4月7日14時 この女の名前は
3日前に石狩湾からついてきた謎の浮遊体は、私の隣やや上方で顎に手をやり、目を瞑って考え込んでいた。
この女の名前は「代谷ナギ」らしい。札幌市の新川沿いにある代谷神社の巫女だったのだそうだ。先程、明治28年4月21日に姿をくらましたという古い新聞記事が見つかった。
3日間の調査の末、ついに彼女の名前にたどり着いた。本人も頷いていたのでおそらくこれで正解だ。
これで依頼その1「この女の名前を調べよ」は達成されたわけだが、私の予想だとその依頼は欺瞞だ。彼女が本当に知りたいことは別にあり、そしてそれを私から隠すために出された偽の依頼だ。
彼女の目が開くのを待って、スマートフォンのメモ帳を介してコミュニケーションを試みる。
「一つ目の依頼達成ですね。その様子を見るに思い出せたようですが、あなたは明治28年4月21日に行方不明となった代谷神社の巫女『代谷ナギ』です」
女は口を引き結んだままスマホの画面をしばらく見ていたが、じきにいつもの微笑みを取り戻し、こちらに向き直って頷いた。
「それはよかったです。二つ目の依頼については、何か思い出せましたか」
私は「心残り」について水を向けた。
女はにこやかに首を縦に振った。
「素晴らしい。では、これですべての依頼が解決しましたね。お疲れ様でした。今後のご多幸をお祈りいたします」
別れの言葉をメモ帳に書き付け、頭を下げる。
女は一時逡巡し、そして出入口の方を呼び指した。その後の身振り手振りを見るに、「ここでは人目があって筆談しかできず、不便だ。一旦外に出よう」ということだった。メモ帳越しに丁寧に辞退の言葉を贈るも、聞き入れられない。しばしの間、筆談とジェスチャーの応酬が続く。
出入口を示す前の一瞬のためらいの中に、「パソコンで読む北海日日新聞」(※18-1)への眼差しがあった。おそらくこの女が気にしているのは、人目ではなく新聞記事だ。先程「飽きた」と言った時と同じように、彼女は私を調査の場から引き離したいのだ。
そして、先程の状況より悪いことに、彼女は依頼の完了を宣言した。それでもなお私から離れることなく、食い下がっている。
これは、以前考えていた「秘密を守るために調査完了を宣言し、以後は秘密に近づかないよう監視をする」ケースなのではないだろうか。
確認のために一時退席する。あとで戻ってくるつもりだ。データベース席は……まあ、離席時間も読めないし片付けるか。諸々の後片付けをして、残った占有時間を取り下げる。
館外に出て、人気のない場所へ移動する。
「依頼解決、おめでとうございます。お疲れ様でした。今後のご多幸――ご冥福ですかね――をお祈りいたします」
筆談で述べたことを繰り返すと、女は恭しく頭を下げた。その後も感謝の気持ちを身振りで示しているようだが、まあ、これは私にとって本題ではない。この後、私が図書館に戻るのを阻害するかどうかが肝になってくる。彼女が監視モードに入っているかどうかの分水嶺を見逃すわけにはいかない。
数分にも満たないやり取りを追えて、私と幽霊は別れた。
私は駅の方へ向かうと見せかけ、碁盤の目をぐるりと回って図書館へ戻る。ときどき後ろを振り返るも、少なくとも私が曲がり角を超えるまで幽霊は動かなかった。
とはいえ、「なら、監視されてないな。安心、安心」とはならない。
あの4月4日の新川で幽霊から逃げ帰ることに失敗したことを思えば、彼女は私に気づかれないように尾行をすることができてもおかしくない。そもそも私の目にだけ映る理由も分かっていないし、あちらの霊的な何かしらで任意に可視性を切り替えられる可能性もある。
つまり、彼女が私を監視してまで秘密を隠し通そうとするかどうかの分水嶺は、いまだ見えていない。
あの女がどう動こうと、私は「代谷ナギ」を脅す材料を探る。もうこちらに干渉してこなければそれでいいし、再び姿を現すようなら脅しの材料を突き付ける。今後の行動方針は既に決まっているのだ。
再び札幌市図書・情報館に入り、データベース席の予約を取る。もはや利用者は誰もいなかったので席は選び放題だったが、先程使っていた一番端にもう一度腰を下ろすことにした。
PCを起動はしたものの、まずはスマートフォンを取り出す。念願の人名を手に入れたなら、とりあえず試すべきものがあるからだ。
Webブラウザから「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(Web NDL Authorities)」(※14-1)――Web-NDLAを呼び出し、「代谷」と打ってみる。
6件の人名が検索結果に並ぶも、どれも関係のある人物ではない。「千代谷」や「野代谷」のように「代谷」の文字を一部に含む方が大半で、唯一「代谷」の苗字を持った人物も1920年代生まれの生物学者だった。
残念ながら「代谷ナギ」、ひいては「代谷神社」や父「代谷敬治」はWeb-NDLAに収録されていないようだ。人名だけで収録100万件を超えるデータベースなので期待していたのだが、この「代谷」はその100万件から漏れる程度の知名度だったらしい。
「パソコンで読む北海日日新聞」に戻ろう。先程引き当てた記事を再検索して一応印刷キューに回す。これからも印刷したいものが出てくるかもしれないので一旦キューだけ出しておいて、最後にまとめて印刷する構えだ。
改めて、記事の検索を始めよう。検索期間は彼女が行方知れずになったという「明治28年4月21日」から10年間とし、キーワードに「代谷」と打ち込む。先程の記事の通りなら捜索願が出されているので、その経過を見るのが目的だ。
検索ボタンを押すと、すぐに7件の記事が一覧に並んだ。1件目は先ほど見た29日の記事だったので、2件目から確認する。
「索ね人一束」(※21-1)と銘打たれた「北海日日新聞」明治28年5月5日の3面記事には、他の行方不明者3名と抱き合わせる形で「代谷ナギ」のことが簡単に掲載されていた。
29日の記事と同様に失踪した当時の状況に加え、箇条書きで特徴が記載されている。「丈五尺四寸位」の「巫女」であり、「白衣」と「緋袴」、そして「けっとの襟巻」を纏っていたらしい。一尺は30cmとちょっとなので、「丈五尺四寸位」なら160cm強といったところだ。
人相書きを描かされたときのことを思い出す。浮いていたから正確なところはわからなかったが、確かにだいたいそれぐらいだったはずだ。巫女装束である「白衣」「緋袴」の他に書かれた「けっとの襟巻」は、彼女の肩にかかっている「赤ゲット」のことだろう。あれはマフラーだったらしい。失踪当時は「角巻」も身に着けていたらしいが、既に父によって発見されているのでここには記載がない。
また、ほか3人には「顔黒く」や「痘痕あり」といったように顔の造作についての記載があったが、この女にはそれがなかった。当時からこの女の顔には特筆すべきものが見出されていなかったのかもしれない。
かぶりをひとつ振ってあまりにも失礼な考察を追い出し、私は再びモニタへと目を向けた。一応この記事も印刷キューに送ってから次の記事を選択する。
続く3件目、4件目にも同じような尋ね人の報が数日空けて重なったが、5件目以降の記事は様子が違った。まず、日付が2ヶ月離れている。検索結果一覧に表示された日付は明治28年7月21日だ。そのままその記事をクリックしてみると、一面記事の広告欄に「パソコンで読む北海日日新聞」のシステムによるハイライトが当たっていた。
曰く、「娘代谷ナギ儀行衛不明ナリシガ去ル明治廿八年四月廿一日ニ死去致候間此段生前辱知ノ諸君ニ謹告ス 明治廿八年七月廿一日 石狩國札幌郡琴似村字新川 代谷神社 神主 代谷敬治」(※21-2)とのこと。
小さな広告であり読み下すほどの情報は書かれていないが、これは父「代谷敬治」より出された「代谷ナギ」の死亡広告だ。明治28年7月22日、23日の一面(※21-3,4)にも同様の広告が打たれている。
「死去」の文字があるので、先程の偶然の発見がなくとももう少しで「代谷ナギ」に辿り着くことはできていたらしい。女性名で、かつ、神社関係者であることは文面からわかるので、この小さい広告からでも名前から遡って最初に見つけた記事「娘の行衛不明」に行き当たる可能性は高かっただろう。まあ、たまたまではあってもすでに解答に辿り着いているので、これは考える意味のないことだ。忘れよう。
掲載時期から言って、捜索願の提出後も長い間捜索は続けられていたらしい。「去ル明治廿八年四月廿一日ニ死去致候」と日付が明確に書かれているので、何かしらの決定打があったのだろうか。川から遺体が揚がったのかもしれない。……いや、揚がったなら揚がったなりの記事が出るはずだ。しかし、その記事はヒットしていない。春から夏の3ヶ月という期間を鑑みても、目撃証言が集まったとか、3か月で一区切りつけたかったとかが妥当だろう。
また、これまでに見てきた死亡広告には葬式の日取りや忌中のお知らせが多かった。この記事の中からは広告の目的が見えてこないが、7月に忌中のお知らせを出しても正月には遠いので、きっと葬式の周知が目的だろう。
この7件のほかには記事の該当がなかった。念のため検索対象期間を明治20年から令和7年までの全期間に変更してみたが、もう「代谷」の文字は「パソコンで読む北海日日新聞」には出てこないようだ。
この「パソコンで読む北海日日新聞」は「全道版」のみの収録である。ほかにヒットがないところを見るに、全道の記事で扱うだけのニュースバリューはこれ以降の「代谷」にはなかったらしい。
以前彼女は「長い間ずっと海にいた」と答えていたが、それは本当のことだったようだ。今みたいに化けて出て人里に降りたり、誰かに目撃されたりしたことはなかったらしい。この女の場合は海から陸への移動なので、「人里に上がる」という表現になるだろうか。
「パソコンで読む北海日日新聞」に見切りをつけた私は、次に「北海日日新聞データベース・きたしんDB」(※21-5)に目を付けた。デスクに置かれた案内に従い、新たなデータベースを開いていく。
「北海日日新聞データベース・きたしんDB」は、1988年7月以降の記事を含んだ北海日日新聞の記事データベースだ。昨日訪れた中央図書館にもあった。
先ほどまで見ていた明治20年以降の記事を検索できる「パソコンで読む北海日日新聞」よりも閲覧可能期間が短いが、その代わりにテキストデータとして記事内容を保持しているので、検索精度が高い。古い紙面の画像からの文字列読み取り処理がないためだ。そのうえ、地方面の記事も豊富に収録されている。
こちらのデータベースにも、とりあえず「代谷」と打ち込んで調べてみる。すると、札幌の地方面の記事が2件ヒットした。
1件目は1995年8月2日の2面、2件目は2015年8月2日の2面(※21-6,7)だ。
見出しを見るに、どちらもお祭りの記事のようだ。前者には「百年祭」、後者には「百二十年祭」と銘打たれている。どちらにも写真が掲載されていて、拡大してみると、社殿の中には神社特有のギザギザした紙に囲まれた丸い鏡や細長い箱が見て取れた。写真に圧迫されて随分窮屈そうにしている記事の本文によると、10年に一度のお祭りでしかこの社殿は開かれず、普段は見られないらしい。
百年、百二十年の区切りのお祭りであってもこの程度の扱いだというのを、この神社の小ささの証左と言うべきか、それとも新聞に載ることの難しさの表れと言うべきかは悩みどころだ。それは置いておくにしても確実に言えることとしては、今アクセスできる範囲の新聞は調べ終えてしまったということだ。
Web-NDLAは空振りで、新聞でもほとんど名前が出てこない。この有様であれば、地方人名事典も望み薄かもしれない。それを確認したくとも、この図書・情報館には知名度の極限られた人物を収録しているレベルの、重たいレファレンスブックはなさそうだ。「代谷ナギ」個人についての調査は一旦置いて、別の角度から調査を進めよう。
次は彼女の所属していた「代谷神社」についてだ。
この神社そのものがあまり新聞に載っていないのは先程確認できたが、地図アプリ曰くこの札幌に現存する神社のようだし、さすがに札幌の郷土資料には何かしら書かれているだろう。
そう考えた私が次に向かったのは、「札幌文庫」シリーズ「札幌の寺院・神社」(※13-1)のある棚だ。昨日札幌市中央図書館で読んだ青い背表紙の一冊である。
幽霊の真の目的に対して重要な役割を持っていたと思われるこの本だが、「代谷神社」というキーワードを手にした今であれば、きっと私にさらなる情報を齎してくれるだろう。
私はこれまでに出てきた新聞記事をすべて印刷キューに送ったのを確認し、データベース席から一時離れた。
カジュアルなカフェ風のこの館にはカラフルなビジュアルブックが多く、それらとは対照的にほとんど単色で文字の多い「札幌文庫」は1階郷土資料コーナーの隅に押し込められていた。
いくら「札幌市図書・情報館」が独自コンセプトの図書館とはいえ、地方図書館ならこういう資料は絶対に置いているだろうと踏んでいたのだが、この扱いでは利用数がかなり少ないのかもしれない。「札幌市中央図書館」ではかなり目立つ位置に、しかも別の棚にも複数セットあったので、こういうところからも図書館のターゲット層の違いが見て取れる。
昨日も見た「各区の神社と由来」の章を開き「代谷神社」を探すと、「北区」の項に記載が見つかった。
「代谷神社」は北区新川に位置する「神明造り」の神社で、「明治5年6月に土佐より移った代谷敬治が札幌区(現在の札幌市中央区)に小祠を建て、郷里より奉持した神体を奉斎」して始まったとのことだ。祭神は「天照大神」で、そのご神体は「鏡」らしい。その後、「明治24年7月に現在の社殿のある新川へ遷座」したとある。水害により幾度かの建て替えを経ており、「昭和50年現在」の神殿は昭和42年に新築したもののようだ。備考欄には「明治29年11月に洛流神社の祭神を合祀した」ことと、「10年に一度、8月に帰年祭を執り行う」ことが記載されている。
ちなみに備考に出てきた「洛流神社」の記載を探してみたが、見つからなかった。出版時点で現存しない神社は書かれていないようだ。
記載は淡白で、他の神社と比べて文章量も少ない。この取り上げられ方から見るに、やはり「代谷神社」はそこまで大きな神社ではないのだろう。それでも「明治5年」から150年以上続いているのであれば並々ならぬものがあるようにも思える。
5W1Hを意識した簡潔な記載を読むともなく眼下に置きながら、この情報とあの幽霊の本当の目的、あるいは隠したいことの関連について考えを巡らせる。すると、私はある既視感に襲われた。私はこれと似たような事例を最近見た気がする。
デジャヴと共にこれまで見てきた資料をひとつひとつ思い出していくと、ほどなくひとつの本に思考が行き当たった。それは目の前にある「札幌の寺院・神社」と同じ青い表紙で、それゆえにたどり着くまでにそこまで時間はかからなかった。昨日流し読みした「札幌文庫」シリーズの一冊、「明治のおはなし」(※12-3)である。
「代谷神社」は「代谷敬治」が今から153年前に「札幌区(現在の札幌市中央区)」に移住してきて建てた神社。つまり、「代谷敬治」は開拓使時代の札幌に越してきて身を立てた人間だ。「代谷ナギ」はその娘である。これは、「代谷ナギ」が開拓二世だということを意味する。加えて、「代谷ナギ」は明治28年時点で20歳、すなわち明治8年ごろの生まれだ。
「明治のおはなし」には「代谷ナギ」と同じく開拓二世で、かつ、同年代の人々の話が集まっていた。もっと言えば、「明治のおはなし」には、明治初期の札幌区に生まれた商家のお嬢様の話が掲載されていた。確かその生まれは明治8年。二人はほとんど同い年だったことになる。商家と神社の違いこそあるが、フロンティアに挑んで地位を得た親を持つ同年代の女性。これが既視感の正体だった。
明治初期は学制が発布されたばかりであり、女子の就学率は半分にすら遠く及ばない。女子教育の必要性が浸透していなかったり、家業が忙しかったり、これには様々な要因が挙げられる。しかし、最初の「こっくりさん」問答の際、明治時代の初等教育用の教科書に対して「代谷ナギ」は懐かしさを覚えていた。彼女は体系立った教育機関で初等教育を受けている。
当時の札幌区にどれだけの学校があったかは知らないが、明治初期の女児が初等教育を受けられる場所は、ごく少数だったのではないだろうか。「代谷ナギ」と件のアウトロー令嬢は同じ教室で授業を受けていた可能性がある。「明治のおはなし」には学校の話があったはずだ。もし彼女らが同級生であれば、それが何かの手掛かりになるかもしれない。
先に言ったように、私は当時の札幌区にどれだけの学校があったかを知らない。まずはこの前提を確かめなければならない。
学制が発布されている以上、当然政府は学校の動向を把握したいだろう。おそらく在籍数なりなんなりを集計した公的な報告書があるはずだ。
スマートフォンから「国立国会図書館デジタルコレクション」(※20-2)を開き、検索キーワードに「小学校」、出版地に「札幌」、出版年月日に「代谷ナギ」が6~12歳だった「1881~1888年」を入力する。ついでに閲覧方法を「ログインなしで閲覧可能」のみに限定し、検索ボタンを押下した。
すると、直ちに7件の検索結果が帰ってきた。その中から1884年出版の「札幌県学事年報 明治十七年」(※21-8)を選択して中を見る。どうやら札幌の小学校について、公私や男女の別も含めていろいろ集計したものらしい。学年別の集計はしていないようだが、ひとまずは欲するところに適いそうだ。
ざっと目を通すと、当時の札幌区の小学校は師範学校の附属校や男子校を除くと三校だけだった。どの学校も女子の在籍数は数十人程度、三校合わせても百人強だ。男女比にはばらつきがあり、女子生徒が男子の1/10しかいないところもあれば、同じぐらいいるところもあったようだ。傾向というには事例が足りな過ぎるが、小学校の創立年が新しいほど男女比率が半々に近づいている。
記載された所在地を見たところこの三校はすべて今の札幌市の中心・大通り付近に位置する。「代谷ナギ」と例のお嬢様が同じ学校だったかどうかは五分五分かそれ以下だが、たとえそうでなくとも生活圏・生活サイクルが同じで、加えて同年代だ。どこかで顔を合わせていたかもしれない。
別の方の提供になるが、「明治のおはなし」には、まだ野原だった大通りで別の学校の子供ともよく遊んだという話があったはずだ。これだけ近ければ顔見知りでもおかしくはない。
私は1階の郷土資料コーナーから件の本を引き抜いてきて、再びその青い表紙を捲った。




