4月5日10時 この女が言うには
新川河口での逃亡劇、並びに深夜の自宅襲撃から一夜明け、私は意外にも冷静さを取り戻していた。昨日床に就いたのが22時ごろで、目覚めたのが10時だったから、おおよそ12時間もの間眠っていたことになる。
幸いなことに、半日気絶していた私に対して、女が危害を加えてきた形跡はなかった。部屋の様子も昨日と変わらない。今朝私が冷静だった原因は、長時間の睡眠で脳のキャッシュがクリアされたこと以上に、直接の被害がないのを確認したことが大きかった。もちろん、すでに家に乗り込まれている以上開き直るしかないという考えも多少ある。
そんなわけで私は今、一定の距離を保ちつつ、冷静に謎の女を観察していた。
それにしても、見知らぬヒト型が浮いているというだけで部屋が一回り狭くなったかのような圧迫感がある。私の住む1LDKは一人で暮らす分には決して狭くないのだが、人間大の浮遊物は許容できなかったようだ。加えてその色もよろしくない。袴とショールめいた布の赤が目に痛く、質素な内装の中で異彩を放っている。この紅白の和装は巫女装束でいいのだろうか。私は神職の服装にも詳しくないぞ。
女の放つプレッシャーから逃れるべく、私はカーテンを開けて窓の外を見た。快晴とまではいかないまでも、昨日の厚い雲はすでに姿を消し、太陽が暖かく辺りを照らしている。一年中緑を茂らせている街路樹も、心なしか昨日より元気に見える。天気予報の通り、ついに札幌に春が来たようだ。ここぞとばかりに青い光が私の目を刺してくる。私はそのまばゆい光に眉を顰めた。
室内の障害から目を背けたことを太陽に咎められたので、仕方なしにそれと向き合う。
見ての通り、私の安息の地は紅白のおめでたい浮遊物に侵略されてしまった。ありとあらゆる手段を持ってこの女をこの部屋から追い出し、私の安寧の日々を取り戻さねばならない。しかし、私はあいにくの無職である。無職の手の中のカードは常に制限されているのだ。まずは手の中のカードを元に方針を固めなくては。
この女が幽霊であると言うならば、やはり未練や恨みを断ち切って成仏させるのが定番だろうか。あるいは、印でも結んで悪霊退散と声高に叫ぶのがよいだろうか。ちなみに、専門家による除霊は最初から選択肢に入っていない。お祓いには金銭が必要だからだ。寺社仏閣並びに霊能力者のお歴々の御力を疑っているとかそういうわけではなく、こちら側の問題である。無職の懐は常に寂しく、寄付やらなにやらに入れ込める余力はない。
しかもこの女、前述のとおり巫女姿である。神道系列の人間だったのだろうか。その場合、神社での祈祷には耐性があるのだろうか。それとも、だからこそ神社に持っていくべきなのだろうか。いや、いずれにしろ先立つものを持たざる無職には関係のないことだ。取りうる手段の中から考えていこう。
「そもそもこいつは幽霊なのか? この幻聴のように、孤独に冒されていよいよ頭がおかしくなった末の幻覚なのでは?」
成仏、除霊……と考えているうちに、内なる私が声をかけてきた。あんまりな言い草だ。「内なる私の声」というのは単なる言葉の綾で、私は幻聴に悩まされているわけではない。とはいえ、この反論は内なる私が提示した幻覚説そのものを否定できていない。実際に浮遊するヒト型などという非現実的な光景が見えているわけだし、一理あるような気もする。誰だって自分が狂っていないことの証明はできないのだ。
私は訝しげに女を見上げた。地に足こそついていないが、足はある。
幽霊が広く足を失ったのは、円山応挙という江戸期の絵師が描いた足のない幽霊画の大ヒットが理由だという説がある。応挙も、よもや自分が日本全国の幽霊の足を奪ってしまうことになるとは思っていなかっただろう。表現や技法がモチーフそのものに干渉してしまうのにはいささかの無常感を覚えるが、今は関係のないことだ。本題に戻ろう。例えば耳なし芳一に出てくる怨霊なんかは鬼火の姿だった気がするし、いまさら足の有無程度の些細な違いで幽霊か否かを判別できるなどと思わない方がいい。
思えばこの女、室内なのに草履のままだ。床に足がつかないならいいとでも思っているのだろうか。視線で土足を咎めると、女は袴の右側の裾を抑え、そのまま右足を軽く蹴り上げるようにして草履の底を見せてきた。土ひとつ付いていない。これはそもそも汚れていないので土足ではないぞという主張だろうか。それなら、まあ、いいか……。
先に無断侵入されてしまっているからか、今更この程度でとやかく言わないような広い心を手に入れてしまった。私は本来数千円のお布施にも躊躇するような狭量でみみっちい人間だったはずだ。可及的速やかに平常心を取り戻したい。
また話が逸れてしまった。私は、今、この女が幽霊か幻覚かを考えなくてはならないのだ。いい加減にしてほしい。私自身のことぐらい親身になってはくれまいか。
仮にこの女が幻覚だったと仮定して考えよう。幻覚を確かめる術はそこまで知らないが、既に私はノーリスクで切れるカードを一枚手にしている。すなわち、眼鏡である。
実は私はインテリ無職なので眼鏡をかけている。小学生の頃のちょっとした事故以来どんどん目が悪くなっていき、ようやく下げ止まった時には裸眼視力0.1以下になっていた。この眼鏡を外しても彼女がはっきり見えていたら、彼女は私の脳機能の異常により見えている幻覚ということになる。……待て、「脳機能の異常」だと。これまでになくシリアスな言葉じゃないか。幽霊も怖いが病気はもっと怖い。無職の一人暮らしならなおさらだ。これは昨日の妖怪談義よりも真剣に考えなければならない問題になってきたようだ。
脳裏をよぎる緊急入院の4文字を尻目に、私は緊張しながら眼鏡を額の方へずらした。自然と眇められた眼でそっと女の方を見ると、果たしてそこにあったのはくっきりと輪郭を保った幻覚の姿だった。幻覚は私の2m前方、かつ、やや上方で横になって浮かんでおり、こちらに手を振っている。動揺からか私の視線が少し落ちる。他人の家で明らかにくつろいでいる女の下には、大型のPCモニタがうすぼんやりと鎮座していた。これは、終わったか……。
「気にするほどのことじゃない。まだまだこれからだ」
絶望に沈んでいると、もう一人の私が励ましの声を寄せてきた。ありがとう、正常性バイアス。でもお前、さっきと言っていることが違わないか。一体どの立場から物を言っているんだ。
私は小さく息を吐いて、それから視線を前へ戻した。
内なる認知の歪みは、私に少しの余裕と1つの気づきを与えてくれた。すなわち、幽霊は目で見るものなのだろうかという疑問である。幽霊がいわゆる第六感なるもので知覚される場合、視覚が用いられない。そのため、眼鏡法を試した現段階でも幻覚と幽霊の切り分けはまだできていないことになる。つまり、私の脳は医学の領域において正常な可能性がまだ存在する。
「認知が歪んでいる状態が正常なわけないだろ」とか「脳の病気は怖いので、少しでも疑わしい部分があるならさっさと病院に行くべき」といった正論からは当然目をそらす。バイアスに囚われた人間が正常な判断をするわけないだろう。私はゆっくりとインテリジェンスの象徴たる眼鏡をかけなおした。凹レンズによって明瞭さを取り戻した視界の中で、輪郭の変わらぬ謎のヒト型はいまだにゆるゆると手を振り続けている。とりあえず手を振り返しておこう。
気まぐれに手のひらを女に向けると、彼女はパッと表情を明るくして体を起こし、こちらに話しかけるそぶりを見せた。しきりに口を動かしているが、こちらに何かが聞こえることはない。
「……すみません、何も聞こえないです。筆談とか身振り手振りでどうにかなりませんか」
率直に現状を伝え、代案を提示する。すると女はまた少し口を動かし、そして顎に手を当ててしばらく何かを考えた後、最終的に頷いた。ひとまず了解したらしい。あちらは話せなくとも、こちらの言葉は通じているようだ。
とりあえず鉛筆を探し、女に手渡す。すると、私の手から離れた筆記用具は女の手をすり抜け、カーペットの上へ転がることになった。どうやらこの女には実体がないらしい。幽霊でも幻覚でも大抵実体はなかろうから、案の定と言ってもいい。女は残念そうに鉛筆を見つめている。
次の選択肢はジャスチャーだ。自身を指さしたり、手を広げてみたり、合わせてみたり忙しく手を動かしている。彼女はしばらく悪戦苦闘していたが、残念ながら何も伝わるものはなかった。こちらから言い出しておいて申し訳ない。
「ちょっと待っていてください」
そう言って私はPCを起動し、Webブラウザに「こっくりさん」と打ち込んだ。
その結果を見るより早く、モニタと私の間に女の後頭部が割り込んでくる。いきなり目の前に現れた黒い毛玉に思わず仰け反る。反射的に手で払うも、何の感触も返ってくることはなかった。すぐさま手を引っ込めて、握ったり開いたり一通り動作を確認する。なんだか薄気味が悪いが、異常はないようだ。
女をどかすことを諦めて、サブモニタにウインドウを移す。
私のPCのディスプレイ環境は3枚構成だ。正面壁際の大型モニタのほか、部屋中央のローデスクに作業用の中型モニタを2枚設置している。かつて東京で正社員をしていた時代の遺物だ。はっきり言って持て余しているが、積極的に捨てる理由もないので札幌に引っ越してからも3枚繋げたままにしている。よって、1枚ぐらいくれてやっても支障はない。
出てきた検索結果から画像を選択し、そのまま全画面表示する。五十音のひらがなと0から9までの数字、それから鳥居の絵を挟んで「はい」「いいえ」が書かれている例の紙である。本来は複数人の指で10円玉を抑えて霊と対話するためのものだが、こちらは既に対象が見えているのだから手順に従う必要はなかろう。浮遊物に声をかけながら、モニタ上のひらがなを一文字ずつなぞって見せる。
「こ・れ・わ・か・り・ま・す・か」
女は得心いったような表情を浮かべ、「はい」に指を当てた。
「よかったです。まずは……そうですね。自己紹介からいきましょう。私は――」
こちらの名を名乗ったかどうかというタイミングで、女は「いいえ」に指を移した。
なんだ。無職に名乗る名はないということか。さすがにそこまで行くと差別だぞ。自虐はいいが、他人に虐げられると少し腹が立つ。
それを気取ったのだろうか、女は焦ったように胸の前で手を振り、自身を指さした。
「……名乗れない理由は、あなたの方にあるのですか?」
身振りから推測して確認すると、女は頷きながら「はい」を指した。
「身分を隠したいとか?」
女は横に首を振り、「いいえ」を指した。というか、これでは五十音表の意味がない。
「あの、このひらがなの表を使って教えてもらえませんか」
女はしばらく五十音表の上で指を彷徨わせてから、何かを思いついたように手を打った。そして、モニタの文字を指し始める。
――あ・い・う・え・お。
女の指を追うように私は「あ・い・う・え・お」と口にする。何か意味のある言葉を示し始めたと思ったからだ。
その予想は4文字目あたりで裏切られ、私は女の目的が分からず困惑した。何をしているのだろう。女の顔に視線を移すと、表を見て何やら頷いていた。続けて女の指がモニタの上を動く。合わせて私も復唱する。
――そ。
「そ」
――や・ゆ・よ。
「や・ゆ・よ」
――わ・お・ん。
「……わ・お・ん」
――⛩。
「…………鳥居」
そこまで指して、そのまま女は手を顎に当てた。目の焦点が遠くにあり、何事か考えているようだ。一体なんなんだ。さてはこいつ、まともに取り合う気がないな。
「自己紹介、する気あります?」
女はすぐさま「はい」に指を移した。その眼を見れば、確かな活力に溢れている。やる気はあるが、五十音表を使う気はないらしい。
身分を隠す気はなく、自己紹介をする気もある。その手段も手にしているが、それでも実行できない理由がある。ならば……。
「……名前がない?」
思い付きを問いにして投げかける。
女は何かを摘まむような手の形を見せながら、残念そうに首を横に振った。惜しかったようだ。幽霊にも名前はあるらしい。
「では、名前を憶えていない?」
国民的童謡に基づく仮説を投げつける。
すると、女は「それだ」と言わんばかりにこちらを指さし、そしてそのままモニタの上に表示された「はい」に指を移した。
私の目の前、モニタの隣に浮いている女を改めて眺める。どうやらこの女は記憶喪失らしい。
「それは……なんというか、大変ですね。お大事に」
とりあえず慰めの言葉をかけておく。私の錆び付いた社交能力が唸りを上げる。1年間の無職引きこもり生活を経た私の口からは、もはや薄っぺらい言葉しか出なくなっていた。が、それでもやらないよりマシだろう。
私の曖昧な励ましに女は明朗な笑みで応え、そして、私を指さした。
「な、なんですか」
突然こちらへ向けられた指先にたじろぐ。女はその指で五十音表をなぞり、私に語り掛けた。
――し・ら・べ・よ。
意味が分からない。「しらべよ」……「調べよ」か?
初対面の人間に指を突き付けて命令とは、この小娘、あまりに礼儀を知らぬ。困惑のあまりこちらも時代がかった物言いになってしまった。というか、一体何を調べろというのか。
戸惑いを隠せないでいると、女の指先は続けて女自身の顔に向いた。
「……あなたのことを調べろってことですか?」
問うてみると、女は微笑みを湛えたまま頷いた。
「いや、そういうのは警察とか探偵に言ってくださいよ」
自分探し……は違うな。人探しともちょっと違う。この場合は、身元の特定だろうか。いずれにしろ、それは無職の領分ではない。そもそも無職に領分はない。いや、何かしらやっている無職もいるだろうが、少なくとも私はそういったものを持たない。私は犬でも、お巡りさんでもないのだ。
「私ではお役に立てません。他の人にあたってください」
お断りの言葉を並べると、女は再び五十音表をなぞりだした。
――さ・ん・だ・い・た・た・る。
そして、笑みを消してこちらを睨め付ける。胸の前に持ってこられた手首は力なく枝垂れており、いかにも幽霊然としていた。明るい内からそれをやられてもいまいちピンと来ない。私の次の代があるかについては大いに議論の余地があるが、とにかく長い間祟られてしまうらしい。「祟る」とは具体的にどういうことが起きるのだろうか。
「あの、『祟る』って何をされるんですか?」
素直に聞いてみる。すると女は、私の頭上をするりと抜けて背後に回り込んだ。何を、と体を捻って首を後ろに向けるも、女は視界の外へ外へと立ち回り、視界の端でしかその姿を捉えられない。左右に首を回してさらにその影を追ってみるも、赤い袴の裾がちらつくだけだった。
……も、ものすごい嫌だ。でかい虫が部屋の死角に潜んでいる時の感覚に似ている。いっそ常に目につくところにいてほしい。「三代」はともかく、長い間これが続くとなればそのストレスは想像もしたくない。しばし動き回る紅白の影と格闘し、ため息と共に諦める。
「……わかりました。やるだけやりましょう。もしダメでも祟らないでくださいね」
脅しにより承諾を引き出した彼女は私の前に再び姿を見せ、満足そうに微笑みながらかぶりを振った。失敗は許されないらしい。