4
二日後、俺は店番をしながら受け取った哲学書に目を通していた。
あとで感想を聞かせてほしい、と言われては読まないわけにはいかなかったからだ。
その日、店長は買取りでいなかった。電話一本で出張高価買取します、というチラシは思いのほか効果があるようで数件電話依頼が相次いでいた。
本当は業務用マニュアルを読んでいたいのだが、いや読むべきなのだが、店長いわく優先順位はこの本だという。いいのか? 仕事中に読書って普通ダメだよな? と首を傾げながら本を開いていた。
すると思わず手が止まるページがあった。
そこには重要だと言わんばかりに一部の文章が何十にも鉛筆で囲まれている。店長が印をつけたのか、それとも以前の持ち主がつけた印かわからないが目を文章だった。
そこにはこう書かれてあった。
言葉が変われば思考が変わる。
思考が変われば心が変わる。心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。
その文章に何かコツンと石があたるような感覚がした。
だが、それが何なのかよく分からなかった。
「ずいぶん勉強熱心ね」
「わぁっ!」
頭上からする女性の声に仰天して俺は立ち上がった。
眼前には制服姿の白石由梨がクスクス笑いながら立っていた。
「ああっすみません。全然気づきませんでした」
慌てて本を閉じると彼女は申し訳なさそうに「こちらこそ驚かせてごめんね」と肩をすくめた。
「いえ、俺なら大丈夫です」
「よかった」笑う彼女が眩しくて声が小さくなる。女子に耐性がないので何をどう話せばいいのか分からず俯いていると、彼女は何か思い出したように両手を合わせた。
「あ、そうだ! 進くんにチョコレートを持ってきたんだ。ここに置いとくね」
そう言って彼女はカウンターに差し入れを置いてくれた。
「え、俺にですか?」
「うん」
「あ、ありがとうございます!」
思わず目を輝かせる。他人から何かを貰うのが生まれて初めてで思わず感銘に浸った。
「仕事は大丈夫? 分からないことはない?」
「はい、今のところは」
俺の顔を覗き込む彼女に思わず上擦った声で返す。クスクス笑いながら彼女はカウンターに肘をついて俺を見つめてきた。
「ねぇ進くんも本が好きでここにきたの?」
「いえ、俺はたまたま店の前を通りかかっただけで……白石さんは本が好きでここに?」
「うん。わたしにとって本はお友達だから」
——お友達? へへっと笑いながら彼女は髪を耳にかきあげた。甘い香りが鼻を掠め心臓がドクンと跳ね上がる。さらさら落ちてくる髪はキラキラ光って見え思わず凝視した。
すると彼女の袖に血がついているのが見えた。
「あれ、怪我ですか?」
だが彼女は慌てた様子で袖を隠した。
「ああ、違うの。これは、その……絵具よ!」
「絵の具?」
「じ、実はね、わたし洋服のデッサンを描いているのよ」
そう言って彼女はカバンからノートを取り出した。俺はそのノートを覗いた。開かれたページには赤いドレスを着た女性が描かれている。俺は目を見張った。水彩画で美しく描かれたその絵は素人とは思えないほどの仕上がりだったからだ。
「絵、めちゃくちゃうまいですね」
「うふふっ、ありがとう。いつか自分でデザインした服を作るのが夢だったからさ」
「えっ、夢だった?」
過去形?
驚いて顔を上げると彼女はどこか憂色を浮かべながら背中を向けた。
「うん。デザインの仕事はダメだって親に反対されたの。今は看護師を目指しているわ。でも描くのがやめられなくて、こうして時々描いてしまうの」
「こんなに絵が描けるのに、もったいないですね」
「進くんは? 親に反対されたりとかしない? 将来の夢とか」
「俺ですか? いやぁ、俺の親は自分のことなんか何の興味もないですよ。無関心というか何というか……」
「それって、なんだか羨ましいな!」
「え、羨ましい?」
そんな風に思われたのは初めてで、どちらかというと俺の方が羨ましいのに彼女は「私のお父さん、ちょっと気難しくて」と苦笑していた。
彼女も俺と同じように親に苦労しているのだろうか。
「根は優しいお父さんなのよ。きっと心配しているのね。デザイナーは売れないとお金にならないからって」
「でも、どうして看護師に?」
「父は医者なの。母は元看護師。需要のある仕事だからお金にも困らないだろって」
お金に困らない。
確かに幸せな道だ。親が反対するのも共感できる。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「うん」
「もし反対されなかったら、白石さんはお金に困ってもデザイナーをやりたいと思いますか?」
「もちろんよ!」
嬉々に即答する彼女に俺は目を丸くした。この世はすべて金。そう考えていた俺にとって新鮮な回答だったのだ。
「どうしてですか?」
「え」
「お金に困れば想像以上に生活は苦労しますし、良い給料なら幸せだと思いませんか?」
「へへっ、お金って大事だけど、もっと大事なものがあるじゃない」
「お金より大事なもの?」
検討がつかなかった。金より大事なものなんてあるだろうか? 健康や命というありきたりな答えだろうか? だが金が無ければ喰うことも治療することも不可能。やはり金は何より大事だろう。すると彼女は俺の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、あの世に、お金を持っていくことはできないでしょう?」
「え? あ、はい。確かに」
「私はね、お金より感動がほしいの」
「感動?」
予想外の答えに瞠目した。
「死んだおばあちゃんが教えてくれたの。あの世に持っていけるものは愛と感動だよって。そしてこの世に残せるものも愛と感動。だから私は大好きな事で人に感動を残してみたいの。もし誰かが私の作った服を喜んでくれたら、私は人の役に立てた喜びと感動を心に得ることができる。お互い幸せになれるのよ。それってすごい事だと思わない? お金より感動のほうが満たされるの」
「なるほど、感動ですか」
「小学生のころ、私ずっと自分が嫌いだった。自信がなくてさ。でもある日、ショーウィンドウのあった洋服に見惚れて試着してみたの。そしたら別人になれたようで、どんどん自分を好きになれた。服って不思議な力があるのよ! まず自分を好きになって、そして他人を好きになって、世界が好きになる。あの時貰った感動を私も届けたい。そう思ったの」
——自分を好きになって、他人を好きになって、世界が好きになる。そう言って笑う彼女が眩しくて俺は寸刻の間、呆然としてしまった。
「あれ、わたし何かおかしなこと言った?」
「いや全然そんなことないです! むしろ小学生からそんな風に考えていたなんて、すごいですね」
「そんなことないよ。それより進くんは?」
「え?」
「将来の夢とかないの?」
「俺ですか? ああ、俺は特にやりたいことはないです。はい」
ははっ、と苦笑した。どこか収まりの悪い返答がカッコ悪かった。ただ金持ちになりたいという夢では、そんな話を聞かされた後で、とても言える気がしなかった。
「そっか。特にないのも羨ましい!」
「え? いや全然そんなことないですよ! 俺のほうがめちゃくちゃ羨ましいです」
「そうかな? わたし最近気付いたんだよね」
「何を、ですか?」
「辛いのは求める心があるからなんだって」
彼女は悲しそうな目で、でも口は無理に笑っているような表情だった。
「求める心……ですか?」
「期待した分、自分の思い通りにならなかったら、その分苦しい。悲しみとは求める心から生まれると気付いたの。だから最初から夢なんか見なきゃよかった。なんて、へへ」
彼女の憂う顔に胸がチクリと痛くなった。他人なんかどうでも良かったはずなのに、何故かこの時の俺は彼女に笑って欲しくてこう言った。
「そんなに両親の意見が大事ですか?」
「え?」
「あ、いや……俺なら父親に反対されても、やりたいことがあれば別に承諾を得ようとしないので」
「承諾を得ようとしないの?」
「はい。俺の人生は、俺の人生ですし」
そういうと彼女は目を丸くしていた。軽率だっただろうか。俺は、しまったと思い、言い訳するように話を続けた。
「いや、というか、俺の親は恥ずかしながら白石さんのお父さんのように子どもを心配するような立派な親じゃないので。でも親もそうやって自分の好きな道を選んで生きてきたわけですから、人に迷惑をかけることがなければ良いのではないかと思った次第です。すみません」
「進くん!」
「えっ!」彼女は突然、爛々たる瞳を向けて俺の両手を握りしめてきた。
「進くんの言う通りだわ。そうよね! 私の人生だもの!」
「は、はい」
手、手を離してください! と言いたかったが、どう言えば傷つかないか考えている内にあっさりその手は離れてしまった。あ……
「私、きっとお父さんに認めてもらうことに拘っていたのね。嬉しかったの。昔、お母さんのワンピースを着た時お父さんが「その服、こころが晴れるよ」って言ってくれたの。デザイナーを目指したのも、そのお父さんの一言がきっかけだったから。だから自慢の娘になろうって思ってた。お父さんが望んでいたことは違ったみたいだけど」
「白石さんは優しいですね」
「そうかな、優しいのは進くんだよ、ありがとう」
「えっ、いやそんな大袈裟な! 俺は何も」
「そんなことないよ。人の優しさはね、ずっと心に残るものよ」
その瞬間とてつもない風が心に吹いた。
まるで電流が全身を駆け巡るような感覚に襲われ息が止まった。次第に心拍数が異常なまであがり。熱くて、もどかしくて、それを彼女に悟られまいと俺は顔を伏せた。
——人の優しさは心に残る。
むしろ自分を優しいと言ってくれた彼女の優しさが心に残るようだった。
※
仕事の帰り道、俺は薄暗い公園を歩いていた。
誰もいないその場所は普段、古い遊具が不気味に見える。だが何故か今日は月明かりの道が綺麗に見えた。きっと彼女との会話を何度も思い出していたからだろう。俺は彼女から初めてもらったチョコレートを見てずっとにやけていた。
帰り際、店長に浮かれた顔だと言われたが、そんなに浮かれている顔だっただろうか。まぁ店長がそう言うのなら浮かれていたかもしれない。ずっと彼女の顔が頭から離れない。店長の洞察力が鋭いのか、ただ自分が単純なのか、とにかく今後は気をつけなければならないと思った。
すると外灯の下で突然、眼前に男の姿が見えた。
「おお、探したで」
その顔に俺は体から血の気が失せた。
父さんに金を貸している中島だ。
俺は顔が歪み、一歩下がると中島はじりじり追い詰めるように近寄ってきた。
「おい坊主、二十万、用意できたんやろな?」
「えっ」
瞠目した。まるで俺が当事者になっているその言い方に驚愕したのだ。
「親父の借金は息子の借金やからな」
それを聞いて俺は生きた感覚がしなくなり言葉を失った。
「おい、なんか言えや」中島は俺の胸グラを掴むとぎょろりとした目で凄んだ。
「は、はい」おどけながら応えると中島は「で、返事は」と凄む。全身に夥しい汗が流れ、俺は震えた声で応えた。
「あの、父さんに伝えましたが今は返せないと——」
「はぁ? 何寝ぼけたこと言うてんねん。必ず耳揃えて返せ言うたやろっ」
「お、俺に言われても——」
「言い訳すんなっボケ!」
鼓膜が破れるほどの声量に脳天を撃ち抜かれるかとおもった。誰か助けてと思ったが、何を期待したのだろう。これまで助けてくれる人なんてひとりもいなかったことを思い出す。
男の口からひどい酒の臭いがして、まさか酔った勢いで絡みにきたのだろうかと冷や汗をかいた。
「なんや、これ」男は俺の持っていた袋に気づくと、それを取り上げた。
「なんやチョコレートかいな。しょうもなっ」と言いながらあっさり袋を投げ捨てる。
俺は歯を食いしばるしかなかった。彼女からもらった初めてのチョコレート。俺にとっては大事なものだったのにと捨てられたチョレートから目をそらせなかった。
「なんや文句あんのか」
「い、いえ。ありません」
「こんなもん買う金があるんやったら、少しでも金払えや。お前は正夫の息子やろがっ。血の繋がった親子や。お前も返す義務があるんじゃボケ!」
中島は俺の首に手をかけた。ガハッとっ途端に息が苦しくなる。今にも絞殺されそうな勢いに青ざめる。笑みを浮かべた中島の顔は尋常じゃなかった。
「は、放してくださ——あっあっ……」
「黙れっ! 何回きてもお前の親父はおらん! もう限界なんやっ」
中島は力いっぱい腕を引き上げた。次第に足が地面につかなくなる。皮膚が張り詰め、もう息が続かなかった。
「だ、誰かっ」必死で抗う貧弱な俺の腕ではビクともしなかった。
「ええかっよく聞け。俺はなぁその金がないと殺されるかもしれんのや! せやから早よぉ返さんかったら、何するかホンマ分からんぞ!」
「か、返します。僕が——だから放し——」
俺は声を絞り出した。
「何?」
「かっ返しまっ——ガハッだから手をはなし」
そう聞いて中島はパッと手を離した。どさっと地面に倒れ込むと、俺はひどくむせた。
「ガハッ! ゲホゲホッ!」
「ほうかぁ息子のあんたが肩代わりしてくれるんかぁ。その言葉待っとったわ、あんた働いとるんやろな?」そう言って中島は俺の前にしゃがみ込むと髪を鷲掴みにした。
「ほな、お前を信じるわ。正夫と違ってまともに話しできるみたいやしな。せやけど、そう長くは待てへんで。とにかく少しでも早く返せや。ええな?」
「わ、わかりまし……た」
「一ヶ月待ったる。用意できたら電話せえ」
そういって中島は名刺を投げた。名刺には山口組、中島茂と書かれていた。
「これ、ついでに貰とくわ」そういって中島が手に持ったのは白石さんから貰ったチョコレートだった。
「金、返さんかったら、お前の大事なもん、どんどん奪たるさかい。覚悟しときや」と唾を吐き、ニタっと不気味に笑って踵を返した。
俺はしばらく動けなかった。何故、自分がこんな目に合わなければいけないのか、何故こんな家にうまれたのか怒りで震えがこみ上げてくる。全部、父さんのせいだ。全部、災害のせいだ。全部、全部……。
涙がとまらなかった。悔しくて、情けなくて。卒業しても何一つ変わらない。ただ弱者は強者にねじ伏せられるのみ。俺は拳を何度も地面に叩きつけると、どこにも打つけようのない怒りと悲しみに気が狂いそうだった。
翌朝、懊悩から一睡もできなかった。疼きだす鳩尾をぐっと抑えながら道明書店に向かった。父さんは居なかったが、話したところで一蹴されるのは目に見えていた。
だが金を返すと言ってしまった以上、どうにかしなければならない。犯罪に手を染めるほど度胸はない。なら逃げるしかない。だが金もないのにどこへいけるというのか。 金のない人間に逃げる場所はないと思った。
職場に着いてからも気持ちは重かった。
どうすれば金を用意できるのか、そればかり思案にくれる。深い嘆息を漏らしていると店長が心配そうに声をかけた。
「どうした進。具合でも悪いのか?」
「いえ、少し考え事を」
俺はまた努めて明るく返した。
こうなったら店長に金の相談をしてはどうだろうかと思ったが、失望され、蛇蝎のように嫌われるのが怖かった。それで仕事を失うはめになれば本末転倒だ。それに、ここの給料が上がったところで直ぐ借金が返済できるわけじゃない。あるとすれば給料の前借りくらいだ。となれば他で仕事を増やすしかない。寝る時間を削って働く。後はどこで働くかが問題だ。だが未成年だし選択肢はない。年齢を誤魔化すのは犯罪だから無理だし、それに、俺はここの仕事を続けたかった。
ひたすら答えの出ない難問に焦慮が駆られる。このままじゃダメだと焦燥感だけが張り詰めた。
すると突然店長が肩を叩いて言った。
「どうじゃ進、これから飯でも一緒に食わんか」
「えっ」
「なぁに、わしのおごりじゃ。歓迎会もまだしとらんかったしのぉ、嫌か?」
「い、いえ! 嬉しいです」慌てて首を振ると店長はにっこり笑った。
俺たちは駅前の居酒屋に入った。
狭い店内は多くのサラリーマンで賑わっている。こんな場所に足を踏み入れたのは初めてで御退けた。まるで都会にきた田舎もんみたいに口を開けて店内をじろじろと見渡し、いちばん奥のテーブル席に腰をおろした。
「未成年は酒飲めんからの、ソーダか烏龍茶、どちらがいい?」
「じゃぁソーダでお願いします」
「可愛いらしいのぉ」
ははっと僕は苦笑し渡されたメニューを広げた。店長は慣れた口調で店員を呼び次々に注文をはじめる。直ぐに焼酎とソーダがテーブルに運ばれてきた。
「乾杯じゃ」
「は、はい」
グラスがカチンとなる。俺は緊張しながらソーダを一口飲んだ。
「どうじゃ。こういう店で飲むものは何でもうまいじゃろう?」
「はい、そうですね」ジュースなんていつぶりだろうか。
「働くと自由に使える金も増える」
「は、はい」俺はぎこちなく頷くと目を逸らした。金と聞いて途端にソーダの味もしなくなる。
「ところでお前さん、どうすれば金が入ってくるのか、知りたいと思うか?」
「ぶっ!」
あまりに的を得た話題に、ついソーダを吹き出した。
「はははっ、そう驚くことでもなかろう」
「はい、すみません」動揺を隠すよう平然を装う。俺は仕事中、憂色を漂わせていたのではないかと危惧した。
どうすれば金が入るのか、もちろん知りたかった。
だが、ちょうど金のことで困っていました、なんて言えばどう思われるだろうか。とにかくここは慎重にいかなければならないと思った。
テーブルに刺身が運ばれてくると店長は焼酎片手に話を続けた。
「金はなぁ、どれほど人を喜ばせたのかで入る額も決まるのじゃ」
「どれほど人を喜ばせたか、ですか?」
「そうじゃ、じゃが金は手段であり目的にはならん。金が欲しいのなら自分ひとりのためよりも、誰かのために仕事を行う。その心を大切にせねばならん」
「自分ひとりのためよりも誰かのためですか?」
「うむ。家族や恋人でもいい、世の為なら尚いい。この世では人を想う心が富を引き寄せるのじゃ。金さえあれば幸せになれるわけではない。しかし心だけあれば金持ちになれるというわけでもない。人を想いやる強さがなければ金も運もすべてが消える」
顔が歪んだ。金さえあれば幸せになれると思っていたからだ。
「あの、お金があっても幸せになれないのですか?」
「むろん金で物欲を満たすことは可能じゃ。しかし、それは一瞬の快楽であって永遠の喜びではない。永遠の喜びとは自分の力で誰かを幸せにできたときじゃ。金はそのための道具にすぎん。一歩間違えれば人を不幸にすることもできるしの。金がありすぎて欲に呑まれ退化する人間もおる。傲慢になり愚かさを身につけては金があっても実に不幸なことじゃ。じゃからな自分だけが得するために金持ちを目指しても金は逃げる。しかし他人が喜ぶことに目を向ければ金は後からついてくる。それを忘れてはならんぞ」
「他人が喜ぶことに目を向ける……ですか」
今の俺には到底、無理だなと嘆息が漏れた。
「何も難しく考える必要はないぞ。人の喜びが真の喜びとなったと時、金も運もすべてがうまくまわりはじめる。じゃが、気をつけねばならんのは金に執着してはならんということじゃ」
「執着?」その言葉にドキっとした。まさに今の自分を言われているようで肩身が狭くなる。
「金、金とばかり考えてはダメじゃ。執着は人の喜びだけにとどめること。なぜなら金があるから豊かになるのではなく、誰かに喜んでもらいたいという豊かな心が金をうみだすからじゃ。この順序を決して忘れてはならん」
「それって逆じゃないですか? 金持ちだから豊かな気持ちになるのでは——」
「いや違う心が先じゃ。なぜならなぁ、心の思考が人生の境遇を創りだすからじゃ。もし幸せな金持ちになりたいのなら、己の心よりも他人の心を満たすことを楽しく考えるほうがいい」
「俺は他人の幸せを考えるよりも、自分のことでいっぱいになります……」
「基本、それでいいのじゃ。まず自分を喜ばせることが第一優先じゃからな」
「えっでも、いま自分より他人って」
「はっはっはっ! そうじゃ、ややこしいな。じゃが、これには順序がある。自分が幸せでなければ人を幸せにすることはできんのじゃ。自分が思い悩みエネルギーを他人からもらう側のままでは何も変わらん。自らが誰かにエネルギーを与えるのなら自分が相当なエネルギーを持っておらねばならん。だからこそ、まず自分を幸せにするのはとても重要じゃ。どうじゃ進、今、お前さんは幸せか?」
「あっ、えっと」
どう応えようか逡巡していると店長はポンっと肩を叩いた。
「すまんな、質問を変えよう。今の仕事は辛くないか?」
「はい、辛いどころか、むしろ仕事があって有難いです」
「わっははは! そうか、それなら良かった。じゃが、もし辛いことがあれば遠慮なくわしに言いなさい。出来る事なら力になりたい。わしはお前さんに幸せになってほしいでの」
——幸せになってほしい
その言葉に俺の胸はグッと熱くなった。
こんな風に言ってもらえたのは初めてだ。思わず「あ、ありがとうございます」と涙声になった。こんな事で泣くなんて内心、忸怩たるものがある。目頭がやけに熱くても必死で涙を堪えた。
もしかするとこの人なら内心を打ち明けても嫌な顔をされないかもしれない。これまで出会った大人と違って親身になってくれるかもしれない。僅かな期待に店長を一瞥すると目尻を下げて微笑む彼に安堵が生まれた。
「あの、店長……実は」
すると同時にガラっと居酒屋の扉が開いた。視線を向けるとその瞬間、俺は驚愕する。そこにはペイズリー柄のシャツにハンチング帽を被った中島が見えたからだ。俺は咄嗟に身を屈めた。
「どうした、進」
「いや、なんでもありません」
努めて明るく返したが動揺を悟られるのも時間の問題だと思った。
「あの店長、ちょっとトイレに」
咄嗟の判断で逃げようと思った。店長には大変申し訳ないが、もしここで中島が僕に気づいて大暴れすれば、それこそ店長に合わせる顔がないし、最悪は信用ならないと仕事を失うかもしれない。どうせ迷惑をかけるなら、俺が黙ってここを出るほうがまだマシだと思った。何故、よりによってこんなところに。だが次の瞬間、俺は拍子抜けした。
「あれ?」
ハンチング帽を取った男をよく見ると、それは中島ではなかったからだ。どうやら錯乱していたらしい。あの恐ろしい記憶がペイズリー柄のシャツとハンチング帽で彷彿し重ね見てしまったのだ。体から力が抜け、どっと胸を撫で下ろす。壁にもたれると安息のため息が漏れ、心配そうにこちらを見ている店長に慌てて姿勢を戻した。
「あの、すみません。やっぱり大丈夫です」
「どうも様子がおかしいな」
「えっ、いやぁ——」そう言いながら気まずそうにソーダを飲み、目を逸らす。説明を求めてくる店長の視線に、もう覚悟して話すべきなのでは、と冷や汗をかいた。
「体調が優れんのか?」
「い、いえ違います」
「ならどうしたのじゃ」
あ、はい。実は——と背筋を伸ばし、俺は意を決して、口を開いた。とくにかく店長には出来る限り心配と迷惑はかけたくない。
「家庭の事情で、その、もっとお金が必要になって、でも本屋の仕事は続けたいし、どうしようか悩んでいただけです。すみません」
「金に困っておるのじゃな」
「はい、でも、ご迷惑かけないようにします、ただ他にも仕事を増やそうと思うのですが、掛け持ちしても差し支えないでしょうか」
気まずい空気に俺は店長の顔を見る事ができなかった。
俺にお願いできることはこれくらいしかない。だが重い空気とは打って変わり店長は高らかに笑いだした。
「はっはっはっはっ! なんじゃお前さん、そんなことで悩んでおったのか?」
「え? は、はい、すみません」本当はもっと深刻な問題があるのだが、さすがにそれは言えず苦笑した。
「もちろん、支障などないわい。お前さんの人生じゃ、お前さんの好きにするがいい」
「あ、ありがとうございます」
「そういやぁ、わしの知り合いに人手が足りんと言っとる奴がおったなぁ。まだ決まっておらぬなら、どうじゃ? 訊いてやろうか?」
「ええっ、いいんですか」
思わずテーブルに身を乗りだした。紹介なら信用がある。すぐ仕事にありつけるかもしれない。
「ただし条件がある」
「条件……ですか?」
「早朝の仕事で確か時間は四時から午前八時までじゃ。本屋の仕事は九時からじゃから毎日相当慌ただしくなる。体調管理は絶対に怠らないこと。それが条件じゃ」
「はい、必ず守ります!」
「あと、金に困っているなら一ヶ月の研修後、前借りしてやってもいいぞ。今回だけ特別にな」
「ほ、本当ですか?」
思わず飛び上がった。それなら借金が早めに返済できるかもしれない。
店長は優しい人だ。こんな人が世の中に居るんだな、と思った。
土曜、早朝四時。
俺は早速、店長に紹介された職場にきていた。
狭い厨房には大きな鍋が5つ。グツグツとジャガイモやこんにゃくが煮立っている。
白い割烹着と帽子をかぶり除菌手袋とマスクをしながら次々に出来上がる惣菜をラップしていた。すると正面から割烹着を着た年配の女性がやってきて「おや、新人さんかい?」と俺に声をかけた。
「お、おはようございます。日下部です。よろしくお願いします」
「まぁ可愛い子が入ったわね、日高静枝です」
彼女は山田食品を創業した当時から働く六五歳の社員だった。ぽっちゃりした体格で周りから静さんと呼ばれて親しまれているみたいだ。
この厨房でいちばん仕事の早い人らしい。俺はお世話になるかもしれないと深々頭をさげた。
「静さん、あの子、道明さんの紹介で来たらしいわよ」
「へぇ〜あの道明さんかい?」
彼女は割烹着の紐を結びながら俺に視線を向けた。
「あの、はい。店長……じゃなくて道明さんからの紹介できました」
「まぁ、礼儀正しいのね。あなたも静さんでいいわ。こちらこそよろしくねぇ」
「は、はい」
店長の紹介で入った山田食品の従業員は全員で五人だった。
惣菜を作り、スーパーへ届けるのが毎日の業務だ。みんな自分より遥かに高齢で明るい女性ばかりだが婆ちゃんっ子だったから心地は良かった。俺の担当はジャガイモの皮むきだった。それから出来上がった惣菜にひたすら大きな機械でラップしていくのだが、これが意外と腕力がいる。見るのと、やってみるのとでは雲泥の差があるものだ。午前八時近くなると商品が並んだ大量のプラスチックケースをトラックに積み込み業務は終わる。俺はその足で颯爽と道明書店へ向かった。
書店の仕事は早朝のバイトより楽だった。立ち仕事と水仕事は結構体力がいる。書店は本を運ぶ以外はカウンターで座っていることが多い。これなら体調管理もできると思った。ただ早朝のバイトが増えたところで金はまだ足りない。生活費だっているし、今後に備えて貯金だって必要だ。だから俺は書店の仕事を終えると必ず繁華街へ出向いた。居酒屋、ラーメン屋、求人募集の張り紙がある店は全て飛び込んだ。
以前は接客業なんて無理だと足を向けなかったのに、金のためなら必死になる。そうやって金に執着して俺も自分の業績だけを気にする担任みたいな大人になるのだろうか、と危惧した。
それから仕事探しは難儀の連続だった。
時間的条件が合わずシフト制に対応できないと面接の時点で断られた。確かに夜の数時間だけ働きたいなんて都合のいいバイト、そうそうない。それに高卒に行ってないだけで面接すら受けられない店も多かった。
もう帰ろう。疲労で足が鈍い。俺は数日間探し回り、疲労困憊して公園のベンチに腰をかけた。まともに食っていないせいか頭が朦朧とする。これでは給料前に過労死しそうだ。だが家に帰る気が起こらなかった。父さんと会えば衝突するし何より顔が見たくない。どうせ中島の借金のことも期待するだけ無駄だと思った。
すると突然、後ろからガサっと音が聞こえた。
妙な音に振り向くとそこには誰もいなかった。きっと野良猫だろう。そう思ってふと目の前にあったステンレス製のゴミ箱を見ると、俺はヒッとなんとも言えない声がでた。明らかにこちらを見る人影が写っていたからだ。
ごくりと息を呑み周囲を見渡した。その公園には俺以外、誰もいない。だから、こちら見る人影は俺が狙いということになる。突然、生きた感覚がしなくなった。顔は不明瞭だが明らかにこちらの様子を伺っている。
——もしかして中島? 返済はまだ先なのに。嫌な予感が次々に浮かぶ。まさか、とんずらしないように見張っているのか? 逃げれば殺す。そんな知らない計画が進んでいるのか。俺は恐る恐る警戒しながらゆっくり立ち上がり振り返った。
しかしさっきまで見えていた人影は忽然と消えていた。
次の日、俺は山田食品でジャガイモの皮むきをしながら昨日の出来事を思い返していた。なぜ中島は顔を出さなかったのか。まさか見張りの人間を雇っているのか。とにかく下手な動きを見せれば殺されるかもしれない。「いてっ」気づくと鋭いピーラーの刃で手袋ごと身を削ってしまった。
「おやまぁ、大丈夫かい?」
隣にいた静枝さんがにっこりと話しかけてきた。
「あ、はい大丈夫です」
「危ないからね。慌てなくていいよ」
「はい」
「そういやぁ進ちゃんは彼女とかいるの?」
「え? まさか! い、いません彼女なんて」
ぎこちなく返すと聞き耳を立てていた他の従業員まで会話に加わった。
「こんな男前なのにねぇ。でも静さん、今時の子は、彼女がいても素直にいるなんて言いませんよ」
「まぁ、そうなのかい。じゃぁ好きな子がいたら教えてね。相談に乗ってあげるから」
「何言ってるのよ、静さん。相談言うても、私らと年齢違いすぎますって」
「あら、それもそうねぇ。あはははははっ」
ドッと笑いが響いた。俺はただひとり苦笑しているだけだった。
「進ちゃんごめんね、変なこと聞いて」
「い、いえ」
「そうだ、あの入り口にあるお惣菜みえる?」
「はい」
「あれね、スーパーから回収した賞味期限が切れたやつなの。でもまだまだ美味しく食べられるから、よかったら好きなだけ持って帰っていいのよ」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんよ。売り切りたいから賞味期限は予め短めにしてあるの。そんなに痛んでないから安心して。それに若いんだから、沢山食べてよ。かぼちゃの煮付けがね、けっこう美味しいの」
「ありがとうございます」
「それからお家のひとの分も持って帰ってあげて。お母さん、きっと喜ぶから」
——おかあさん?
にっこり笑う静枝さんに自分の母親はいないと到底言えなかった。
早朝の仕事を終えると俺は急ぎ足で書店へ向かった。
すると店の前にホウキを持った店長が俺を待ち構えていたので驚いた顔で声をかけた。
「おはようございます。あれ、どうかしたんですか?」
「うむ、実はな、お前さんに頼みたい仕事があるのじゃ」
「はい」
「まぁ大事な話しじゃから中に入って座って待ってなさい」
首を傾げながらも俺はエプロンをつけるとレジカウンターの裏側の部屋で鎮座し店長を待った。
一体、どんな仕事を任せられるのだろう。改まって頼む仕事だ、相当な仕事に違いない。だが店長が眼前に座ると渡されたものは一枚のメモ用紙だった。
咳払いをする店長を一瞥し俺はメモ用紙を見つめた。
——なんだ、これは。
率直にそれが感想だった。そこには「すべてうまくいきました。ありがとう」とだけ書かれていたからだ。歪む顔を必死で抑えた。
「これから毎日、お前さんにやってもらいたい仕事じゃ」
「え、毎日?」
俺は目を疑い、再びメモ用紙を見つめた。やはり「すべてうまくいきました。ありがとう」とだけしか書かれていない。もう首を捻る以外、できなかった。
「あの……これは、どういう——」
「その言葉を1日何度でも口に出して読んでもらいたいのじゃ」
「えっ?」
驚きのあまり、まともな返答ができなかった俺を許してほしい。だがまともな返答できないのも無理はないだろう。全く脈絡もない言葉。意図さえ読めないこのメモを突然言い渡され戸惑うのは当然だ。
ってか、ここ本屋だよな?
「意味分からんじゃろう?」
「あ、はい……すみません」分かるわけないですよ!と言葉を飲み込んだ。
「この言葉はな、お前さんの人生を好転させる言葉じゃ」
人生を好転させる言葉? いやいや、この本屋の仕事とどんな関係があるのか検討つかない。まさか、からかわれているのだろうか。
「いや、すまん、からかっているのではないぞ。めっちゃ本気じゃ。この言葉の意味はこの先、お前さんにとって重要になる。この本屋の仕事の中でもっとも成果を期待したい」
めっちゃっ、て言葉を使ったほうが気になるが、それより成果を期待している言葉を脳裏に反芻させた。一体、店長はどんな成果を期待しているのだろうと、一抹の不安が過ぎる。
「あの差し支えなければ、この仕事にどんな意味があるのか、どんな期待をされているのか教えてもらうことは可能でしょうか……」
「よかろう、では進、この世でもっとも恐ろしいものは何か知っておるかな?」
「この世でもっと恐ろしいものですか?」
「そうじゃ」
俺はぎこちなく応えた。
「えっと……死ぬことでしょうか?」
「惜しいな。答えは、不安じゃ」
「不安?」
店長はこくりと頷いた。
「そう不安じゃ。死ぬより死ぬかもしれないという不安のほうが、その時すでに恐ろしい時間を手にしておる。覚えておくといい。不安とは、あらゆる生命力を奪い、人生を破滅させるのに十分なエネルギーをもっておる」
「生命力を奪い、人生を破滅させるエネルギー……ですか?」
いや待て、この本屋の仕事と、どういう関係あるのか未だ分からない。
「この話は業務研修じゃ。まぁ気楽に聞きなさい」
「は、はい」とりあえず話を聞こうと僕は背筋を伸ばした。
「不安というのは、いちばん大切な自信を奪うやっかいなものじゃ。そして神経を狂わせ、命まで奪うことができる、言うなれば「思考の癌」じゃ」
思考の癌。初めて聞く言葉に俺は首を捻った。
「あの不安が命を奪うなんてこと、あり得るのでしょうか?」
「あり得る。こんな話がある。昔、アフリカ北部にあるサハラ砂漠の奥地で、旅をしておったひとりの青年がおった。青年の狙いは財宝を探しだし一獲千金を狙う事じゃった。旅の途中で相当腕のある占い師が近くに住んでいると聞きつけ、青年は占い師なら簡単に財宝のありかを探しだせるのではないかと考えたのじゃ。そして青年がその占い師の家を尋ねると、占い師はこう告げた。一年後の今日、命を絶つ運命じゃろう、とな。最初、青年は信じなかった。だが夜になると不安になってのぉ。風の音も家が軋む音もすべて自分の命を奪いにきたと思いよった。もう青年は一攫千金どころじゃなくなった。青年は身を守るため昼も夜も眠らず、また人も信用せず、悶々と過ごしたそうじゃ。じゃがな、とうとう心が病んでしまい、そんな毎日に耐えられなくなった青年は自ら首をつって死んでしもたのじゃ。ちょうど、予言通りの日にな」
「じ、自殺ですか?」
「そうじゃ。しかし、その占い師の正体はただの婆さんじゃった。特別な力も何もない。金貨に目が眩んだ嘘だったというわけじゃ」
「嘘? じゃぁなぜ——」
「運命なんて最初からなかったのじゃ。自らを死に追い込んだのは自分。青年が最後まで信じなければよかっただけのこと。それだけ不安とは破滅の思考をどんどん膨らませ、人から生命力さえ奪ってゆく」
「じゃぁ青年が死んだのは運命ではなく、自分で選んだ道ということですか?」
「その通りじゃ。運命は自分で切り開くことができる。誰に何をいわれようとも己を信じる強さがあれば、道はどこにでも創ることができるのじゃ。だから、不安という実態不確かなものに心を奪われ、人生を無駄にしてはならぬ。とはいえ不安は自然現象じゃ。誰もが身を案ずるために、そう簡単には切っても切り離せん。悲劇を作るのに不安はもっとも強力な力をもっておることを忘れないで欲しい。不安になっていると気づいたら、いち早く対処することが重要じゃ。このメモの言葉はな、不安を小さくする力がある。言葉には人類のほとんどが知らない偉大な力があるのじゃよ。私の元で働く以上、これをまず理解してほしい」
「なるほど。言葉に力があるんですね」
「言葉を絶対にあなどってはならん。言葉には暗示の感受性というものがある。何度も繰り返した言葉は潜在意識によって記憶され、知らずと、そのとおりの状態が動きだすのじゃ。良いことも、悪いこともな」
——潜在意識?
そういえば潜在意識って言葉の本がこの店にはよくある。聞いたことはあるがよく知らなかった。
「その潜在意識って何なのでしょうか?」
「潜在意識とは無意識のことじゃよ。人間の意識には潜在意識と顕在意識という2つの意識が存在する。潜在意識は深層意識と呼ばれ、自分で気づかぬところで言葉や思考習慣を蓄える。とっさに出る言葉もふいにでる行動も、この深層意識が表面化されたものじゃ。顕在意識は意識のこと。しかし、人は約九十パーセント潜在意識を使って生きておる。だからこそ普段、何を考えるのか、どんな言葉を使うのか、とても重要になるのじゃ」
普段から考えていたことが無意識に表面化する?
俺は眉をしかめた。そんなことあり得るのか。
「お前さんは、何かを考えながら飯をくったり電車にのり目的地にたどり着いたりしたことはないか?」
「はい、あります」
「数多く繰り返された動作は潜在意識によって記憶され、他のことに意識が向いていても無意識に行動を起こすことが出来る。また何度も繰り返された言葉が無意識のうちに潜在意識に記憶されると、勝手に言葉が頭のなかで反芻する。歌はとくに。さらに興味深いのは、潜在意識は自分では気づかぬところで同種のものを引き寄せる力があるということじゃ」
「同種のものを引き寄せる?」
「そうじゃ。こんな言葉がある。“思考と感情はあなたの運命そのもの。自分の心に刻み込んだものが外の世界に現れる。”とな。無意識に金の心配をしていれば金の無くなることばかり起こり、嫌なことを考えていれば、さらに嫌なことが起こる。会いたくない時に限って誰かに会うのも偶然ではない。それは波動により引き寄せておるのじゃ。とくに不安や心配という負の感情はとても強力な力があり、恐れていることが起きやすい。これも潜在意識の為せる技じゃ」
——まさか
僕もしそれが本当なら、これまでの出来事は自分で引き寄せたという事か? いや、そんなはずはない。これまで起きた自分の不幸は想像できなかったことだ。だいたいそんな力があるなら、とっくに科学で証明されているはずだろう? 言葉の力を人類のほとんどが知らないなんて、どこかおかしくないだろうか、と疑心に揺れた。
「おや、信じておらんな」
「えっいや、そういうわけでは!」
見透かされている。俺は思わず俯いた。
「まぁ無理もない話じゃ。じゃが、わしと職場で言葉を交わす以上知っておいて欲しかったのじゃ。この宇宙のあらゆる物質はなぁ、原子核の周りを電子が高速で振動しながら回転しておる。人の感情や言葉は波動という目には見えぬ力が存在するのは確かなのじゃ。重力、引力、という自然の力は科学的には計り知れない力をもっておる。言葉は直接的に潜在意識をコントロールでき、さらに発する言葉や思考によって全く質の違う脳内ホルモンが分泌される。これは、医学的にも証明されておることじゃ」
「脳内ホルモン?」
「ははっ。また新しい言葉がでたな。しかし、この話しはさらに重要じゃ。脳内ホルモンとは心身の情報を血中から全身に伝える物質のことでな。人は善い言葉や前向きな考えを持つとベータエンドルフィンというホルモンが脳内に分泌される。それは神経細胞を通じ血の巡りを良くして臓器を活性化させる働きがあるのじゃ。反対にネガティブな感情や言葉はたとえ相手に向けた言葉であっても、発した人間の中にノルアドレナリンというホルモンが分泌される。この物質は微量ながらも毒性があり過剰になれば血管を収縮させる働きがある。ストレスで胃に穴があく、という話は聞いたことはないか?」
「あ、あります」
「日頃どんな感情を持つかで体内に蓄積されるものは大きく変わる。波動とはそのような内側でおこっている見えないエネルギーが、体内を取り囲む気となって現れる。だから良い言葉は良い感情をうみだし健康になる、悪い言葉は悪い感情をうみ不健康になる。それだけじゃない、咄嗟の一言、生み出す行動、選択肢の多い人生では日頃の言葉やその言葉の意味が人生を大きく変える。だから言葉は日頃から慎重に選ばなければならん。と、言う事じゃ」
「なら店長が期待している成果というのは俺の日頃の感情……ですか?」
「その通り。お前さんが日頃、笑顔でいることがわしの望みじゃ。だからこそ日頃の言葉や思考の力を理解してもらいたい。お前さんの笑顔はお客様だけでなく周囲全てのひとを幸せにする。あまり来客のない店じゃが、どこぞで、お客様がお前さんを見ているか分からんじゃろう。だからこそ「言葉を意識してもらいたい」のじゃ。わしからのお願いじゃ」
「なるほど、それで」
この仕事が重要だと伝えた意図が僅かに見えてきた。確かに俺が普段、暗い顔をして街を歩いていては、店の評判が下がるかもしれないよな。
だけど……本当にそれだけなのだろうか?
俺は、ただ業務への向き合い方を言っているのではない気がした。言葉や意識がどれほど己を左右するか熟知し、働く人間として、人生を生きる者として、上っ面でなく人格者としてどこまで成長できるのか、試されているような気がしたのだ。
それによって起こる発言や行動、判断までもが最終的に仕事の成果に結びつく。でも、それならもっと簡単に説明できるはずだ。一体、真のニーズは何なのだろうか?
これは簡単なようで容易ではない。とういうか、俺に出来るのだろうか?
すると店長は最後にこう付け加えた。
「言葉ひとつで人生は変わる。信じるも信じないも、全てお前さんの自由じゃ。じゃが、心の態度を変えない限り人生は変わらんぞ」