2 生まれ変わり
セレナは死んだような意識の中から不思議な感覚に呼び覚まされたかのように目を覚ました。
それまで宙を舞っていたかのように、そして今もまだ体が浮いているような、そういう不思議な感覚でいた。
すぐ傍で聞こえてくる女性の声が彼女の耳にはキンキンとしてとてもうるさい。
思わず耳を塞ぎたくなるが、思うように手を動かすことが出来なかった。
声を出そうとしても喉が詰まっているような感覚があり、赤子のような拙い声しかでない。
更に、目を開けて周りの状況を確認することすらままならない。
瞼を開けるには、周囲が眩しすぎるのだ。
ここまでとなると、どうすることもできなかった。
彼女には周りの状況を確認する手段が一つもないのだ。
ただ困惑した。
混乱して、今の状況がどれだけ不思議なことかと考えた。
すると、ある一つの疑問が浮かんできた。
自分は今、生きているのだろうか。
まだ死んでいないのか。
彼女は思う。
首を斬られ処刑された記憶が、彼女には確かに存在した。
国家転覆を狙う最悪の魔女として、処刑された記憶が。
しかし、視覚、聴覚、発声方法の擬似的な消失、という身でありながら、彼女には確かに意識があった。
意識があるということは、まだ死んでいないということである。
生きているということである。
それが不思議だ。
未だ生きていることが彼女にとってはとても不思議だった。
彼女は考えた。
セレナは考えていた。
自分は聖女であった。
民衆に慕われ、国のため、人の為に尽くすよい聖女であった。
しかし最後は理不尽な仕打ちを受け、魔女狩りに遭ったのだ。
そうして、打ち首にされ死んでしまった。
そうだ、死んでしまったはずなのである。
少なくともそういう記憶が、自分にはあるのだ。
それなのにどうして自分はこうして生きているのだろうか。
彼女はその矛盾した状況について必死に考えた。
考えていなければいけないような気がした。
けれども何故だろうか、そうやって考えようとすると、すぐに疲れてしまい、彼女は眠くなってしまう。
今までに感じたことのない強烈な眠気である。
その眠気に誘われると、どうしても眠りに落ちるほかなかった。
彼女は先程目覚めたばかりであるのに、また意識を夢の中へと送った。
彼女が自身の置かれている状況がどういうものかわかったのは、三日も経ったあとのことだった。
ゆっくりと、目を開けることのできるようになった彼女は、まず自身の体をまじまじと見た。
目に映る光景に、彼女はあまり驚かなかった。
薄々気づいていた節はあったのだ。
ただ、目の前の光景に、素直に喜べばいいのやら、それとも悲しめばいいのやら分からなかった。
彼女から見た自身の手足は異様に小さい。
それどころか、身体全体がとても小さく見える。
まるで赤子のような、と彼女は思ったが、途中で思い直す。
赤子のよう、ではない。
本当に赤子なのだ。
小さく見えるのではなく、実際に小さいのだ。
彼女は、セレナ・ローレインはある王国で国家転覆を狙った魔女として処刑され命を落とした。
死んでしまった。
だからその魂はもう宿り続けることのできないその身体からは抜けていくほかになく、天に還っていった。
そのはずであった。
しかし、なんの気まぐれなのか、奇跡とでも呼ぶべきことがもしかすると起こったのかもしれない。
還るべき魂はどういうわけか、再び肉体を得てここに生まれ落ちたのである。
つまり、彼女は転生したということであり、新たな命として、この世へ生まれ変わったということである。
だからこうしてここにいて、赤ん坊として生きている。
どうしてかはさておき、確かに赤ん坊としてここに存在しているのだ。
彼女はそのことをしばらくしてから理解した。
あまり驚きはしなかった。
それよりも、戸惑いが大きかった。
生まれ変わったことそれ自体は、彼女にとってはあまり不思議なことではない。
神は慈悲深く、使命を持ちながらも惨めに死んだ聖女にもう一度生きる機会を与えてくださったのだ。
そう思った。
しかし、どうして聖女としての、セレナとしての記憶が残っているのだろう。
そこが彼女にとっての不思議だった。
以前の記憶を持ってして、これから過ごす日々を第二の人生と呼べるのだろうか。
どちらかというとそれは、彼女にとっては以前の人生の延長というような気がした。
それに、処刑された記憶まで残っているのだ。
そんな無慈悲なことを神が本当にするだろうか。
聖女としての使命を果たせなかった者に一生その負い目を感じさせながらもう一度生きさせるのか。
そういう部分を彼女は不思議に思っていた。
ただ、生まれ変わったことそれ自体はすんなりと受け入れていた。
それは、彼女がネフェリライネ神への信仰が厚かったからであり、聖女として神が施しをしてくださったのだと信じて疑わなかったからである。
そうして彼女は考え続けているうちに、結局結論を出そうとするのはやめにしようという考えに至った。
うだうだと考えるのはやめて、とりあえずは今の状況に向き合ってみることにした。
さて現在、彼女の傍には一日中女性がいて、毎日付きっきりで世話をしてくれている。
この女性が母親なのだろう。
彼女は確信を持てる情報がないながらも、なんとなくそう思った。
まだ何を言っているかは分からないし、輪郭がぼやけていて姿をしっかり見ることが出来ない。
しかし、最初の時よりも五感は機能を得つつあった。
このまま時間が経過していけば、より明瞭に周りの状況が分かるようになるだろうと彼女は思った。
産まれた日からちょうど六ヶ月経った頃。
もうはっきりと周りにあるものがわかるようになった。
自身が今、母親であるローラの腕の中に抱かれていて、森に囲まれた木造の小屋の中で慎ましく暮らしていることを彼女は知っていた。
ローラは彼女のことをルミナスと呼んだ。
以前の人生で話していた言語とは違う言葉でローラは話していたので、最初は何を言っているのやら何も理解できなかった。
しかし、幼い時期の頭というのは非常に物覚えがいい。
それに加えて、不思議なことに彼女の精神年齢は大人のままなので、三ヶ月経った頃にはローラの話すことの大体は理解できるようになっていた。
そして彼女の言っていることが理解できるようになると、色々と実感することが多かった。
自身に母ローラが与えてくれた名はルミナスというものだった。
自分はルミナスと名付けられて、ローラに大切に育てられている。
そのことが分かった。
ルミナス・フィアノーツ、それが彼女の名である。
そこまでわかった頃には、セレナはもう戸惑うことは無かった。
ただ、自身がルミナスであることを受け入れた。
そして、ルミナスとしてそれに応じるようにどんどん成長していった。
二歳になると、彼女は立って歩けるようになっていた。
彼女はそのことが嬉しかった。
外に出てみたくてたまらなかった。
いつも窓から見える外の景色は、鬱蒼と茂っている森だ。
しかし彼女にとって、その様子はなんだか神秘的に感じるところがあって気になっていた。
ただ、幼い子供であるのに外出するのをローラは許さないだろうし、彼女自身も危険であることはわかっている。
彼女は聞き分けの言い幼児だった。
だから、その思いは心の内に秘めておいた。
二歳の時点でここまで自制することの大切さを覚えている幼児は、おそらく自分しかいないだろうと思いながら。
彼女は外出してみたい好奇心を抑え、代わりにその好奇心を存分に家の中で発散した。
ルミナスは狭い家の中を自由に歩けるようになったことだけでも、その進歩に喜びを感じていた。
成長を楽しむこと。
それはセレナだったときのことばかりを考えて、ルミナスとしての人生を疎かにしないようにと彼女が自分に課していたことだった。
あの時の出来事を受け止めきれていない今は、いくら考えても嫌な感情が湧き上がるだけだからと、彼女は今のことだけを考えるように決めていた。
ただそう思っていても退屈な時は退屈である。
家の中だけでの生活は、ローラのいる時間以外は基本的に退屈で仕方がない。
だから、古ぼけた棚に並んでいる本のうち彼女の背丈で届く限りのところにあったものを読んでみることにした。
するとそれらは全て、今まで見たことも無い――まるで植物のツルが絡み合っているかのような――文字で書かれている本であった。
それらの本はまた彼女の好奇心をひどく湧き上がらせた。
元々、セレナであった時から読書は好きだったし、どうやら、その文字こそがローラの話す言語に対応するもののようであったからである。
彼女は一刻も早くローラと意思疎通ができるようになりたかった。
セレナは捨て子だったのである。
親がおらず、小さな孤児院で幼少期を孤独に過ごしていた。
しかし、ルミナスには父親はいないけれども熱心に愛情を注いでくれ、大切に育ててくれる母親がいる。
ローラは彼女にとって、今すぐにでも感謝の意を伝えたいほどに偉大な、一番目の母なのである。
だから彼女はとにかく熱心に読書をした。
その様子は元々、一人で子育てをするのに物凄く不安を感じていたローラを酷く驚かせた。
そして、安心もさせた。
それから少しすると、その文字も大体すらすらと読めるようになってしまった。
加えて、まだもたついたような、喉の奥が上手く動かないようなもどかしい感じがしながらも、ほんの短い単語ならしっかり話すことができるようにもなった。
確実に成長していることが実感できている。
彼女は自身の成長に喜びを感じながら生活していた。
事実、彼女の成長スピードは異様であり、ユニークなものだった。
彼女はそれをとても楽しんでいた。
けれども彼女は同時に、ある重要なことを気にかけていた。
別に暗い話ではない。
悲しいことであったり、嫌なことであったりするわけではない。
それはいつも彼女の視界に入ってきて、そのたびに興味をもたせる。
だから彼女は、ずっと気にかけていた。
ある時、彼女はいつものように、ローラの膝の上に乗って姿見鏡にうつる自分を見ている。
その姿は以前のものとは全く違って、黒く真っ直ぐだった髪は金髪で少しくるくると癖があり、瞳の色が茶色だったのが緑になっていた。
肌が透き通るほど白く、すべすべとしている。
ルミナスは自身のこの姿をまるで人形のような容姿だと思った。
まるで自分自身の身体ではないみたい、とそういう風に思った。
そして、そういう風に思ったのは、やはり以前の身体と大きく違いがあるからという理由である。
髪や瞳だけならばまだすんなりとそれを受け入れることができるが、それ以外で彼女の興味を大きくひいている、髪や瞳の色などよりももっと大きく違う部分があるのだ。
不意に、背中のあたりがムズムズして彼女はぷるぷると身体を震わせた。
「あら、また痒いの? ちょっと待ってね」
ローラはルミナスの服を脱がせると、棚から白くてサラサラな粉の詰まった瓶を取ってきた。
そして蓋をあけると、それをルミナスの背中の羽根の付け根のあたりに優しく塗った。
「子供の頃は痒くなるものよ。でも掻きむしるのもよくないからね」
そう声をかけながら、ローラはルミナスの服をまた着せてあげた。
ルミナスはまだ、自分の背中のあたりがどのようになっているのかわからない。
けれど、この先どのようになっていくかは知っている。
それは、母親であるローラの背中に立派で大きな羽根が生えているのを、毎日その目で見てきているからだ。
その姿が、彼女の興味をとてつもなくひいていた。
ローラは人間ではなく別の種族の生き物だったのだ。
そしてそこから分かるのは、自身も人間ではないということ。
別の種族だということである。
ルミナスは以前の人生の記憶から思い出した。
主に森に住んでいて、羽根が生えている人型の種族。
それに当てはまるのは妖精族しかないだろう。
セレナとして生きていた中で、彼女は一度も妖精族に会ったことは無かったが、おそらくそうだろうと思った。
というのも、ローラの姿はセレナが思い描いていた妖精そのものだったからだ。
ルミナスは、自身が人間とは違う種族として生まれ変わったこと。
そしてその種族が妖精であると知った時、少しだけ高揚した。
彼女は四歳になった頃から、時々ローラと森へ出て自然について学んだ。
妖精は自然との繋がりが強い。
特に、そこに宿る精霊たちとはほぼ友達みたいなものだからねとローラは言った。
そして、そこから得られる力は自然からの恩恵である。
大切に使わなければならないし、感謝を忘れてはならない。
ローラがそうやって教えてくれる時間はルミナスにとってとても楽しかった。
妖精が自然や精霊から授けられる力とは治す力であり癒す力である。
ルミナスはそれだから嬉しかったのだ。
彼女はもう聖女ではない。
魂に聖女としての使命を宿してはいない。
周囲に神聖な存在として崇められ、自身もまたそういうような振る舞いをしなくてもいけない生活から解放されている。
彼女はもう、広大な森の奥深くにある小さな妖精族の集落で暮らす、一人の妖精になったのである。
もう使命ではないのだから、やらなくてもいいことだから。
そう考えて、気楽に暮らせばいいものだが、彼女はまたいくつかの目標を掲げていた。
聖女としてやり残したことを――いくつか出来ないことはあるかもしれないが――それでもやり遂げてみたいのだ。
そして、そんな彼女にとっては妖精という種族として再びこの世界に生まれ落ちたことはとても都合のいいことだった。
彼女はネフェリライネに感謝した。
かの女神は使命を果たせなかった自分にもう一度やり直す機会を与えてくださったのだ。
彼女はそう考えていた。
今度は悲しい結末にはしない。
それに、今回は使命であるわけではないから、必要以上に気負うことはない。
ただ、自分の楽しいと思うことだけやればいいのだ。
彼女はそう思った。
彼女にとって、誰かの役に立てることは凄く楽しいことだった。
それが聖女としての生きがいだったのであり、今度もまたそれを生きがいにしていきたいと思った。
だから、幼いながらに、彼女は自分自身にそんな使命を与えた。
――しかし、歳を重ねるごとに思いは薄れていく。
それは幼い頃だけの衝動だったのだろうか。
そう思う程に、それから彼女はただルミナスとして生きた。
ローラや集落の優しい妖精たちに囲まれて楽しく過ごした。
使命は段々と薄れていった。
彼女はただ妖精として、生きていた。
それが動き出すのはとても遅かった。
もう、動き出すことはないのではないかと思えるほどに。
――いや、遅いわけではなかったのかもしれない。
その時期が一番ちょうどの良いタイミングだったのかもしれない。
彼女が幼くして自身に与えた使命が、やっと動き出したのは、十九の歳になった頃だったのだ。
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かつては死者の魂を乱雑に扱うものとして死術は禁術とされていた。
そしてそれを代表として、命を扱う魔術は全て禁術とされていた。
その名残りとして、今も人の手による転生の儀式等を行うことは禁忌とされている。
命を司る力は、本来神だけが行使するものであり、人の手によって行使することは重大な禁忌である。
今現在使われる死術は全てその理を歪められたものを源流としているのであり、その形を可能な限り修復したものである。
そうすると、本来の姿の死術はもっと恐ろしい魔術であり、まさしく禁術であったことがわかるだろう。
しかし、先程も述べたように神が行使する場合はそれはとても神聖なものである。
稀代の禁術とされている転生でさえ、それと同様であり神に選ばれた転生者ともなれば一転して神聖なものとして扱われることになるのだ。
テーヌス・エルカリア著『魔術から紐解く歴史 第三章 禁術の歴史とその推移』から抜粋