依存の庭
「血!?」
ユイは、震える声で呟いた。
「咬……まれた……みたい」
「な!?」
咬まれた? 赤ん坊に?
まだ、ちっちゃな乳歯が何本か生えたくらいの赤ん坊に?
見ると、ユイの右手の人差し指から、鮮血がしたたりおちている。
「赤ん坊をそこに置け」
顎をしゃくってベンチの方を見た。
ユイは、よろよろと芝生を歩いて、ベンチに赤ん坊を寝かせた。
「手を」
おれは、ユイの右手首を、結束バンドできつく締め上げた。
結束バンドは、サバイバルの必需品だ。
咬まれたのが指先だから、血流を遮断すれば、助かるかもしれない。
「斬り落として!」
ユイは、震えながら叫んだ。
「でも……」
「死にたくないよ……。あんな姿になって、人間を襲うのも嫌。だから、少しでも可能性があるなら、斬り落として!」
斬り落とす? ユイの手を……?
指を?
それとも、手首を?
おれの心臓は、口から飛び出そうなくらい暴れていた。
だが、迷っている時間はない。
いや、でも、あの赤ん坊は本当に感染しているのか?
「ちょっと待て。確かめる」
おれは、ベンチに寝かされた赤ん坊のおくるみをはいだ。
「おむつを替えたときに、それらしい傷はなかったわ」
だとすると……。下半身から腰ではない。
ロンパースの肩のスナップを外した。
左肩から背中にかけて、大きな絆創膏が貼ってあった。
そして、その周囲の皮膚が紫色に変色している。
何度も何度も見てきた、感染者の傷口周囲の浸潤……。
おれは、スナップを止め直しながら、大きく息を吐いた。
「ユイ」
低く呼びかける。
「斬るぞ」
「うん」
とうに覚悟を決めていたように、ユイはうなずいた。
そして、腰から下げていた鉈をおれに差し出した。
これが、彼女の武器だ。
ヤツらの頭を一撃で割れば、無力化できる。
おれは、それを公園の水道で丁寧に洗って、ライターで刃をあぶった。
「手首を落として」
ユイは、凛とした声で言った。
手首を落とす……。
なんて非現実的な言葉だろう。
だが、安全策を取るなら肩から斬り落としてもいいくらいの感染力なのだ。
おれたちは、いや、この世界に残された人間は、それをよく知っている。
木の切り株の上に布を敷いて、ユイはそこに右手を乗せた。
見つめ合う目と目が頷きあった。
おれは、鉈を振り上げ、その重さに渾身の力を込めて、ユイの右手首に振り下ろした。
悲鳴も上げずに、ユイは身体をのけぞらせた。
そのまま地面に倒れ込む寸前で、おれが抱き留める。
ユイは、気を失っていた。
なんで……。
なんでこんなことに……?
ユイ……。
幼い頃から勝ち気で、男の子とも本気で取っ組み合いをするような少女だった。
だけどそれは、大抵、おれが悪かったとき。
ユイは誰よりも優しくて、強くて、そして、本当は泣き虫だったのを、おれは知っている。
おれは、多分、子供の頃からユイのことが好きだったんだと思う。
だけど、ユイの方はどうだったのだろう?
ヤツらが現れて、看護師だったユイの母親が感染した。
最期まで、感染者を救おうと全力を尽くした医療従事者が、皮肉にも最初のクラスターとなり、感染爆発を起こすこととなった。
ユイの母親は、閉鎖された病院に立てこもり、集団自決をした。
そのときに、ユイの母親からおれは託されたのだ。
「ユイを、お願いね……」
母子家庭だったユイは、家族を失った。
彼女は、泣いて泣いて泣いて……。
そして、泣きはらした顔でおれを見上げてきた。
「ありがとう。一緒に居てくれて頼もしかった」
「ユイ、結婚しよう」
おれの口が勝手にそう喋っていた。
泣き顔で、なおも背筋を伸ばそうとしている彼女を見ていると、おれは、感情の制御ができなかった。
ムードも何もない。
いきなりのプロポーズだった。
ユイは、一瞬、驚いたように目を見開いて、そして微笑った。
「うん」
そのときの、ユイの泣き笑いのような美しい表情を、おれは一生忘れないだろう。
街を一望できる丘の上の芝に座って、おれは燃える街を見ていた。
夜の闇に、業火の赤い舌がメラメラと天を焦がしている。
膝枕でユイが眠っていた。
布でぐるぐる巻きにされたユイの欠損した右手を見て、おれは、絶対に離れないと心に誓った。
ユイは、おれの世界の全てだ。
たとえ、今夜、世界が終わるとしても、君を愛してる。
上弦の月が天空から淡い光を照らしている。
ユイは、かすかに身じろいで目を覚ました。
腕の痛みに顔をしかめる。
「やっぱり、痛いね」
やせ我慢して、辛そうに笑った。
おれは、そっと、ユイの髪を撫でた。
美しく艶やかな黒髪だった。
「熱がある。少し落ち着くまで、また寝たらいい」
「ヒカリちゃんは?」
「多分、苦しまなかったと思う」
「そう……」
春になると公園一杯に咲き乱れる桜の木の下に、赤ん坊の遺体とユイの手首を一緒に埋めた。
「ごめんね」
何に対しての謝罪なのか……。
赤ん坊を連れてきた事への謝罪なのか、手首を切り落とすなどという蛮行を強いた事への謝罪なのか……。
ユイは、それだけ呟くと再び眠りに落ちた。
大丈夫だ。おれは、ユイを護るためなら何だってする。
彼女と一緒に居るためなら、なんだって……。
でも、もし、彼女を失うようなことがあったら……。
膝にユイの重みを感じながら、おれは、最悪の考えが浮かんでくるのを必死で拭い去ろうとした。
東の空が白み始めたころ、ユイは再び目を覚ました。
熱で朦朧としているのか、うつろな目をしている。
「ユイ」
おれは、祈るような気持ちで呼びかけた。
「おはよう」
ユイは、かすれた声で挨拶をした。
切断した手首に巻いた布が、血を吸って赤く染まっている。
手首はギチギチに締め上げていた。二の腕に止血帯を巻いたので、それを時々緩めてやらねばならない。
だから、心配したほどの出血量ではない。
「ビスケットがある。食えるか?」
おれは、リュックからペットボトルの水と、ビスケットを出して、ユイの左手にビスケットを一枚握らせた。
ユイは、ビスケットをそっと口に運んだ。
一口、囓る。
「う……」
その場に崩れるようにして、ユイはビスケットを吐き出した。
おれは、黙ってユイの背をさする。
ダメか……。
やっぱり、ダメなのか……。
ユイの右腕が、切断面から少しずつ紫色に変色してきていた。
それは、ゆっくりと腕を這い上るように、紫色の蛇に絡め取られるように腕を登ってきている。
もっと上の方から落とせば間に合っただろうか?
そもそも、血流に乗って感染が広がるものならば、感染部位を切除しても気休めにしかならないのはわかっていたのに。
ユイは身体を起こすと、少しだけペットボトルの水を飲んだ。
そっとおれの肩に頭を預ける。
熱を帯びたユイの身体は、とても熱かった。
「あのね……。結婚しようって言われたとき、わたし、すごくびっくりしたんだ……」
ユイは唐突に話し出した。
「好きだとも、付き合おうとも言わずに、いきなり結婚だもん」
「なんだか、テンパっちゃって、おれ……」
「でも」
ユイは、ぱぁっと花が咲くように笑った。
「とっても嬉しかった」
「うん」
「これからは、ずっとずっと一緒にいられるんだって……」
「うん」
「だからね、どんなことにも耐えようって思ってた。こんなになっちゃった世界でも、望みのない未来でも、二人で一緒なら……って」
「うん」
「いつか、赤ちゃんが出来て、産んで育てて、その子と一緒に、家族を作って……」
「うん」
「わたしはシワシワのおばあちゃんになって……、あなたはツルピカのおじいちゃんになって……それでも仲良しで……」
「うん」
相づちを打つおれは、いつの間にか泣いていた。
ユイがあまりに幸せそうに話すから。ほんものの未来のように明るく語るから。
だから、おれも、その来るはずもない未来を思い描いた。
胸がえぐられるようだった。
息が出来なかった。
何か重たい物が、どんどん身体の中に詰まっていくような、胃袋が苦い砂で満たされていくような。
そんな苦しさで押しつぶされそうだった。
「……ちゃん……ありが……とう……」
ユイの声は、もうほとんど聞こえなかった。
「だから……生きて……」
そう言い残して、ユイはまた眠りについた。
ここから一晩か二晩……。
高熱の中、地獄の苦しみに襲われ、獣のような咆吼をあげて、ユイはヤツらの仲間入りをするのだ。
おれは、ユイをそっと芝の上に寝かせた。
その唇に最期のキスを送る。
「おやすみ、ユイ」
俺は銃を構えた。
視界は涙でぐちゃぐちゃで、よく見えない。
ユイ……ユイ……ユイ……。
うわごとのようにその名を呼び続けた。
そして、震える指先で引き金を引いた。
おれは膝から崩れ落ち、彼女の亡骸にすがって泣いた。
喉がひりつき、声が出なくなるまで泣いた。
ユイは最期に、おれに生きろと言った。
この狂った世界で、おれに、独りで生きろと言った。
もし、おれがこの世界を救える救世主なら、それもアリかもしれない。
だけど……。
おれに残されたのは、ユイへの想いだけだ。
だから。
おれは……。
なあ、ユイ……。
今夜、世界が終わるとしたら、君と眠ろう。
幕




