闇に溶ける騎士」だの何だのと令嬢たちが勝手に盛り上がっている。
対して私は、アデリナ・ベルトラン。没落寸前の男爵家を支えるために、夜会ではタダ飯を食らうことと有力者への顔繋ぎに必死な、地味な女だ。
彼と私は、住む世界が違う。
あんな完璧な生き物と、明日明後日の家計を心配している私が、交わるはずがない。
――そう。あの日、土砂降りの裏路地で彼が私の膝に顔を埋めて「ひとりは嫌だぁぁ!」と号泣し始めるまでは、本気でそう思っていたのだけれど。
一ヶ月前。あの日は、酷い土砂降りだった。
私は家計を助けるための内職帰り、近道をしようとして、王城近くの薄暗い裏路地に足を踏み入れた。
そこで私は、見てしまった。
路地裏のゴミ溜めの横、泥水にまみれて座り込み、子供のように肩を震わせている黒い塊を。
「……ひっ、ふぇぇ……暗い、よぉ……怖い、よぉ……」
聞き覚えのある、けれどおよそ似つかわしくない情けない声。
反射的に足を止めると、水たまりを叩く私の足音に、その塊がビクッと跳ね上がった。
「ひゃあっ!? だ、誰っ!? 食べないで、僕、美味しくないからっ!」
勢いよく振り向いたのは、昼間の凱旋パレードで見たばかりの聖騎士スカーリス・グレイヴァルト様だった。
ただし、その顔はひどいものだった。
真っ白な髪は泥に汚れ、夕映えを写しとったように美しい瞳は真っ赤に腫れ上がり、鼻を真っ赤にしてグズグズいわせている。
「……スカーリス、様?」
「あ……。あ、ああ……」
彼は私を認めた瞬間、一秒ほど石のように固まった。
それから、絶望したように顔を覆い、今度は地べたに突っ伏した。
「見られた……死ぬ。僕の騎士人生、終わった。今すぐ魔獣に食べられて消えてしまいたい……でも食べられるのは痛いから嫌だぁぁぁ!」
じたばたと足をバタつかせる姿は、さながら駄々をこねる五歳児だ。
私は呆気にとられ、傘を差すのも忘れて立ち尽くした。
泣きじゃくる彼を説得して話を聞きだしたところ、どうやら夜会の帰りにマダムの馬車に押し込まれ、既成事実を作られそうになって必死で逃げ出してきた結果、この路地迷路で迷子になったらしい。
「あの、大丈夫ですか。……ほら、立てます?」
おそるおそる手を差し伸べると、彼は縋るような目で私を見上げた。
そして。
「っ、行かないで……! お願い、僕を独りにしないでぇ……!」
彼は私の膝に顔を埋め、泥で汚れた私のスカートをぎゅっと握りしめた。
帝国の至宝。最強の聖騎士。
その体は、寒さと恐怖で、子犬のようにガタガタと震えていた。
「怖いんだ。……誰もいないのは、怖い。……僕、本当は、剣なんて持ちたくないんだ……っ」
……重い。
物理的にも、感情的にも。
でも、その震える指先が、どうしても放っておけなかった。
「……分かりましたから。鼻水、私の服で拭かないでくださいね。あとでクリーニング代、請求しますよ」
「うっ、ぐすっ……払う、払うからぁ……!」
これが、私と「帝国の至宝」の、最悪で最高に情けない出会いだった。
そんな最悪の出会いから、一ヶ月。
クリーニング代どころか、実家の借金ごと買い叩かれそうな勢いで、私はこの「帝国の至宝」に懐かれてしまっている。
「……アデリナ。また食べているのか。それ、四枚目だろう」
聞き覚えのある、低くて冷徹な声が降ってきた。
振り返れば、そこには第一王子セリオン・ジルヴァニア様が立っていた。この華やかな夜会において、一人だけ「仕事中です」というオーラを隠そうともしない、私の数少ない――というか唯一の、身分を超えた知人だ。
「あら、セリオン様。失礼ですわ。まだ四枚目です。……で、そちらの『英雄様』の調子はどうなんです?」
私は顎で、令嬢たちの中心にいるスカーリスを指した。
セリオン様は深いため息をつき、眉間を指で揉みながら、声を潜めて言った。
「最悪だ。さっきまで控室で『お腹が痛い、行きたくない、暗いのは嫌だ』と床を転げ回っていたのを、私が無理やり礼服に詰め込んで放り出した。今のアイツは、ただの反射で喋っているだけだぞ」
「……お疲れ様です、殿下」
「まったくだ。アデリナ、お前からも言ってやってくれ。口説き文句のレパートリーが尽きてきたからって、ポエム集の丸暗記はやめろとな。朝露に濡れたすみれ? 昨日食ったサラダの間違いだろう」
「あら、素敵な表現じゃありませんか。中身が空っぽな彼にぴったりです」
私が毒づくと、セリオン様は少しだけ真面目な顔をして私を見た。
「……笑い事ではない。あいつのあの薄気味悪い浮名を揉み消すのも、限界がある。今日はマダム・ロランが虎視眈々とあいつの背後を狙っている。夜会が終わる頃には、またあいつは泣きながらお前のところへ逃げ込むだろうよ」
「勘弁してください。私の部屋のクッキー、もう在庫切れなんですから」
冗談めかして言ったけれど、胸の奥が少しだけチクリと疼く。
スカーリスは、私に依存している。
私が「大丈夫よ」と言って頭を撫でてやれば、彼は震えを止めて、翌朝にはまた「完璧な聖騎士」の仮面を被って出かけていく。
――でも、それはいつまで続くのだろう。
私はただの貧乏男爵令嬢で、彼は国を背負う英雄だ。
私が彼の「唯一の避難所」で居続けることは、きっと許されない。
そんな私の予感は、この数分後に、最悪な形で的中することになる。
「アデリナ・ベルトラン嬢、ですね。……折り入ってお話が」
背後からかけられた声は、澱んだ沼の底から響くような重苦しさがあった。
振り返れば、そこには我が家が抱える莫大な借金の、最大の債権者――バルカヌス伯爵が立っていた。
孫がいてもおかしくない年齢の彼は、脂ぎった顔に歪な笑みを浮かべて、私を見下ろしている。
「伯爵閣下。ご機嫌麗しゅう」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。お前の父とは既に話がついておる。……お前が私の五番目の妻になると頷くなら、ベルトラン家の負債はすべて私が肩代わりしよう。お前の弟の学費も、領地の立て直しも、すべてだ」
……ああ、ついに来た。
いつか来ると思っていた終わりの合図だ。
親も説得済み。あとは私の一言。
断る理由なんて、どこにもない。私さえ頷けば、家は救われ、弟の将来も守られる。
(妥当な落とし所だわ。……これでいいのよ。アデリナ。あんたは、最初からこうなる運命だったじゃない)
私は、震えそうになる指先をドレスの裾に隠した。
そして、ふと視線を感じて顔を上げる。
ホールの中心。
令嬢たちに囲まれ、相変わらず朝露のすみれがどうのと宣っていたはずのスカーリスが、こちらを見ていた。
完璧な仮面が、今にも剥げ落ちそうなほど蒼白になっている。
夕映えの瞳が、絶望に揺れている。
彼は、聞いていたのだ。聖騎士の優れた聴覚が、残酷にも私たちの会話を拾ってしまったらしい。
(……そんな顔をしないで、スカーリス)
彼は今にも、こちらに駆け寄ってきそうだった。
けれど、ここで彼が私を助ければ、彼の騎士としての名声は地に落ちる。不名誉なスキャンダルに巻き込まれ、今の「帝国の至宝」という地位を失うだろう。
独りぼっちが何より怖い彼から、その居場所を奪うわけにはいかない。
(私がいない方が、貴方はきっと――本当の英雄になれるわ)
私は彼から視線を外し、伯爵に向き直った。
「……光栄なお話です、閣下。ですが、あまりに急なこと。……お返事は、少しだけ待っていただけますか? 淑女として、心の整理をしたいのです」
「ふむ、よかろう。三日後の夜会で、正式に婚約を発表することにしよう。それまでに、良い返事を聞かせてくれ」
伯爵が満足げに去っていく。
私は逃げるようにテラスへと足を向けた。
背後で、スカーリスが囲んでいた令嬢たちを「失礼」と短く遮る気配がした。
いつもなら「また後ほど、愛しい妖精たち」なんてキザなセリフを吐くはずの彼が、今は一言も発さず、足早に私を追ってくるのがわかる。
外に出ると、夜の冷気が頬を叩いた。
テラスの隅、人目のつかない暗がりに辿り着いた瞬間。
「……アデリナッ!」
背後から、ひどく掠れた声で名前を呼ばれた。
振り返る間もなく、私の肩に、強烈な重みがのしかかる。
「嘘だ。嘘だと言ってよ、アデリナ……! 結婚なんて、あんな、あんなお爺さんと……! 僕がいるのに、僕が守るって言ったのに……!」
スカーリスは私の背中に顔を埋め、子供のように泣きじゃくりながら、私の腰を折れんばかりの力で抱きしめた。
その体は、あの日、裏路地で出会った時よりも、ずっと激しく震えていた。
「……アデリナ、嘘だ。行かないで、行かないでよ……っ!」
スカーリスの腕の力が強まる。彼の鍛えられた腕が私のドレスをきしませ、彼の荒い呼吸が首筋に直接かかる。
いつもなら「苦しいわよ」と笑い飛ばせるところなのに、今の彼の震えは、冗談で済ませられるほど軽くはなかった。
「離して、スカーリス。誰かに見られたら、貴方の評判に傷がつくわ」
「そんなの、どうでもいい……! 評判なんて、全部あげるよ。英雄なんて名前、いらない……っ。独りにしないで、アデリナ。君がいない世界なんて、真っ暗な裏路地に戻るのと同じだ……!」
情けない声。帝国の至宝が、一人の女の背中に縋って、涙で声を詰まらせている。
私はゆっくりと彼の腕を解き、向き直った。
月光に照らされたスカーリスの顔は、ひどく美しくて、そして救いようがないほどボロボロだった。
「スカーリス、聞きなさい。……私の実家の借金は、私の問題よ。貴方が肩代わりするなんて、そんなの、お伽話の王子様じゃないんだから」
「僕が払う! セリオンに、給料の前借りを頼んで……!」
「……馬鹿なことを言わないで。貴方には、もっと相応しい人がいるわ。高貴で、美しくて、貴方のその『仮面』を支えてくれるような、立派な聖騎士の妻がね」
私は努めて冷静に、一文字ずつ釘を刺すように言った。
本当は、その言葉が自分の胸に一番深く突き刺さっているというのに。
「私は、貴方の『逃げ場所』でしかないの。……でも、逃げ場所は、いつか壊さなきゃいけない。貴方は本当の英雄になれる人よ。私がいない方が、きっと」
「……っ、アデリナ。君は、僕を……捨てるの?」
スカーリスの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
彼は震える指先で、私の服の裾をぎゅっと、まるで命綱を掴むように握りしめる。
「嫌だ……。あんな、君を物みたいに扱う奴のところへ行くなんて、絶対に、嫌だ……! お願い、僕を見てよ。僕だけを見て……っ!」
彼はそのまま、崩れ落ちるように私に抱きついてきた。
彼の額が、私の肩に預けられる。
泣きじゃくる大型犬のような、あまりに無防備な甘え。
私は一度だけ、彼の柔らかな白髪に指を差し入れ、優しく撫でた。
「……三日後。夜会で婚約が発表されるわ」
「…………」
「もう、裏路地で泣いちゃダメよ。スカーリス・グレイヴァルト様。貴方は、誰よりも強くて……完璧な、騎士なんだから」
私の指をすり抜けて、彼の手が力なく落ちる。
背中越しに聞こえる彼の嗚咽を振り切って、私はテラスを後にした。
――これでいい。
これで、彼は私のいない場所で、本当の「帝国の至宝」になれる。
そう自分に言い聞かせても、ドレスの裾に残った彼の指の感触が、いつまでも消えてはくれなかった。
三日後の夜会。会場は、葬列に向かうような重苦しい空気……に感じているのは、私だけだろう。
周囲は、バルカヌス伯爵と私の「年の差婚約」というスキャンダラスな話題に、下卑た好奇心を隠そうともしていない。
私は、悪趣味な金の刺繍が施された、深紅の重苦しい礼装を纏うバルカヌス伯爵の隣に立っていた。
彼が動くたびに、古い蔵のような埃っぽさと、安っぽい香水の匂いが混じって鼻を突く。
私の指先は冷え切り、感覚を失っている有様だ。
(これでいい。ベルトラン家は救われる。……スカーリスも、きっと、そのうち私を忘れて、本当の英雄になるわ)
ふと、ホールの入り口が騒がしくなった。
現れたのは、今夜の主役でもないはずの男。
スカーリス・グレイヴァルト。
純白の髪は夜のシャンデリアを反射して白光を放ち、夕焼けを溶かしたような琥珀色の瞳は、いつになく鋭く冷徹に見える。
今夜の彼も、一切の装飾を排した、真夜中のような漆黒の礼装を身に纏っていた。
その隙のない美しさに、会場の令嬢たちが一斉に息を呑む。
けれど。
一瞬だけ視線が交差したとき、私は見てしまった。
彼の唇が、微かに、けれど絶望的に震えているのを。
「……っ」
私は咄嗟に目を逸らした。
見てはいけない。助けを求めてはいけない。
私の役目は、ここでバルカヌス伯爵の横で、人形のように微笑むことなのだから。
その時、スカーリスの隣を歩くセリオン王子の足が止まった。
彼は、立ちすくむスカーリスの肩に手を置き、衆人には聞こえないほどの低い声で囁いた。
「――スカーリス。また、逃げるのか?」
その一言に、スカーリスの背中が大きく跳ねた。
「ここで逃げれば、私はもう、お前のスキャンダルを隠してはやらないぞ。……お前のその、醜いくらいに必死な『本性』をな」
「…………ッ!」
スカーリスは、自分の拳を、白くなるまで握りしめていた。
逃げたい。今すぐここから消えて、泣き叫びたい。
そんな彼の心の声が、私には聞こえるようだった。
けれど、スカーリスは逃げなかった。
ガタガタと、膝の震えが止まらない。琥珀色の瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。
それでも、彼は一歩。
死地に赴くような悲壮な覚悟で、私の元へと踏み出した。
「お、お待ちください……ッ!!」
静まり返ったホールに、スカーリスの、少し裏返った叫びが響き渡った。
バルカヌス伯爵の脂ぎった顔が不快そうに歪み、会場中の視線が「夜闇の騎士」へと突き刺さった。
スカーリス・グレイヴァルトは、そこに立っていた。
いつもなら優雅に流すはずの純白の髪は乱れ、琥珀色の瞳は激しく揺れている。
「……グレイヴァルト卿。何の真似だ、これは」
バルカヌスの濁った声が、威圧的に響く。
スカーリスの肩が、ビクッと跳ねた。
(……逃げて、スカーリス)
私は悲鳴を飲み込み、ドレスの裾を強く握った。
彼の足元が見える。黒い礼装の裾から覗くその足は、情けないほどガタガタと震えていた。
彼は今、この場から逃げ出したくてたまらないはずだ。誰よりも孤独を恐れ、誰よりも衆目に晒される恐怖を知っている彼が。
けれど、スカーリスは一歩、前に踏み出した。
「……っ、その……アデリナ、嬢との、婚約は……っ」
声が掠れている。
いつもの甘い、女性たちを蕩けさせるような透明感のある低音ではない。
喉に何かが詰まったような、今にも泣き出しそうな、あまりに無様な声。
「……認め、られません……っ! 彼女は、私の、宝物なんです……!」
会場が、凍りついた。
「宝物」なんて、お伽話の騎士様でも言わないような稚拙な言葉だ。
けれど、その言葉を絞り出すスカーリスの顔は、あまりに必死で、あまりに醜く歪んでいた。
「な、何を馬鹿なことを。身の程をわきまえよ、若造!」
バルカヌスが激昂し、私の腕を乱暴に掴み上げる。
「痛っ……」
思わず漏れた私の小さな声に、スカーリスの顔色が変わった。
「……っ、離して、ください……っ! 彼女に、触れるな……!!」
スカーリスが、駆け寄る。
足がもつれ、一瞬よろけそうになりながらも、彼は私の前に立ちはだかった。
いつも私の服の裾を握っていたその手が、今は震えながらも、私の手首を掴むバルカヌスの腕を振り払う。
「怖い……っ、僕は死ぬほど、怖いんだ! 皆が僕をどう見るか、明日からどう言われるか……考えただけで、吐き気がする……っ!」
彼は叫びながら、ボロボロと大粒の涙を零した。
琥珀色の瞳から溢れるのは、英雄の象徴などではない、ただの臆病な男の涙だ。
「でも! アデリナが、あんな奴のところへ行くのを黙って見ている方が、もっと……もっと怖いんだ! 独りにしないでくれ、アデリナ……!! 僕を、捨てないでくれ……っ!」
彼はついに、衆人環視の中で私の腰に抱きつき、子供のように声を上げて泣き始めた。
会場は騒然とし、バルカヌスは顔を真っ赤にして絶句している。
「……馬鹿ね。本当に、馬鹿なんだから」
私は、呆れ果てて溜息をついた。
けれど、私の手は自然と、彼の純白の髪を優しく撫でていた。
その温もりも、その震えも。
ああ、やっぱり。
世界で私だけが知っている、私のための騎士様。
その時、背後から「やれやれ」という聞き慣れた声がした。
「……ようやく言ったか、このヘタレが」
セリオン王子が、優雅に、そして確かな足取りでこちらへ歩いてくる。
その手には、何枚かの書類が握られていた。
「バルカヌス伯爵。騒がせて済まないが、君には少し、話を聞かせてもらいたいことがあってね。……ああ、ベルトラン家の負債についてもだ。全て『公正な形』で整理させてもらうよ」
王子のその言葉が、チェックメイトの合図だった。
騒乱の夜会から数日。
王都の社交界は、今や一つの「伝説」で持ちきりだった。
――『愛する女を奪うため、帝国の至宝が涙ながらに伯爵に立ち向かい、その真実の愛に心を打たれた王子が不浄を裁いた』。
……まあ、だいたいそんな感じの、美化されすぎて原型を留めていない騎士道物語だ。
「……やれやれ。お前が衆人環視であれだけ派手に泣きじゃくったおかげで、バルカヌスの汚職調査を『愛に殉じた騎士を救うための正義の断罪』として民衆に売り込めたよ。感謝してくれ、スカーリス」
王宮の執務室。セリオン王子が、呆れ果てた顔で書類を放り出した。
ベルトラン家の借用書は、バルカヌスの不正蓄財の証拠として没収され、正式に無効化された。
すべてはセリオン様の筋書き通り。……ただし、スカーリスが「自力で一歩踏み出すこと」が、その計画を発動させるための絶対条件だったのだ。
「うっ、ぐすっ……。でも、セリオン……僕、もう外を歩けないよぉ……あんなに大きな声で、捨てないでって言っちゃったんだよ……?」
「……安心しろ。令嬢たちは『なんて純粋で情熱的な愛なの!』と、お前のファンクラブの会員数を倍増させている。……まあ、お前のその情けない顔を見ているのは、私とアデリナだけで十分だがな」
セリオン様は私に「あとは頼んだぞ、猛獣使い」と目配せをして、部屋を出て行った。
残されたのは、豪華なソファの隅で丸まっている夜闇の騎士(笑)と、私。
「……スカーリス。いつまで泣いているの。ほら、顔を上げなさい。せっかく借金もなくなったんだから、お祝いにクッキーでも食べましょう?」
「アデリナぁ……!」
スカーリスは、待ってましたとばかりに私の膝に飛び込んできた。
漆黒の夜会服ではなく、今は柔らかな部屋着。
純白の髪が私の太ももをくすぐり、琥珀色の瞳が涙で潤んで私を見上げる。
「本当に、行かないよね……? 伯爵のところに行ったり、しないよね?」
「しないわよ。あんなに大騒ぎしちゃって、もう私を貰ってくれる人なんて、この国に一人しかいないじゃない」
「……っ、僕だね!? 僕が、一生かけてアデリナを……アデリナの、逃げ場所になるからっ」
震える指先が、私の右手の薬指をぎゅっと握る。
あの日、裏路地で私の服の裾を握っていた時と同じ、必死で、臆病で、けれど何よりも温かい指先。
「逃げ場所になるのは、私の役目でしょう? 貴方は、外ではちゃんとかっこいい『至宝』でいなさい。……じゃないと、またセリオン様に怒られるわよ」
「……う、うん。頑張る……。でも、一日一回は、こうして甘えさせてくれないと、僕、心臓が止まっちゃうからね?」
彼は私の手の甲に、深い、深い愛を込めて口づけをした。
それは夜会で見せるような中身スッカスカの芸事ではない。
魂を削り出すような、ひたむきな依存の証。
「……はいはい。わかったわよ。……愛してるわ、スカーリス」
「……っ! もう一回、もう一回言って! アデリナぁぁ!」
また、泣き笑いの顔で縋り付いてくる。
帝国の至宝、聖騎士スカーリス・グレイヴァルト。
彼は今日も、世界で一番美しく、そして世界で一番かっこよく――私だけに、無様な姿を見せている。
そんな彼の震える背中を抱きしめながら、私はこの「重すぎる幸せ」を一生背負っていく覚悟を決めるのだった。
外では完璧な紳士、家では大型犬。
そんな彼との共依存ラブコメ、お楽しみいただけましたでしょうか?
楽しんでいただけましたら評価、感想などとても励みになります!




