聞いてはいけない鈴
序章 鳴らない鈴
神殿の記録庫には、音がなかった。正確には、音が吸われていた。廊下の石床を踏む靴音も、古い蝶番が軋むかすかな悲鳴も、火皿の上で油が燃える小さな爆ぜも、ここでは一度空気に触れた途端、厚く積もった埃と羊皮紙の匂いの中へ沈み、二度と浮かんでこない。ユウリはその静けさが嫌いではなかった。記録官見習いにとって、静寂とは秩序であり、秩序とは世界がまだ壊れていない証だったからだ。けれどその夜、月神殿メミスの地下三層、封鎖記録庫の最奥で、彼は初めて、静けさにも種類があることを知った。人を落ち着かせる静けさ。死者に礼を尽くす静けさ。誰かが息を潜めている静けさ。そして、そこにあるはずの音だけが、刃物で切り取られたように消えている静けさ。
「……ユウリ、まだ奥に行くの?」
背後から声をかけたリオナの声も、どこか布越しに聞こえた。彼女は神殿の祓音補佐官で、ユウリと同じく正式な神官ではない。ただし、音に関わる異常を聞き分ける耳を持っているため、古い記録や禁忌儀礼の調査にはよく駆り出されていた。白い外套の下に吊るした小さな銀鈴は、彼女が歩くたび本来なら澄んだ音を返すはずだったが、今夜は一度も鳴っていない。「ここ、変だよ。埃っぽいとか、暗いとか、そういう話じゃなくて。音が戻ってこない」
「記録庫だからだろう。古い紙は湿気を吸うし、壁も厚い」
「そういう理屈を言って安心したいなら、ひとりで安心して。わたしは安心しない」
リオナは軽く睨んだが、その目の奥にいつもの皮肉の色はなかった。彼女は片手で自分の耳の後ろを押さえている。音の異常に触れたときの癖だ。ユウリは持っていた灯火管を少し掲げ、狭い棚の間を覗き込んだ。禁書庫ではない。神格封印に関わる第一級記録でもない。ここは、各地の末社や消滅した村落、放棄された祠、廃止された祭式についてまとめられた古い保管区画にすぎない。上層部の言い方を借りれば、「歴史的価値はあるが緊急性のない死蔵資料」。だからユウリのような見習いが夜間整理を任される。もちろん、本当にただの死蔵資料ならば、扉に三重の沈黙封印など施されているはずがなかった。
その台帳は、棚の隙間に落ちていた。最初は黒い木片かと思った。表紙は革ではなく、薄く削いだ樹皮を何枚も重ねて固めたような奇妙な質感で、触れると乾いているのに、指先だけがぬるりと湿った。背には何も記されていない。題箋は剥がれ、留め紐は半ば腐っていた。だが、ユウリが拾い上げた瞬間、灯火管の火が一度だけ細く伸び、すぐに縮んだ。リオナが息を呑む。「それ、触って平気なやつ?」
「平気かどうかは、開かないと分からない」
「分からないなら開かないでほしいんだけど」
「記録官は、分からないものを分からないまま戻す仕事じゃない」
「そうやって先輩たちが何人も禁書庫送りになったの、知ってる?」
「禁書庫送りならまだ生きてる」
「今の、あまり安心できる返しじゃないよ」
軽口はそこで途切れた。ユウリが表紙を開いたからだ。最初の数頁には、山間部の簡単な地図と、末社の所在地、井戸、墓地、祭場、村道の配置が細かく書かれていた。文字は古いが、読めないほどではない。村の名は、音無村。月神殿の管轄からはすでに外れた山村で、台帳の隅には赤い印で「廃村処理済」と押されている。日付は七十年以上前。公式記録では、山崩れと疫病、人口流出が重なり、住民は近隣集落へ移されたことになっていた。ユウリもその名を一度だけ見たことがある。ここ数か月、近隣の村で起きている奇妙な症例の報告に、音無という地名が何度か出てきた。深夜、誰もいない方角から鈴の音を聞いた者が、翌朝から声を出せなくなる。喉に傷はない。舌も動く。息も漏れる。けれど言葉だけが音にならない。医術師は呪詛ではないと言い、祓音師は死霊ではないと言い、神殿上層部は「風土病に伴う集団錯覚」と記録した。錯覚で声を失う者が三人も出たにもかかわらず、だ。
台帳をめくるにつれ、ユウリの手つきは自然と遅くなった。戸数。家長名。家族構成。祭役。鈴守り。水守り。墓守り。産婆。猟師。炭焼き。子どもの名。生まれた日。死んだ日。ひとつひとつはどこの村にもある生活の記録だった。だが途中から、名前が消え始めていた。最初は死者だけだった。すでに没した者の名が、太い墨で丁寧に塗り潰されている。次の頁では、嫁いで村を出た者の名も潰されていた。その次は、まだ十にも満たない子どもの名。次は、祭役。次は、村長。墨は古く、乾いている。だが塗り潰された箇所だけが異様に黒かった。灯火を近づけても、表面に光が返らない。穴ではないのに、穴のように見える。文字の上に墨を置いたというより、そこだけ紙が夜になっているようだった。
「……どうして名前だけ?」
リオナの声は小さかった。ユウリは答えなかった。答えを探すように頁を進めた。やがて台帳は、村人全員の名前が黒く塗り潰された一覧に変わった。役職も年齢も続柄も残っているのに、名だけがない。妻。長男。次女。鈴守りの子。墓守りの弟。産婆の姉。文字は人の関係だけを残し、その中心にあるはずのものを抜き取っている。名前のない家系図は、まるで誰かの骨だけを几帳面に並べた標本のようだった。リオナが唇を噛む。「ねえ、変だよ。名前を消すなら、普通はその人を隠したいんでしょ。でもこれ、隠すというより……」
「呼べないようにしている」
ユウリが言うと、リオナは黙った。その沈黙が、記録庫の沈黙と重なった。呼べないようにする。名を文字から消すのではなく、音に変わる前に殺す。神殿にはそうした禁忌がいくつか残っている。名を持つ神格、名を聞く魔、名を奪う旧いもの。だがそれらは通常、封印台帳に赤字で分類される。この音無村の台帳には、その分類すらない。まるで誰かが、正式な恐怖になる前に、そっと棚の隙間へ落としたようだった。
最後の頁の手前で、文字は一度途切れていた。そこから先は余白が続く。だが一箇所だけ、乾いた筆跡で短く書き込まれていた。古い神殿文字ではない。もっと後の時代の、震えた手による追記だった。
鈴が鳴る夜、名を呼んではならない。
それを読んだ瞬間、リオナの銀鈴が鳴った。いや、鳴ったように見えた。鈴は微かに震え、彼女の胸元で小さく揺れた。だが音はしなかった。リオナは青ざめ、自分の鈴を手で押さえた。「今、聞こえた?」
「聞こえなかった」
「わたしも。なのに、鳴ったって分かった」
ユウリは台帳を閉じようとした。だが、頁が指に貼りついて離れなかった。紙ではない。皮膚が紙に吸われている。爪の先に痛みが走り、薄く血が滲んだ。赤い点が余白へ落ちた途端、墨で塗り潰された村人名簿のどこかで、黒が一瞬だけ濡れたように光った。ユウリは思わず手を引いた。指先の血はすぐ止まったが、痛みよりも、今の光景のほうがずっと気味が悪かった。名前を消された何かが、血の匂いに気づいたような感じがした。
「戻そう」
リオナが言った。今度は軽口ではなかった。「ユウリ、これは戻したほうがいい。少なくとも、わたしたちだけで持ち出すものじゃない」
「上へ報告する」
「報告したら?」
「封鎖されるだろうな」
「だったら、それでいいじゃない」
「近隣の村で声を失った人たちはどうなる」
リオナは答えに詰まった。ユウリは台帳を見下ろした。記録官見習いに過ぎない自分が、神殿上層部の判断を疑うべきではない。それは分かっていた。だが、上層部はすでに音無村を処理済みとしていた。廃村。終息。集団移転。異常なし。そう記録したあとに、声を失う者が出てもなお、彼らは台帳を開こうとしなかった。死蔵資料の棚の隙間に落ちた一冊の黒い台帳。それが偶然であるはずがない。
そのとき、記録庫の奥で何かが落ちた。乾いた紙束が崩れるような音だった。二人は同時に振り向いた。灯火管の光が棚の影を震わせる。そこには誰もいない。だが、音がしたはずの場所から、今度は何の余韻も戻ってこなかった。落ちたものがあれば、床に当たった響きが残る。紙なら紙の擦れ、木なら木の跳ねる音がある。けれど、そこには音が生まれたという痕跡だけがなく、ただ棚の隙間に濃い暗がりが溜まっていた。リオナが息を殺す。「今の、聞こえたよね」
「ああ」
「じゃあ、あれはまだ普通の音だ」
「そうとは限らない」
「怖いこと言わないで」
ユウリは台帳を布で包み、記録官用の革鞄へ入れた。リオナは何か言いかけたが、結局止めなかった。二人とも分かっていた。もう見つけてしまった。読んでしまった。ならば戻しても、知らなかったことにはならない。記録官という役目のもっとも残酷なところは、見たものを見なかったことにできない点にある。知らない者は逃げられる。知った者は、知ったという事実に追いつかれる。
翌朝、神殿上層部への報告は、半分だけ受理された。音無村の台帳が見つかったこと。近隣症例との関連性が疑われること。村への現地確認が必要であること。そこまでは記録された。だが、上級神官たちは追記の文言については慎重に沈黙した。長い卓の向こうで、白髪の神官が台帳に触れることなく言った。「音無村は処理済みの廃村だ。七十二年前の災害と移住によって、祭祀継承も消滅している。今さら現地調査を行う価値は薄い」
「ですが、近隣の声喪失症例はすべて満月前後に発生しています。報告書には、夜中に鈴の音を聞いたという共通証言もあります」
ユウリが言うと、別の神官が眉を寄せた。「山村では獣除けの鈴や風鈴を吊るす。夜風で鳴っただけだろう」
「証言者の家には鈴がありませんでした。三例ともです」
「錯聴だ」
「三人が同じ方角を指しています。音無村の方角です」
沈黙が落ちた。神殿の会議室にも音はある。衣擦れ、咳払い、筆先が紙に触れる音、火皿の油が跳ねる音。それらがいっせいに遠ざかったように、ユウリは感じた。白髪の神官はしばらく台帳を見つめ、それから静かに言った。「調査を望むなら、見習い記録官ユウリ、おまえが行け。祓音補佐官リオナを同行させる。正式な討伐任務ではない。調査、確認、記録。異常がなければ帰還せよ。異常があった場合も、判断は上に仰げ。独断で封印、祓除、交渉を試みてはならない」
「承知しました」
「それから」
神官はそこで初めて、ユウリの目を見た。その眼差しは老いた者のものではなく、何かを忘れることで生き延びてきた者の目だった。「音無村では、余計な名を呼ぶな。古い村落には古い作法がある」
リオナが隣で小さく息を吸った。ユウリは問いたかった。なぜその作法を知っているのですか、と。だが神官はすでに視線を外し、報告書に「現地確認を許可」と記した。その筆音だけは、妙にはっきりと聞こえた。まるで、誰かが耳元で紙を裂いているようだった。
音無村へ向かう山道は、昼でも薄暗かった。馬車が入れるのは途中の峠までで、そこから先は徒歩になる。夏の終わりに近い時期だというのに、山肌には湿った冷気がまとわりつき、木々の葉は濡れたように黒く見えた。リオナは道すがら何度も立ち止まり、耳を澄ませた。だが聞こえるのは、遠くの鳥の声、枝を渡る小動物の足音、草を撫でる風、ユウリの鞄の金具が揺れる音ばかりだった。普通の音があることに、二人は何度も安堵した。けれどその安堵は、山を進むにつれて少しずつ痩せていった。峠を越え、古い石仏が並ぶ細道に入ったあたりから、鳥の声が消えた。さらにしばらく進むと、虫の羽音も消えた。風は吹いている。木の葉も動いている。なのに、葉擦れの音だけがない。
「ユウリ」
リオナが足を止めた。「ここから先、変わる」
「何が?」
「音の返り方。さっきまで山だったのに、今は……水の底みたい」
ユウリは周囲を見回した。道端には古い注連縄が腐り、石の祠が半ば土に沈んでいる。祠の屋根には苔が厚く生え、その苔の中から細い草が伸びていた。誰かが供えたらしい鈴緒が一本、朽ちた木から垂れている。赤かったはずの布は泥のような茶色になり、先に結ばれた小鈴は錆びて黒くなっていた。ユウリが近づこうとすると、リオナが袖を掴んだ。「触らないで」
「調べるだけだ」
「触らないで」
二度目の声は、ほとんど懇願だった。ユウリは手を下ろした。リオナは鈴緒から目を逸らさない。「あれ、鳴りたがってる」
「錆びている。鳴らないだろう」
「だから怖いんでしょ。鳴らないものが、鳴りたがってる」
その言い方に、ユウリは返す言葉を失った。道はさらに細くなり、やがて山肌を切り開いた窪地へ出た。そこに、音無村はあった。
最初に見えたのは、崩れかけた屋根の列だった。斜面に沿って古い家々が寄り添うように建ち、どの家も戸板が外れ、障子は破れ、軒下には煤けた風鈴がいくつも吊るされている。風は谷から吹き上げていた。ユウリの髪を揺らし、リオナの外套をはためかせ、道端の薄をいっせいに傾けた。それなのに、風鈴は一つも鳴らなかった。揺れもしなかった。まるで風はそこを避けて通っている。いや、違う。ユウリは見た。風鈴は確かに動いている。軒先で、ほんのわずかに震えている。なのに音だけがない。
村の下手には細い川が流れていた。水は石に当たり、泡を立て、夕暮れの光を細かく砕いている。だが水音がなかった。ユウリは無意識に耳を押さえた。耳が詰まったのかと思った。けれど自分の呼吸は聞こえる。リオナが小さく「気持ち悪い」と呟く声も聞こえる。聞こえる音と、聞こえない音が選別されている。そのことが、ただ静かなことよりもずっと不快だった。
「ここ、廃村なんだよね」
リオナが言った。「なのに、誰かがいるみたい」
ユウリは家々の暗い窓を見た。人影はない。煙も上がっていない。足跡も新しくはない。だが、見られている感覚があった。窓からではない。背後からでもない。もっと近い。自分の喉の内側から覗かれているような感覚。声を出したら、その声の形を誰かが覚えてしまう。そんな予感がした。
村の入口には、古びた札が立っていた。長い年月の雨風に晒され、木目は裂け、文字の一部は苔に覆われている。それでも、墨で書かれた文言だけは妙にはっきり残っていた。いや、残っていたというより、そこだけ古びていなかった。黒い文字はまだ濡れているようで、夕暮れの鈍い光を吸い込んでいた。
ここより先、名を呼ぶべからず。
リオナがそれを読み、すぐに口を押さえた。声に出していない。ただ目で追っただけだ。それでも、読んだという行為が何かに触れたように、彼女の肩が震えた。ユウリは革鞄の中の台帳を意識した。記録庫で見つけた追記。鈴が鳴る夜、名を呼んではならない。村の入口の札。ここより先、名を呼ぶべからず。同じ禁忌が、紙の中と村の入口で、七十年以上の距離を越えて重なっている。
「……戻る?」
リオナが訊いた。
ユウリは村の奥を見た。崩れた鳥居。苔むした石段。斜面の上に沈む小さな社。その屋根の下に、黒い何かが吊られているように見えた。鈴かもしれない。灯籠かもしれない。影かもしれない。判別できる距離ではない。なのに、ユウリはそれから目を離せなかった。
「日が暮れる前に、社だけ確認する」
「そう言うと思った」
「嫌なら、入口で待っていてもいい」
「馬鹿。ひとりで行かせたら、あんた絶対に名前とか呼ぶでしょ」
「呼ばない」
「自分のことも?」
ユウリは答えかけて、口を閉じた。自分の名を口にすることが、急にひどく危険な行為に思えた。リオナはそれを見て、苦い顔で笑った。「ほら。もう効いてる」
二人は札の前でしばらく立ち尽くした。夕暮れの山は、朱色ではなく、薄墨を水で溶いたような色に沈んでいく。村の中の風鈴は相変わらず揺れている。川は流れている。草は靡いている。けれど音はない。リオナの銀鈴も鳴らない。ユウリの喉は乾き、舌の奥にかすかな錆の味が広がった。
そして、村の奥の社の方で、黒い影が一度だけ揺れた。
音はしなかった。
けれどユウリは、今、何かがこちらを聞いたのだと思った。
第一章 音のない村
札を越えた瞬間、ユウリは自分の足音が一歩遅れて聞こえたような気がした。石と土の混じった細い道を踏んだ音が、靴底からすぐに空気へ抜けていかず、膝のあたりに溜まり、それから思い出したように耳へ戻ってくる。音無村の入口に立つ古い札は、背後へ退いていくにつれてただの木片に戻っていったが、そこに書かれていた文言だけは、喉の奥に棘のように残った。ここより先、名を呼ぶべからず。声に出して読んだわけでもないのに、読んだという事実だけが、自分の内側で小さく震えている。リオナはユウリの半歩後ろを歩いていた。普段なら足元の泥や虫を嫌って文句のひとつも言うところだが、今は何も言わない。外套の胸元に吊るした銀鈴を片手で押さえ、もう片方の手で腰の祓音短杖を握っている。神殿式の短杖は、魔を祓うための武器ではなく、乱れた音階や呪詛の響きを調律する祭具だった。だがこの村では、調律すべき音そのものが存在しない。あるいは、存在しているのに、こちらへ返ってこない。
村の道は、古い生活の形をほとんどそのまま残していた。道端には割れた甕が伏せられ、軒下には薪が積まれ、畑だったらしい場所には畝の跡が波のように残っている。家々は朽ちているが、壊れきってはいなかった。火事で焼けたわけでも、山崩れに押し潰されたわけでもない。人がある日、食事の途中で箸を置き、寝床から布団を畳まず、子どもを呼ぶ声だけを残して、そのまま外へ出ていったような放置のされ方だった。ただ、その「声だけを残して」という表現が、この村では成り立たない。残っているはずのものから、音だけが抜き取られている。屋根の上を渡る風は見える。破れ障子がふくらみ、薄の穂が傾き、軒先の風鈴が細かく震えているのも見える。だが、かすかな擦れすら聞こえない。視覚だけが音を主張し、耳はそれを否定している。その齟齬が、歩くたびに気分を悪くさせた。
「最初の家、見る?」リオナが囁いた。囁き声は届いた。だから、ユウリはかえって不安になった。人の声は聞こえる。呼吸も聞こえる。鞄の金具の小さな擦れも聞こえる。なのに、村が発するはずの音だけがない。「見る。日が落ちるまでに、家屋の状態と社の位置を確認する」
「名前は?」
「呼ばない」
「そうじゃなくて、家の表札とか、位牌とか」
「見つけても声には出さない。記録帳に写す」
「それも大丈夫なのかな」
リオナの問いに、ユウリは答えなかった。記録することは、呼ぶこととどれほど違うのか。神殿では、文字と声は別の経路を持つと教えられる。声は空気に乗り、耳に入り、祈りや呪詛として神格に届く。文字は紙に留まり、読み上げられないかぎり沈黙の中にある。だが、記録庫で見つけた台帳は、その前提を静かに否定していた。紙の上で塗り潰された名前が、まるで音になることを恐れるように黒く沈んでいたからだ。
最初の家は、村の入口にもっとも近い二階建ての農家だった。戸は閉まっていない。横へずれたまま、敷居の上で傾いている。ユウリが手をかけると、戸は抵抗なく動いた。だが音はしなかった。古い木戸が敷居を擦る音がない。リオナが肩をすくめる。「今の、すごく嫌」
「何が」
「古い戸が音を立てないのって、誰かが先に手を添えて、そっと開けてくれたみたいじゃない」
「やめろ」
「そっちこそ、怖いときだけ素直に嫌がらないで」
中は薄暗く、湿った畳と灰の匂いがした。土間には欠けた碗が伏せてあり、竈には炭の黒が残っている。囲炉裏の上には鍋が掛かったままで、蓋の縁には乾いた何かがこびりついていた。何十年も前の食事の名残がそのまま保存されているはずはないのに、家の中にはまだ人が暮らしていた温度の跡があった。壁際には農具。棚には塩壺、干からびた薬草の束、折れた櫛。奥の部屋には布団が二組敷かれ、片方だけが乱れていた。リオナは土間から上がる前に小さく礼をし、音を立てないように畳へ足を乗せた。音など、どうせ立たないのに。
「これ、普通に暮らしてた家だよね」
「台帳では移住処理になっている。家財を置いていく例はある」
「食べかけの鍋まで?」
ユウリは答えず、棚の上に置かれていた木箱を開けた。中には手紙が束ねられていた。婚礼の祝い状、年始の挨拶、村役への届け。紙は脆く、少し持ち上げただけで端が崩れた。差出人の欄には墨がある。だが、そこに名前はなかった。筆跡そのものは残っている。誰かが書いたはずの線が途中で失われているのではなく、署名のある場所だけが後から黒く塗り潰されていた。受取人も同じだった。続柄や敬称だけが残っている。「御母上様」「村役様」「鈴守り様」。名はない。
リオナが奥の仏間で「ユウリ」と言いかけ、途中で口を押さえた。目が合う。二人とも同時に札の文言を思い出した。ユウリは軽く首を振り、リオナは唇だけで「ごめん」と言った。彼は畳を踏んで仏間へ入った。古い仏壇の扉が開いている。内部には小さな位牌が三つ並んでいた。戒名に相当する文字列は、鋭い刃物で削られている。削り跡は木地より新しく、年月を経てもそこだけ白っぽい。だが削られた部分に、薄く墨が染みていた。誰かが文字を削ったあと、さらに黒を擦り込んだのだ。死者の名を消すために。いや、消したあとでも、なお呼ばれないようにするために。リオナは仏壇の前で膝をつき、両手を合わせた。すぐに手を下ろし、気まずそうに言う。「祈っていいのか迷った。誰に届くか分からない」
「祈りは神殿へ向ければいい」
「この村でそれ、通じると思う?」
ユウリは位牌を見つめたまま黙った。仏壇の下には、子どもの玩具が置かれていた。小さな木馬。布で作った兎。赤い紐のついた毬。どれも埃をかぶっているが、捨てられてはいない。木馬の腹には、幼い文字で何かが書かれていたらしい。そこも黒く塗り潰されていた。ユウリは指先で触れようとして、やめた。玩具に書く名前は、子どもが自分のものだと主張するための印だ。それすら消されていることが、位牌よりも不気味だった。死者だけではない。生者だけでもない。この村では、ものに宿る呼び名まで殺されている。
二軒目、三軒目と調べても、状況は同じだった。台所には食器が残り、寝室には畳まれない布団が残り、箪笥には衣類が残り、納戸には農具が残っている。だが名前だけがない。婚礼の札には「新郎」「新婦」とだけ残り、その下は墨で潰されている。産着に縫い込まれた名札は、糸ごと抜き取られている。日記の末尾にある署名は黒く塗られ、本文中で家族の名を呼んだ箇所も、そこだけ墨が滲んで読めない。読み進めるうちに、奇妙な規則性が見えてきた。日記の文章は、最初こそ日々の仕事や天候、祭りの準備について書かれている。やがて「昨夜、鈴が鳴った」「井戸端で母が振り返らなかった」「弟が自分の名を忘れた」といった記述が増え、その後、本文の中から人の名が消える。最初は墨で消されている。次に、そもそも書かれなくなる。「妻が」「子が」「あの人が」「上の子が」「鈴守りの家の者が」。そして最後の頁には、どの家の日記にも似たような言葉があった。
もう、呼べない。
それだけが、どの家にも残っていた。誰の筆跡でもないように、同じ震え方をした文字で。
「ねえ、これ、村人が自分たちで消したんだよね」リオナは三軒目の家を出たところで、声を低くした。「外から来た誰かじゃない。だって家ごとに墨が違う。刃物も違う。雑な家もあるし、すごく丁寧に消してる家もある。自分の家の名前を、自分たちで消したんだ」
「そう見える」
「なんで」
「呼ばれたくなかったから」
「誰に?」
ユウリは村の奥を見た。社へ続く石段が、夕暮れの影の中で水に濡れた背骨のように伸びている。石段の両脇には、無数の小さな鈴が結ばれていた。祈願の鈴、厄除けの鈴、獣除けの鈴、子どもの無事を願う鈴。どれも錆びて黒い。どれも揺れているのに鳴らない。「それを調べに来た」
「いまさら真面目な顔で言わないで。そういうの、怖くなるから」
「怖いんだろう」
「怖いよ」リオナはあっさり認めた。「音がしないって、耳が休まることだと思ってた。違うね。音がないと、自分の心臓の音ばっかり聞こえる。で、それが本当に自分の音なのか分からなくなる」
ユウリは返事をしようとして、ふと耳を澄ませた。自分の心臓の音。確かに聞こえる。だが、聞こえているのは胸の奥からではなく、村のどこかから薄く反響して戻ってきているようだった。鼓動が一拍遅れるたび、社の方で誰かが同じ拍を数えている。そんな錯覚。彼は唾を飲み込み、記録帳を開いた。調査記録として書くべきことは多い。家屋の状態。住民移転の形跡なし。家財放置。姓名記録の意図的抹消。位牌、日記、婚礼札、卒塔婆、玩具に至るまで名の除去。音響異常。自然音の消失。人声は残存。だが、筆を走らせようとして手が止まった。文頭に自分の名を書きそうになったのだ。見習い記録官としての癖。調査開始時には、記録者名を記す。それを、ここではしてはいけない。
リオナが横から覗き込む。「書かないの?」
「記録者名は後で補う」
「忘れない?」
「忘れない」
そう言ってから、ユウリは嫌な気持ちになった。忘れるはずがない、と言い切る声が、思ったより弱かった。自分の名前など、朝から何度も呼ばれてきた。神殿で、会議室で、山道で、村の入口でリオナに。なのに今、口の中で自分の名を転がそうとすると、舌が拒む。音にするな、と札が言っている。音にしたものから、持っていかれる。まだその言葉を聞いたわけではないのに、すでに理解しているような感覚があった。
社へ向かう前に、二人は村の墓地を確認した。墓地は川沿いの少し高い場所にあり、石塔が斜面に沿って並んでいる。苔が厚く、墓石の多くは傾き、いくつかは根に押されて割れていた。だが、どの墓も同じように名がなかった。刻まれた文字は削られ、戒名も俗名も失われ、ただ没年らしき数字だけが残っている。卒塔婆は風化して白くなり、名のある部分だけが刃物で抉られていた。リオナは墓地の前で立ち尽くし、眉を寄せた。「死んでも呼ばれたくなかったのかな」
「呼ばれると戻るものもある」
「戻ってほしくないもの?」
「あるいは、戻る途中で、別のものに聞かれる」
リオナは顔をしかめた。「今のほうが怖い」
「推測だ」
「推測で怖くしないで」
そのとき、墓地の奥で小石が転がった。今度は音がした。ころ、と乾いた小さな音。二人は同時に身構えた。夕暮れの薄い光の中、墓石の隙間に黒い影が動いた。猫か、狐か、猿か。ユウリは息を詰めた。影は墓石の裏からこちらを見ているようだった。リオナが短杖を握る。だが次の瞬間、影は細く伸び、ただの枯れ枝の重なりになった。風が吹いている。枝は動いている。だがそれ以降、音はなかった。たった一度だけ、墓地は音を返した。それが合図のように思えた。もうすぐ日が沈む。
石段を上がるころには、空は墨を流したような青灰色になっていた。社は村の中央、少し高い場所に建っていた。大きな社ではない。朽ちた鳥居、割れた手水鉢、苔むした石灯籠、本殿というより小さな覆屋に近い黒い建物。その周囲に、鈴緒や風鈴や小鈴が無数に結ばれている。普通の神社なら願掛けの札や絵馬があるはずの場所にも、鈴があった。木の枝に。格子に。石灯籠の火袋に。屋根の垂木に。子どもの手首に巻くような小さな鈴まで、麻紐に通されて吊るされている。すべて黒い。錆か、煤か、あるいは長い年月で音が腐った色なのか、判別できない。
「鳴らない鈴だらけ」リオナが呟いた。「でも、これだけあれば、一つくらい音がしてもいいのに」
「祓音できるか」
「音があれば。ないものは祓えない」
「鳴らしてみるのは」
「本気で言ってる?」
リオナの視線が鋭くなった。ユウリは「いや」とすぐに否定した。「確認だ」
「確認でも嫌。ここで鈴を鳴らすなんて、井戸に向かって自分から落ちるようなものだよ」
「井戸なら底がある」
「ないと思ってるんだ」
「この村の音には、底がない気がする」
リオナはしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。「あんた、そういうこと言うときだけ詩人みたいになるの、やめたほうがいい。怖いから」
社の前には、誰かが掃いたような跡があった。村全体が廃れているのに、石段の上と賽銭箱の前だけは落ち葉が少ない。最近掃かれたというほどではないが、完全な放置とも違う。ユウリが屈んで地面を調べると、湿った土に足跡があった。裸足ではない。草履でもない。古い布靴のような跡。大人の男にしては小さく、子どもにしては歩幅が大きい。跡は社の裏手から出て、賽銭箱の前で止まり、また裏へ戻っている。
「誰かいる」
ユウリが言うと、リオナはすぐに短杖を構えた。「人?」
「分からない」
「人って言って」
「人だといいが」
「ほんとに、言葉選び!」
社の裏へ回り込むと、そこには小さな庵があった。板壁は傾き、屋根には苔が厚く、扉の隙間から細い煙が漏れている。煙はある。だが、薪の爆ぜる音は聞こえない。中から咳がした。咳だけは、やけにはっきり聞こえた。老人の、深く濁った咳。ユウリはリオナと目を合わせ、扉から少し離れた位置で声をかけた。「神殿から調査に来ました。中におられる方、話を聞かせてください」
咳が止まった。長い沈黙があった。扉の向こうで、人が動く気配がする。だが足音はない。やがて扉が内側から押され、細く開いた。中から出てきたのは、小柄な老人だった。髪も髭も灰色で、皮膚は乾いた木の皮のように皺だらけだったが、目だけが異様に濡れている。目の周囲の皮膚が赤く荒れ、泣き続けたあとのようにも見えた。着物は古く、何度も継ぎを当てられている。首からは黒い布袋を下げていた。老人は二人を見るなり、表情を変えた。驚きではない。恐怖でもない。まるで、何十年も前に閉めたはずの戸が、今さら勝手に開いたのを見たような顔だった。
「帰れ」
その声はかすれていたが、はっきり届いた。音のない村の中で、その一言だけが妙に重かった。「日があるうちに、帰れ」
「あなたはこの村の方ですか」ユウリが尋ねる。
老人は答えず、リオナの胸元の銀鈴を見た。皺だらけの顔がさらに歪む。「鈴を持ってきたのか」
リオナは反射的に鈴を押さえた。「これは神殿の祓音鈴です。鳴らさないようにしています」
「鳴らさなくても、鈴は鈴だ」
「あなたは、ここで暮らしているんですか」
老人は二人を交互に見た。目の奥で何かが怯えている。だがそれは、自分の身を案じる怯えではなかった。二人が何かを連れてきたことを恐れている目だった。「暮らしてなどおらん。残っているだけだ」
「お名前を伺っても?」
リオナがそう言った瞬間、老人は顎を引き、獣のように歯を剥いた。「言うな」
彼女は息を呑む。老人の細い腕が震えている。怒りではない。恐怖で震えている。「名を聞くな。名を言うな。名を探すな」
ユウリは一歩下がり、両手を見せた。「失礼しました。名は聞きません。ただ、この村で何があったのか知りたい。近隣の村で、夜に鈴の音を聞いた者が声を失っています。音無村の記録には、名を呼ぶなという追記がありました」
老人の目が、すっと細くなった。「台帳を見たのか」
「神殿の記録庫で見つけました」
「まだ、あったか」
「あなたは台帳を知っているんですね」
「知らん」
「今、知っている反応をしました」
「知らんものは知らん」
老人は頑なに顔を背けた。その横顔には、単なる拒絶ではなく、自分が知っていると認めること自体を恐れている緊張があった。知っている、と言えば、知っているものが音になる。音になったものは、ここでは聞かれる。ユウリは言葉を選んだ。「では、別の尋ね方をします。この村では、なぜ名前が消されているのですか。家の位牌も、手紙も、日記も、墓も、すべて名が削られていました」
老人は返事をしなかった。庵の奥から煙が流れ、老人の背後を白く曇らせる。リオナが短杖を下ろし、できるだけ柔らかい声で言った。「わたしたちは、荒らしに来たんじゃありません。近くの村で困っている人がいるんです。声が出なくなった人たちが。何か知っているなら教えてください。どうすればいいのかだけでも」
老人はリオナを見た。少女と言うには大人びているが、大人と言うにはまだ若い彼女の顔を、長い時間見つめた。その視線には妙な痛ましさがあった。「声が出ぬだけなら、まだ戻れる」
「戻れるんですか」
「二度聞いておらねば」
「何を?」
老人の唇が動いた。けれど声になる前に、彼は口を閉じた。数拍の沈黙。山の夕暮れが濃くなる。社の鈴が風に揺れる。無音のまま。老人はようやく言った。「鈴が聞く」
リオナの眉が寄る。「鈴が鳴る、じゃなくて?」
「鳴るのは鈴ではない。聞くのが鈴だ」
「意味が分かりません」
「分からぬまま帰れ。分かろうとするな。分かると、聞こえる」
ユウリは台帳を思い出した。鈴が鳴る夜、名を呼んではならない。だが老人の言い方では、鈴は鳴るものではない。聞くものだ。こちらが音を聞くのではなく、向こうがこちらの音を聞く。「この村に残っている鈴は、何ですか」
「鈴ではない」
「では何です」
「名を入れる器だ」
老人は低く言った。言ったあと、自分の言葉を恐れるように舌を噛んだ。「いや、今のは忘れろ。聞くな。書くな」
ユウリは記録帳に手を伸ばしかけて、止めた。老人がそれを見ていた。濡れた目が、記録帳ではなくユウリの口元を見ている。何を書くかではなく、何を音にするかを見張っている。「あなたは、なぜここに残っているのですか」
老人は黒い布袋を握った。中に何か硬いものが入っているらしく、布越しに小さな輪郭が浮かぶ。鈴だろうか。いや、ユウリはその推測を頭の中で止めた。言葉にしなくても、考えただけで何かに近づいている気がした。老人は掠れた声で言う。「残ったのではない。出られなかった。出る名がなかった」
「名がないと、村を出られない?」
「名があると、聞かれる」
「では、どうすれば」
「どうもせん。日が落ちる前に帰れ。それだけだ」
「あなたも一緒に」リオナが言った。「近くの村までなら、案内できます。神殿で保護を??」
老人は笑った。笑い声はひどく乾いていたが、村の中で聞いたどの音よりも人間らしく、それがかえって痛々しかった。「保護。神殿。月の御方。記録の御方。まだそんなものを信じておるのか」
「信じているというより、所属してるだけです」
「口が減らぬ娘だ」
「怖いと喋るんです。黙ってると、余計に怖いので」
老人は少しだけ表情を緩めた。だがすぐに、社の方を振り返る。顔色が変わった。何かを聞いたのかと思ったが、ユウリには何も聞こえない。何も聞こえないことが、答えのようだった。「急げ。境の札まで戻れ。振り返るな。互いの名を呼ぶな。声が欲しければ、口を閉じて歩け」
「まだ調査が」
ユウリが言いかけると、老人が突然、目を剥いた。「名を音にするなと言うた!」
「まだ名は??」
「しようとした。自分の名を言おうとした」
ユウリは凍りついた。たしかに、彼は言いかけていた。神殿から来た見習い記録官ユウリです、と。交渉の基本。相手に名乗り、所属を示し、警戒を解く。村の禁忌を知ってなお、体に染みついた礼法が口を動かしていた。老人は震える手でユウリの胸元を指す。「名を音にするな。ここでは、音になったものから持っていかれる」
その言葉は、空気の中に落ちず、直接、喉に触れた。ユウリは思わず自分の喉を押さえた。声が出る。出るはずだ。だが確認するために声を出すこと自体が危うい。リオナが横からそっと袖を引いた。彼女の指が冷たい。「行こう」
ユウリは頷いた。老人に礼を言うべきか迷った。礼もまた声になる。だが沈黙は無礼であり、情報をくれた相手へ背を向けるには重すぎる。結局、彼は深く頭を下げた。リオナも同じようにした。老人はそれを見て、さらに苦しげな顔をした。「頭を下げる相手を間違えるな。ここで礼をすると、あれは祈りだと思う」
リオナが小さく「もう遅いってこと?」と囁いた。老人は答えなかった。庵の扉へ戻りかけ、ふと思い出したように振り返る。「境まで戻れなんだら、空き家に入れ。火は焚くな。鈴に触るな。名を書いたものを出すな。夢で誰かに呼ばれても、返事をするな」
「夢でも?」
「夢のほうが近い」
それだけ言うと、老人は庵の中へ消えた。扉が閉まる。音はしなかった。
二人は社を離れ、石段を下り始めた。夕暮れはもう夕暮れではなく、山の影が村の底へ流れ込む時間になっていた。空はまだわずかに明るいのに、家々の軒下は夜のように黒い。墓地を過ぎ、三軒目の家の前を通り、入口の札へ向かう。急ぎたいのに、足が思うように進まない。道の勾配は下りのはずなのに、いつの間にか上っているような感覚がある。リオナは何度も振り返りそうになり、そのたび自分の髪を握って堪えていた。
「振り返るなって言われると、振り返りたくなる」
「見るな」
「見ない。見ないけど、背中側がすごくうるさい」
「音がするのか」
「しない。だから、うるさい」
その言葉の意味を、ユウリは理解した。何も聞こえない背後が、耳の内側を圧迫してくる。音がないのに、背後に巨大な口が開いている気がする。そこから何かが息を吸っている。こちらの声を待っている。二人は無言で歩いた。やがて、村の入口の札が見えるはずの場所まで来た。だが、札はなかった。道もない。代わりに、白い霧が立ち込めていた。
霧は谷から上がってきたのではない。村の入口の向こうに、壁のように立っている。白く、厚く、光を含まず、手前の地面との境目だけが異様にくっきりしている。ユウリは灯火管を掲げた。光は霧に触れた途端、奥へ吸われた。反射しない。散らばらない。霧というより、白い布を無限に重ねた壁だった。リオナが唇を引き結ぶ。「山霧……じゃないよね」
「山霧なら、音がある」
「霧の音って何」
「水滴が葉に触れる音。湿った空気で遠くの音が鈍る感じ。これは違う」
「説明されても嬉しくない」
ユウリは小石を拾い、霧の中へ投げた。小石は白の中へ消えた。落ちる音はしなかった。しばらく待っても、転がる音も、何かに当たる音もない。リオナが喉を鳴らした。「戻ってこないね」
「石は戻らないだろう」
「音の話」
分かっていた。ユウリはもうひとつ小石を拾い、今度は足元の地面へ落とした。ころ、と音がする。霧の中へ投げる。音が消える。境界は明確だった。ここから先には、音が落ちない。あるいは、落ちた音が戻ってこない。
「突っ切る?」リオナはそう言ったが、声には賛成してほしくない響きがあった。
ユウリは霧の前に立ち、手を伸ばしかけた。指先が白に触れる寸前、耳の奥がきん、と冷えた。鈴の音ではない。もっと前の、鳴る直前の沈黙。金属と金属が触れる一瞬前の、空気の緊張。彼は手を引いた。「やめる」
「賢明」
「戻って、空き家を使う」
「老人の言う通りに?」
「他に選択肢がない」
「それ、いちばん嫌な言葉だよね。ホラーで」
「喋れるうちは喋っておけ」
リオナは一瞬きょとんとし、それから怒ったように眉を上げた。「縁起でもない」
「すまない」
「ほんとに謝られると、もっと嫌」
二人は村へ引き返した。背後の霧は追ってこない。ただ、そこにある。出口を塞ぐ壁として。空はさらに暗くなり、家々の窓は黒い穴になっていった。どの家を使うか迷った末、入口に近い最初の農家へ戻ることにした。理由は単純だった。一度見ている家だからだ。知らない家に入るよりは、知っている怖さのほうがまだ扱いやすい。
農家の中は、先ほどより狭くなったように感じた。土間、囲炉裏、仏間、布団のある奥部屋。家具の位置は変わっていない。だが、誰かが自分たちの不在中に、家の中の空気だけを古くしたようだった。湿気が増え、畳の匂いが濃くなり、仏壇の前に置かれた木馬が入口の方を向いている。ユウリはそれに気づいたが、すぐには言わなかった。リオナが気づけば騒ぐ。騒げば声になる。声になれば聞かれる。だが、彼女はすぐに気づいた。「あの木馬、向き変わってる」
「風で」
「室内だよ」
「床が傾いている」
「さっきはそっち向いてなかった」
「分かってる」
「分かってるなら、嘘で慰めないで」
ユウリは鞄を下ろし、入口に近い土間側へ座る場所を決めた。奥の部屋へは入らない。仏間にも近づかない。囲炉裏に火は入れない。老人の言葉を一つずつ思い出す。火は焚くな。鈴に触るな。名を書いたものを出すな。夢で誰かに呼ばれても、返事をするな。リオナは壁際に座り、銀鈴を外して布で包んだ。包むとき、彼女の指が震えていた。「鳴ってないのに、ずっと鳴りそう」
「外せるなら外したほうがいい」
「うん。でも、外すともっと怖い。これ、神殿にいるって分かる音だから」
「音はしていない」
「してなくても、わたしにはそういうものなの」
ユウリは頷いた。自分にとっての記録帳と同じだ。書かなくても、持っているだけで自分の役目を思い出せる。だが今夜、その記録帳を開くことはできない。自分の名前も、リオナの名前も、神殿の名も、音無村の名さえ、紙の上で何かに聞かれるかもしれない。彼は鞄の留め金を確かめた。中には台帳がある。記録庫から持ち出した、墨で名前を塗り潰された台帳。その重みが、鞄越しに膝へ伝わる。
夜が下りた。下りたというより、家の外側から黒い水が少しずつ満ちていくようだった。窓の外にあるはずの村道は見えない。風鈴の影だけが障子に映り、揺れている。音はない。川の音もない。虫の声もない。ただ、家の中で二人が立てるわずかな音だけが妙にはっきりした。リオナの衣擦れ。ユウリの呼吸。喉を鳴らす音。舌が上顎に触れる音。自分の体が、こんなにも多くの小さな音でできていることを、ユウリは初めて知った。それらの音がひとつひとつ外へ漏れ、家の梁や壁や仏壇の暗がりに吸われていく。
「寝る?」リオナが囁いた。
「交代で仮眠を取る。先に休め」
「夢で呼ばれたら返事するなって言われた」
「起こす」
「名前を呼ばずに?」
「肩を叩く」
「強めにして。怖い夢より、現実で起こされるほうがまし」
彼女は笑おうとしたが、笑いにならなかった。壁に背を預け、短杖を膝に置く。目を閉じても、すぐ開ける。もう一度閉じる。今度は少し長く閉じる。ユウリはその様子を見守りながら、灯火管の火を最小に絞った。火は小さく青白くなり、土間の端だけを照らす。仏間は暗い。木馬は見えない。見えないほうがいい。だが、見えないものほど形を持ちはじめる。
どれほど時間が経ったのか分からない。夜の村には時を測る音がない。水音がなければ流れが分からず、虫の声がなければ季節も分からず、遠吠えも梟の声もない。ユウリは膝の上で手を組み、眠らないように自分の爪を指先へ押し当てていた。すると、壁の向こうで何かが動いた。音はしない。ただ、障子に映る風鈴の影が一斉に止まった。揺れていたものが止まる。止まったことで、そこに何かの意志が生まれる。ユウリは息を止めた。
リオナが目を開けた。眠っていなかったのか、目覚めたのか分からない。彼女は声を出さず、ユウリを見た。聞こえる? そう目だけで尋ねている。ユウリは首を横に振った。聞こえない。だからこそ、いる。
外の闇で、鈴が揺れている。
音はまだ、しない。
第二章 一度目の鈴
夜が深まるほど、音無村は静かになるのではなく、静けさそのものの厚みを増していった。最初は、虫の声がない、川の音がない、風鈴が鳴らないという欠落だったものが、やがて家の壁や柱や畳の目にまで染み込み、呼吸をするたび肺の奥へ沈んでくる。静けさは空気ではなかった。水でもない。もっと細かく、もっと重く、灰のように体内へ降り積もるものだった。ユウリは土間に座ったまま、灯火管の青白い火を見つめていた。火は確かに燃えている。芯の先で細く揺れ、ときおり油を舐めるように形を変える。けれど、燃える音だけがなかった。火皿の油が爆ぜる小さな音も、芯が焦げる音も、熱で空気が震える気配さえない。ただ光だけがある。音のない火は、火ではなく、誰かが暗がりに開けた細い目のようだった。
リオナは壁際で膝を抱えていた。眠ると言ったくせに、ほとんど眠れていない。目を閉じても、すぐに睫毛が震え、薄く開く。そのたび彼女は何かを確かめるように自分の喉元へ手をやった。銀鈴は外し、布に包んで足元へ置いてある。祓音補佐官が自分の鈴を外すのは、剣士が鞘ごと剣を置くようなものだと、神殿で誰かが言っていたのをユウリは思い出した。リオナはそれでも外した。鈴が鳴らないようにではなく、鈴が鳴ろうとする気配を自分の胸から遠ざけるために。
「起きてる?」
彼女が、声になりきらないほど小さく言った。ユウリは頷く。「起きてる」
「返事するとき、名前呼ばないでね」
「分かってる」
「分かってる人ほど、こういうとき呼ぶから。『どうした』って言えばいいのに、癖で呼ぶ」
「君もさっき、俺を呼びかけた」
「だから言ってるの。人間って、怖いときほど相手の名前を呼びたくなるんだよ。ここにいて、って確かめたくなる」
ユウリは灯火の揺れを見た。名前を呼ぶことは、相手の輪郭を確かめる行為だ。闇の中で誰かを呼ぶ。呼ばれた者が返事をする。声と声の間に、人のいる場所が生まれる。だがこの村では、その当たり前の安心が禁忌になっていた。名前を音にするな。音になったものから持っていかれる。老人の皺だらけの顔、濡れた目、震える声が思い出される。彼は本当に生きているのだろうか。それとも、名前を失ってなお死にきれないものが、たまたま人の形を保っているだけなのか。考えないほうがよかった。考えるだけで、庵の扉の隙間からあの老人の目がこちらを覗いている気がした。
「録音具、動いてる?」
リオナが訊いた。
「一応」
ユウリは土間の隅に置いた小さな録音具へ目を向けた。神殿製の記録器で、銀の針が薄い円盤に音の震えを刻む仕組みだ。魔導具というには古く、機械というには祈祷の要素が強い。祓音補佐官が現地調査に持ち込むことが多く、聞き取れない呪詛や可聴域外の異音を後から解析するために使われる。家に入る前、リオナが「人の耳だけを信用するのは嫌」と言って起動した。以後、銀の針はゆっくりと円盤をなぞり続けている。だが、その針の動きもどこか変だった。普通なら人の会話や衣擦れに応じて微かに震えるはずなのに、今はほとんど動かない。まるで、この家の中で発した音が、針へ届く前に誰かに摘まみ取られている。
「会話、録れてるかな」
「後で確認する」
「今は?」
「今、鳴らすものを増やしたくない」
リオナは小さく頷いた。「うん。賢い」
「褒められた気がしない」
「褒めてるよ。怖いところで無駄に確認しないのは偉い。確認した人から順に消えるんだから」
「決めつけるな」
「そういう話、いっぱいあるでしょ。扉の向こうを確認する人。井戸を覗く人。押し入れを開ける人。だいたい最初にいなくなる」
「なら、録音具を確認しようとした君も危ない」
「だから止めてくれて助かったって言ってるの」
そのやり取りだけなら、まだいつもの二人に近かった。だが声は小さく、言葉の端が暗がりに吸われるたび、二人は同時に沈黙した。笑い声を出すことができなかった。笑い声ほど、人の輪郭をはっきりさせる音はない。ここでは、それがいちばん危険な気がした。
外の障子に映る風鈴の影は、ずっと揺れている。風が吹いているのか、それとも風鈴だけが揺れているのか分からない。無数の細い影が、障子紙の上でゆっくり重なり、離れ、また重なる。それを見ていると、影そのものが文字になりかけているように思えた。名前ではない。まだ意味になる前の線。音になる前の形。ユウリは視線を逸らした。見続ければ、何か読めてしまいそうだった。読めてしまえば、きっと聞こえてしまう。
どこかで、柱が鳴るはずの時間が過ぎた。古い家屋は夜になると冷え、木が縮み、柱や梁が小さく軋む。それは家が生きている音だ。だが、この家は軋まない。畳も沈まない。鼠も走らない。屋根裏で虫も動かない。音のない家は、死んだ家ではなかった。死んだものなら、朽ちる音がある。これは違う。死ぬことさえ禁じられて、ただ音を出さずに立ち続けている。
リオナが突然、ユウリの袖を掴んだ。彼は息を殺して彼女を見る。リオナは障子の方を見ていない。仏間の方を見ていた。灯火の届かない暗がり。そこには、さっき向きが変わっていた子どもの木馬があるはずだった。今は見えない。見えないが、ある。リオナは唇だけで「聞こえた?」と動かした。ユウリは首を横に振る。聞こえない。リオナはさらに青ざめた。
小さな音が、した。
いや、音ではない。音がする直前に、耳の奥がそれを予期した。深い井戸の底から、水面が震える気配だけが届くような感覚。ユウリは耳を澄ませた。何もない。灯火の火。リオナの呼吸。自分の心臓。録音具の針が円盤を擦るはずの微かな響きさえない。だが、何かが近づいている。足音ではない。衣擦れでもない。名前を持たないものが、音になる場所を探している。
障子に映っていた風鈴の影が、ぴたりと止まった。
リオナの手が、ユウリの袖をさらに強く掴む。指先が痛い。彼は声を出さないよう、ゆっくり彼女の手の上に自分の手を重ねた。落ち着け、と伝えるためだった。しかし触れた瞬間、リオナの指先が氷のように冷えていることに気づく。人の体温ではない。彼女は自分の口をもう片方の手で押さえていた。声が出そうなのを、必死に押し込めている。
完全な無音が訪れた。
それまでにも音は少なかった。村の音は消えていた。だが、そこにはまだ二人の呼吸や心臓や衣擦れがあった。今はそれさえ消えた。ユウリは自分が息をしているのか分からなくなった。肺は動いている。胸も上下している。けれど、その内側で空気が擦れる音がない。鼓動もない。血が流れる感覚だけがある。まるで自分の体の音が、体から切り離され、どこかへ預けられたようだった。
その沈黙の中心で、鈴が鳴った。
ちりん。
小さく、澄んだ音だった。祭りの夜に子どもが手首へ巻いた鈴を振ったときのような、あるいは、細い氷の端を爪で弾いたような、透き通った音。だが、耳から入ってきたのではなかった。障子の外でも、社の方角でも、足元の布に包んだ銀鈴でもない。音は頭蓋の内側で鳴った。骨の空洞に誰かが小さな鈴を吊るし、内側からそっと揺らしたようだった。
ユウリは反射的にリオナを見た。
その名が、出てこなかった。
隣にいる彼女。白い外套。祓音補佐官。音に敏感で、怖いとよく喋り、銀鈴を胸に吊るしていた少女。道中で文句を言い、老人に食ってかかり、今も自分の袖を掴んでいる彼女。そのすべてを覚えているのに、名前だけが抜けていた。呼ぶ必要はない。呼んではいけない。そう頭では分かっている。だが、思い出そうとした瞬間、そこだけ紙を黒く塗り潰されたように空白になった。リ、まで浮かんだ。次がない。リ、リ、リ、と頭の中で音になりかけたものが、喉の手前で潰れる。彼は戦慄した。声に出したのではない。心の中で思おうとしただけだ。それでも、何かが先にそれを聞いていた。
「……どうしたの」
彼女が囁いた。
その声で、名前が戻った。リオナ。そうだ、リオナ。戻った瞬間、ユウリは声を出しそうになり、歯を食いしばった。呼んではならない。思い出せたからといって、確認するために音にしてはいけない。彼は首を横に振った。何でもない、という意味のつもりだった。だがリオナはそれを信じなかった。彼女の目は、もう泣きそうなほど見開かれている。「聞いた?」
ユウリは頷いた。
「どこで?」
彼は自分の頭を指した。リオナも同じように、自分の耳ではなく、額のあたりを押さえた。「わたしも。外じゃない。中で鳴った。……ねえ、今、何か忘れなかった?」
ユウリは答えられなかった。答えれば、それを認めることになる。認めたものは、形を持つ。形を持てば、音になりやすくなる。彼は黙ったまま、土間の隅に置いた鞄へ手を伸ばした。記録帳を出すつもりはなかった。老人の言葉がある。名を書いたものを出すな。しかし、確認しなければならないことがあった。恐怖に理由を与えるためではない。理由がなければ、もっと怖いからだった。
リオナが小さく「やめたほうが」と言った。だが止めはしなかった。彼女も知りたかったのだ。自分たちに何が起きたのか。ユウリは鞄の留め金を外し、記録帳を取り出した。表紙に自分の名は書いていない。神殿印と調査番号だけがある。ページを開く。灯火を近づける。手が震えて、紙の影が細かく揺れた。昼、村に入る前に準備した調査概要の頁。同行者名。任務内容。携行祭具。録音具の種類。彼はそこに書かれた文字を探した。
同行者、祓音補佐官リオナ。
その一文字目が、滲んでいた。
リ、の字だけが、水を落としたように輪郭を崩している。墨は乾いているはずだった。記録帳は神殿製で、防湿処理も施されている。山霧で滲むような紙ではない。なのに、そこだけ黒が水底の藻のように揺れ、文字の縦線が細く裂けている。ユウリは指で触れようとし、寸前で止めた。触れれば、その滲みが指先から体内へ移ってくる気がした。
「見せて」
リオナが言う。
「見ないほうがいい」
「自分のこと?」
「そうだ」
「なら見せて。見ないほうが怖い」
ユウリは記録帳を彼女の方へ向けた。リオナは覗き込み、息を止めた。顔から血の気が引いていくのが、灯火の下でも分かった。彼女はしばらく、自分の名の滲んだ一文字を見つめていた。やがて唇が動く。名前を言いそうになったのだと分かり、ユウリは反射的に彼女の口元へ手を伸ばしかけた。だがリオナは自分で口を押さえた。指の隙間から、細い息だけが漏れる。「……言いかけた」
「俺もだ」
「自分の名前なのに、確認しちゃいけないって、最悪だね」
「まだ一文字だけだ」
言った途端、ユウリは失敗したと思った。まだ、という言葉は続きがあることを前提にしている。リオナも同じことを感じたらしく、睨む力もなく目だけで抗議した。「次があるみたいに言わないで」
「すまない」
「謝ると現実になるから嫌」
「では、謝らない」
「それはそれで腹立つ」
こんな状況でも、彼女はそう返した。ユウリは少しだけ息を吐いた。人間らしいやり取りが、かろうじて二人をこちら側に繋ぎ止めている。だが、そのやり取りも音になっている。音になったものを、この村は聞く。
灯火が一度、細く伸びた。家の外の影が揺れる。障子に映っていた風鈴の影は、またゆっくり動きはじめていた。ただし、さっきとは違う。揺れ方が揃っている。ひとつひとつの風鈴が風に任せて揺れているのではなく、見えない糸で結ばれ、同じ拍で左右に振れている。音はない。音がないのに、拍だけがある。ユウリは記録帳を閉じ、鞄へ戻した。留め金をかける手が、何度も滑った。
「録音具」リオナが言った。
「今、確認するのは危ない」
「でも、鳴ったのは記録されてるかもしれない。もし記録されてたら、音の種類が分かる。祓音式で対処できるかも」
「逆に、録れていたものを再生することで、もう一度聞くことになる可能性がある」
リオナは言葉に詰まった。それは明らかに考えていた顔ではなかった。けれど彼女は、恐怖を飲み込むように喉を動かした。「再生しなくても、針の刻みだけ見られる。波形だけなら音じゃない」
「この村で、その理屈が通じると思うか」
「思わない。でも、何も見ないで朝まで待つのも無理」
その言葉には、リオナの限界が滲んでいた。神殿の補佐官としてではなく、夜の廃村に閉じ込められ、頭の内側で鈴を鳴らされた若い人間としての恐怖。ユウリは彼女を見て、頷いた。「再生はしない。針と円盤だけ確認する」
録音具は土間の隅で静かに置かれていた。銀の針は止まっている。止めた覚えはない。ユウリは灯火を近づけ、円盤の表面を見た。録音溝は刻まれている。だが、本来なら細かく揺れているはずの線が、ほとんど平らだった。自分たちの会話、衣擦れ、呼吸、さっきの囁き。それらはほとんど記録されていない。代わりに、円盤の一部だけが異様に深く抉れていた。鈴が鳴った時間帯だろうか。一本の鋭い溝が、円盤の中心へ向かって細く走っている。針が勝手に内側へ引きずられたような跡だった。
「……これ、普通じゃない」リオナが横から覗く。「音が大きいと溝が深くなるけど、これはそういう刻みじゃない。音量じゃなくて、針を押し込まれてる」
「何に」
「分からない。分からないけど、録音具が音を録ったというより、何かがここに爪を立てたみたい」
ユウリは円盤を外すか迷った。直接触れるのは避けたい。だが解析するには持ち帰らなければならない。そう考えた瞬間、録音具の底から、微かな振動が伝わった。針は止まっている。円盤も回っていない。なのに、箱の中で何かが震えている。リオナが「待って」と言うより早く、録音具から音が漏れた。再生機構は動かしていない。針も円盤も止まっている。それなのに、箱の奥から低い音が湧き上がった。
それは風ではなかった。川でもない。山の音ではない。もっと広く、もっと暗く、もっと遠い。
海鳴りだった。
岩に波が砕ける音。深い潮が洞窟の中へ入り込み、また引いていく音。濡れた石の隙間で泡が潰れ、遠くで巨大なものが寝返りを打つような、低い、底の見えない響き。ここは山奥だ。地図上でも海からは遠く、近くに湖も大河もない。なのに録音具の小さな箱の中には、夜の海が入っていた。ユウリは反射的に録音具を止めようとしたが、どこを押せば止まるのか一瞬分からなくなった。機械としての形を知っているはずなのに、箱の蓋や針や巻き鍵の位置が、見慣れない祭具のように遠く見える。
「止めて」
リオナが言った。
ユウリは巻き鍵を掴み、強く押し込んだ。音は止まらない。海鳴りは少しずつ大きくなる。大きくなるというより、こちらの耳がそこへ近づいていく。土間の湿った匂いが、潮の匂いに変わる。口の中に錆びた金属の味が広がる。畳の下から水が滲んでくるような錯覚。仏間の暗がりが、波打つように歪む。障子に映る風鈴の影が、海藻のように揺れる。
「これ、海じゃない」リオナが震えた声で言った。「海の音に聞こえるだけ。もっと下……音の下にある何か」
「解析できるか」
「無理。今は無理。聞いてるだけで、耳の奥が開く」
彼女は両耳を押さえた。だが海鳴りは止まらない。耳を塞いでも、頭の内側で響いている。鈴と同じだ。外から入ってくる音ではない。録音具はきっかけにすぎない。音はすでに二人の中にある。ユウリは録音具を布で包み、鞄の中へ押し込んだ。蓋を閉じる。留め金をかける。海鳴りは少し弱くなったが、完全には消えなかった。鞄の中から、遠い波音が続いている。
その波音の奥で、声がした。
子どもの声だった。高くも低くもない。男の子とも女の子とも分からない。すぐ隣で囁いたようにも、海の底から泡になって浮かんできたようにも聞こえる。言葉は一度目には聞き取れなかった。ただ、声であることだけが分かった。リオナが固まる。ユウリは鞄から手を離せなかった。声はもう一度、波の奥で揺れた。
「まだ、ひとつめ」
今度ははっきり聞こえた。
リオナの顔が崩れた。恐怖だけではない。もっと別の感情。驚き、困惑、ひどく古い記憶の傷に触れられたような痛み。彼女は唇を震わせ、声を出そうとして、出せなかった。ユウリは彼女の肩を掴み、目で問いかける。大丈夫か、と言おうとして止めた。声を出すことが怖い。だが、黙ったままでは彼女がどこかへ落ちていきそうだった。
「知ってるのか」
名前を呼ばず、最小限の言葉で尋ねた。
リオナは首を横に振りかけ、途中で止めた。自分でも分からない、という顔だった。「知らない。知らないはず。だけど……」
「だけど?」
「その声、聞いたことがある気がする」
鞄の中の録音具から、海鳴りがまだ続いている。ざあ、ざあ、と聞こえるはずの音は、ある時は遠く、ある時は耳のすぐ後ろにあった。リオナは自分の腕を抱きしめた。寒いのではない。自分の体の輪郭を確かめているのだと、ユウリには分かった。
「子どものころの夢で……いや、違う。神殿に来る前? もっと前。誰かが、暗いところで数を数えてた。ひとつめ、ふたつめって。でも、何を数えてたのか思い出せない。思い出したくないのに、声だけ知ってる」
「家系に、音無村との関わりは」
「ない。たぶん。わたしの家はメミスの外れで、親も神殿勤めじゃなかったし、村の話なんて聞いたことない」
「たぶん?」
リオナは苦しそうに眉を寄せた。「今、そこを突かないで。覚えてることと、覚えてないことの境目が気持ち悪い。頭の中に、閉めた覚えのない戸があって、その向こうから水の音がする」
ユウリは息を呑んだ。水の音。海鳴り。山奥の廃村。鈴が聞く。名を音にするな。ばらばらだったものが、繋がりそうで繋がらない。繋がってほしくない形をしている。彼は鞄の上に手を置いた。録音具の振動は弱くなっている。だが完全には消えない。まるで箱の中で、小さな海が息をしている。
「もう一度聞こえたら」リオナが言った。「二つめ、だよね」
ユウリは答えなかった。答えが分かっていたからだ。一度目で、リオナの名前の一文字が滲んだ。一度目で、録音具には海が入り、子どもの声が「まだ、ひとつめ」と告げた。なら、二度目には何が起こるのか。老人は言った。声が出ぬだけなら、まだ戻れる。二度聞いておらねば。
家の外で、風鈴の影がまた止まった。
リオナがユウリの袖を掴む。ユウリは灯火を見た。火はまだ燃えている。だが火の青白い芯の中に、一瞬だけ、黒い水面のようなものが見えた。そこに小さな白い顔が映った気がして、彼は瞬きをした。何もない。いや、何もないと思いたかった。
鞄の中から、子どもの声がもう一度、ほんのかすかに漏れた。
今度は言葉にならない。笑ったのか、泣いたのか、息を吸ったのかも分からない。けれどその気配だけで、リオナの肩が跳ねた。彼女は自分の口を押さえ、必死に息を殺す。ユウリは灯火を消すべきか迷った。光があれば影ができる。影があれば、外にいるものの形が見えるかもしれない。だが闇にすれば、何も見えない代わりに、こちらの姿も隠れるかもしれない。どちらが正しいのか分からない。正しさを考える時間だけが、鈴の次の一振りへ近づいている。
「朝まで、声を抑える」
ユウリは囁いた。
リオナは頷く。だがその目は、もう障子を見ていなかった。自分の記憶のどこか、聞いたことのないはずの子どもの声が沈んでいる場所を見ていた。
その夜、二人は眠らなかった。眠れなかったのではない。眠ってしまえば、夢の中で誰かに呼ばれると分かっていたからだ。外では鳴らない鈴が揺れ続け、家の中では鞄の奥から、山にはない海の音が細く滲み続けていた。そして時折、その波の底で、子どものようなものが、小さく息を吸う気配だけがした。
まだ、ひとつめ。
その言葉だけが、二人の喉の奥に、飲み込めない小骨のように残った。
第三章 鈴守りの家
朝は、音を連れてこなかった。夜の底で目を開けたまま固まっていた二人の前に、障子の破れ目から薄い光が差し込んだとき、ユウリは最初、それを朝だと信じられなかった。鳥が鳴かない。虫も鳴かない。遠くの川も、屋根から落ちる露の滴も、夜明けを知らせる鶏の声もない。ただ、家の内側に少しだけ色が戻り、畳の目と土間のひびと、仏間に置かれた木馬の輪郭が、闇からゆっくり浮かび上がってきただけだった。リオナは壁にもたれたまま目を開けていた。眠っていないはずなのに、ひどく長い悪夢から帰ってきたような顔をしている。口元は乾き、頬には血の気がない。彼女は自分の喉に触れ、声が残っているか確かめるように、かすれた息を吐いた。「……朝、だよね」
「たぶん」
「たぶんって言わないで。朝くらい確定して」
「外が明るい」
「じゃあ朝」
そう言って、リオナは笑おうとした。だが笑いは喉で止まり、代わりに小さな咳になった。その咳だけは妙にはっきり響いた。二人は同時に身を固くした。夜の間、自分たちの声や息がこの家に聞かれていたという感覚がまだ抜けていない。咳ひとつでさえ、何かに供え物をしたような気になる。ユウリは鞄に手を置いた。中の録音具からは、もう海鳴りは聞こえない。だが、音が消えたからといって安全になったとは思えなかった。むしろ、箱の奥であの黒い海が息を潜めている気がする。
「体に変化は」
名前を呼ばずに尋ねると、リオナは耳、喉、指先を順に確かめた。「声は出る。耳も聞こえる。手も動く。……でも、変」
「どこが」
「頭の中に、誰かが昨日の鈴を置いていった感じ。鳴ってないのに、そこにある。触ったら鳴るって分かる」
ユウリは頷いた。彼にも同じ感覚があった。頭蓋の奥、耳よりも深い場所に、小さな金属の冷たさが残っている。昨夜、鈴の音は外から来なかった。内側で鳴った。ならば、その鈴は今も内側に吊られているのではないか。そう考えた瞬間、舌の奥に錆びた味が広がり、彼は考えるのをやめた。リオナが視線で問いかける。続きをどうするのか、と。
「老人のところへ行く。昨夜の鈴について聞く」
「教えてくれると思う?」
「思わない。だが、聞かないわけにはいかない」
「聞くって言葉、ここだと全部嫌な意味に聞こえるね」
ユウリは返事をしなかった。二人は灯火管を消し、家を出る準備をした。火を焚かなかったため、体の芯は冷えきっている。携帯食を少し口にしたが、噛む音がやけに大きく聞こえ、二口でやめた。食べ物を飲み込む音、喉を通る音、胃に落ちる音まで、村が聞いている気がした。リオナは銀鈴をもう一度胸元へ吊るすか迷い、結局、布に包んだまま腰袋に入れた。「鳴らない鈴を持ち歩くのも嫌だけど、置いていくほうがもっと嫌」
「それは君のものだ」
「うん。名前を呼べないなら、持ち物で自分を確かめるしかない」
彼女がそう言ったとき、ユウリは昨日の記録帳を思い出した。同行者名の一文字が滲んだ頁。確認したい衝動が湧いたが、抑え込んだ。今、名前の頁を開くことは、傷口のかさぶたを剥がす行為に似ている。開けば、またそこから何かが滲むかもしれない。
家の外へ出ると、村は昨夜よりもさらに静かだった。朝の光の中で見る音無村は、夜よりも不気味だった。闇はものの形を隠すが、朝はそれを明らかにする。朽ちた屋根、倒れた桶、軒下に吊るされた無数の風鈴、庭に放置された草履、半分開いた戸、縁側に干されたまま風化した布。それらがすべて見えるのに、そこから発せられるはずの音だけがない。光に照らされているのに、世界の半分が欠けている。
社の裏手の庵へ向かったが、老人はいなかった。扉は少し開いており、中には灰のない炉、割れた茶碗、古い座布団、壁に掛けられた黒い布袋があった。昨夜、老人が首から下げていたものと同じ布袋に見えた。ユウリが近づこうとすると、リオナが手首を掴んだ。「触る?」
「触らない。ただ見る」
「見るだけで済んだこと、ここに来てからあった?」
正しい指摘だった。ユウリは少し離れた位置から布袋を観察した。中身は抜かれている。布だけがぺしゃりと潰れ、壁の釘に掛かっている。布の中央には丸い跡が残っていた。小さな鈴が長く入っていたような跡。老人はそれを持って出たのだろうか。どこへ。なぜ。
「社にいるかも」
リオナが言う。
「見に行く」
「行くんだ」
「嫌なら」
「嫌だけど行く。もうそのやり取り飽きた」
二人は社の前まで戻った。朝の社は、昨夜よりも小さく見えた。朽ちた鳥居、苔むした石段、黒い鈴に埋もれた境内。だが老人の姿はない。庵の周辺にも、本殿の脇にも、足跡らしいものはあるが新しいものかどうか分からなかった。村の土は湿っているのに、足跡だけがはっきり残らない。踏まれても、すぐに土が傷を閉じるようだった。
社の裏からさらに細い道が続いていることに気づいたのは、リオナだった。石段の影に隠れるように、笹を分けた道が山の斜面へ伸びている。道端には、ほかの家のものよりも小さな鈴が結ばれていた。子どもの手首につけるような鈴。あるいは、産着に縫いつける鈴。それらが赤黒く錆び、笹の葉の間でいくつも揺れている。やはり音はしない。リオナはその道を見て、顔を強張らせた。「こっち、嫌」
「音がするのか」
「しない。だからじゃなくて……懐かしい」
「懐かしい?」
「言いたくなかった。自分でも気持ち悪いから。でも、昨日の子どもの声も、こっちの道も、知ってる気がする。知らないのに、知ってる。そんな感じ」
ユウリは彼女の顔を見た。冗談で誤魔化す余裕はない。リオナの目は真剣で、同時にひどく怯えていた。知識ではなく、身体が覚えている。家の中で突然匂いを嗅いだとき、忘れていた幼少の記憶が勝手に開くことがある。今の彼女は、それに似ていた。ただし開こうとしているのは、思い出ではなく、もっと暗い場所へ続く扉だった。
「戻るか」
「戻ってどうするの」
「無理に進む必要はない」
「無理しないと、何も分からないでしょ」
「分からないまま戻る選択もある」
リオナは一瞬だけ驚いたようにユウリを見た。それから、少し困った顔で笑った。「あんたがそれ言うんだ」
「昨日から、言わなかったせいで悪いことばかり起きている」
「そういう反省は好き。でも、今は行く。怖いけど、行く。わたしの中の何かが、こっちを見ろって言ってる」
「それは信用していいものか」
「信用できない。だから一緒に来て」
ユウリは頷いた。二人は笹の道へ入った。道は村の外れへ向かっていた。家々の密集した斜面から離れ、古い畑跡を横切り、石垣の崩れた細道を進む。途中、小さな祠がいくつもあった。どの祠にも名はない。ただ黒い鈴だけが置かれている。中には、壊れた人形の首、錆びた髪飾り、干からびたへその緒入れらしき箱が供えられたものもあった。リオナはそれらを見ないように歩いたが、見ないようにすればするほど、視界の端に入り込む。
村外れに、その家はあった。ほかの家々より少し離れ、竹藪を背にして建っている。屋根は半分崩れているが、入口の柱だけは不自然にしっかり残っていた。柱には太い注連縄が巻かれ、その縄に無数の小鈴が結ばれている。風が吹くたび、小鈴は揺れる。だが音はない。入口の上には木札があった。そこにも名前はない。ただ、刃物で削られた跡と、あとから黒く塗り込められた丸い染みがある。ユウリは近づいて、削られずに残った小さな文字を読んだ。鈴守。
「ここか」
リオナが喉を鳴らした。「鈴守りの家」
「声に出しても大丈夫か」
「役目ならいいのかな。名前じゃないし」
「この村では、役目のほうが危ない気もする」
「言ったあとに怖くしないで」
家の戸は閉ざされていた。ユウリが押すと、戸は固く、簡単には開かなかった。ほかの家の戸は抵抗なく開いたのに、ここだけが外から拒んでいる。リオナが短杖を出し、戸の隙間に耳を近づけた。「中、音はない。でも、空っぽじゃない」
「人がいる?」
「人というより、紙。紙がたくさんある気配。乾いたものが擦れないまま積もってる感じ」
「そんなことまで分かるのか」
「分かるっていうより、そう聞こえる。説明すると馬鹿みたいだけど」
ユウリは戸に手をかけ、もう一度押した。今度は開いた。ぎい、と鳴るはずの音はなく、ただ重い木が動く感触だけが手に返る。中から古い紙と黴、そして微かな潮の匂いが流れ出した。山の家にあるはずのない匂い。二人は同時に息を止めた。
鈴守りの家の中は、ほかの家とは違っていた。生活の痕跡は薄い。土間には竈も鍋もあるが、使われた形跡は少ない。代わりに、壁一面に棚があり、そこに古い帳面や木箱、束ねられた札、破れた布袋が詰め込まれている。天井からは小さな鈴が吊られていた。すべて、紐で結ばれ、紙片をつけられている。その紙片にはかつて文字があったらしいが、どれも黒く塗り潰されていた。床の中央には、丸い低い机があり、その上に大きな帳面が開かれたまま置かれている。まるで書いていた者が、ほんの少し席を外しただけのように。
「ここ、記録庫だ」
ユウリは思わず呟いた。神殿の地下記録庫とは違う。もっと個人的で、もっと湿り気のある記録庫。人の名前を扱うために作られた、村の喉のような場所。
リオナは入口から動けずにいた。「嫌な場所。でも……ここ、わたしを知ってる感じがする」
「無理に入るな」
「入る。入口にいるほうが怖い」
彼女は自分の袖を握りしめ、ユウリの後に続いた。床板は沈むが音は鳴らない。机の上の帳面には、古い村文字で儀式の手順が記されていた。墨は褪せ、紙は茶色く変色しているが、読めないほどではない。ユウリは息を整え、声に出さず目で追った。年に一度、名を預けること。預ける名は鈴守りが写し、鈴の内に納めること。名を納めた者は一年のあいだ、病、事故、山崩れ、獣害、火難、水難より守られること。預けた名は翌年の祭りで返されること。返名の儀には、本人が鈴の前で自らの名を三度心中に唱え、鈴守りがその名を紙へ戻すこと。
「表向きは、厄除けだ」
ユウリが小さく言うと、リオナが顔をしかめた。「名前を預けて守ってもらう……って、神殿にも似た儀式あるよね。幼い子の仮名を神に預けるやつ」
「ある。だがそれは、名を隠して災厄から守るための儀礼だ。名を供物にするものではない」
「ここは違う?」
「違う」
ページを進めるほど、儀式の文章は変わっていった。最初の記録は丁寧で、名を預けた者の数、返された者の数、病除けの成果、山崩れを避けた家の記録が並んでいる。だが、ある年から、返名の記録が減り始める。預けた名は増えるのに、返される名が少ない。さらに数年後には、名を預けた者の欄が黒く塗り潰され、返名欄には「戻らず」「聞こえず」「呼べず」とだけ書かれるようになる。
ユウリはページをめくる手を止めた。そこに、別の手による注釈があった。赤黒い墨で、儀式の本来の意味が書き足されている。
最初は、死者の名を預けた。死者の泣き声を鎮めるため。
次に、生まれる前の子の名を預けた。まだ音になっていない名ならば、惜しみが少ないため。
次に、遠くへ嫁ぐ者の名を預けた。村を離れるなら、村の音には不要なため。
次に、病人の名を預けた。助からぬなら、先に音を沈めるため。
次に、生きて働く者の名を預けた。村を守るため。
次に、子の名を預けた。村を残すため。
最後に、鈴守りの子の名を預けた。鈴が、返すことをやめたため。
リオナはその箇所を読んで、手で口を覆った。「何これ」
「供物の順番だ」
「厄除けじゃない」
「厄除けとして始まったものが、途中で別のものになった。あるいは、最初からそうだったのを、村人が信じたくなかった」
ユウリはさらに奥のページを読んだ。そこには、神殿文字ではない古い符号が混じっている。ザイン系神格に関する禁忌記録で、ごく一部の記録官だけが習う断絶記号。完全な神名ではない。完全に書けば呼び水になるからだ。文字は欠け、斜めの線と黒点で構成され、声に出して読めないよう作られている。だが意味は分かった。名を裂くもの。記録を食むもの。音に変換された存在情報を受け取るもの。ユウリは喉の奥が冷たくなるのを感じた。ここで「音無様」と呼ばれていたものは、山神でも鈴の神でもない。ザイン系の末端断片。神格と呼ぶには小さく、怪異と呼ぶには深すぎるもの。村はそれを、鈴という形で理解し、名前を与え、祀り、育ててしまった。
「ユウリ」
リオナが小さく呼びかけ、すぐにはっとして口を押さえた。昨日から禁じていた名が、ついに声になった。二人は動きを止めた。天井の鈴は揺れていない。帳面の紙も動かない。外の笹も静かだ。何も起こらない。何も起こらないことが、かえって怖かった。リオナの顔が青くなる。「ごめん。今、無意識に」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない。今、聞かれたかも」
「落ち着け」
「落ち着けって言われて落ち着けるなら、最初から落ち着いてる」
いつもの調子に戻ろうとしているのが分かった。だが声が震えている。ユウリは頷くだけにした。名を呼ばれた瞬間、彼の頭の奥で、昨夜の鈴がほんの少し冷たくなった気がした。鳴ってはいない。ただ、吊られている。呼ばれるのを待っている。
机の横には、別の木箱があった。蓋には鈴の絵が描かれ、その下に「返らずの名」と書かれている。ユウリは躊躇したが、開けた。中には細い紙片が束になって入っていた。紙片ひとつひとつに名が書かれていたはずだが、すべて墨で潰されている。中には、墨の下から薄く幼い筆跡が透けているものもあった。子どもの字だ。自分で自分の名を書いたのだろうか。名前を預ければ守られると信じて。あるいは、そう言われて。
リオナは木箱から一歩下がった。「これ、供物の残り?」
「おそらく」
「名前だけでいいの? 血とか、肉とか、そういうものじゃなくて」
「ザイン系は肉を必要としない。少なくとも、本質的には」
「じゃあ、何を食べるの」
ユウリは答えたくなかった。だが、ここまで来て曖昧にすることはできない。「存在の輪郭だ。名、記録、呼び声、誰かが誰かを覚えているという接続。それらを断つ」
「それ、死ぬより嫌かも」
「そうならないために調べている」
「調べた人から順に、そうなる話じゃないよね」
「今は、そうならないように動く」
「歯切れが悪い」
「確実なことを言えない」
「うん。知ってる。だから怖い」
リオナの声は小さかった。彼女は机の上の帳面へ視線を戻す。そこには、儀式の中心となる文章が記されていた。
神は声を好まぬ。名を呼ぶ音を嫌う。ゆえに我ら、鈴に名を納め、声なき祈りを捧げる。名を沈め、音を慎み、鈴守りの手により村の災いを遠ざける。
きれいな文章だった。恐怖を信仰に変えるための文章。供物を奉納と呼び、喪失を守護と呼び、戻らない名を神意と呼ぶための言葉。ユウリはそれを読んで、神殿の会議室で白髪の神官が言った「古い村落には古い作法がある」という声を思い出した。上層部は、どこまで知っていたのか。少なくとも、完全に知らなかったとは思えない。
だが、その文章の下に、別の筆跡があった。先ほどの注釈とも違う。もっと若い、急いで書かれた字。墨はかすれ、ところどころ紙を破りかけている。
違う。神は嫌っているのではない。聞いている。
リオナがそれを読んだ。声には出していない。目で追っただけだ。だが、その瞬間、彼女の体がびくりと跳ねた。顔から色が消え、両手が耳へ伸びる。ユウリは反射的に彼女の肩を支えた。「どうした」
リオナは答えなかった。いや、答えようとしているのに声が出ない。耳を押さえた指の間から、細い血が一筋流れた。右耳の下へ、赤い線が頬を伝う。ユウリは息を呑み、鞄から布を取り出そうとした。だがリオナは首を横に振る。痛みではない。彼女の目はどこか遠くを見ていた。部屋の奥でも、外でもない。もっと遠い場所。山の向こうでも、海の底でもない。音の届くはずのない距離。
「痛むか」
リオナはかすかに首を振った。唇が動く。ユウリは彼女の口元へ耳を寄せた。名前を呼ばないように、できるだけ静かに。「痛く、ない」
「耳鳴りか」
「鳴ってる。すごく。鈴じゃない。細い糸が、耳の奥でずっと震えてるみたい」
ユウリは布で血を拭おうとした。リオナは抵抗しなかった。血は少量だが、止まりきらず、耳の穴の奥からゆっくり滲んでくる。鼓膜が破れたのかと思ったが、彼女の反応は痛みによるものではない。むしろ、何かを聞き取ろうとしている顔だった。
「外へ出る」
ユウリが言うと、リオナは彼の袖を掴んだ。「待って」
「ここは危険だ」
「待って。……聞こえる」
「何が」
リオナは目を閉じた。血の筋が顎の近くまで伸びる。声はひどく静かだった。「誰かが、遠くから呼んでる」
ユウリの背筋が冷えた。「名前をか」
「分からない。声が遠い。水の向こうみたい。子どもが……いや、子どもじゃない。子どもの声を使ってるだけ。昨日の声と同じ。まだ、ひとつめって言った声」
「聞くな」
「聞こえるんだよ」
「意識を逸らせ」
「無理。耳じゃないところで聞こえる」
彼女は両手で自分の耳を塞いだ。だが、意味がないことは二人とも分かっていた。リオナの呼吸が浅くなる。天井から吊るされた無数の鈴が、ほんの少し揺れた。音はしない。だが、揺れた。ユウリはすぐに帳面を閉じようとした。そのとき、開かれた頁の隅に、もうひとつ小さな書き込みがあるのに気づいた。
鈴守りの子、返らず。
その下の名前は黒く塗り潰されている。ただ、塗り潰された黒の縁に、幼い字で書かれた最初の一画だけが残っていた。リオナがそれを見た瞬間、耳を押さえたまま、掠れた声を漏らした。「その字、知ってる」
「読めるのか」
「読めない。でも知ってる。わたし、これをどこかで見た。夢で……違う。小さい頃、母が隠してた箱の中に、同じ字があった」
「君の家に?」
リオナは頷いた。自分で頷いてから、信じられないというように目を開く。「思い出したくなかったのかな。今まで、一度も思い出したことなかった。母は、鈴の音が嫌いだった。神殿の鈴も、祭りの鈴も、家に入れるなって言ってた。わたしが祓音補佐官になるって言ったとき、すごく怒った。理由は言わなかった。ただ、鈴は人の名を覚えるから嫌だって……」
彼女の言葉が途切れた。部屋の奥、棚に並んだ古い木箱のひとつが、ゆっくり開いた。音はない。蓋が持ち上がり、暗い隙間ができる。中から出てきたのは、一本の赤黒い紐だった。紐には小さな鈴が結ばれている。子どもの手首に巻くための鈴。リオナの腰袋の中で、布に包んだ銀鈴が震えた。音はない。だが、彼女の体が反応した。
「出る」
今度はユウリが彼女の腕を掴んだ。「今すぐ出る」
「帳面は」
「持つ」
「触って平気?」
「平気かどうかを確認している時間がない」
ユウリは机の上の帳面を布で包み、鞄に入れた。神殿の規定なら、呪的汚染が疑われる記録物は現地封印するべきだ。だがここに置いたままでは、同じことを何度でも繰り返す。記録は危険だ。だが、記録がなければ何が起きたのか誰にも伝わらない。彼は記録官だった。恐怖で足が震えていても、その役目だけは手放せなかった。
二人は鈴守りの家を出た。外の朝はまだ朝の形をしていたが、光が少し青ざめている。竹藪の奥で、何かが揺れている。風ではない。細い竹の一本一本が、別々の拍ではなく、同じ拍でゆっくり傾いている。リオナは耳から流れる血を布で押さえながら、ふらつく足で歩いた。ユウリは彼女を支えた。名前を呼びたくなった。呼んで、意識をこちらへ戻したかった。だが呼べない。呼べないことが、これほどもどかしいとは思わなかった。
「聞こえるか」
代わりにそう尋ねる。
リオナは頷いた。「遠くなった。でも、まだ呼んでる」
「何と」
「分からない。分からないのに、返事をしたくなる」
「するな」
「分かってる」
「意識を保て」
「保ってる。……保ってるけど、変なんだよ。呼ばれてるのは、たぶんわたしじゃない。でも、わたしの中の誰かが返事をしそうになる」
ユウリは彼女の腕を強く支えた。リオナの中の誰か。鈴守りの家に残された幼い字。母親が隠していた箱。鈴を嫌った家。音無村から逃れた血筋。推測はいくつも浮かぶ。だが今は口にしなかった。言葉にすれば、それもまた形を持つ。この村で形を持ったものは、聞かれる。
社の近くまで戻ると、庵の前に老人が立っていた。いつ戻ったのか分からない。彼は二人を見ると、顔を歪めた。とくにリオナの耳の血を見た瞬間、その濡れた目に深い諦めが浮かんだ。「読んだのか」
ユウリは答えた。「鈴守りの家に、儀式の記録がありました」
「読んだのかと聞いておる」
「読みました」
老人は目を閉じ、唇を震わせた。「馬鹿なことを。紙に残った音は、目で聞くものだ」
リオナが苦しそうに笑った。「それ、先に言ってほしかったです」
「先に帰れと言うた」
「そうでした」
彼女の返しは弱かったが、まだ彼女自身の調子を残していた。老人は少しだけ痛ましげに彼女を見る。「娘、おまえ、鈴守りの血か」
リオナの顔が凍る。「知りません」
「知らぬままのほうがよかった」
「そういうの、今いちばん言われたくないです」
老人は何か言おうとして、口を閉ざした。ユウリはその沈黙を見逃さなかった。「あなたは、鈴守りの子について知っているのですね」
老人の目が、ユウリへ向く。「それを口にするな」
「名前は言っていません」
「名がなくとも、役がある。役を呼べば、役が応える」
「では、どう呼べばいい」
「呼ばぬことだ」
老人の声は低く、擦れていた。彼は庵の扉の前に立ちはだかるようにして続けた。「昨夜、ひとつめを聞いたな」
ユウリとリオナは言葉を失った。老人は確認するまでもないという顔だった。「二つめを聞けば、声の意味がずれる。人の言葉が、あれの言葉に聞こえはじめる。三つめを聞けば、おまえたちの声はおまえたちのものではなくなる。夜までに出られればよいが、もう道は閉じたろう」
「霧が出ています」
「霧ではない。音の外だ」
「出る方法は」
老人は答えなかった。答えがないのではなく、答えを口に出すこと自体を拒んでいるようだった。リオナが耳を押さえ、苦しげに膝を折りかける。ユウリは支えた。老人はその様子を見て、黒い布袋を握りしめる。中には何かが入っている。昨日とは違い、布袋の形ははっきり膨らんでいた。
「その子を、社に近づけるな」
老人はリオナを指して言った。
「なぜ」
「返していない名が、血をたどる」
リオナが顔を上げる。「わたしの名前、預けられてなんかいません」
「おまえの名ではない」
「じゃあ誰の」
老人は答えない。リオナは怒りと恐怖で声を震わせた。「黙らないでください。知らないままのほうがいいとか、呼ぶなとか、聞くなとか、そういうのばっかりで、結局なにも分からないから怖いんです。わたしの中の誰かって何ですか。鈴守りの血って何ですか。あの声は何なんですか」
老人は長いあいだ彼女を見つめた。やがて、ぽつりと言った。「昔、鈴に預けられた子がおった。村を守るためだと言われてな。その子の名は返らなかった。だが、名は消えたのではない。聞かれ続けている。今も、ずっと」
リオナの耳から、また血が一筋流れた。彼女はそれに気づいていない。遠くを見ている。ユウリは彼女の肩を揺らした。名前を呼びそうになり、唇を噛んだ。リオナはゆっくり瞬きをし、こちらへ戻ってきたように息を吸う。「……大丈夫。まだ、こっちにいる」
その言い方が、ユウリにはひどく不吉に聞こえた。まだ、という言葉が、昨夜の子どもの声と重なる。まだ、ひとつめ。
村の上空は晴れているのに、社の鈴だけが一斉に揺れた。音はない。だが、揺れている。老人は顔色を変え、庵の戸を開いた。「入れ。日が高いうちはまだ隠せる。夜が来る前に、読んだものを忘れる術を探す」
「忘れる?」
ユウリが問い返すと、老人は振り返った。濡れた目の奥に、怒りとも哀れみともつかないものが宿っていた。「ここで知ることは、音になる。音になれば、聞かれる。聞かれたものは、鈴へ行く。生きて帰りたければ、覚えたことを守るのではない。忘れ方を覚えろ」
ユウリは鞄の中の帳面の重みを感じた。記録官に向かって、忘れ方を覚えろと言う。これ以上の矛盾はなかった。だが、その矛盾の中にしか逃げ道がないことも、彼には分かっていた。リオナは耳を押さえたまま、かすかに笑った。「記録官と祓音補佐官が、忘れる練習ですか」
「笑い事じゃない」
「分かってる。でも、笑わないと、返事しそうになる」
「誰に」
彼女は答えなかった。答えの代わりに、社の奥を見た。そこには黒い鈴が吊られている。鳴っていない。鳴っていないのに、そこから呼び声だけが伸びている。
リオナは小さく呟いた。「遠いのに、近い」
そして、耳を押さえた指の間から流れた血が、一滴、社の石段に落ちた。
音はしなかった。
けれど黒い鈴のひとつが、確かにこちらを向いたように見えた。
第四章 二度目の鈴
老人の庵は、外から見たよりも狭かった。狭いというより、狭く保たれていた。柱と壁と天井が、内側へ向かって息を殺しているようだった。床には藁を編んだ古い敷物が一枚、壁際には割れた茶碗、煤けた水瓶、火を入れた形跡のない炉、そして黒い布に包まれた小さな箱が三つ並んでいる。窓はない。戸の隙間から差し込む光だけが、土の匂いと黴の匂いと、微かな潮の匂いを薄く照らしていた。老人は戸を閉めると、すぐにその隙間へ古い布を詰めた。外の光が細く潰れ、庵の中は夕暮れより先に夜へ沈んだ。ユウリはリオナを壁際に座らせ、耳の血をもう一度確かめた。血は止まりかけているが、乾いた赤い筋が頬の横に残っている。彼女の目は疲れていた。だが、眠気ではない。遠くから続く声を聞かないよう、自分の内側で必死に扉を押さえている目だった。
「眠るな」老人は短く言った。「目を閉じるな。聞こえるなら、声の意味を追うな。意味を追えば、道ができる」
リオナは壁に背を預け、苦く笑った。「意味を追うなって言われても、聞こえたものを理解しようとするのが人間なんですけど」
「なら人間をやめろ」
「急に無茶を言う」
老人は笑わなかった。細い指で炉の灰をかき、そこに黒い線を三本引いた。灰は乾いているのに、線の底だけ濡れたように黒い。「ひとつめで、名の端が緩む。二つめで、声の意味がずれる。三つめで、声の持ち主が変わる。覚えておけ。いや、覚えるな。今だけ分かれ」
「覚えるな、分かれ、って矛盾してます」
「矛盾の中に隠れろ。筋の通ったものは聞かれる」
ユウリは鞄を膝に置いた。中には鈴守りの家から持ち出した帳面と、昨夜から海鳴りを宿した録音具が入っている。どちらも本当なら開くべきではない。だが、開かなければ何も分からない。記録官としての本能と、生き物としての危機感が、胸の内側で互いを睨み合っていた。老人はその鞄を見て、皺だらけの顔を歪めた。「持ってきたのか」
「置いておけませんでした」
「紙は音より長く残る。長く残るぶん、深く聞かれる」
「なら、なぜ記録を残した」
老人は灰の線から目を上げなかった。「忘れられぬ者ほど、忘れろと書く。呼ばれたくない者ほど、名を消す。人間はそういうものだ」
リオナが目を細めた。「あなたは、あの記録を書いた人を知ってるんですか」
老人の指が止まる。庵の中に、沈黙が濃く積もった。リオナはすぐに後悔したように口を閉じたが、老人は怒鳴らなかった。ただ、ひどく遠い場所を見るように、炉の灰を見つめていた。「知っていた。そう言えば、あれは近づく。知らぬと言えば、嘘になる」
「じゃあ、何も言わなくていいです」
「言わぬことが、いちばんよい」
「でも、言わないままだと、わたしたちは二度目を聞くんですよね」
老人は答えなかった。その沈黙が答えだった。ユウリは灰に引かれた三本の線を見つめる。一つ目。二つ目。三つ目。数は単純だ。だから逃げられない。恐怖は漠然としているより、数えられる形を持ったときのほうが人を縛る。あと一度、あと二度、という考えが頭の中に住みつき、鈴の余韻と同じ場所に吊るされる。
外では、まだ昼の名残があるはずだった。けれど庵の戸板の向こうで、村全体がゆっくり暗くなっていくのが分かった。光が落ちるのではない。水が満ちるように、下から暗さがせり上がってくる。床下、草の根元、井戸の底、家々の土間、障子の裏、仏壇の奥。そうした低い場所から黒い水が上がり、村を一軒ずつ沈めていく。戸板の隙間へ詰めた布が、いつの間にか湿っていた。潮の匂いが強くなる。山の庵の中で、海の近くにいるような匂いがする。リオナが鼻を押さえた。「また、海」
「聞こえるのか」
ユウリが尋ねると、リオナは首を振った。「まだ匂いだけ。でも、匂いが音の前に来てる。変な言い方だけど、そう分かる」
老人が低く言う。「海と思うな。山と思うな。水と思うな。形にするな。あれは、おまえたちが知っているものの形を借りる」
「じゃあ、なんなんですか」
「人には、聞こえぬほうがよいものだ」
「そればっかり」
リオナの声に苛立ちが混じった。疲労と恐怖で、言葉の端が鋭くなっている。老人は責めなかった。むしろ、その苛立ちを少し眩しそうに見た。「怒れるうちは、まだ自分の声だ。だが、怒りで名を呼ぶな。名は、いちばん速く届く」
そのとき、庵の外で何かが動いた。足音はなかった。だが戸板の向こうを、人影が横切った。布で塞いだ隙間から光は入らないはずなのに、影だけが見えた。人の形をした濃い暗がりが、すう、と戸の向こうを通っていく。続いて、もう一つ。さらに、もう一つ。ユウリは息を止めた。リオナも短杖を握る。老人は灰の線を掌で乱し、三本の線を消した。「見るな」
「外に誰かいます」
「見るなと言うた」
「村人ですか」
「もう村人ではない。村であったものだ」
庵の戸板の向こうで、影が増えていく。音はない。踏みしめる音も、衣の擦れも、呼吸もない。だが、いる。戸の前だけではない。左右の壁の向こうにも、背後にも、屋根の上にも、沈黙の重みが人の形に集まっている。リオナは壁から背を離した。壁の向こうに誰かが立っている気配を感じたのだろう。彼女は小声で言った。「口が、動いてる」
ユウリは思わず戸の方を見た。布の隙間に、ごく細い裂け目があった。そこから、向かいの家の障子が見える。昨日調べた家のひとつだ。破れた障子の向こうに、人影が立っている。細い肩、傾いた首、腕をだらりと下げた姿。影は障子の内側でこちらを向き、口だけを動かしていた。声はない。唇が開き、閉じ、また開く。何を言っているのかは分からない。だが、その口の形は、誰かの名前を呼んでいるように見えた。
隣の家にも影が立っていた。その隣にも。道を挟んだ向こうの家の障子にも。空き家だったはずのすべての家で、障子の裏に人影が立ち、声のない口を動かしている。大人もいる。子どもらしき小さな影もある。首の曲がった影、背の丸い影、赤子を抱いているような影。足音はない。声もない。なのに村全体が、喋っている。音を持たない無数の口が、夜の始まりに合わせて動き出している。
「目を離せ」老人の声が鋭くなった。「口を読むな。読めば、聞こえる」
ユウリは慌てて視線を外した。だが遅かった。唇の動きが目に残る。音にならないはずの形が、頭の中で意味を探し始める。母、子、返せ、ここ、来い、名、鈴。ばらばらの言葉が、視覚から耳へ回り込み、まだ鳴っていない鈴の場所を震わせた。ユウリは歯を食いしばる。リオナが隣で短く息を吸った。
「聞こえる?」
ユウリは彼女に尋ねたつもりだった。だが、自分の耳には、その言葉が別の響きで返ってきた。呼んでる? そう聞こえた。自分の声なのに、意味がずれている。言った言葉と、聞こえた言葉が違う。彼は喉を押さえた。まだ鈴は鳴っていない。いや、鳴る前から始まっているのか。
リオナが立ち上がりかけた。顔色が悪い。耳の血は止まっているが、目の焦点が少し合っていない。「外に、誰か……」
「行くな」
ユウリは彼女の腕を掴んだ。彼女は振り返り、何かを言った。唇は確かに「逃げて」と動いた。短く、必死に、ユウリへ向けた警告だった。だがユウリの耳に届いたのは、違う言葉だった。
呼んで。
彼は凍りついた。リオナの声で、リオナの口から、呼んで、と聞こえた。名を呼べという意味に聞こえた。彼女はそんなことを言うはずがない。逃げてと言ったはずだ。逃げて、と唇は動いていた。だが耳は、呼んで、と聞いた。音の意味がねじれ、こちらのいちばん危険な欲望へ変換されている。呼べば彼女を引き戻せる。呼べば、こちらにいると確かめられる。呼べば、声のない村の口から彼女を守れる。そんな思考が、一瞬で喉へ上がった。
ユウリは舌を噛んだ。鉄の味が口に広がる。声になりかけたものが、血の痛みで止まった。リオナの目が見開かれる。彼女はもう一度、今度はもっとはっきり言った。唇は、逃げて。耳は、呼んで。
「違う」
ユウリは声を出してしまった。自分に言い聞かせるためだった。だが、その声すら、耳の中では鈴の余韻を帯びて返ってきた。ちがう、ではなく、ちりん、と近い響きへ溶けていく。老人が低く呻いた。「来る」
庵の中の空気が、急に冷たくなった。戸板も壁も、床も天井も、すべてが同時に息を止める。外の影たちの口が、ぴたりと止まる。障子の向こうの人影も、道に立つ影も、屋根の上にいるものも、すべてが同じ方角を向いた気がした。社の方角。黒い鈴が吊られている場所。
完全な無音が、また訪れた。
ユウリは自分の心臓の音を探した。ない。血の流れる音も、リオナの呼吸も、老人の喉の鳴りもない。世界が音を失ったのではなく、音がこれから生まれる場所へ吸い寄せられている。昨夜と同じだ。だが、昨夜より深い。昨夜は頭蓋の中に鈴が吊られた。今は、村全体がひとつの頭蓋になっている。家々は骨、川は耳管、社は喉。無数の名前を飲み込んだ村が、内側から鈴を鳴らそうとしている。
老人が布袋を握りしめた。黒い布の中で、何か硬いものが震えている。音はない。だが、震えている。老人は歯の隙間から言った。「耳を塞ぐな。無駄だ。名を思うな。そちらへ来る」
「どうすれば」
ユウリは尋ねた。自分の声が、耳の中でどう聞こえるか恐ろしかった。だが老人の声は、さらに恐ろしいほど遠くなっていた。「数えるな。鈴を数えれば、あれは数を持つ」
その瞬間、鈴が鳴った。
ちりん。
小さく、澄んだ音だった。だが一度目よりも近い。頭蓋の内側だけではない。歯の根元、舌の裏、喉仏、胸骨、指先の関節、膝の皿の奥。体中の小さな空洞すべてに、鈴が吊られていた。それらが同時に、同じ音で鳴った。痛みはない。だが、体の所有権が一瞬だけ外れた。自分の体が、自分の内側から鳴らされた。そう感じた。
世界が戻ったとき、音の意味が変わっていた。
リオナが何かを言う。唇は必死に動いている。声は聞こえる。だが、意味が滑る。彼女の言葉は、逃げて、離して、見ないで、という形をしているはずなのに、ユウリの耳には、呼んで、書いて、近づいて、と聞こえる。老人が怒鳴る。彼はおそらく「戸から離れろ」と言っている。だが耳には「戸を開けろ」と届く。庵の外の声なき影たちの口も、今は音を伴っているように感じる。実際には音など出ていない。だが、唇の動きが頭の中で勝手に声になる。おかえり。返して。ここに。呼んで。呼んで。呼んで。
ユウリは両手で耳を押さえた。無駄だと分かっていた。それでも押さえずにいられなかった。耳の外を塞いでも、内側の音は止まらない。自分の心臓の音が聞こえた。だが、それは鼓動ではなかった。どくん、ではなく、ちりん。もう一度、ちりん。血が全身を巡るたび、鈴の余韻が混ざる。心臓が、鈴の舌のように揺れている。
リオナがユウリの肩を掴んだ。彼女は何度も何かを言っている。唇は、戻って、こっち、聞かないで、と形を変える。だが耳はすべて別の言葉へ変える。呼んで。わたしを呼んで。名前を呼んで。ユウリは彼女の口を見ないようにした。声を聞かないようにした。だが彼女の手の震えは本物だった。彼女が怯えていることだけは、意味が壊れても伝わる。
老人が炉の灰を掴み、ユウリの顔へ投げつけた。灰が目に入り、痛みで視界が白く濁る。ユウリは咳き込みそうになったが、声を出さないよう必死に堪えた。老人の手が彼の顎を掴む。皺だらけの指が強く食い込む。「見るな。聞くな。意味にするな」
その声は、今度は正しく届いた。いや、正しいかどうかは分からない。ただ、老人の手の痛みが言葉を現実へ縫い留めたのだ。痛みはまだ鈴に変換されていない。ユウリは涙で滲む目を閉じ、うつむいた。リオナの声も、老人の声も、外の影たちの口も、見なければ少し遠ざかる。だが代わりに、鞄の中の録音具が震え始めた。
海鳴りが漏れた。
ざあ、ざあ、と低い音。山の庵の中に、深い潮が満ちる。録音具は再生していない。針も回していない。だが箱の中から、昨夜と同じ黒い海が溢れ出す。いや、昨夜より近い。波が岩を叩く音の奥に、人の声が混ざっている。リオナの声。老人の声。ユウリ自身の声。まだ言っていない言葉、言うべきではない言葉、言ったことにされたら戻れない言葉が、海の底から泡のように浮かび上がってくる。
「止めろ」老人が言ったのか、「開けろ」と聞こえたのか、もう分からなかった。ユウリは鞄へ手を伸ばした。リオナが止めようとする。彼女の手が手首を掴む。唇が、だめ、と動く。耳は、いいよ、と聞く。ユウリは歯を食いしばり、鞄の留め金を外した。録音具を取り出す。箱は冷たく濡れていた。指先に潮の匂いがつく。ありえない。昨日は乾いていた。ここは山の庵だ。だが、録音具の金属面には細かな水滴がびっしり浮き、円盤の溝に黒い水が溜まっている。
リオナが首を振る。老人が何か叫ぶ。外の影たちが一斉に口を動かす。すべてが鈴の余韻に変わっていく。ユウリは録音具の蓋を開けた。銀の針が勝手に動いている。円盤は回っていないのに、針だけが溝をなぞり、ありえない速度で震えている。その振動が箱の中で声を作っていた。
最初に聞こえたのは、自分の声だった。
「君の名前を鈴に書けば助かる」
ユウリは凍りついた。言っていない。そんなことは言っていない。考えたこともない、とは言い切れなかった。恐怖のどこかで、もしかしたらそういう仕組みなのではないかと考えたかもしれない。誰かの名を差し出せば、別の誰かが助かる。村人たちがしたこと。最初は死者、次に生まれる前の子、やがて生きている者、最後に鈴守りの子。供物の順番。そんなものを読んだから、頭のどこかに浮かんだかもしれない。だが、声にはしていない。リオナへ向けて言ってなどいない。
録音具の中の声は、もう一度言った。
「君の名前を鈴に書けば助かる」
それは間違いなくユウリの声だった。声の高さ、息の癖、言葉の前にわずかに間を置くところまで同じだった。だが、聞いていると、それが自分の声なのか、自分の声を使った何かなのか、境目が曖昧になる。声は自分のものだ。だからこそ、否定できない。もし未来の自分が言った言葉だとしたら。もしこの村では、まだ起きていない会話さえ先に録られてしまうのだとしたら。もし自分が、いずれ本当にリオナの名前を差し出そうとするのだとしたら。
「違う」
ユウリは吐き捨てるように言った。
録音具の中の声が、少し遅れて同じ声で返した。
「違う」
リオナの顔が歪んだ。彼女にも聞こえている。自分の名前を鈴に書けば助かる、とユウリの声が言うのを。彼女は一歩後ずさった。ユウリの手から逃れようとする本能的な動きだった。その反応が、胸に刺さった。彼女はユウリを疑ったのではない。疑いたくないからこそ、怖がった。声は本人のものだ。言葉は本人のものではない。そのずれに、信頼が裂かれる。二度目の鈴は、声の意味を壊すだけではない。人と人の間にある声の橋を、こちらの手で腐らせる。
「言ってない」
ユウリはリオナへ向けて言った。今度は、慎重に、名を呼ばずに。「俺は、それを言ってない」
彼女の唇が震える。耳には何と届いているのか分からない。逃げてが呼んでに聞こえるなら、言ってないは何に聞こえるのか。リオナは目を閉じ、耳を押さえずに、ゆっくり頷いた。「分かってる」
その言葉が、ユウリには「疑ってる」と聞こえた。
全身が冷えた。いや、たぶん彼女は分かってると言った。唇もそう動いた。だが耳が勝手に逆の意味へ落とす。信じたい言葉ほど、疑いに変換される。助けたい言葉ほど、呼び水に変わる。ユウリは唇を固く閉じた。もう話せない。話せば話すほど、何かが二人の間に入り込む。
老人が録音具を奪い取り、床へ叩きつけた。箱が割れ、銀の針が飛び、円盤が床を転がる。普通なら甲高い金属音が鳴るはずだった。だが音はない。割れた録音具の中から、黒い水だけがじわりと滲んだ。水は床板の隙間へ吸われることなく、丸く溜まり、その表面に小さな波紋を作っている。波紋の中心で、子どもの声が笑った。
「ふたつめ」
その声は、耳ではなく、三人の沈黙の中で鳴った。リオナがよろめき、壁に手をつく。老人は床の黒い水へ灰を投げた。水は一瞬だけ白く濁り、すぐに消えた。録音具の破片も、黒い水も、そこにあったという痕跡だけを残して、床に吸われたように消えていく。円盤だけが残った。深く刻まれた溝が、鈴の形に見えた。
外の影たちが動き始めた。家々の障子の向こうで、口がまた開く。だが今度は、その声が聞こえる。声というより、意味が聞こえる。返せ。戻せ。呼べ。書け。名を。名を。名を。ユウリは膝をつき、両手で口を押さえた。自分の中から、何かが返事をしようとしている。リオナを助けたい。老人から真相を聞き出したい。神殿へ帰りたい。記録を残したい。そのすべての欲求が、鈴の余韻に触れるたび、名を書け、名を呼べ、名を渡せ、という一つの衝動へ変わっていく。
老人は庵の奥の箱をひとつ開けた。中から古い綿布を取り出し、リオナの耳とユウリの口元へ乱暴に押し当てる。「喋るな。聞いたことを信じるな。見た口を読むな。声はもう、おまえたちの間をまっすぐ通らぬ」
リオナが布越しに何か言おうとする。老人は睨んだ。「喋るなと言った」
「でも??」
ユウリには、その「でも」が「名を」と聞こえた。彼は目を閉じた。リオナもそれに気づいたのか、布を噛むようにして口を閉ざす。二人の間に、言葉のない時間が落ちた。さっきまで名前を呼べないことがつらかった。今は、言葉そのものが危険だった。
老人は壊れた録音具の残骸を見下ろし、低く告げた。「三度目を聞くな」
ユウリは顔を上げた。老人の声は、今だけなぜか正しく届いた。たぶん老人は、自分の言葉を意味ではなく、痛みのように差し込んでいるのだ。聞き間違えようのない、短く、重い警告として。
「三度聞けば、おまえの声はおまえのものではなくなる」
庵の外で、社の鈴が無音のまま揺れている。家々の障子の向こうで、声のない村人たちが口を動かしている。川は流れているのに水音はなく、風は吹いているのに風鈴は鳴らない。だが、ユウリの体の内側では、心臓が一拍ごとに鈴の余韻を返していた。ちりん。ちりん。声になる前の音。名前になる前の震え。
リオナは壁にもたれ、布を耳に当てたままユウリを見た。彼女の目は言葉を求めていた。大丈夫だ、と言ってほしいのかもしれない。信じている、と伝えたいのかもしれない。けれど、今の二人には、それを声にすることができなかった。声にすれば、届く前に変わる。届いたときには、刃物になる。
ユウリは代わりに、自分の手を差し出した。リオナは一瞬ためらい、それからその手を握った。言葉ではない。名でもない。音にもならない。体温だけが、まだ二人の間をまっすぐ通った。
老人は戸板の隙間を見つめていた。夕暮れはとうに終わっていた。だが夜はまだ始まったばかりだった。
第五章 音無様
夜は、庵の戸板の外で水のように満ちていた。闇と言うには重く、霧と言うには乾いていて、海と言うには音がない。家々の障子の向こうに立つ影たちは、まだ口を動かしている。だが二度目の鈴を聞いたあと、ユウリにはその無音が無音のままでは届かなかった。音のない口の開閉が、頭の内側で勝手に意味へ変わる。返せ。呼べ。書け。渡せ。助かりたいなら。助けたいなら。名を。名を。名を。彼はリオナの手を握ったまま、歯を食いしばっていた。彼女の手は冷たく、汗で湿っている。言葉を交わせない。声にすれば曲げられる。逃げてが呼んでになり、分かってるが疑ってるになった。ならば、もう音には頼れない。指先の力、手のひらの体温、互いの震えだけが、かろうじて嘘をつかないものだった。
老人は庵の奥で、黒い布袋を開いていた。中から出てきたのは、鈴だった。小さく、古く、煤と錆で黒ずんだ鈴。だが、その形は村中に吊るされているものと違っていた。普通の鈴なら下に割れ目があり、内に舌がある。老人の掌に乗ったそれには割れ目がなかった。完全な球ではなく、蕾のように閉じた形をしている。音を出す器ではない。音を閉じ込めるものだ。ユウリがそう考えた瞬間、二度目の鈴の余韻が胸の奥でかすかに震えた。考えるな。形にするな。老人はそう言った。だが、記録官としての目は見たものを分類し、理解しようとする。その癖が、今は命取りになる。
老人は鈴を炉の灰の上に置き、片手でリオナを指した。「その娘を連れて、社へ入る」
リオナが目を見開いた。布を口元へ押し当てたまま、声にならない抗議をする。ユウリも老人を睨んだ。言葉にすれば何と聞こえるか分からないため、首を横へ振る。老人はそれだけで二人の意味を読んだらしい。皺だらけの顔に、怒りと疲労が同時に浮かんだ。「夜の間に、ここへ隠れても無駄だ。二つめを聞いた。もう影の口から逃げるだけでは朝まで保たぬ。三つめの前に、奥へ行く」
ユウリは慎重に、短く言った。「なぜ」
その一語は正しく届いたのか、老人は頷いた。「鈴守りの血が呼ばれておる。血をたどられれば、三つめはその娘の中で鳴る。外で鳴るより近い。近ければ、戻らん」
リオナは片手で耳を押さえ、もう片方で胸元の袋を握りしめた。中には布に包んだ銀鈴がある。彼女は声を出すまいとしているが、目は問いかけている。社へ行けば助かるのか。老人はその問いにも答えた。「助かるとは言わん。ただ、奥にあるものを見れば、何を聞いているのか分かる。分からぬまま聞くよりは、まだ抗える」
リオナはユウリの手を強く握った。行きたくない。だが、行かなければいけない。そういう力の入れ方だった。ユウリは頷いた。言葉ではなく、視線で伝える。自分も行く。名前は呼ばない。声に頼らない。彼女がそれを読み取ったのかどうかは分からないが、少しだけ指の震えが収まった。
庵を出ると、村は水底になっていた。実際に水があるわけではない。足元の土は乾いている。だが空気が青黒く、重く、遠近感が歪んでいた。家々は水の中に沈んだ廃屋のように見え、障子の裏の影たちは、ゆっくり、ゆっくりと口を動かしている。口の形が水の中でふやけ、意味だけが耳へ届く。返せ。名を。呼べ。助けて。殺して。静かに。静かに。静かに。ユウリは耳を塞がなかった。塞いでも無駄だと知っている。代わりに、リオナの手を離さないことだけに集中した。老人は先頭を歩いた。手に持った閉じた鈴を胸の前に掲げ、音のしない道を進む。老人の足取りは不思議に確かだった。何十年もこの村から出られなかった者だけが知る、音に頼らない歩き方だった。
社へ続く石段の両脇で、無数の鈴が揺れていた。音はない。だが揺れ方が変わっている。風に揺れるのではない。三人が一段上がるたび、道を開けるように左右へ傾く。鈴がこちらを見ている。そう感じた。見る器官などないはずなのに、黒い鈴の丸い表面が、目のようにこちらを捉える。リオナの呼吸が浅くなる。彼女の耳からはまた細い血が滲み、顎の線に沿って一筋、首元へ落ちていた。痛くはないと言っていた。だが、痛くない血のほうが恐ろしい。体が傷ついているのに、痛みとして本人へ返ってこない。傷すら音を失っているようだった。
老人は社の前で止まった。本殿の扉は閉じている。朽ちた木戸には、名を消された札が何枚も打ちつけられている。札には「鈴守」「返名」「沈音」「無声」「預名」といった役目や儀式の名だけが残り、その下にあったはずの人名はすべて黒く潰されていた。老人は閉じた鈴を扉の前へ掲げ、唇を動かした。声は出ていない。だが、ユウリの耳には何かが聞こえた。言葉ではない。古い戸の鍵が、水の中でほどけるような音。あるいは、誰かが舌を持たない口で祈った気配。
本殿の扉が、内側から開いた。音はしなかった。
中は空だった。小さな祠があるはずの場所には、黒ずんだ床板と、何も吊られていない太い鈴緒だけがあった。鈴緒は天井から垂れているのではなく、床の中央に開いた暗い穴の中へ続いている。祠の床に穴が開いているのではない。床そのものが、音もなく下へほどけている。黒い階段が、地面の下へ続いていた。階段の幅は、社の大きさに合わないほど広い。外から見れば小さな建物なのに、その内部は明らかに広すぎる。リオナが息を呑む。ユウリには、その息が「呼んで」と聞こえた。彼は目を閉じ、一拍置いてから彼女を見た。リオナの唇は何も言っていない。ただ息を吸っただけだ。意味が勝手に生まれている。二度目の鈴は、まだ続いている。
「地下へ」老人が言った。今度は短い言葉だったため、意味のずれは少ない。「途中で壁を見るな。線を追うな。音に近い文字だ」
「文字?」
ユウリが問い返すと、老人は厳しい目で見た。「声にするな」
階段を下りた。石段は湿っていた。だが水の音はない。壁は近いようで遠く、灯火管の光を向けても、奥行きが定まらない。小さな祠の地下であるはずがない。十段、二十段、三十段。下りるほど、社の外にあった村の影たちの気配が遠ざかる。代わりに、別の音が近づいてきた。音と言っていいのか分からない。耳鳴りに似ている。だが、普通の耳鳴りは一本の細い線のように響く。これは幾重もの線が重なり、波のように寄せては返す。海鳴りより細かく、鈴の余韻より広い。聞こえるのではなく、骨の表面に刻まれる。
壁に、紋様が現れた。老人の言った通り、見てはいけないとすぐ分かった。石壁いっぱいに、文字ではない波形のような線が彫られている。直線はほとんどなく、細い曲線が上下し、重なり、途切れ、また繋がっている。音を目に見える形へしたなら、こうなるのかもしれない。だが、楽譜ではない。祈祷の譜面でもない。もっと原始的で、もっと非人間的な記録。誰かの声の形、悲鳴の形、泣き声の形、名前が音になる瞬間の震え。ユウリは見ないようにしながらも、視界の端でそれを捉えてしまった。すると、頭の奥で細かい耳鳴りが始まる。ジ、と虫が鳴くような、キ、と金属が裂けるような、ザ、と波が石を洗うような音が、すべて一つの線に変わっていく。
リオナが階段の途中で膝をつきかけた。ユウリはすぐに支える。彼女は片手で耳を押さえ、もう片方で壁へ触れそうになっていた。老人が振り返り、閉じた鈴を壁との間に差し出す。リオナの指が止まった。彼女は荒く息をする。声は出さない。出せば何に変わるか分からない。ユウリは彼女の手を引き、壁から離した。リオナは唇だけで「ありがとう」と動かした。ユウリの耳には、それが「名を書いて」と聞こえた。彼は顔を歪め、視線で否定した。リオナもそのずれに気づいたのか、唇を固く閉じる。
階段はいつ終わるのか分からなかった。神殿の地下施設なら、空気の流れや石組みの周期で深さを測れる。だがここでは、段数の感覚がすぐに狂う。十段下りたはずなのに、まだ社の床下にいるようでもあり、百段以上下ったようでもある。時間も同じだった。数えるな、と老人は言った。ユウリは段数を数えそうになるたび、自分の爪を掌へ食い込ませた。数えれば、鈴が数を持つ。ひとつめ。ふたつめ。みっつめ。数は呼び水になる。
やがて階段が終わった。そこは地下室ではなかった。広間でもない。巨大な洞窟、と呼べば近いが、それでも足りない。灯火管の光が届く範囲には湿った石床と壁がある。だがその先は、暗い水面のように広がっている。天井は見えない。壁も遠すぎる。小さな村社の地下が、山ひとつを空洞にしたような空間へ繋がっている。空気は冷たく、潮の匂いがする。足元は乾いているのに、遠くで波が満ち引きしているような圧がある。だが海鳴りは聞こえない。海があるのではなく、海という形を借りた何かがここにある。
石壁には、さらに濃い波形の紋様が刻まれていた。文字ではない。だが、意味を持っている。ユウリはそれを見ないようにしても、波形は視界の隅で耳鳴りを作る。一本の線が母の声に見えた。別の線が子どもの泣き声に見えた。太い波は祈り、細い波は名前、途切れた波は死者、潰れた波は墨で塗られた名。そう理解しそうになり、彼は首を振った。分類するな。意味にするな。だが、記録官の目はもう、見てしまっている。
広間の奥に、それは吊られていた。
黒い鈴。
村中にあった小鈴とは比べものにならないほど大きい。人の背丈ほどもある。だが、巨大さよりも異様なのは、その形だった。外側は鈴に見える。丸く、黒く、下に割れ目がある。だが割れ目の内側に、舌はなかった。空洞もなかった。そこには、暗い海があった。鈴の内側が空間ではなく、深さになっている。覗き込めば、どこまでも落ちていく黒い水。あるいは、星の一つもない夜空。鈴の内側なのに、そこには奥行きがあり、遠くがあり、こちらを見返す深さがある。ユウリは目を逸らそうとした。だが、逸らす前に見てしまった。黒い海の底で、無数の白い点が揺れている。それは星ではない。名前の残骸だ。呼ばれなくなった名、返されなかった声、意味を失った祈りが、小さな泡のように浮かび、また沈んでいく。
リオナが震えた。老人が閉じた鈴を掲げ、低く息を吐く。広間の空気がわずかに揺れた。黒い大鈴の内側から、幼い声が聞こえた。
「名前を返してほしいの?」
声は優しかった。昨夜の「まだ、ひとつめ」と同じ声だ。子どもの声。けれど、今ははっきり分かる。子どもそのものではない。子どもの声の形を使っているだけだ。人間が聞いて理解できる最小の器として、幼い声を選んでいる。そうでなければ、この広間全体が声になってしまうのだろう。ユウリは喉が乾いた。声を出すべきではない。だが問わなければならないことがある。リオナが隣で耳を押さえた。彼女は泣きそうな顔で黒い鈴を見ている。懐かしさと恐怖が、同じ場所から彼女を引いている。
鈴の下に、子どもが立っていた。
いつ現れたのか分からなかった。白い着物。裾は濡れていないのに、水を吸ったように重く垂れている。髪は黒く、肩より少し長く、風もないのに頬に貼りついている。年は七つか八つほどに見える。男の子にも、女の子にも見えた。足は床についている。だが足音はない。踏みしめている影も薄い。顔立ちは整っているのに、目元だけがぼやけている。見ようとすると、焦点が合わない。口元だけが、はっきり笑っていた。
「探しに来たの?」
子どもは首を傾げた。声は小さく、澄んでいて、聞いているだけで喉の奥が冷たくなる。「返してほしいの? 名前。声。泣く音。怒る音。祈る音。みんな、ここにあるよ」
リオナが一歩前へ出そうになった。ユウリは手を握って止める。彼女は抵抗しなかったが、目だけは子どもから離れない。老人が歯を食いしばる。「近づくな。その姿は、もう子ではない」
子どもは老人を見た。口元の笑みだけが少し深くなる。「おじいちゃんは、まだ静かにならないね」
老人の顔が強張った。ユウリはその反応で悟った。老人はこの声を知っている。かつての鈴守りの子を知っていた。あるいは、知っていた者の名を失いながら、声だけを覚えている。老人の布袋の鈴が、無音のまま震えた。
ユウリは短く問うた。「何者だ」
自分の声がどう聞こえるか身構えたが、ここでは不思議と意味のずれが弱かった。黒い大鈴の前では、すべての音があまりにも近すぎて、逆に曲がる余地がないのかもしれない。子どもはユウリを見上げた。目元はぼやけているのに、見られていると分かる。「何者って、名前?」
「名前ではない」
「名前じゃないものは、すぐ静かになるよ」
「おまえは、鈴守りの子か」
リオナが息を呑む。老人が何か言いかけた。だが子どもは、楽しそうに笑った。「そう呼んだ人もいた。かわいそうって言った人もいた。村のためって言った人もいた。ごめんねって泣いた人もいた。みんな、うるさかった」
「神の使いか」
「神?」
子どもは不思議そうに首を傾けた。その動きは人間の子どもに似ているのに、角度が少し深すぎた。首の骨がある者の動きではない。「神って、呼ぶための名前でしょう。山の神。音無様。鈴の神。月の神。みんな、名前をつけたがる。名前をつけると、安心するから」
リオナが震える声で言った。「じゃあ、あなたは何なの」
彼女の言葉は、今度はユウリにもほぼ正しく聞こえた。子どもはリオナを見た。笑みが、ほんの少しだけ柔らかくなる。親しいものを見るような、それでいて獲物の匂いを知っているもののような表情。「あなたの中にも、音が残ってる。返してない音。ずっと震えてる」
「わたしの名前じゃない」
「名前は、血の中でも響くよ」
リオナの膝が揺れた。ユウリは支える。彼女は子どもを睨もうとしたが、目に涙が滲んでいた。「勝手に、人の中を聞かないで」
「聞こえるんだもの」
子どもは悪びれずに言った。その無邪気さが恐ろしかった。侵しているという意識がない。覗いているのではない。聞こえてしまうから聞いている。風が枝を揺らすように、海が岸を削るように、黒いものは人の声を受け取っているだけだ。
ユウリはようやく理解した。音無様は、村を呪っていたのではない。少なくとも、人間が言う意味での呪いではなかった。村人たちは苦しみを消してほしいと願った。死者の泣き声を鎮めてほしいと願った。病の呻き、産声、別れの名、争いの怒声、祈りの声、災厄を呼ぶ名前を沈めてほしいと願った。音無様は、その願いを聞いた。そして叶えた。苦しみを消した。泣き声を消した。争いを消した。祈りを消した。名前を消した。やがて、悲鳴を上げる者がいなくなるまで。声を持つ者がいなくなるまで。覚えている者がいなくなるまで。人間が失いたくないものと、失ってほしいものの区別を、この存在はしなかった。音は音だった。名は名だった。うるさいものは、静かにする。それだけだった。
「声はうるさい」
子どもは黒い鈴の下で、歌うように言った。「泣く声はうるさい。怒る声はうるさい。祈る声もうるさい。助けてって声も、やめてって声も、返してって声も、みんなうるさい。名前はもっと、うるさい。呼ばれるたびに、ここにいるって震える。だから、静かにしてあげる」
その言葉に悪意はなかった。だからこそ、ユウリは吐き気を覚えた。悪意があれば拒める。憎しみがあれば戦える。だがこれは、ただの作用だった。火が燃やすように、水が沈めるように、音無様は聞き、削り、静かにする。村人はそれを神と呼んだ。恐怖を儀式にし、供物を信仰にし、喪失を守護にした。最初に死者の名を差し出した者は、善意だったかもしれない。死者が苦しまないように。残された者が泣き続けなくて済むように。けれど、静けさは一度受け入れると広がる。泣き声の次は病の呻き。呻きの次は喧嘩の声。喧嘩の次は子どもの泣き声。子どもの声の次は、名前。最後には、村そのもの。
老人が震える声で言った。「返せ」
子どもは老人を見る。「何を?」
「名を。あの子の名を」
「あの子?」
「おまえが使っている、その声の持ち主だ」
子どもは笑った。口元だけが、三日月のように曲がる。「声は残ってるよ。名前は沈んだ。沈んだものは静か。静かなものは、戻すとうるさい」
老人は閉じた鈴を握りしめたまま、一歩前へ出た。ユウリは止めようとしたが、老人は振り返らなかった。その背は小さく、曲がっていた。だが、長い年月を名前のない村で生き残った者の、最後の固さがあった。「あの子は、村のために預けられたのではない。おれたちが、怖くて差し出した。泣く声がうるさかったからではない。あれを失うのが怖かったから、先に失ったことにした。おれたちが殺した」
「殺す?」子どもはまた首を傾けた。「死んでないよ。静かになっただけ」
その瞬間、黒い鈴の内側で何かが揺れた。暗い海の底に、白い泡のようなものが浮かぶ。ユウリは見てはいけないと思いながら、見てしまった。泡の一つ一つに、顔があった。顔というより、顔になりかけた記憶。泣いている老人、赤子を抱く女、口を開ける少年、手を伸ばす少女、そして、目元のぼやけた白い着物の子ども。彼らは苦しんでいない。叫んでもいない。ただ、静かだった。その静かさが最悪だった。苦しみすら奪われている。助けてと叫ぶ声も、自分が誰だったかを訴える名もない。静かであることは救いではない。静かにされているだけだった。
リオナが震えながら言った。「わたしの中にいるのは、その子?」
子どもはリオナへ向き直った。「いる、じゃないよ。残ってる。名が返らなかったから、血が代わりに響いてる。あなたの家の人、逃げたでしょう。ひとつだけ持って。返らなかった名の端っこ。だからあなたは聞こえる。鈴の音が。鈴じゃない音が」
リオナは腰袋の中の銀鈴を押さえた。彼女の家が鈴を嫌った理由。母が隠していた箱。幼いころの夢。暗いところで数を数える声。全部が繋がりかけている。彼女は苦しげに首を振った。「そんなの、わたしは知らない」
「知らない音も、鳴るよ」
子どもは優しく言った。「聞こえないふりをしても、鳴る。血は、静かにしても鳴る」
ユウリはリオナの前に出た。言葉を選ぶ余裕はなかった。「彼女を呼ぶな」
子どもはユウリを見上げた。「名前を呼んでないよ」
「触れるな」
「触ってないよ。聞こえるだけ」
「なら、聞くな」
その言葉に、子どもは初めて少し困った顔をした。まるで、空に向かって青くなるなと言われたように。「聞くな、ってどうするの?」
ユウリは言葉を失った。そうだ。この存在にとって、聞くことは意志ではない。性質だ。存在そのものだ。人間が目を開けば光が入るように、これには音が入る。名が入り、声が入り、記憶が入る。聞こえてしまうものを、静かにする。そこに倫理はない。残酷さもない。だからこそ、ザイン系神格の断片なのだと彼は理解した。記録を裂くもの。名を削るもの。断絶をもたらすもの。その末端が、人間の村で「音無様」と名づけられ、鈴の形を与えられた。
老人が突然、閉じた鈴を床へ叩きつけた。音はしない。だが、閉じた鈴の表面にひびが入った。子どもの顔から笑みが消える。黒い大鈴の内側で、暗い海が一瞬だけ荒れた。老人は叫んだ。声はかすれているのに、意味だけが強く届く。「おまえは神ではない。あの子でもない。村が呼び込んだ、音を食う穴だ」
子どもは老人を見つめた。口元が、またゆっくり笑う。「穴にも、名前をつけるの?」
老人の顔が歪む。ユウリはその瞬間、まずいと思った。老人は言ってしまう。長年、口にしないようにしてきた何かを。神殿なら断絶記号でしか記さないものを。完全な名ではないにしても、この場所でそれを音にすれば、鈴が応える。
「ザイン??」
老人の声が出かけた。
ユウリは飛び出し、老人の口を押さえた。二人は床へ倒れ込む。老人は抵抗しなかった。ただ、目を見開いて震えている。ユウリの耳の奥で、三度目の鈴になるはずだった何かが、ぎり、と金属を擦るように止まった。子どもは残念そうに首を傾げる。「言わないの?」
ユウリは老人を押さえたまま、息を荒くした。声を出せない。名を呼べない。神格名も口にできない。言葉はあまりに危険だ。ここでは、理解そのものが鈴へ通じる道になる。
リオナが短杖を握り、震える手で立ち上がった。彼女の目には涙が浮かんでいたが、怯えだけではなかった。「あなたは、静かにしてあげるって言った」
子どもは彼女を見る。「うん」
「じゃあ、わたしたちが嫌だって言ったら?」
「嫌だって声も、うるさいよ」
「そう」
リオナは泣きそうな顔で笑った。「最悪」
その言葉だけは、ユウリにも正しく届いた。最悪。まさにそうだった。説得できる相手ではない。怒らせたら危険なのではなく、怒るという構造が通じない。こちらの苦痛も抵抗も拒絶も、すべて「うるさい音」として処理される。
黒い大鈴の内側から、また海鳴りがした。今度は録音具を介していない。広間そのものが、黒い海の底になっていく。壁の波形紋様が、ひとつずつ淡く浮かび上がる。それらは音の記録だった。村人たちの名。祈り。泣き声。死者の声。供物にされた子どもの声。すべてが波として刻まれ、鈴の内側へ流れ込んでいる。
子どもは両手を広げた。白い袖が、水の中の布のようにゆっくり揺れる。「名前を返してほしいなら、別の名前を入れればいいよ」
リオナの手が止まった。ユウリも動けなくなる。老人が床の上で呻いた。
「ひとつ、入れて。ひとつ、返す。昔からそうしてたよ」
子どもの声は無邪気だった。取引のつもりですらない。静けさの均衡を説明しているだけだった。名が欲しいなら、名を入れる。声が欲しいなら、声を入れる。返してほしいものがあるなら、代わりに何かを静かにする。村人が続けてきた儀式の正体。返名の裏側。誰かの名が返らない年は、別の誰かの名で穴を塞いだ。最初は死者。次に生まれる前の子。やがて生きている者。そして最後に、鈴守りの子。
ユウリは吐き気を堪えた。録音具に残っていた未来の声が蘇る。君の名前を鈴に書けば助かる。自分の声で、自分ではない言葉。だが、その言葉はこの場所の仕組みを言い当てていた。だからこそ録られた。だからこそ、恐ろしい。
リオナが小さく首を振った。「嫌。誰の名前も入れない」
子どもは不思議そうだった。「じゃあ、返らないよ」
「それでも嫌」
「苦しいよ」
「苦しくても嫌」
「呼ばれるよ。眠れないよ。声が変わるよ。名前がほどけるよ」
リオナは短杖を握りしめ、涙をこぼした。「それでも、嫌」
その拒絶は、音だった。震える声だった。二度目の鈴に意味を曲げられかけながらも、リオナ自身の奥から出た声だった。ユウリには、その言葉だけは不思議と曲がらずに届いた。嫌。誰かを差し出して助かることを拒む、ただそれだけの人間の声。
黒い大鈴の内側で、海が深く沈んだ。子どもの笑みが薄くなる。悪意ではない。ただ、理解できないという顔だった。「嫌って、うるさいね」
広間の空気が引き絞られた。老人が床から顔を上げ、ユウリの腕を掴む。その目が言っていた。来る。三度目が。ユウリはリオナの手を取った。戻るべきだ。だが階段は遠い。壁の波形紋様は光を帯び、黒い鈴の内側は星のない夜空のように広がっている。子どもは鈴の下で、静かに立っている。
「静かにしてあげる」
その言葉が、広間全体から聞こえた。子どもの口だけではない。壁から、床から、黒い鈴の内側から、名前を失った村人たちの記録から、同じ声が重なって聞こえる。声はうるさい。名前はもっと、うるさい。だから、静かにしてあげる。
ユウリはリオナを引き寄せ、老人を立たせた。もう、調査ではない。記録でもない。ここにいれば、三度目を聞く。聞けば、声は自分のものではなくなる。逃げるしかない。だが、逃げる前に彼は一度だけ黒い大鈴を見た。鈴の内側の暗い海に、無数の白い泡が浮かぶ。その中のひとつが、かすかにリオナの方へ寄っていく。彼女の血に残った、返らなかった名の端へ引かれるように。
そのとき、ユウリは悟った。
この村の怪異は、終わっていない。封じられてもいない。音無様は、ただ聞き続けている。村が静かになったあとも、近隣の村へ、血筋へ、記録へ、録音具へ、読んだ者の頭蓋へ、鈴の形を変えながら広がっている。名前を呼ぶ人間がいる限り、声を持つ者がいる限り、完全な沈黙を求めるこの断片は、いつでも耳を澄ませる。
子どもは、また笑った。
「ねえ」
声はすぐ近くから聞こえた。
「次で、静かになるよ」
広間の奥、黒い鈴が、今度ははっきり揺れた。
音はまだ、しない。
第六章 三度目の鈴
黒い大鈴が揺れた瞬間、ユウリはリオナの手を引いた。考えるより先に体が動いていた。記録官として見極めるべきものは、もう見た。音無様は神ではない。祈りを聞き届けるものでも、村を守るものでもない。人間が苦しみから逃れるために差し出した声や名を、区別なく静かにしていく断片だった。善悪ではない。救いでも呪いでもない。ただ、聞こえたものを消す。うるさいものを沈める。それがあの黒い鈴の本質だった。ならば、これ以上ここにいてはいけない。理解はすでに遅すぎたが、遅すぎるという事実に足を止めれば、あとは沈むだけだった。
リオナの足はもつれていた。耳から流れた血は乾きかけているのに、彼女の意識はまだ黒い鈴の内側へ引かれている。白い着物の子どもは、鈴の下で笑っていた。足音はない。追ってくる気配もない。けれど、広間全体がこちらを聞いている。壁に刻まれた波形の紋様が、視界の端で淡く光り、歩くたびに頭の奥で細い耳鳴りを生む。見るな。聞くな。意味にするな。老人の言葉を思い出しながら、ユウリはリオナの手首を強く握った。名を呼べない。声を頼れない。ならば手の力だけで引き戻すしかない。
老人は後ろからついてきていた。閉じた黒い鈴を胸に抱え、息を切らしながらも、足を止めない。あの子ではない、と老人は言った。神でもない、と。だが、その声には、あの子であってほしいという願いが混ざっていた。何十年も名前を失った村で生き残った老人にとって、鈴の下に立つ白い影は恐怖であると同時に、捨てた罪の形だったのだろう。罪は、消えた名より長く残る。音にならなくても、骨の内側で鳴り続ける。
階段へ辿り着いた。上へ続く石段は、下りてきたときよりずっと長く見えた。灯火管の光は弱く、階段の先は黒い喉のように伸びている。リオナが一度振り返りかけ、ユウリは彼女の肩を掴んだ。振り返るな、と言いたかった。だが言葉にすればどう届くか分からない。二度目の鈴のあと、声の意味はまだまっすぐ通らない。逃げてが呼んでに聞こえる。分かっているが疑っているに聞こえる。ならば今、振り返るなと言えば、見て、になるかもしれない。ユウリは何も言わず、首を横に振った。
リオナはそれを見て、かろうじて頷いた。頷いたはずだった。だが彼女の目は、まだ地下の奥を見ている。黒い大鈴の中の星のない海。そこに浮かぶ返らなかった名の泡。彼女の血に残る鈴守りの名の端。そのどれかが、彼女の中から彼女自身を引いている。ユウリは手首を握る力を強めた。リオナは痛みに気づいたように瞬きをし、こちらを見る。その一瞬だけ、彼女は戻ってきた。
階段を上る。石壁の波形は、下りてきたときよりもはっきりしていた。まるで、帰り道ではなく、こちらの耳の内側を通っているようだった。曲線の一つ一つが音の骨格を持ち、目を逸らしていても意味がにじむ。母が子を呼ぶ声。死者を惜しむ声。産声。泣き声。謝罪。祈り。罵声。約束。別れ際に呼ばれた名。無数の音が、石に刻まれ、鈴へ流れていく。ユウリは理解したくなかった。理解すれば、それもまた記録になる。記録になれば、音無様に聞かれる。だが、記録官として育てられた目は、どうしてもその構造を読んでしまう。ここは地下道ではない。村で発せられたあらゆる音を、鈴へ運ぶ管だった。社は祠ではなく、喉だった。村は声帯だった。音無様は、その奥に開いた耳だった。
上へ。上へ。
ようやく本殿の床が見えた。狭い社の内部に戻る。地下の広大さが嘘だったように、そこは小さく、古く、腐った木の匂いがした。だがもう、普通の社には見えない。床の穴は閉じかけている。黒い鈴緒がその穴へ吸い込まれるように沈み、板目の隙間がゆっくり元へ戻っていく。老人が最後に上がった瞬間、床は完全に閉じた。そこに階段があった形跡はない。ただ、太い鈴緒だけが床の中央に横たわり、黒い蛇のようにわずかに震えている。
「外へ」老人が言った。短い言葉だけは、まだ正しく届く。「戸を出たら、走れ。振り向くな。名を思うな」
名を思うな。
それがいちばん難しかった。呼ぶな、ならまだ耐えられる。書くな、なら手を止めればいい。だが思うなという命令は、思った瞬間に破られる。リオナの名を思うな。そう考えた時点で、ユウリの頭の中には彼女の名が浮かんだ。昨夜、一文字が滲んだ名。自分の横で震えている少女。彼女をここから出すには、その名を失わせてはならない。けれど、名を守ろうと意識すればするほど、鈴はそこへ近づく。
社の扉を開けた。
夜の村が広がっていた。
さっきまで水底のように青黒かった村は、今や完全に沈んでいるように見えた。家々の障子の向こうでは、人影がまだ立っている。だがもう、口は動いていなかった。全員が、こちらを向いている。声を失った村人たち、名前を預けた者たち、返らなかった者たち。彼らは歩かない。揺れない。息もしない。ただ、無音のまま待っている。社の石段の両脇に吊るされた無数の鈴も、ぴたりと静止していた。風は吹いている。リオナの髪は揺れている。老人の袖も揺れている。だが鈴だけは動かない。動かないことで、次の一振りを待っている。
ユウリはリオナを連れて石段を駆け下りた。足音がしない。全力で走っているのに、石を蹴る音も、息が荒れる音も、服が擦れる音もない。音のない走行は、夢の中で逃げているようだった。足だけが動き、景色だけが流れ、世界はどこにも反応しない。リオナの手が一度滑り、ユウリは振り返らずに握り直した。老人の気配は後ろにある。だが足音はない。誰がついてきているのか、確かめる術がない。
村の出口へ。霧が塞いでいた場所へ。
だが、石段を下りきった瞬間、社の上で何かが動いた。音ではない。空気でもない。見えない指が、世界の内側に吊られた鈴へ触れたような気配。ユウリは止まりたくなかった。止まれば終わる。だが体が勝手に硬直した。リオナも同じだった。老人が後ろで、声にならない叫びを上げた。
黒い鈴が、三度目に鳴った。
ちりん。
音は小さかった。これまでと同じ、澄んだ、幼い、無垢な音。だが三度目の鈴は、頭蓋の内側でも、骨の奥でもなかった。もっと深い。声が生まれる前の場所。息が言葉になる前、喉が震える前、名が意識に浮かぶ前。その源に、細い鈴の舌が触れた。
ユウリは叫んだ。
リオナ、と。
そう叫んだつもりだった。
だが、何も出なかった。
喉は動いた。口は開いた。肺から空気も押し出された。舌は名の形を作った。だが声だけがなかった。音になるはずの震えが、喉の奥で鈴の形に折り畳まれ、消えた。代わりに、舌の奥へ錆びた味が広がる。鉄ではない。血でもない。古い鈴を舐めたような、冷たく苦い錆の味。彼はもう一度叫ぼうとした。リオナの名を。逃げろ、と。こちらを見ろ、と。声は出ない。口を開くたび、舌の奥で錆びた鈴が揺れ、音にならない震えだけが歯に伝わる。
リオナは数歩先で立ち尽くしていた。彼女の手がユウリの手から抜けている。いつ離れたのか分からない。彼女は社の方を向いていない。村の出口を向いてもいない。ただ、少し首を傾げ、自分の胸元に手を当てている。何かを思い出そうとしている顔だった。
ユウリは走り寄り、肩を掴んだ。リオナは振り返る。目が合う。彼女の瞳に、混乱が浮かんでいた。恐怖ではない。もっと空白に近いもの。
「わたし……」
彼女の声は聞こえた。三度目の鈴は、ユウリの声を奪っただけで、世界の音すべてを消したわけではない。いや、違う。聞こえているのは、彼女の声なのか、鈴が通した声なのか、もう確信できない。リオナは震えながら続けた。「わたしの、名前……」
ユウリは口を開いた。リオナ。そう言いたかった。だが声は出ない。喉の奥で鈴の味だけがした。リオナは自分の胸を押さえ、何度も唇を動かした。リ、まで出る。そこから先が続かない。彼女の目が揺れる。自分が何を失いかけているのか、理解した顔だった。
「いや」
リオナは小さく言った。「いやだ。忘れたくない。わたし、わたしは……」
その先が出ない。彼女の名前が、彼女自身の内側でほどけている。ユウリは彼女の肩を強く揺さぶった。目を見ろ。こちらを見ろ。君の名前はここにある。俺が覚えている。そう伝えたい。だが声はない。老人の姿を探す。老人は石段の下で膝をつき、閉じた黒い鈴を抱えていた。彼もまた声を出そうとしているが、声になっていない。老人の口からは乾いた息だけが漏れ、目には諦めと怒りが混ざっている。三度目の鈴は、すでに来てしまった。
社の上に、白い着物の子どもが立っていた。いつの間に外へ出たのか分からない。石段の最上段、黒い鈴たちの間に、濡れたような黒髪を垂らして立っている。足音はなかった。口元だけが笑っている。
「静かになったね」
子どもの声だけは、はっきり届いた。ユウリの声が消えた世界で、その声だけがあまりに明瞭だった。「もう、うるさくない。名前も、ほどけてきた。ほら、軽いでしょう」
リオナがゆっくり、子どもの方へ顔を向ける。彼女の足が一歩、社へ向かって動いた。ユウリは腕を掴む。止める。だがリオナは抵抗しない。抵抗しないまま、力なく引かれている。まるで、自分がどちらへ行きたいのか分からなくなっている。
声がない。
名前を呼び止められない。
ユウリは喉を押さえた。口を開いても、錆の味しか出ない。リオナの名を思う。今度は忘れない。リオナ。リオナ。リオナ。だが、思うだけでは届かない。声にできなければ、彼女をこちらへ引き留める線にならない。音無様は声を奪った。名を音にする力を奪った。ならば、まだ残っているものは何か。
記録。
ユウリは鞄を開けた。手が震えて留め金が外れない。爪が割れ、血が滲む。痛みがある。痛みはまだ自分のものだ。彼は血のついた指で金具をこじ開け、記録帳を取り出した。神殿製の帳面。防湿処理された厚い紙。自分が見たもの、聞いたもの、調べたものを残すための道具。老人は言った。紙に残った音は、目で聞くものだ。ならば危険でも、今はそこに賭けるしかない。声がないなら、文字で呼び止める。音にせず、名を記す。
筆を出す。墨壺を開ける。手元が暗い。灯火管を取り出す余裕はない。月明かりもほとんどない。社の鈴が放つ黒い光のようなものだけが、紙面をかすかに照らしている。墨はある。だが、ただの墨では弱い。ユウリは割れた爪をさらに噛み切り、指先の傷を広げた。痛みが走る。血が溢れる。彼はその血を墨に落とし、筆先で混ぜた。赤黒い墨が、紙の上に落ちる前から細かく震えている。音になりたがっている。彼は歯を食いしばり、記録帳の空白へ筆を置いた。
リオナ。
正しく、丁寧に、彼女の名前を書く。昨夜滲んだ一文字を、今度は血の混じった墨でなぞる。リ。オ。ナ。三つの音を、音にせず、紙に沈める。書き終えた瞬間、リオナの体がびくりと震えた。彼女の足が止まる。子どもの笑みがわずかに薄れる。
「書いたんだ」
子どもが言った。「音にしないで、名前を書いたんだ」
ユウリは答えない。答えられない。喉は鈴に奪われている。だが、リオナの目に焦点が戻りかけている。彼女は自分の胸元を押さえ、ゆっくり唇を動かした。今度は、最後まで動く。音にはならないほど小さい。けれど、彼女自身が自分の名を思い出したことは分かった。彼女の膝が崩れ、ユウリは片腕で支えた。
まだ終わっていない。
自分の名前も、記さなければならない。記録官として、記録者名を残す。誰がここにいたのか。誰が見たのか。誰がこの記録を作ったのか。名を残せば、自分もこちら側に留まれる。ユウリは記録帳の隣の空白へ筆を置いた。
ユ??
そこで手が止まった。
自分の名前の二文字目が、思い出せなかった。
嘘だ、と彼は思った。自分の名前だ。何百回、何千回と書いてきた。神殿の登録簿にも、訓練記録にも、閲覧申請にも、調査報告にも、何度も記した。呼ばれ、叱られ、任命され、署名してきた。その名が、ない。最初の一文字だけがある。ユ。次が空白だ。リ、だったはずか。いや、それはリオナの名の一部だ。自分の名前にその音があったか。あった。なかった。分からない。ユ、の次に来る音が、頭の中で黒く塗り潰されている。
彼は冷や汗を流した。喉から声は出ない。書くこともできない。思い出せない名は、声にも文字にもならない。音無様は、声を奪っただけではなかった。声にならなかった名の端まで、すでに食んでいる。
リオナがこちらを見る。彼女は何かを言っている。たぶん、ユウリ、と呼ぼうとしている。だが声が遠い。ユウリの耳には、それが鈴の余韻に混ざって届く。ユ、のあとが曖昧になる。彼女もまた、彼の名前を正しく呼べなくなりかけている。
社の石段の上で、子どもが口を開いた。
声がした。
ユウリ自身の声だった。
「ユ■リ」
名前を呼ばれた。
ただし、一文字だけ欠けていた。ユとリの間にあるはずの音が、黒い穴のように抜けている。だが、その呼び方は妙に自然だった。まるで最初からそれが正しい名だったかのように、音は滑らかに耳へ入ってくる。欠けているのに、欠けていない。足りないのに、足りている。世界がその名前を受け入れようとしている。
「返事をすればいいよ」
子どもはユウリの声で言った。いや、子どもの口が動き、そこからユウリの声が出ていた。「その名前で返事をすれば、あなたは残る。声も戻る。ここから出られる。ねえ、ユ■リ」
リオナが首を横に振る。必死に、激しく。彼女の目には涙が浮かんでいる。返事をするな。そう言っている。今度は意味が曲がらない。声になっていないからだ。目と体の動きだけが、まっすぐ届く。
欠けた名前で返事をすれば、助かる。たぶん、本当に助かるのだろう。音無様は嘘をついていない。嘘という概念がない。欠けた名で再記録される。世界は、ユ■リという者がここにいたと認識する。声も戻るかもしれない。村を出られるかもしれない。神殿へ帰り、報告書を書き、リオナを守れたことにできるかもしれない。
だが、本来の自分は消える。
ユウリという名で呼ばれ、記録を学び、リオナと山道を歩き、老人に叱られ、音無様を見た自分は、欠けた名の背後へ沈む。誰にも気づかれない。自分でさえ、気づけなくなる。喪失を喪失と分からないまま、生き残る。それは死よりも静かで、死よりも音無様に近い。
子どもがまた呼ぶ。
「ユ■リ」
声は優しい。自分の声だから、拒みにくい。疲れたときに自分へ言い聞かせる声、失敗したときに心の中で立て直す声、記録を読み上げるときの声。そのすべてを真似て、欠けた名が差し出される。返事をしろ。生き残れ。欠けていてもいい。誰も気づかない。静かになれる。
ユウリは口を開いた。
声は出ない。
だが、返事なら声がなくてもできる。頷けばいい。手を上げればいい。自分がその名であると認めれば、それで成立する。喉の奥に、錆びた鈴の味が濃くなる。舌が勝手に動こうとする。体が、欠けた名前へ向かって傾く。
そのとき、リオナが彼の手を握った。
強く。痛いほどに。
昨夜、言葉の代わりに繋いだ手。逃げるときに離れ、また掴み直した手。彼女は何も言わない。ただ、握る。欠けた名へ向かおうとするユウリの体を、こちら側へ引き戻す。声ではない。名前でもない。だが、その痛みは確かだった。彼は返事をしなかった。頷かなかった。欠けた名を受け取らなかった。
代わりに、記録帳へ筆を下ろした。
自分の名は書けない。思い出せない。ならば、名の代わりに記すべきことがある。自分という存在を残すためではない。これ以上、誰かがここで名を音にしないように。次にこの記録を見る者が、名前を読み上げないように。リオナが、いつかこの頁を持ち帰ったとき、彼を呼ぼうとして鈴に聞かれないように。
血と墨で震える筆先が、紙の上を進む。
ここにいた者の名を、音にしてはならない。
書き終えた瞬間、黒い鈴たちが一斉に揺れた。音はない。だが、村全体が大きく息を吸ったような圧があった。子どもの笑みが消える。老人が目を見開く。リオナがユウリの手を握ったまま、泣きそうに顔を歪める。
ユウリは記録帳を彼女の胸へ押しつけた。持っていけ。そう言いたかった。声はない。だが、彼女は分かった。分かってしまった。首を横に振る。嫌だと。置いていけないと。彼の名を忘れたくないと。
子どもが階段を一段下りた。足音はない。白い着物の裾が夜の中で揺れる。口元だけが、もう一度笑おうとしている。
「名前がないと、戻れないよ」
ユウリはリオナを押した。村の出口の方へ。霧の方へ。彼女だけでも。だがリオナは離れない。老人がよろめきながら二人の間へ入り、閉じた黒い鈴を子どもへ向けた。老人の口が動く。声はほとんど出ていない。それでも、ユウリにはその意味が伝わった。行け。
ユウリは最後に、記録帳の頁を見た。リオナの名は、血の墨で正しく残っている。自分の名は、一文字目だけで止まっている。その下に、警告文がある。ここにいた者の名を、音にしてはならない。
それでいい。
名は、呼ばれるためだけにあるのではない。呼んではいけないことで、誰かを守る名もある。
ユウリは声のない喉で、声にならない息を吐いた。リオナへ向かって、笑おうとした。うまく笑えたかどうかは分からない。舌の奥には、まだ錆びた鈴の味が残っている。
社の上で、子どもがもう一度、欠けた名を呼んだ。
「ユ■リ」
彼は返事をしなかった。
夜の村で、鳴らない鈴が揺れていた。
終章 聞いてはいけない鈴
夜が明けるとき、最初に戻ってきたのは光ではなく、鳥の声だった。どこか遠く、山の端のほうで、ひと声だけ、細い鳥が鳴いた。その声はあまりにも弱く、頼りなく、すぐに朝靄へ溶けてしまったけれど、リオナはそれを聞いた瞬間、自分がまだ生きているのだと知った。音がある。世界に音がある。鳥が鳴き、草が露を弾き、風が木の葉を擦り、遠い沢が石を洗っている。どれも当たり前の音だった。当たり前すぎて、昨日までなら聞き流していた音だった。けれど今は、そのひとつひとつが皮膚の下へ沁み、骨に触れ、喉の奥で涙になりかけた。彼女は湿った土の上に倒れていた。頬に草の冷たさがあり、髪には朝露が絡んでいる。右耳の下に乾いた血が張りつき、動くと皮膚がひきつれた。痛みはほとんどない。ただ、痛くないことが怖かった。耳の奥にはまだ、鈴が鳴る直前の冷たい余韻が吊られている。揺れてはいない。けれど、そこにある。
リオナはゆっくり上体を起こした。頭が揺れ、胃の奥から潮の匂いがこみ上げる。吐き気を堪えながら周囲を見る。山道だった。音無村の入口へ続く、あの古い石仏の並ぶ道。背後には、朝靄に沈む谷がある。けれど村は見えなかった。昨日、あれほど確かにあったはずの屋根の列も、風鈴の吊るされた軒も、苔むした石段も、黒い鈴で埋もれた社も、今は薄い霧の奥に沈み、輪郭さえ分からない。そこに村があると知っていなければ、ただ山の窪地に白い霧が溜まっているようにしか見えなかった。鳥の声がもう一度鳴る。今度は近い。リオナはその声に縋るように息を吸った。喉は動く。声も出る。彼女は小さく、自分の名前を言おうとした。
「リ……」
途中で止めた。言える。たぶん言える。けれど、声にしたくなかった。名前を確かめたい衝動と、音にした瞬間に何かが振り向くという恐怖が、喉の奥でぶつかり合う。彼女は唇を噛み、胸元に手を当てた。布に包んだ銀鈴はなかった。腰袋も破れている。短杖は少し離れた草の上に落ちていた。折れてはいない。彼女はそれを拾い上げようとして、その隣に黒い革表紙の記録帳が落ちていることに気づいた。
彼の記録帳だった。
それを見た瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。痛みは音にならなかった。ただ、内側で崩れるような重さがあった。彼女は記録帳へ手を伸ばし、触れる直前で止まった。表紙は濡れていない。夜露も泥も弾いている。けれど、持ち上げる前から重かった。紙の重さではない。そこに残されたものの重さだった。
「……ねえ」
彼女は呼びかけようとして、声を呑んだ。誰に。何と呼ぶのか。答えはあるはずだった。昨日、山道を一緒に歩いた。記録庫で台帳を見つけた。怖いときほど理屈を言い、無茶をするときほど静かになり、声がなくなっても彼女の名前を血で書き留めた人。彼の顔は思い出せる。手の冷たさも、指先の血も、彼が最後に笑おうとした表情も思い出せる。だが、名前だけがなかった。名前の形を思い出そうとすると、頭の奥で、鳴ってはいけない鈴がわずかに震える。ちりん、と鳴る寸前で止まる。そのたびに、思い出せるはずの音が白く欠ける。
リオナは記録帳を抱き上げた。表紙を開く。最初の頁には神殿印と調査番号。次の頁には音無村の所在、廃村処理の年月、近隣で発生した声喪失症例、鈴の音に関する証言。筆跡は彼のものだった。まっすぐで、必要以上に飾らず、けれど細部を落とさない記録官の字。読み進めるうちに、彼がどこまで見ていたのか、どこまで理解していたのかが分かった。神殿の台帳。村の家々。消された位牌。名のない墓。老人の証言。鈴守りの家の儀式記録。返らなかった名。ザイン系神格断片。記録には、音無様と呼ばれたものの仮称として、断絶記号と併せて「ザイン=ルグル」という名が記されていた。ただしその横には、赤黒い墨で注意が添えられている。完全神名ではない。音読を禁ず。
リオナはその一文を見た瞬間、口を閉ざした。紙の上の文字を読むことと、声に出すことは違う。だが、この村では、目で読むこともまた聞くことだった。昨夜の耳鳴りが薄く蘇る。彼女は息を整え、さらに頁をめくった。そこには、音無様の性質について、彼が最後に理解したことが記されていた。音無様は村を呪ったのではない。村人の願いに応じ、苦しみ、悲鳴、祈り、争い、名を呼ぶ声、記憶に残る音を消していった。人間が残したい音と消したい音を区別しない。名は存在の輪郭であり、声は輪郭を世界へ接続する震えである。鈴は器ではなく、聞くための形である。
その文字を追いながら、リオナは唇を震わせた。泣きたくなったのではない。泣くという行為にさえ、音があることが怖かった。涙は出た。声は出なかった。
やがて、終わり近い頁に彼女の名前があった。血の混じった墨で、強く、正しく書かれている。リオナ。その三文字だけが、他のどの記録よりも濃かった。紙の上でまだ乾ききっていないように、赤黒く光っている。リオナは指で触れようとして、できなかった。触れれば、その文字がほどけてしまう気がした。名を音にせず、紙に留めた。彼はそうやって、自分を呼び戻したのだ。
その隣に、彼自身の名があるはずだった。記録者名。だがそこには、一文字だけが書かれ、その先は途切れていた。墨がかすれたのではない。紙が破れたのでもない。最初の一画のあと、筆が止まり、そのまま長い空白が続いている。リオナはその一文字を見た。見た瞬間、頭の奥で鈴が震えた。発音しようとすれば鳴る。そう分かった。彼の名の最初の音。喉まで上がってくる。けれど、その先がない。いや、ある。あったはずだ。昨日まで何度も呼んだ。記録庫で。山道で。怖い家の中で。うっかり口にして、老人に叱られた。彼の名は確かに自分の声になったはずなのに、今はその記憶の中で、二文字目だけが黒く沈んでいる。
リオナは無理に読もうとした。読めるはずだと思った。読まなければ、彼が消える気がした。だが、文字を見るたび、頭の内側に小さな鈴が吊られる。息を吸う。舌が動く。次の瞬間、ちりん、と鳴りそうになる。鳴れば、何かがこちらを聞く。彼の名を呼べば、彼が戻るのではなく、彼を使った何かが振り向く。そう直感した。だから彼は書いたのだ。
ここにいた者の名を、音にしてはならない。
その文は、彼自身の名の代わりに記されていた。警告であり、遺言であり、封印だった。リオナは記録帳を胸に抱きしめた。声を出さずに泣いた。鳥の声が遠くで鳴く。風が草を撫でる。沢の音がする。世界は音を取り戻しているのに、彼の名だけが音にならない。
神殿へ戻るまでの記憶は、断片的だった。麓の村で発見されたとき、リオナは倒れる寸前だったという。村人たちは、彼女が一冊の記録帳を胸に抱え、誰にも触らせようとしなかったと証言した。声をかけると返事はした。自分の名前も言えた。所属も任務も述べられた。だが、同行していた記録官の名を尋ねられると、彼女はそのたびに口を閉ざし、耳を押さえた。医術師は衰弱と耳内出血を確認した。鼓膜に大きな損傷はない。声帯も喉も正常。祓音師は、彼女の頭蓋内に微弱な異音残滓を認める、と報告した。鐘でも鈴でもない。記録に残す際、祓音師はその異音の種類を「未分類」とした。だが、リオナは知っていた。それは鈴だった。鳴っていない鈴。鳴る前の鈴。
神殿上層部の聴取は、三日に分けて行われた。白髪の神官は会議室の奥に座り、記録帳を前にして長く沈黙した。以前と同じ部屋。同じ長い卓。同じ火皿の匂い。同じ筆音。だが、リオナにはすべてが違って聞こえた。筆が紙を擦る音のひとつひとつが、名を削る刃物のように思えた。神官は慎重に頁をめくり、ザイン=ルグルという仮称に目を留めたときだけ、わずかに指を止めた。
「この名を、誰が記した」
リオナは答えようとした。同行者、と言いかける。記録官、と言いかける。彼、と言いかける。だがそのたび、胸の奥で空白が膨らむ。彼の名を言えない。彼の名を言えないまま、彼を説明することが、ひどい裏切りのように思えた。「一緒に、調査へ行った人です」
「名は」
白髪の神官が問うた。
リオナは彼を睨んだ。目の奥が熱くなる。「読めません」
「記録上必要だ」
「読めません」
「思い出せないのか」
「思い出せないんじゃありません」
声が震えた。神官たちがわずかに身じろぎする。その衣擦れの音が、リオナの耳にはいやに大きく聞こえた。「思い出そうとすると、鳴るんです。鳴ったら、あれが聞きます。だから、読まないでください。記録者名の欄は封じてください。呼ばないでください。あの人の名を、音にしないでください」
会議室に沈黙が落ちた。リオナはその沈黙が嫌いだった。音無村の静けさを思い出すからだ。けれど、この沈黙はまだ人間の沈黙だった。恐れ、疑い、判断、保身、後悔。そうしたものが混じっている。白髪の神官は記録帳の最後の警告文を見つめ、それから静かに目を伏せた。
「音無村は封鎖する」
誰かが息を吐いた。神官は続ける。「周辺山道を閉鎖。近隣村には山崩れの危険を理由に立入禁止を通達する。該当地域の祭具、鈴、風鈴、獣除け鈴の類は回収、または封印。症例者については、祓音処置と記憶安定処置を継続。記録帳は禁書庫へ移す」
「燃やさないんですか」
リオナが尋ねると、神官は顔を上げた。「燃やせば消えると思うか」
答えは分かっていた。火で燃えるのは紙だけだ。音になったもの、聞かれたもの、記録として世界に触れたものは、紙を焼いただけでは消えない。むしろ、燃える音、紙が裂ける音、灰が崩れる音に乗って、別の場所へ広がるかもしれない。リオナは唇を噛んだ。神官は低く言った。「沈黙封印を施す。読み上げを禁じる。閲覧には上級記録官二名、祓音師一名の立ち会いを必須とする。該当する神格仮称は断絶記号で代替し、音読不可項目へ分類する」
「それで終わるんですか」
神官はすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、彼は老いた声で言った。「終わったことにする」
その言葉に、リオナは怒りを覚えた。けれど同時に、理解もした。神殿はそうやって世界を保っている。終わっていないものに境界を引き、名前をつけ、棚へ収め、鍵をかける。終わったことにしなければ、人は日常へ戻れない。だが、終わったことにすることと、終わったことは違う。音無様は消えていない。ザイン=ルグルは滅びていない。ただ、また聞くのをやめているだけだ。次に誰かが名を音にするまで。次に誰かが鈴を鳴らすまで。次に誰かが、静かにしてほしいと願うまで。
音無村の封鎖は、神殿の記録上、速やかに完了した。山道には封印札が立てられ、古い石仏には沈黙紋が刻まれ、近隣の村では獣除けの鈴が取り外された。声を失った三人のうち二人は、数週間後にかすれた声を取り戻した。だが、ひとりは自分の名前だけを発音できないままだった。医術師は後遺症と書き、祓音師は残響と書き、神殿は経過観察と書いた。リオナはその報告書を見て、しばらく動けなかった。言葉は便利だった。後遺症。残響。経過観察。どれも、名前を失う恐怖から目を逸らすための、音のきれいな箱だった。
記録帳が禁書庫へ収められる日、リオナは立ち会いを願い出た。却下されると思っていたが、白髪の神官は許可した。ただし、頁を開くな、声に出すな、記録者名を読もうとするな、と三度念を押された。三度、という数にリオナは身を固くした。神官はそれに気づいたが、何も言わなかった。
禁書庫は神殿地下のさらに奥にあった。あの夜、彼と共に入った古い記録庫よりも深く、壁も扉も厚く、空気は乾いていた。ここには危険な書物があるのではない。危険な「読み方」をされると世界に傷をつける記録がある。禁書庫の管理官は、記録帳を黒い布で包み、銀糸で縛り、沈黙印を押した木箱へ納めた。木箱の蓋には、音読禁止、名呼び禁止、鈴類接触禁止の三つの札が貼られる。リオナはその様子を黙って見ていた。
「最後に、何か記しますか」
管理官が言った。
リオナは驚いて顔を上げた。管理官は表情を変えずに続ける。「調査生還者の補記として、封印前に一文だけ認められます。ただし、人名、神格名、音象徴語は禁止です」
人名は禁止。神格名は禁止。音象徴語は禁止。ならば、何を書けばいいのか。リオナはしばらく考えた。彼の名前は書けない。書いても読めない。読もうとすれば鳴る。彼が最後に書いた警告は、もう記録帳に残っている。ここにいた者の名を、音にしてはならない。ならば自分が書くべきことは、彼の名ではない。彼がしたことだ。名ではなく、行為。音ではなく、痕跡。
リオナは筆を取り、補記用の小さな札へ書いた。
同行者は、最後まで記録官であった。
書いた瞬間、喉の奥が詰まった。涙が出そうになったが、声は出さなかった。管理官はその札を木箱の内側に収め、蓋を閉じた。沈黙印が押される。薄い銀の光が木箱の縁を走り、すぐに消えた。
その日から、リオナは神殿の鈴を身につけなくなった。祓音補佐官としては異例だったが、上層部は何も言わなかった。彼女は短杖だけを持ち、鈴を使わない祓音術を学び直した。音に触れるたび、あの村を思い出す。静かにしてあげる、と言った子どもの声を思い出す。声はうるさい。名前はもっと、うるさい。だから、静かにしてあげる。優しさの形をした断絶。救いの顔をした消去。彼女はその言葉を忘れなかった。忘れたくても忘れられなかった。
ただひとつだけ、どうしても思い出せないものがあった。
彼の名前だった。
顔は思い出せる。目の色も、癖のある筆跡も、怖いときに理屈を並べるところも、最後に声のない喉で笑おうとした表情も思い出せる。記録帳を彼女の胸へ押しつけた手の力も、血と墨で彼女の名を書いた指先も覚えている。けれど、名前だけがない。夢の中で彼に会うことがあった。神殿の廊下、山道、音のない家、社の石段。彼はいつも少し離れたところに立っている。リオナが呼ぼうとすると、夢の空気が冷える。鈴が鳴る前の沈黙が訪れる。彼は首を横に振る。呼ぶな、と。するとリオナは目を覚ます。目を覚ましたあと、枕元に手を伸ばし、声が出ることを確認し、それから泣いた。泣く音だけは、まだ自分のものだった。
月が幾度か満ち欠けしたあと、禁書庫の記録から音無村の事件はさらに奥へ移された。神殿の分類では、地方怪異ではなく「断絶神格系残響事案」となった。沈黙の儀礼に関する古い祭式のいくつかが、再審査対象へ回された。月神殿に伝わる声なき祈り、名を伏せる幼名儀礼、死者名簿の墨塗り作法、鈴を鳴らさず祈る葬送式。その一部には、ザイン系侵食を防ぐための封印手順が混ざっている可能性がある、と専門記録官たちは記した。だが、その議論はごく狭い範囲に留められた。広く知らせれば、誰かが口にする。口にすれば、音になる。音になれば、聞かれる。
神殿は静かだった。表向きには、いつも通りだった。朝には鐘が鳴り、祈祷の声が上がり、記録官たちは筆を走らせ、補佐官たちは廊下を急ぐ。リオナはその音の中を歩きながら、ときどき足を止めた。音は人を繋ぐ。呼び声は人をこちら側へ留める。けれど、音は同時に、何かを呼び寄せる。名前は光であり、餌でもある。そう知ってしまった者にとって、世界は少しだけ薄く、少しだけ危うかった。
その夜、禁書庫には誰もいなかった。沈黙印の灯だけが、棚の間で青白く燃えていた。管理官は交代時刻に巡回し、すべての箱の封印を確認した。異常なし。鈴類持込なし。閲覧者なし。音響反応なし。記録にはそう残っている。
だが、地下のさらに奥、黒い布で包まれた木箱の中で、一冊の記録帳がひとりでに震えた。音はなかった。沈黙印は破れていない。銀糸も切れていない。木箱の蓋も開いていない。それでも、箱の内側で記録帳の頁がゆっくりめくれた。紙が擦れる音はしなかった。頁は、最後の警告文が記された箇所で止まる。
ここにいた者の名を、音にしてはならない。
その下には、長い空白があった。彼が自分の名を書こうとして、書けなかった空白。誰にも読めず、誰にも呼ばれず、音にならなかった場所。その空白に、墨ではない黒が滲んだ。水でもない。血でもない。文字になる前の震えが、紙の上へ浮かび上がる。
まだ、ひとつめ。
字は幼かった。けれど、筆跡は彼のものに少し似ていた。
禁書庫の青白い火が、細く伸びる。棚の奥で、収められた無数の記録が一斉に息を潜める。誰もいないはずの地下で、遠く、ほんとうに遠く、山の向こうとも海の底ともつかない場所から、澄んだ音がした。
ちりん。




