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4月4日11時 新川に沿って歩く

 令和7年4月4日の真っ昼間、私はマンションの一室で踊っていた。朝から最高潮の絶好調だ。

 三寒四温の波がだんだんと高くなり、ついに明日、ここ札幌市に春が来る。

 天気予報によると寒いのは今日までで、明日からの最高気温は10度を常に超え、来週には16度にまで達するらしい。つい先週まで雪が降っていたとは思えない暖かさだ。

 小躍りしながら窓の外を見ると、12月から居座っていた雪景色はすでに山の方へ拠点を移している。雲間から差す光をなぞるように視線を下に向けると、雪解け水で濡れたアスファルトがキラキラと光っていた。この暖かな情景、これはもう春が来ているのではないだろうか。そんな気がして、私は窓を開け放った。

 見た目に反してずっと冷たい風が部屋と肺に流れ込む。ただの気のせいだったらしい。外気温はたったの3度で風も強い。冬の断末魔が聞こえてくるようだ。窓を閉めよう。

 思えば、私が札幌に住まう孤高の無職となってから1年が経っていた。

 せっかく社会のサイクルから解き放たれたにもかかわらず、律儀に早寝早起き・一日三食の健康的ライフスタイルをとっている。近年稀に見る真人間だ。かつて労働によって追いやられていた睡眠や食事は、1年かけてようやくあるべき姿を取り戻した。

 暇が高じて、本日の朝餉には一汁三菜にデザートまで付けてしまった。朝から皿が何枚使われようと関係ない。健康的な生活に支えられた私の肉体は、もはや洗い物も苦にならない程まで練り上げられている。軽々とキャリアハイを更新する肉体に釣られるように、私の精神も天高く飛翔していた。

「おい、海を見に行かないか」

 孤独な引きこもり生活の果てに生まれたもう一人の私が、そんな提案をしてくる。

 海、いいじゃないか。海水を見たのは東京から引っ越してきたときの空の旅以来だ。そう思うと俄然気が乗ってきた。

 生来の出不精な私にとって引きこもり自体は望むところではあるのだが、雪に閉ざされた冬の日の引きこもり行為は自身の意思の伴わない監禁のようなものである。知らずの内に鬱憤が溜まっていたらしく、私は久方ぶりに食料の買い出し以外での外出を決断した。

 無職の生活は基本的に目的を持たない。このような唐突な思いつきによる目標設定は珍しくもなかった。私の住むマンションから海まではおおよそ15kmほど。当然、車および各種公共交通機関などに頼るつもりはない。独力でこれを成し遂げるのだ。特に意味のない使命感に私の心は震えていた。

 スマートフォンを手に取り、地図アプリで海までの道のりを確かめる。GoogleMaps(※3-1)曰く、マンションを出てすぐのところに流れている琴似川に沿って北上していくと、いつの間にかその川は新川という別の名前になり、やがては石狩湾に流れ着くとのこと。この間ほとんど直線なので迷うことはないとも申し添えてくれた。ありがとう、Google。Googleは何でも知っているな。天下のプラットフォーマーに感謝を捧げながら、ゆっくりと身支度を済ませていく。

 マンションに引っ付いたストーブの排煙筒や換気口が、強風に晒されて低い唸り声を上げる。札幌の位置する石狩平野は風の通り道となっており、年中強い風が吹く。その上、今は風がもっとも強くなる時期だ。しかし、そんなことではスーパー真人間の私は怯まない。

 もう根雪だって溶けているのだから、ほとんど冬も死に体だ。この程度の相手ならどうとでもなるだろうという自信が、確かにそこにあった。無職にのみ許された甘い見通しである。社会の輪の中にいないが故に、少しぐらい風邪を引く分には誰にも迷惑はかからない。そのため多少の無茶は通るのだ。

 長い戦いに備え、水道水を一杯煽る。蛇口から出る水はひどく冷え切っていて、外の寒さを示唆しているようだった。冬はそこかしこに潜んでいるらしい。油断大敵とばかりに、コートにマフラー、手袋を装備する。もう雪は積もっていないので、靴はスニーカーでいいだろう。まさか耐水ブーツで歩き通す訳にもいくまい。ようやく身支度を終えた私は、意気揚々とマンションの自動ドアを抜けた。

 歩くこと数分で川に行き当たり、その流れのまま下っていく。道中見かけた看板を見るに、まだまだこの川は「琴似川」らしい。北海道大学から石狩湾にかけて突き刺さるこの新川通りは、市内でも特に風通しがいい。私はより一層強い寒風に正面から歯向かっていた。何の防備もない顔面が凍りつきそうなほど、風は冷たかった。

 既に私は外に出たことを後悔し始めていたが、外出を強行した以上、いまさら弱音を吐くわけにはいかない。気を紛らわすため、私は川の方へ顔を向けた。

 いまだ色付かない桜並木の向こうに、雪の下で枯れ残った葦や名も知らぬ草木が目に映る。看板の説明によると、琴似川のアイヌ名は「ケネウシペッ」で、「(はん)の木・多くある・川」というのがその名の意味だそうだ。あの川べりの木々がハンノキだろうか。葉がすべて落ちて、細い枝が寒風に震えているようだ。木々の周りにはまだまだ雪が解け残っている。今朝見た窓の外の景色とは打って変わって随分と寒々しい道のりを、私は凍えながら進んでいった。

 寒さに耐えつつ歩んでいると、川向こうにバス停の案内板を見つけた。足が引き寄せられるように橋を渡っていく。出発前に見えたあの熱い使命感はもう死に体だった。ちょうどよく通りがかったバスに乗り込む。

 車内は非常に快適だった。何と言っても風が吹いていないし暖かい。車窓から見える景色は飛ぶように、とまではいかないまでも、歩くより格段に速く後ろへと過ぎ去っていく。

 いつしか立ち並ぶ桜の木は随分小さくなり、間隔もまばらになってきた。順調に郊外へ向かっているようだ。路線を確認すると、このバスは「前田森林公園入口」が終点らしい。GoogleMapsはそこから歩いて3km強で河口に辿り着けると言っている。

 いっそ前田森林公園を観光してそのままバスで帰宅してもいい。何ならもう帰ってもいい。寒空に懲りた私は流れる景色を眺めながら撤退のタイミングを計り始めていた。

 「往復6kmぐらいなら歩けるのでは」

 バスの暖房で温まったためか、もう一人の私による楽観論が脳内に響く。

 当初の予定を貫きたいというのも、確かに分からんでもない。悩みながら地図を見ると、バスの終点から少し進んだところに軽食屋があった。思えば昼時もとうに過ぎている。まずはここで栄養補給をしてから考えよう。

 軽食屋では焼きおにぎりをテイクアウトした。ここのところ米価が高騰しているにもかかわらず、驚くべきことに1個100円(税込)だ。しかも、手のひらに乗せるとズシリと重い。川辺にあるベンチへ腰を下ろして一口頬張ると、焦げた味噌醤油の香ばしさとふっくらとした米の甘味が口の中に広がった。温かさが食道を通って元気が出てくる。

 新川沿いの土手は遊歩道になっているところが多く、ベンチやテーブルがところどころで見られる。風は相変わらず強いものの、大きい川を見ながら食事ができる素晴らしいロケーションだ。

 琴似川も場所によっては十分広い川幅を持っていたが、新川はさらに広い。辺りを見回すと、新川を紹介する看板が目についた。これによると明治に治水事業の一環として新しく作った川だから「新川」なのだそうだ。こんなに大きい川を作るのはさぞ大変だっただろう。

 ……この焼きおにぎり、大きいな。ふたつ買ったが、もうひとつは後で食べようか。私は今しがた取り出したばかりのおにぎりをラップに包みなおし、鞄にしまった。

 焼きおにぎりで元気100倍になった私は、当初の目的通り河口を目指すことを決めた。

 再び川の流れのまま歩き出す。中心街から離れるに従って家屋は減っていき、反比例するようにスピードを増した自動車達たちが私のすぐ隣を駆け抜ける。まるで耳元で鳴っているかのような轟音に怯えながらも、私はおおよそ30分かけて川沿いを下った。

 海に近づくにつれて晴れ間が増えてきている。日光があるとだいぶ体感温度が違う。暖かな光を仰ぎ見ると、遠くにウミネコが3羽飛んでいた。耳を澄ますと猫のような鳴き声も耳に入ってくる。風除けのために鼻まで覆っていたマフラーを下げると、かすかにだが潮の香りが感じられた。

 もうすぐ海だ。焼きおにぎりと太陽、そして確かに感じられる海の気配によって、私の歩みは自然と早まっていった。

 もはや全く民家はなくなり、ついにアスファルトの終わりが訪れる。私の眼前には「西部スラッジセンター」が聳え立っていた。……知らない施設だ。私は海を目指していたはずだが、一体これはどういうことだろうか。

 門のそばでご年配の警備員が佇んでいる。門の向こうの様子を窺うと、どうやらここは汚泥の処理施設らしい。こはいかにと地図を開きなおすと、確かに道路はここで終わっていた。地図が私を騙したのではなく私が勝手に勘違いしただけだったようだ。GoogleMaps様には無用な疑いをかけてしまい申し訳ない。

 誰を責めることもできず、ただ悲しみに打ちひしがれていると、警備員が声をかけてきた。

「君、どうしたの」

 まずい、不審者過ぎたか。平日昼間からこんな無職然とした人間がやってきたら当然声をかけるだろう。早く言い繕わなくては。

「海に行こうと思って……」

 いや、この返答もかなり不審者だな。この寒い中にひとりで、しかも観光地でもない海に行く奴があるか。頭をもたげた指摘に思わず言い淀んでしまったが、それでも警備員は笑みを浮かべながら応えてくれた。

「ああ、それならこの道を少し戻って、隣の道から行けるよ。ちょっと雪が残ってるかもしれないがね」

「そうなんですね。ありがとうございます。お仕事のお邪魔をしてしまってすみません」

「いやいや、なんもなんも」

 親切な警備員に礼を述べ、Uターンする。先程は全く道として認識していなかったが、道路わきに雑草まじりの砂利道があった。確かに通れるようになっている。再び地図を見ると、ここから海岸線までもう1kmもなさそうだ。私は砂利道に足を踏み入れた。

 警備員の言った通り、道には多少雪が残っていた。ここでもまだ冬は生きていたらしい。スニーカーでは厳しいほど積もったままのところもあったが、気合で強行する。もう潮風が肌で感じられる距離まで来ているのだ。ここまで来て引き返すわけにはいかない。

 道の左手には林と笹薮が広がっていて、葉の有無に関わらず強風で揺らめいている。右手の川岸でも、雪に囲まれて生気を失った細い枯れ木や笹、葦がざわざわと音を立てる。道中の自動車の走行音よりはましだが、これはこれで少し怖い。時期にしても場所にしてもヒグマはいないだろうが、それはさておき、どんな野生動物に遭遇したとしても今の私は腰を抜かしてしまうだろう。

 強い風は山の方で厚い雲を作っており、先程ようやく姿を見せた太陽はすでに隠れてしまっている。汗ばんだ額に強く吹き付ける潮風が一層寒さを増していく。もはや私の心の拠り所は、風に混じる海の気配だけだった。

 ざわめく草木から逃れるように、笹薮の向こうの新川を見る。かの川もずいぶんと幅を減らし、しょげ返っているようだった。一時はあれだけ大きな川だったのに、河口がこれでは水量の勘定が合わないのではないだろうか。

 そう思って濁った水を注視すると、ほとんど停滞、むしろ逆流している。海の方から強く吹き付ける風が水面だけを逆方向に波打たせているのかとも思ったが、漂う枯れ枝の動きを見るに、やはり少しづつ逆流しているようだ。そんなことがあるのかと思いながら、足を前に運ぶ。

 すると、不意に右手側の木々が姿を消し、そしてその奥から水平線が現れた。気づけば砂利道もすこしずつ砂地に置き換わり、そのまま浜辺と接合している。湿って硬く締まった砂浜を踏みしめ、私は新川河口――石狩湾に到達した。

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