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10 十字軍、動く

 アイユーブ朝エジプトの軍議は有耶無耶のうちにファフルッディーン・ユースフの先陣による決戦開始という結論で終結した。

 当のファフルッディーンとしては納得いたしかねるところがあったが、ことここに至った以上、旌旗を立てて軍を進めざるを得ない。


「――進軍!」


 その軍を見送る影がふたつ。


「……それで、ファフルッディーン将軍を()にする作戦はうまくいきそうなのか」

「……まあな」


 ゼノビアとバイバルスである。

 ゼノビアはちょうど、ダミエッタからルイ九世が十字軍を率いて出陣したところを確認し、そしてたった今、アイユーブ朝の臨時の大本営、マンスーラにたどり着いたところであった。

 バイバルスはたどり着いたゼノビアに、これまでの事情と、これからの戦略を説明した。


「十字軍はナイルのあちら側、すなわちダミエッタの側から、こちら側、つまりカイロの側へ渡河するだろう。そこをファフルッディーン将軍に当たってもらう」

「十字軍の士気は上がっているぞ。これまでの十字軍のように、交渉なり、内部分裂なり、そういった展開は期待できない。当たれば、それ相応の激戦となろう」


 十字軍の軍議において、カイロではなくアレクサンドリアを征すべきという意見もあった。港であるアレクサンドリアを抑えれば、海路、兵糧の運搬が可能となるからだ。兵站を充実させて、徐々に影響力をエジプトの地に浸透させていくべき、という理屈である。

 だが、ルイ九世は敢えてカイロを征すると決めた。アイユーブ朝の王城であるカイロをとせば、エジプトを掌握でき、おのずと聖地エルサレムも手中に、と決断したのだ。

 のちに列聖されるほど、信心深いルイ九世である。その決断は、不退転の決意であると知れた。

 むろん、アレクサンドリアを手に入れて、というやり方ではアイユーブ朝との長期の戦争となり、それでは泥沼の戦いになってしまうという危惧もある。


「……だから、血眼になってナイルを渡ろうとしている。渡れば、さらに士気は上がろう。それをファフルッディーン将軍に当たらせようとは……何を考えている、バイバルス?」


 ゼノビアはアル=ブンドクダーリーではなく、この頃からこの褐色の肌の長身の弟子をバイバルスと呼び始めていた。「なんとなくだ」と言っていたが、一軍を率いて戦うことになった弟子について、何か思うところがあったらしい。

 呼ばれたバイバルスの方も、かつてのように「先年の虜囚の将軍と同じ名だ」と忌避することはなかった。


「ファフルッディーン将軍が勝てば良し。もし負ければ、勝ちに意気が上がる十字軍にも隙が生じよう」

「……ファフルッディーン将軍はともかく、麾下の将兵は命に従ってダミエッタから逃げただけだぞ」


 ダミエッタから逃げた責は、指揮を執ったファフルッディーンに有り、部下である部将や兵には無い。

 ゼノビアはそうたしなめたが、バイバルスとしてはそれは分かっていたが、他に方法を思いつかなかった。


「やってもらった分の仕事はするつもりだ……それを彼らが《《見ることができない》》としても」

「死んだら確かに見えんな」


 容赦のないゼノビアだが、バイバルスの肩に手を置いた。バイバルスはその碧眼で横目にちらりと、ゼノビアの繊手を見て、そしてため息をついた。そういうやり方は卑怯だと思ったが、否定するほど、今は強気になれなかった。



「――シャルル!」


 武勇に誇る、アルトワ伯ロベールが末弟の名を叫ぶ。

 呼ばれたアンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)は、手製の地図を眺め、首を振った。


「まだ――まだここではない、兄上。焦られるな」


 うむ、とロベールがうなずき、麾下のテンプル騎士団に対して、渡河はまだ早い旨回答した。

 テンプル騎士団は、いざとなれば強行渡河を図ろうと、自らが乗って来た艦艇を解体して得た木材を持参していた。

 橋を作ろうという算段である。


くな、ロベール」


 ルイ九世はジャン・ド・ジョアンヴィルを従えて、悠揚に馬を進めている。ルイ九世は、この渡河こそが最大の難所と心得ている。合戦となれば、ロベールやシャルルに任せておけば負けは無いと心得ているので、彼としては、そのいくさに至るまでに、弟たちの手綱を握ることに腐心していた。


「面目ない、兄者。そしてシャルルも」


 ロベールは素直に兄弟たちに詫びを入れ、麾下のイングランド分遣隊、ウィリアム・ロンジェスピーに、しばしの休息を取ってよいか打診した。

 北国であるイングランド出身のウィリアムは、暑熱を苦手としていたからである。


「なんの、まだまだ」


 ウィリアムは破顔して固辞した。しかし垂れる汗は止められない。

 それを見たロベールはひとつうなずくと、全軍停止を命じた。


「いや、ウィリアム卿、実はおれが遥か北のパリの涼しさが恋しくなってきたのよ。そう、卿の《《進言》》を言い訳にしようと思ったおれが馬鹿なだけ。卿の落ち度ではない」


 飽くまでもイングランドからの客分であるウィリアムに対する配慮を怠らないロベールである。

 ウィリアムは一礼してその心遣いに感謝した。



 ロベールが軍を止めたことを契機に、小休止するルイ九世の周りにシャルルやウィリアムといった将帥が集まり、臨時の軍議のようなかたちになった。

 ルイ九世はまず、シャルルに聞いた。


「シャルルよ、渡河地点の候補はいくつある?」

「……二、三はあります」

「地図の上では?」

「ここと、ここと、ここで……」

「ふむ。現在地は?」

「それはここです」


 ルイ九世はしばし沈思したのち、つづいて、敵将であるファフルッディーン・ユースフの位置について問うた。


「それなら、敵軍の内通者に、定期的に連絡をするように申し付けてあります」

「この地図に落とせるか」

「易いこと」


 シャルルは小石を拾って、地図の上に置いた。


「渡河地点のここと、ほど近いな」

「敵とて、渡河を機と見ているのでしょう」

「だろうな……」

「兄上、何を考えておられる?」

「それはな……」


 ルイ九世は問われると、ひとつの策があることを告げた。

 シャルルはそれを聞いて目を見張り、早速、現地を見繕うと言って、ロベールの制止も聞かずに行ってしまった。

 あきれた奴だ、と愚痴るロベールに、ルイ九世が話を向ける。


「ロベールよ、テンプル騎士団には、かようなことをして良いか、許しを得ておけ」

「はっ」


 ロベールもまた、嬉々として走り去っていった。

 ルイ九世は、そういうえば幼い頃、パリでもロベールとこんな風に遊んだこともあったな、とふと思い出にふけるのであった。



 ファフルッディーン・ユースフは、部下から十字軍渡河開始の報を受け、現場に急行した。

 見ると、ナイルの比較的浅い部分に、何やら木材を使って橋を作ろうとしている。


「何だ、あれは」


 狙って下さいと言っているようなものではないか。かの欧州とやらでは、このようなときに狙わないという、騎士の掟でもあるのか。


「いずれにせよ、これを狙わない手はあるか」


 ファフルッディーンの命令一下、アイユーブ朝の兵たちは火矢を放つ。

 十字軍の兵はものの見事に算を乱し、われ先にと逃げ出し、おまけに橋(になりかけの木材)には火がついて、めらめらと燃え始めた。

 あわてふためく十字軍に、ファフルッディーンは哄笑した。


「何だ、これは。これでは別に、ダミエッタから退くことはなかったわ。見よ、あの無様な姿を!」


 ファフルッディーン麾下の将兵たちも笑った。そしてこれで、ダミエッタから敵前逃亡したという汚名から免れることができたと、安堵の息をもらすのであった。

 そうこうしているうちに、十字軍は橋だった木材の塊を置いて、静々と去って行った。


「……信心さえあれば、あとは神が何とかしてくれるとでも思うておったのか。これでは間抜け過ぎて、今までの十字軍の将兵が泣くぞ」


 あの世でな、と付け加えて、ファフルッディーンは再び哄笑し、そしてマンスーラへ向けて進むよう命令するのだった。

 凱旋のために。

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