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4月5日13時 地図と教科書と

 PCを起こしてGoogleMaps(※3-1)を呼び出す。すると、巫女装束の幽霊がモニタにまとわりつきだした。画面が見えないので作業ができない。

 仕方がないので大型モニタと作業用モニタの画面設定をいじって、2枚どちらもに同じ画面が映るようにする。壁際の大型の方を見てなさいと手で示し、幽霊を追い払うことに成功した。私は机に設置している2枚の中型モニタの方で作業を再開する。

 札幌市中央区から北西、新川をなぞるようにドラックして「オタネ浜」に辿り着く。ストリートビューを確認すると、ちょうど昨日彼女を見つけた場所にも分布があった。クリックして360度写真を表示する。

 クリックすると、見覚えのある浜辺が画面に映し出された。ドラッグするとぐりぐりと視点を回転できるようになっている。砂浜や河口、そして広がる海はあの時と大差ないが、陸の方に目をやると昨日よりも随分緑が多い。撮影日を確認すると、数年前の6月だった。しばらく辺りを見回すも、特に変わったところはない。

 分割された画面の下方に表示されている平面地図を見るに、ストリートビューとはいっても写真が残っているのはこの砂浜のみで、私が必死で逃げたあの細い道は記録されていないようだ。

「ここが昨日あなたと出会った場所ですが、何か思い出せることはありますか? 例えば何故ここに居たかとか、他の場所に行ったことがあるかとか……」

 大型の方のモニタに張り付いている女に問いかけるが、その返答はすべて否だった。

「では、いつからここに居たのかは分かりますか?」

 女は首を傾げた後、手を大きく広げて見せた。

「……どれくらいかは分からないが、とにかく長い間ってことでしょうか」

 女は二、三度首を縦に振った。

 返答を終えた女はモニタを振り返り、GoogleMapsを眺め出した。その視線はストリートビューよりもむしろその下の地図に注がれている。

「地図の方が気になるんですか」

 そう問うと、女はこちらを振り向いて頷いた。

 ならば、とストリートビューからひとつ戻って地図を全面表示にする。

 彼女はしばらく画面を見つめ、顎に手を当てて何かを考えているようだった。女は考え込むにつれてだんだん身体の角度が増していき、しばらく経った今では、もはや逆さまに達しようとしている。浮遊したことがないからわからないが、姿勢制御にも思考リソースが必要なのだろうか。

 ちょうど一回転したあたりで、女は地図に手を伸ばして新川を斜めに切るように指を動かしてみせた。新川の西――清川との合流地点の南あたりから新川河口の東側の海岸までをつなぐ一直線だ。こちらを振り向き、目で「どうだ」と語り掛けてくる。

 何が言いたいのか全く分からない。とりあえず私もマウスカーソルでそのあたりをなぞってみると、女は「我が意を得たり」とばかりに頷いた。いや、意、得ていないです。私は首を横に振った。

 伝わっていないことが伝わったらしく、女はアプローチを変えてきた。今度は先程の直線の始点と終点を交互につついている。いや、わからないです。

 その後もいろいろ試している女の指を眺めるが、まったくわからない。また「こっくりさん」用の五十音表を用意しようかな。ジェスチャーに固執している節のあるこの幽霊が、素直に従ってくれるかは分からないが。

 とりあえず、幽霊の指さした2点を見つめる。ただ見つめていても仕方ないのでGoogleMapsの表示を航空写真にしたり、スクロールして拡大したりする。

 女はより精細になったマップの上で円を描き、どこを指していたのかを私に伝えた。

 一方は「手稲山口バッタ塚」付近、もう一方は「オタナイ発祥之地碑」の北にある大きな池だ。

「こことここですか」

 と、バッタ塚の辺りと池の輪郭をカーソルでなぞって女に確認する。女は笑みをこぼしながら頷いた。この2点がなんだというのだろうか。

 とりあえず、北にある池の方から考えることにしよう。私はもう一度地図を眺めた。魚を真上から見たような、妙な形の池だ。航空写真をさらに拡大すると、池というよりは沼といった方がいいような、そんな風合いをしていることが分かった。

 いや、そんなことよりも位置が妙だな。海岸と河川のすぐ近くにある沼ないし池なんて珍しいのではないだろうか。沼にも池にも全然詳しくないが、直感的には海や川に水を吸われて消えてしまいそうなものだ。しかし、そうはならなかったらしい。もう便宜的に沼と呼んでしまうが、これはよほど深い沼なのかもしれない。

 深くて細長い沼……いや、あの位置ならそこまで深くなくとも多少の海抜があれば――。そこまで考えたとき、脳髄に閃きが走った。

「川か」

 その勢いのあまり、閃きが口をついてまろび出てしまった。

 この呟きを聞きつけた女は、赤べこのごとく首を縦に振っていた。どうやら正解らしい。

 かつてこの沼は川だったのだ。

 一昨日風に煽られながら歩いた新川沿いを思い出す。あの時に見た看板には新川の成り立ちが書いてあった。閃きによって活性化した脳細胞が、かすかな記憶を手繰り寄せてくれている。

 新川。あのあまりにもまっすぐな川は、明治期に掘られた人工河川だ。あの大きな川を作った時、もともとあった河川――清川だろうか――をぶった切ってしまったのではなかろうか。

 あの細長い沼の辺りに川があったとすれば、新川の水量に押されて今の真っ直ぐな河口が新しくできてもおかしくない。その結果、元の川の水位が下がって比較的浅い部分が閉じられ、相対的に深い部分だけが沼になったと考えられる。

 仮説が立ったなら、あとは検証だ。

 新規のタブで「国立国会図書館ウェブサイト」(※8-1)にアクセスする。昔の新川河口の地理。これぐらい調査対象がはっきりとしていれば、国立国会図書館が提供している調べもの案内が役に立つはずだ。

 私は無職なので、無料で利用できるサービスへの造詣が深い。もちろん図書館もその例外ではない。図書館というものは誰に対しても知る自由を保障してくれるのだ。いかに無職が持たざる者であったとしても、基本的人権ぐらいは持っている。ありがたく自由を享受させてもらおう。

 「国立国会図書館ウェブサイト」に掲載されている「Webサービス一覧」を上から眺めていく。コンテンツが多くてついつい目移りしてしまうが、そこは堪えて手を進める。

 「次世代型実験システム」などという心躍るフレーズを横目にページをスクロールしていくと、「調べ方案内」に「リサーチ・ナビ」(※8-2)のリンクがあった。公式曰く、これは「調べものに役立つ情報を紹介する国立国会図書館の調べ方案内」である。

 おぼろげな記憶を頼りに「人文科学」の項にある「人文リンク集」(※8-3)に遷移する。説明書きによると、これは「人文科学およびジャンル横断的な調べもの(いわゆる総記分野)に役立つデータベースへのリンク集」とのことだ。意気揚々と足を踏み出したものの、実のところは名前もあやふやだったので無事辿り着けて安心した。

 流れるようにページを進め、「地理・地名」の項で紹介されているデータベース群を眺める。立ち並ぶ名前を見るに「地図・空中写真閲覧サービス (国土地理院)」がいいだろうか。札幌は国によって作られた計画都市なので、新川ができたころの古い地図であっても国が測量して保存している可能性は高い。見るからに国家機関じみた名前の「国土地理院」には期待していいだろう。

 リンクをクリックし、「地図・空中写真閲覧サービス 」(※8-4)を表示する。そのまま新川河口に照準を合わせ、「地図の中心に合わせて検索」すると、何百件もの検索結果が表示された。Warningメッセージも出ている。検索結果の件数が上限を超えているらしい。

 条件を付けて絞らなくては。とりあえず戦前戦後で区切ろう。最近でこそ枚数が多いが、戦前まではそんなに頻繁に地図を更新していたわけではなさそうだ。これならある程度までは年代昇順で見ていくことができるだろう。戦後に入ったら適宜ピックアップだ。「作成・撮影年」を設定し、地図を確認していく。

 1時間かけて古地図を漁ったところ、新川河口を確認できる最古の国土地理院保有地図は「5万地形図『札幌』」、「5万地形図『小樽』」、「5万地形図『銭函』」(※8-5,6,7)だった。これらの地図は1896年測量・1909年一部修正だ。おおむね1896年――明治42年のものだと思っていいだろう。

 これによると、現在の「オタナイ発祥之地碑」の辺りの沼は、かつて新川と石狩湾を繋いだ短い川――「小樽内(オタネ)川」だったらしい。海岸に対して逆S字を描くこの小さな川は、時と共に姿を変えていった。そして、1965年の「2.5万地形図『銭函』」(※8-8)で、新川は「小樽内(オタネ)川」を離れ、石狩湾に垂直に流れる現代の形になる。このときに「小樽内(オタネ)川」は流れを失い、例の沼になったのだ。

 また、明治42年の地図によると女の示したもう一方――「手稲山口バッタ塚」付近には大きな沼があった。これは、元「小樽内(オタネ)川」の沼とは違って、だんだんと消えていった沼のようだ。時代を辿ると大正7年の「2.5万地形図『銭函』」(※8-9)時点で随分小さくなっており、もう沼とは呼べない細い流れになっていた。

 明治42年の地図の「小樽内(オタネ)川」と名も無き沼をカーソルでなぞると、浮遊する女はこちらにパッと向き直り、全身で頷いた。ノリノリである。どうやらこのことを私に伝えたかったらしい。

 しかし、こうなると、これは一体どういうことだろうか。ここまでの情報を総合して考えるに、この女は1916年――大正5年より前の新川河口付近の地形を知っている。

 持たざるもの代表であるところの私がたったの1時間で当時の地形に辿り着けた以上、現代人ならだれでも知り得ることではある。だが、かといって通常わざわざ調べたいことでもないだろう。100年以上前の新川下流に詳しいこの女は、一体どういう人物だったのだろうか。

 ……もしかしたら、川マニアだったのかもしれない。あるいは、沼マニア。いや、小学校の自由研究で熱心に郷土史を調べるタイプだった可能性もある。

 要は、考えていても仕方ないということだ。とりあえず聞いてみよう。

 私はWebブラウザに再び「こっくりさん」と打ち込み、例の五十音表を画面に映した。理由を問うてみても、きっと身振り手振りで答えるのは難しかろうという気遣いだ。でも、これあんまり使ってくれないんだよなぁ……。

 午前中の様子を思い出してげんなりする。あの長い問答の中でこの表が使われたシーンは「調べよ」という命令、「三代祟る」という脅し、それから「あいうえお、そ、やゆよ、わおん」などという意味のない手遊びだけだ。言葉が通じていないわけでもないのだから、普通にこの表を使ってくれればお互い随分楽にコミュニケーションがとれるだろう。にもかかわらず、どうしてジェスチャーゲームに拘るのだろうか。調べる気があるのかないのか、よくわからない。やる気がないなら依頼を取り消してほしい。

 不満を口の中で転がしながら五十音表を眺めていると、再び脳裏に電流走る。

 電流の確度を確かめるため、私はすぐさま国立国会図書館提供の「リサーチ・ナビ」を再訪した。「教育・教科書」の見出しを追って、「教科書の調べ方」(※8-10)のページに飛ぶ。ここでは文字通り、教科書の調べ方が紹介されていた。多分そういった類のものはあるだろうと思っていたが、そのものずばりの名称が置かれていると少し面食らう。

 いや、分かりやすいのは大変結構なことだ。ありがとう、国立国会図書館。

 気を取り直して、電流に導かれるまま「近代教科書デジタルアーカイブ」のリンクを踏む。このサイトでは明治から戦前ぐらいまでの教科書を自由に閲覧できるらしい。

 「近代教科書デジタルアーカイブ」(※8-11)を開くと、いくつかの分類が提示された。とりあえず左端の一番上にある「明治初年教科書」の「小学入門」を選んで、全体公開されている中でトップに躍り出た教科書をクリックする。

 タイトルは「教科入門」(※8-12)。1887年に出版された初等教育用の教科書だ。無料公開されているPDFを開く。中身をスクロールして確認すると、その中には「五十音」と題されたカタカナ・ひらがなの五十音表と、「平假名」と題されたいろは表があった。

 これを見て、やはりあの電流は正しかったことを悟る。あの時女が指した「あいうえお、そ、やゆよ、わおん」は単なる手遊びではなかった。あれは、昔のひらがなと現代のひらがなのすり合わせだ。

 古典で習った人もいるかもしれないが、日本語には変体仮名というものがある。現代で広く用いられているひらがなとは異なる、古い字体のことだ。今だと蕎麦屋の暖簾などでたまに見かける、あの難し気な文字である。

 ひらがな・カタカナは音に漢字を当てた上で、崩して、略して、使いやすくしたものだ。しかしその過程で、描き手の匙加減によって山ほど字体ができてしまった。

 例えば「そば」の「そ」という音に該当する仮名たちの字母――元となった漢字には「所・曾・楚・蘇・處」の5種類が挙げられる。これだけでも十分多いが、これに時代・書き手による崩し方がかかってくるので、結構なバリエーションの「そ」があることになる。ちなみに、うちの近所の蕎麦屋の暖簾には「楚」を字母に取った「そ」が書かれており、現代の「曾」に連なる「そ」とは似ても似つかない文字が風にはためいている。

 「教科入門」ではあらかた変体仮名は掃討されて、現代のように一本化が目指されているようだ。しかし、それでもなお現代との違いは残っている。それが、「え」と「お」、そして「そ」。それから、変体仮名とは少し性質が違うがヤ行の「え」、ワ行の「ゐ」「ゑ」だ。あの時の「あいうえお、そ、やゆよ、わおん」と行が一致する。

「これ、見覚えありますか」

 「教科入門」の「五十音」を指して幽霊に聞くと、幽霊は懐かしそうに目を細めて頷いた。

 懐かしそうに、か。明治・大正期の新川河口の地形を知っていたことを合わせて考えると、もしかすると、この幽霊は結構な年嵩なのかもしれない。長い間オタネ浜にいたとは言っていたが、まさか100年越えの可能性があるとは思わなんだ。先に言ってくれれば1時間もかけて地図を漁らずに済んだのに。

 思えば、五十音表を指して私に復唱させていたあのときの幽霊は、小さく頷いたり何かを考えこむようなリアクションを見せていた。おそらくあの時の幽霊は、ひらがなのアップデートをしていたものと思われる。使用文字が違うことに気づいていたなら、これもその時点で教えてほしかった。思えば、女の示した「調べよ」という言葉は偉ぶって使われたのではなく、単に使用語彙が古めかしかっただけなのかもしれない。……いや、いくら時代を遡っても命令形は命令形だな。関係ないか。この女は偉そうな奴だ。

 「では、このあたりは」

 内心で考察を続けつつ、手では「教科入門」の表紙や、最初の方に掲載されている「單語一」の項を見せる。「單語一」には網や靴等のイラスト群と共に、その名称がカタカナで付記されている。現代の文字教育でも最初に見るような内容だ。

 女はひとつ首をかしげ、しばらく見定めてから首を横に振った。変体仮名交じりの五十音表には見覚えがあるが、「教科入門」自体についてはそうではないらしい。この教科書を使っていたわけではないということか。具体的に何歳かアタリがつけばと思ったが、難しいようだ。

 そもそも、現代だって使う教科書は学校ごとにばらつきがある。よって、これを手掛かりに年齢を当てるのは不可能だ。これも没だな。

 「あなたは明治とか大正――今から100年以上前のものに見覚えがあるようです。もしかすると、それぐらい前に生きていた人間なのではないかと思っているのですが、どうでしょうか」

 とりあえず浮かび上がった仮説を投げて、問うてみる。

 すると女はしばらく宙を見上げた後、目を瞑って深く頷いた。

「ほかに何か心当たりは」

 女は、目を瞑ったまま首を横に振った。

 うーん、ままならない。私は座椅子の背もたれに体を預けた。もはや首を座らせることもできず、放り投げられた視線は窓の外へ飛んでいく。遠くに白く霞んだ山々が見えた。

 明治・大正期の、しかも名前すら分からない人物の調査。これは、厳しいか。いよいよ財布を握りしめてお祓いに行く時が来たかもしれない。

 諦めの境地に立っていると、投げ出した視線を遮るように幽霊がこちらの顔を覗き込んできた。……はい、やります。やりますとも。

3DCG化した巫女装束の幽霊と一緒に古地図を漁る動画を作りました!

よかったらご覧ください!

挿絵(By みてみん)

【自由研究】知らん沼、調べてみた!【札幌・小樽】

https://youtu.be/v1ItTYj0-80?si=kLEr91rCv5jGKmIL

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