05 王の死
国王サーリフの妻、シャジャル・アッ=ドゥッルは動揺していた。彼女の夫がたった今、死んでしまったからである。
サーリフは十字軍襲来に際して、ファフルッディーン・ユースフに一軍を与えてダミエッタへ向かわせ、自身は残りの国軍を率いて、ここマンスーラへと進軍していた。
が、その進軍途中に。
「陛下、陛下?」
王妃シャジャル・アッ=ドゥッルが夕餉を捧げ持って、マンスーラ内の臨時の宮殿を訪れた時、冷たくなっている夫を発見した。
元々、病を押しての親征だった。
当初、サーリフとしては、ダミエッタとエルサレムの交換を条件に、ルイ九世との和睦を狙っていた。これは、第六回十字軍を率いる神聖ローマ帝国皇帝・フリードリヒ二世と、アイユーブ朝の先代国王アル・カーミルとの間で、兵を交えることなく、対話により和約が結ばれたという前例があるからだ。
しかし、ルイ九世は、その和睦の申し出を蹴った。ルイ九世は、弟であるアルトワ伯ロベールをエジプト王に据えることを前提に、つまりエジプト征服を目論んで、十字軍の兵を挙げたのだ。これは、フリードリヒ二世が戦わずしてエルサレムを調略したことを、「真の十字軍の戦いにあらず」と非難されたことを意識していると思われる。
……こうして、サーリフとしては、交渉決裂により、戦いへと向かわざるを得なくなった。病身であるのにもかかわらず。
そして無理がたたり、独り、誰にも知られることなく、簡素な臨時の宮殿の中でその生涯を終えることになった。
「……陛下」
真珠の樹という意味の名を持つ美貌の王妃、シャジャルは聡明でもあった。病に侵された国王の介添えとして従軍した彼女は、今、国王崩御を秘さねば、軍は、いや国が瓦解するということを瞬時に理解した。
王子トゥーラーン・シャーは、モンゴルへの牽制としてイラクに駐屯している。現在、対十字軍の戦線に加えるため、亡くなる直前にサーリフが召還命令を発し、イラクへはバフリー・マムルークの長アクターイが交代のために向かっている。しかし、王子が戻るには、まだ時日を要するであろう。
「……やるしかない」
シャジャルは王の居室の中に誰もいないことを確認し、居室の外の近衛の兵たちに、少し距離を取るよう命じた。
「陛下との密事……聞き耳を立てるでない」
近衛兵のうち、若い者は頬を赤らめながら居室から離れた。
次にシャジャルは、持ってきた夕餉を食べた。
国王サーリフは健在であるということを示しておかねばならない。幸い、病身であったサーリフはあまり食が進まぬらしく、かつてよりは量を少なくした夕餉であったため、健康体のシャジャルには難なく食べおおせることができた。
「……ふう」
これで、空となった夕餉の食器を持ち帰れば、サーリフは生きているということになる。少なくとも今宵は。
美貌のシャジャルはその柳眉をひそめながら、今後どうするかを考える。
「協力者が必要……軍の内部に」
今、喫緊の対応が求められるのは、ルイ九世率いる第七回十字軍への対策である。
事ここに至っては、もはや戦わざるを得まい。
ならば。
アイユーブ朝の兵を率いて、勝利をつかみ取ることのできる協力者が必要だ。
「でも……そんなことができる者がいるのだろうか? それこそ、サラディンのような」
サラディン。
あるいは、サラーフ・アッディーン。
アイユーブ朝の創始者であり、イングランドのリチャード獅子心王率いる第三回十字軍を相手にエルサレムを守り切った名将である。
いずれにせよ、バフリー・マムルークを今、率いるのはたしか……
「バイバルス・アル=ブンドクダーリーか」
衣装係の身から副隊長にまで昇りつめた男だ。最近では、剽悍で知られるホラズムから武芸やら何やら習っていると聞く。
本人の意思はともかく、サーリフの死と協力を告げざるを得ない。
「……よし」
シャジャルは空となった夕餉の食器を盆に置き、居室を出る。
「誰かある。これを下げよ。そしてバイバルスを呼んでくりゃれ」
近くにいた近衛の兵が恭しく一礼して盆を受け取り、そして走り去っていった。
シャジャル・アッ=ドゥッル。
夫・国王サーリフの死を隠し、亡き夫に成り代わってアイユーブ朝エジプトを取り仕切り、やがては女王となる女性である。
だが今は、聖王の侵略という国難を前に、必死に頭を働かせ、思い悩むひとりの未亡人である。
「政はいい。しかし、軍は軍人に任せるしかない」
古のクレオパトラも、軍はカエサルやアントニウスに任せたのではないか。女の身で、軍を率いるなど、おそらくは兵が納得しまい。
「……それこそ、やはり古代の女王、ゼノビアのように」
古代におけるシリア、パルミラ帝国の女王、ゼノビア。バイバルスの師であるゼノビアの名は、彼女の名を由来としている。パルミラ帝国のゼノビアは、ローマ帝国を相手取り、自ら馬に乗って、戦争を仕掛け、エジプトをもぎ取り、古代オリエント世界に覇を唱えた一代の女傑である。
ただ、最後はローマに破れ、虜囚となった。
シャジャルとしてはその轍を踏むわけにはいかない。
「妾はクレオパトラやゼノビアにはならぬ。妾はシャジャル、シャジャル・アッ=ドゥッル。妾のやり方で、この危機を乗り越えてみせる」
未来の女王の目に、不退転の決意が宿っていた。




