9 大火事騒動 その1
酷い状況だ。
閑静な住宅街だったのであろう場所は、嫌な雰囲気のする炎で廃墟街と化していた。
立ち上る煙を避けながら、ルミナスは下を見下ろすように飛んでいた。
未だ燃え広がり続けている炎を見て、彼女はなにか嫌な予感がしていた。
縁起でもないが、もしかしたら?
そういう不安が頭の中で渦巻いている。
いやしかし、今日話を聞いたばかりのところでちょうど現れるなんてことがあるだろうか。
ルミナスは困惑しながらも、その可能性があるからには飛び続けるしか無かった。
家々が灰となって崩れ落ち、下は火の海という状況の中、彼女は必死になって辺りを見回した。
延焼が早いせいで、被害は数秒のうちにどんどんと広まっていく。
ルミナスは、水魔術を使ってその炎たちを消火できないか試してみた。
しかし、幾度となく唱えたところで、相変わらず炎は燃え盛っている。
生半可な水量だから消火されないとかではない。
まるで、炎が水すら燃やしてしまっているかのような不思議な感覚だった。
やはり普通の炎ではない。
そう知ったルミナスは、余計に不審に思った。
今度は冷静に、自分はどうするべきか、今の状況について考えた。
ここまでの家々がことごとく全焼していくのはおかしい。
絶対になにかあるはずだし、ルミナスからして思い当たるものといえば一つしかなかった。
もしも、この火事の原因があの悪炎の魔女の放火だったとするなら?
考えたくはなかったが恐らく、今はその可能性が一番高い。
彼女は、今よりももっと高くに飛んで、全体を見渡せる位置に移動した。
この火事は、ある一点を中心としてそこから円状に広がるように起きている。
中心が放火されたところ。
その周囲の家々は既に燃え尽き、灰の山になって跡形もない。
しかし不思議なことに、中心だけではまだ火が上がっている。
一番最初に燃え始めたところであるのに燃え尽きるどころか、未だに轟々と炎が燃え盛っているのだ。
ルミナスはそれを見て、よし、と呟いた。
間違いない、魔女はまだそこにいる。
あの、燃え盛る炎の中に。
ルミナスはそう確信した。
強力な魔術を使うには、魔術式を開くことが必要になる。
そして、それは禁忌の魔術でも同様だ。
彼女はそれを知っていた。
あそこで不自然にまだ炎が燃え盛っているということは、確実にあそこでまだ魔術式が開かれている。
閉じられていないのだ。
閉じられていないということはつまり、術者がまだそこにいるということになる。
恐らく、悪炎の魔女というのがそこに。
ルミナスは全力で羽ばたいた。
今は躊躇している暇はない。
中心に向かって一直線に飛んで行った。
これが禁忌の魔術ならば――恐らくほとんど確実に禁忌の魔術だろうが――魔術式を閉じさせさえすれば、これ以上被害は広がらないはずだ。
その時点で今燃えている炎たちはぱたりと消え、この異変は終了する。
しかしうかうかしているうちに、炎はどんどん広がっていく。
だからルミナスは考える暇もなく飛び出していた。
中心に近づくにつれて、轟々と燃える炎の音が大きく聞こえる。
そして、そこに人が立っているのが見えた。
女性、いや、少女である。
どうしてこんな大火災の中、一人立ち尽くしているのか。
明らかに怪しいと思ったルミナスは、すぐに詠唱する準備をした。
その少女こそが、魔女であると思ったからだ。
こんな場所にいるということは、それしか理由にならないと思ったからだ。
しかし、その姿をよく見たルミナスは目を疑った。
その少女には見覚えがあった。
昨日は歪んだ視界の中でその少女を見ていた。
しかし、鮮明に見える今でも同一人物だとわかる。
それは昨日、酔ったルミナスを介抱してくれたあの少女だった。
ルミナスは驚きのあまり、一瞬詠唱をためらった。
空中で動きを止めた。
だが、それはまずかった。
ほんの一瞬、気を緩めてしまった。
その刹那、ルミナスは自分の元へ跳んでくる別の存在に気づきもしなかった。
彼女はとても高いところを飛んでいたはずなのに、その何者かは容易くそこまで跳んできた。
そうして、身体に強烈な蹴りを入れてきた。
ルミナスは、何が何だか分からぬままとてつもない衝撃とともに地面に打ち付けられる。
そうすると、家々の残骸の灰がそこらじゅうを舞った。
一体何が起きた?
ルミナスは、灰が舞って著しく視界が悪くなる瞬間、自分に蹴りを入れたその人物の姿を捉えていた。
長い茶髪の女性。
それしか知ることはできない。
しかし、少なくともそれがあの少女ではないということは確かだった。
その女は真っ黒なコートを羽織っていた。
長い髪をなびかせながら地面に着地すると、ルミナスのことなど気にもとめずに歩いていった。
「コトちゃん。あれ、知り合い?」
その女は少女、コトにそう言って、ルミナスの方を指さした。
「……よ、妖精さん!? ど、どうしてこんなこと!」
「ふうん、そう。知り合いなんだ。だからこんなとこまで見にきたのかな」
「あ、あの、妖精さんのこと。……殺してないですよね?」
「知らない。生きてても死んでてもどっちでもいいよ。まあでも、よほどタフじゃなきゃ、死んでるかもね」
「そ、そんな!」
ルミナスは打ち付けられた痛みに耐えながらその声を聞いていた。
コトの恐怖に染められた悲壮な声が響いている。
ルミナスは、すぐにでも立ち上がって向かって行きたかったが、身体に力が入らずその場から動けなかった。
「それより早く行こうよ。コトちゃん」
「い、嫌です」
「ふうん、なんで?」
「な、なんでって、そもそも私、あなたが誰か知らないですし……。それに、この街の様子、あなたがやったんですよね……」
「うん、そう。コトちゃん以外全部燃やしちゃった」
「い、言ってる意味がわかりません!」
コトは怯えながらも、気丈に、反抗の意思を見せた。
そうすると、女はますます面白そうに思って笑みを浮かべる。
「そうだね。すぐに理解するには難しい話題だ。今ここで説明してもいいけど――」
言いながら、女は片手から炎を噴き出させる。
それは、彼女の死角から飛んできていた黄色い光線を防ぐためのものだった。
「ここにいると、ちょっと邪魔が入るみたいでね」
女は、辛うじて立ち上がり息切れしているルミナスの方を見ながら言う。
更に三発、弱弱しい雷魔術をルミナスは放ったが、それは全ていとも簡単に防がれてしまった。
「とりあえず簡潔に話すだけにする。そうだね……コトちゃん、私がここに来た理由は、君を連れて帰るためだ。君は炎の魔術を扱う才能がある。だから来たんだよ」
女はさも普通のことのように言うものの、コトには全く理解が及ばなかった。
突然の大火事に、自分だけ何故か助かったかと思えば、初対面の女性にそう言われているのである。
つまり、こうなってしまったのは自分のせいということ……?
彼女からすれば、そういう結論に至ることになってしまった。
「……街を燃やす必要はあったんですか」
コトは震えた声で訊いた。
「ん、いやあ自己紹介のつもりだったんだよ。こうしたら、私が普段何やってるかわかるし、それに、誰かもね」
「わかる……って、私は――」
わかりません、と言いかけた。
しかし、そこでコトは気づいた。
気づいてしまって、その衝撃で続きの言葉が出てこなかった。
彼女が何者なのか、先程までは分からなかった。
しかし、きっとそうなのだ。
今思いついたそれなのだと、コトは絶望に打ちひしがれた。
「結局まあ、自己紹介をしないことには始まらないか」
そう言いながら、女は未だ轟々と燃える炎を噴き出している魔術式に近づく。
そうして、その勢いを一層強くさせた。
炎は今まで以上に猛々しく燃え上がり、火の粉があたりに飛び散った。
「私は、リリー・ボラーレアス。悪炎の魔女っていう名前は、君も知ってるだろう?」
コトは言葉が出てこなかった。
いや、そもそも、話そうとしていなかった。
全身の血の気が引いてしまって、混乱に混乱が重なり、どうすればいいのか、何も答えられなかった。
昔の記憶が、嫌な記憶がフラッシュバックして、吐きそうになった。
「そんなに驚くことかなあ。もう既に街は灰の海だし、人は何人も死んでると思うよ? 驚くとこが違うんじゃないかな」
言いながらリリーは笑った。
違う、コトがここで驚いたのはリリーの言ったそれを、まだ実感していなかったからだ。
そして、コトは同時に恐怖を感じていた。
「まあ、詳しいことはまた後で。そこの羽虫も邪魔になりそうだしね」
リリーはルミナスの方をまた見て、せせら笑う。
もはやルミナスは満身創痍。
先程の魔術も、最後の力を振り絞ったものだった。
彼女の頭の中で反省が渦巻いていた。
どうしてあの不意打ちに気づくことが出来なかったのか。
昔の自分なら、あの頃の自分なら。
そんな後悔など意味は無い。
ルミナスは、精魂尽き果てたようにして、体勢を崩し、また地面に倒れた。
「よ、妖精さん……」
コトは状況を、未だよく分かっていない。
ただこの妖精が、自分を助けようとしてくれていたのだということはわかる。
それを考えると、胸が締め付けられるような気がした。
自分はなにか悪いことをしただろうか。
わけもわからぬうちに、自分のせいで大勢が死んだのだと、街が破壊されたのだと知って、泣きそうになった。
何もかもが嫌になって自分の不幸さに怒りすら湧き、暴れだしたくなるほどだった。
「おや、もうちょっと粘ってくるかなと思ってたんだけど、思ったより早かったね」
リリーはルミナスの方を見ずにそう言って、コトの身体に触れた。
コトが瞳に涙を溜めて、睨んできていることには気づいていなかった。
「どちらにせよ、騎士団やらなんやらが来るだろうし、行こうか」
「行くって――」
まだコトが言いかけのところで、リリーは彼女を抱きかかえる。
そうして、反抗されぬうちに両足に炎を纏うと、噴き出す勢いで飛んだ。
それは、空を飛んでいると形容できるくらい、いや、それ以上に素早く宙を舞うようにしていた。
二人は遠くに行き、そこに残されたのは、灰と、開きっぱなしの魔術式と、瀕死の妖精のみである。
魔術式はまだ炎を噴いている。
そこから飛び散る火の粉が時折、ルミナスの近くへ飛んでいく。
ルミナスはどうにかしなければ、と朦朧とした意識の中、なんとか耐えていた。
しかし、耐えに耐えて、とうとう抗う気力が失せると、意識がどんどん薄くなっていく。
そうして、痛みも感じなくなったかと思うと、気絶してしまった。