4 旅立ちの決意
「お母さん、お昼ご飯はもう食べた?」
部屋に入ってからの第一声、ルミナスはローラにそう声をかけた。
少し声が震えている。
ルミナスはこの部屋に入る時、緊張のあまり、いつも足音をあまりたてない。
今回もそうだったので、編み込みに集中していたローラは突然声をかけられて少し驚いた顔をした。
すると、ルミナスの方もローラを驚かせてしまったことに恥ずかしくなって更に心拍数があがってしまうのだ。
「えぇ、もう食べたわよ。今日のは少し量が多くて食べきれなかったんだけどね」
ローラは笑いながら言う。
ルミナスも笑顔になるよう努めたが、その発言に少し不安にもなった。
しかしひとまず、ルミナスはローラの傍までいく。
そして、ローラの編み込みの手つきがおぼつかないので、手伝うことにした。
「ルミナスももうすぐ十九になるのね」
ローラは不意に呟いた。
ルミナスは小声で、そうだね、と言ってから手を動かし続ける。
それから数分もすると、長くて癖のある髪が綺麗にまとめられた。
ローラはルミナスの方に向き直って、ありがとう、と言う。
ルミナスもまたぎこちなく、大丈夫だから、と返した。
ロイの時のように自然に話せればいいのだが、そうはいかない。
活発で誰とでも仲良くできるような少女は、母親の前では上手く話すことができなかった。
仲が悪いのではないし、嫌いというわけでもない。
むしろ、大切に思っている。
だからこそ、どこか緊張してしまうのだ。
きっかけは、もう十年ほど前のことである。
ルミナスが八歳の頃、それまで健康だったローラは、突然体調を崩したのだ。
彼女は難病に侵されていた。
体が内側から侵食されていくような、原因のわからない恐ろしい病にかかっているのだ。
すぐに祈祷院に来たので、なんとか一命は取り留めているのだが、未だ病の治療はおろか進行を抑えるので精一杯という状況である。
なので、ローラが倒れた後、彼女は集落の他の妖精たちに助けてもらって育ってきた。
当時から現在まで、大変な目に遭った日もあるけれど、ローラの見舞いを一日も欠かしたことはない。
彼女には、一人で自分のことを育ててくれていた分、なにか重くのしかかるものがあったのだろう。
そう思うと、ルミナスには大きな罪悪感が湧き上がるのだ。
もちろん、ローラに育てられたことが悪いことなのかと言われれば、そんなわけはない。
だからこそなのだ。
この罪悪感がずっと拭えていないのは。
「ねえ、ルミナス。ちょっと相談したいことがあるの」
ルミナスがローラの羽根の汚れを拭いていた時、彼女は突然言った。
「ルミナスは、旅をしてみたいと思ったことはない?」
なにか些細なことについて相談されるのかと思っていたルミナスは、不意を突かれたように声を漏らす。
するとローラは振り返ってルミナスの顔を覗き込み微笑んだ。
「な、なに急に。そんなこと言い出しちゃって」
ルミナスは戸惑いながらも笑顔に努めた。
しかし、ローラの目がそれを見透かしてくるように見つめてくるので、緊張が酷かった。
「ほら、小さい頃、外の世界を旅してみたいって言ってたじゃない? もうあなたは覚えてないかもしれないけれど」
ローラは穏やかに、けれども至って真面目そうに言った。
覚えていないわけがない。
むしろ、今でも鮮明に覚えている。
まだ新たな使命を燃やしていた頃、彼女は確かにそういうことを言った覚えがある。
しかし、その時とは状況が違うのだ。
ルミナスは母親や集落の妖精たちのことが大切で、守っていきたい。
もちろん昔のように旅をしたい気持ちはある。
しかしその反面、自分がこの集落を出ていってしまったら、知らないうちに酷い目に遭ってしまうかもしれない。
自分のいない間に、ローラは孤独に死んでしまうかもしれない。
そういう考えがずっと頭の片隅にあって、彼女は同意しようとは思えなかった。
加えて、そう考えつつもやはり旅をしてみたいという気持ちも少なからずあるからこそ、後ろめたさが彼女を苦しめていた。
ルミナスは戸惑った。
なんと言えばいいか分からなかった。
しかし、ローラはルミナスの返答を待たぬうちに続きを話していく。
「もちろんね、あなたの気持ちはわかってる。罪悪感を感じているんでしょう。私が病気になってからさ」
ルミナスは図星を突かれて目を丸くした。
「そんなことないよ」
否定する時の声はか細く、彼女の動揺を表している。
ローラがルミナスの手を優しく握ると、彼女はもう本当のことを話さざるを得なかった。
「……いつから気づいてたの?」
少し悲しそうな顔をしてそう言うルミナスとは対照的に、ローラは穏やかな顔をしたままでいる。
けれども、次の台詞を言った時、その時だけ彼女の顔には悲しみが垣間見えた。
「そりゃあもう何年も前からよ。まぁ……触れるのが怖くて今まで言い出せなかったんだけどね」
ローラは一瞬悲しそうな顔をしたけれども、またいつもの表情に戻って話す。
「あなたがそうなっている気持ちは分かるわ。……でも、私はそんなことは望んでない。負い目を感じて欲しくはないの」
ルミナスは何も言えることがなかった。
ただ黙って、母親の話に耳を傾けていた。
「私が望むのは、あなたがしっかりとした大人として育つこと。あなたの望みが叶えられること」
「……でも、そうしたらお母さんが――」
ルミナスが言おうとした台詞を、ローラは制止する。
彼女にはその先が分かっているのだ。
わざわざ言われる必要などない。
娘を安心させるためにはどうすればいいか、彼女にはしっかりと分かっている。
「宣言させてもらうわ、ルミナス。私はこんな病気には負けない。必ずよ」
その言葉に確証なんてない。
そう分かっているけれども、ルミナスはローラの真剣な顔を見ると、絆されてしまった。
「母親として、あなたを安心させなきゃってずっと思ってた。それに縛ってちゃ駄目だともね」
ルミナスは考えた。
もしもローラの言うことを信じたとしたら、それが本当だとしたら?
そうしたら自分は以前のように旅をすることが出来るのかもしれない。
彼女の中で薄れていたセレナの記憶が鮮明に蘇る。
昔はそうだった。
大切なもののために旅をした。
国の為に、人々の為に旅をして、役に立てるように精一杯尽くした。
それは、使命だったからではない。
考え直した時、彼女はそうであると気づいた。
大切だったから尽くしたのだ。
使命なんか関係ない。
それなら、次もそうしよう。
元々、ルミナスに使命なんかないのだから。
どこか自分は偉い人のような気がしていたのかもしれない。
常に責任を背負っているような気でいたのかもしれない。
でも、本当はそんなことはなくて、今までの悩みは一人の英雄の苦悩なんかではなかったことに気づいた。
ある森に住む妖精の少女は、母親が病を患っているので旅に出たいけれども心配でたまらない。
これは単にそういう話なのだ。
ルミナスはそのことに気づいたからと言って、ローラや集落のことが心配であることに変わりはなかったけれども、決心はついた。
「ありがとう、お母さん。……私さ、遠慮してたのかもしれない。本当はずっと旅をしてみたかったんだ。でも、お母さんが病気になって、そしたら心配が勝って言い出せなくなっちゃった」
ルミナスは相変わらず声が震えているけれど、真剣な表情で話した。
「……でも、そこまで言うなら信じちゃうからね。ずっとやりたかったことだもの。いいって言うならとことんやってきちゃうから」
ルミナスは、ぎこちない笑顔を見せた。
しかしそれは作ったものではなくて、自然に出た笑顔だった。
しばらくあと、蟠りが解けた親子がいつの間にか始めていた談笑は外の廊下まで響いた。
隣の部屋で読書をしていた妖精はいつもとは毛色が違う声が聞こえてくることに驚いた。
親に連れられてお祈りにきたちびっ子たちが中の様子を見てみたがるほどだった。
「旅に出るって言っても、いくつか決め事をしておきたいんだ」
ルミナスは言った。
ローラが不思議そうな顔をしてオウム返しに「決め事?」と訊く。
「旅をするって決めたからには長い間帰ってこないつもりでいるのは知っておいてほしい。でも年に一回、年の終わりには必ず帰ってくる。それから、集落で大きな問題が起きたり、お母さんの容態が悪化したなんて手紙が来た日には、私すっ飛んでここまで帰ってくるから」
ルミナスがそう早口で言うとローラは笑って、彼女の頭を撫でた。
ルミナスは恥ずかしくなってやめさせようとしたが、ローラがあまりにも優しく笑っていたので結局そのままにした。
●
一か月後、ルミナスの十九歳の誕生日が集落の中で盛大に祝われてから更に一週間ほど経ったある日。
多めの荷物を抱えて、彼女はいつも着ている白いローブをまた身にまとっている。
彼女は旅立ちの日を迎えていた。
この日のために色々と準備をしたし、集落の皆にも旅に出ることは事前に伝えていた。
しかしそれにも関わらず、やはり別れを惜しむ者たちは多いようで、沢山の妖精たちが見送りに来てくれていたので、ルミナスはそれらに対応をするので大変だった。
「姉ちゃんもう行っちゃうのかぁ……。もうちょっとくらい残ってくれてもいいのにな」
「あんたねぇ、馬鹿かっての」
先程からうだうだと文句を垂れ流していたラルセイの頭をレイナが力強く叩いた。
痛みに声を上げてラルセイは頭をさする。
「そういうこと言ったら姉さんが行きづらくなるでしょうが。こういう時は気持ちよく送り出すもんなの!」
レイナが威勢よく言い張ると、彼は聞こえよがしに悪態をつく。
するとそれが発端になって、二人の言い合いが始まった。
ルミナスは他の妖精たちと話していたところ、それを見つけたので二人に近づいていった。
「もう、またやってるじゃん」
ルミナスは、呆れ半分、笑い半分で二人に言った。
そうするとまた、だってこいつが、とか、先に言い始めたのはあんたじゃん、とか、言い合い始めてしまった。
二人をよく知っている人からすればもはやこれは恒例行事みたいなものなのだが、こんな時にもするのかと思うと、彼女はそのおかしさに吹き出してしまった。
「こらこら、こういう時くらい喧嘩せずにはおれんのかね。まったく」
ついには二人が取っ組み合いの喧嘩に発展しそうなところだったのだが、仲裁するようにレイチェルが出てきて言った。
白髪が目立つその姿に、二人はびっくりしてすぐに喧嘩をやめる。
そうしないと、レイチェルはその場で何時間でもお説教をするだろうからだ。
ルミナスも少し驚いて、彼女に対して礼をした。
「レイチェルさん。わざわざ来てくださったんですね」
「いやいや、何を言うかね。集落の皆がお前との別れを惜しんでおる。私もそのうちの一人だからね、当然だとも」
いつもは集落の長老として厳しく振舞っていたレイチェルも、この時ばかりは少し恥じらいを感じさせる喋りだった。
ルミナスは改めて周りを見渡す。
そこには集落の者たちが一斉に集まっていて見送りをしにきてくれている。
ふと、自分の周りを群衆が囲むあの光景を思い出した。
あの時と同じ構図だ。
だけどもあの時とは違って、全員が自分のことを祝福してくれている。
そのことに感極まって泣いてしまいそうになったが、なんとか涙を堪えた。
「旅の心得は覚えているか?」
しばらくして、レイチェルはほんの少しいつもの調子を取り戻すと、厳しい口調で言った。
「はい、しっかりと」
ルミナスは慌てて答える。
そうだ、気を引き締めておかなければ。
ルミナスは思い出した。
自分がこれから旅をするのは外の世界。
それは、妖精の住む狭い森ではなくて、異種族の沢山いる、常識も違うかもしれない場所。
たとえ唯一接し慣れている人間相手であっても、今の妖精である自分では、何らかの考え方のすれ違いやトラブルが起きるかもしれない。
それに場合によっては、とんでもない危険が立ち塞がる時もあるかもしれない。
ルミナスはそのことをしっかりと意識していた。
彼女の旅立ちは傍から見ると軽い気持ちのように見えるかもしれないが、沢山の覚悟を決めてここにいるのだ。
それに、だからこそそんな危険のありふれた場所に放り出すようなことを許すはずがなかったレイチェルを説得してみせたのだ。
レイチェルは最初、ルミナスが旅に出たいと言い出すと一つ返事で反対した。
ルミナスは優秀だし、外の世界でもやっていけるかもしれないという考えは確かにほんの少しよぎった。
けれども、もし万が一のことがあったら?
そういう考えが巡ったレイチェルは、容易にはそのお願いを許すことは無かった。
それでも、その覚悟が確固たるものだったルミナスはレイチェルと何度も相談を重ねた。
厳しいことを言われても何度もお願いした。
そして、やっと許諾を得ることが出来たのだ。
「あの時許してしまったから……私のせいでルミナスは……なんてレイチェルさんに後悔させないように、ちゃんと気をつけて行ってくるよ」
いつもはレイチェル相手にあまりしない、冗談めいた口調でルミナスは言った。
しかし、レイチェルは口元すら綻ばせずに真面目な表情のままで返答した。
「何を馬鹿なことを言う。お前が旅先で野垂れ死んでいることでもあったら、後悔よりも先に説教が始まるわ。私はそうなったら、霊体のお前に説教をするところから入ることに決めておるのだ」
「え? レイチェルさん、わざわざ遠いところまでお見舞いに来てくれるってこと?」
「い、行かんわ。今のは冗談だ馬鹿者。ちゃんと死なずに帰ってこい」
レイチェルは恥ずかしそうにそう言って、ルミナスから顔を背ける。
その姿の珍しさにルミナスと、それからその様子を見ていた他の妖精たちからも、思わず笑いが起きた。
しばらくして、遅れてやってきたロイや花屋のローレンス夫妻、浮浪者のエイミーに別れの挨拶をした。
そうして、ついには全員と別れの挨拶を終えて、彼女はとうとう本当に旅立つ準備が整った。
レイチェルは最後に、祈祷院から出られないローラから、伝言があると言って話した。
「楽しんできて欲しいけれど、安全には気をつけて、だとさ。まったく、母親としてもっと言うべきことがあるだろうに」
レイチェルは悪態をつくように言ったけれども、ルミナスにはその言葉から感じられるものが沢山あった。
多分、色々となにを伝言にするか考えてはくれていたのだろう。
悩んだ末に、色々と伝えたいことがありすぎて伝言としては長すぎるものになってしまうので結局、必要最低限の短い伝言になったのだろう。
そう考え至ったルミナスは、少し気恥ずかしくてまた笑う。
彼女は、幸せな心持ちでその場所を旅立つことが出来た。
後ろでは沢山の妖精達が手を振ってくれている。
ルミナスは、目いっぱい羽根を羽ばたかせて、いつもより高く空を飛ぶ。
ほんの少し寂しさが襲ってくる。
けれども、それが気にならないように、彼女は広いリエイルの森を見下ろしながらこれから起きる旅の出来事に思いを馳せていた。
●
「おはよう、ソフィア」
「はい、おはようございます。メルト様」
広い寝室で二人の女性は言葉を交わす。
メルトはパジャマを着ていてついさっき起きたところだった。
そして、その傍に立つソフィアはメイド服を着て、メルトのために椅子を引く。
「今日の天気はどうかしら」
メルトはベッドから体を起こしてソフィアの出したその椅子に座って訊いた。
「メルト様、いつだって変わらずこの城は吹雪の渦中にあります。今日も変わらずそうですよ」
「そう、それが聞けてよかった」
メルトは機嫌が良さそうにそう言った。
「……ねぇ、ソフィア。今日は面白い夢を見たの」
「はい、どんな夢ですか」
「内容はまだ言えないの。でも、とても面白くて楽しい夢。だから今日はなんだか気分がいいの」
そう言われたソフィアはメルトの顔を不思議そうに見つめる。
その両目は目隠しで見えなくて、表情が分かりずらい。
けれども、口の形が可愛く微笑んでいる。
それを見ると、確かにいつもよりは元気そうだなとソフィアは思った。
「お茶を入れてきますね」
しばらくして、ソフィアはそう断りを入れると、寝室を出ていった。
メルトは静かになった部屋の中で一人ソフィアが戻ってくるのを待った。
その暇な間、彼女はまた夢の内容を思い出すのに耽った。
「ああ、お師匠様、お戻りになられたのですね。ソフィア共々、長い間お待ちしておりました」
メルトは見た夢を思い返してそう独り言を呟き、嬉しそうにしていた。