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 午後九時、築五十年になる二階建てボロアパートの玄関で、俺は散乱している未開封の督促状を足で退けながら、カップラーメンを棚から取り出した。

 台所は洗濯物やゴミで足の踏み場がない状態だ。だから夕食はいつも自分の部屋で作っている。

 

 いつものようにカップに湯を注いでいると突然、玄関ドアを叩く音が聞こえた。


「誰だろう」


俺は床に散乱した督促状の山を足でどけながら慌てて玄関を開けた。

するとそこには背の低い中年男性が腕組みをしながら不機嫌そうに立っていた。


「おい坊主。今日は親父さん、帰っとるんんやろなぁ?」


 男は眼球をぎょろりと動かし睨みつけるように近づいた。


「い、いえ。父さんはまだ——帰っていません」


 この男は父さんに金を貸しているようで、いつも赤いペイズリー柄の派手なシャツにレザー調のハンチング帽を被ってやってくる。男は舌打ちをし、鬱陶しそうに頭を掻いていた。


「ったく、正夫のやつ今日もおらんのか。しゃぁない。ほな今日は家で待たせてもらうで」

「えっ! それは困ります」


俺は慌ててそう言った。帰宅するかも分からない父さんを一晩この男と一緒に待っているなんて耐えられなるはずがない。


「なんや坊主。わしに逆らうんか」

男はぎょろりと俺を睨んだ。


「そ、そんなつもりは……」

俺は恐縮し慌てて首を横に振った。


「ほな文句言うなや。帰ってほしかったらなぁ今すぐ金かえせ。わしも限界っちゅうもんがあんねん。おやっさんがわいの金を返せへんっちゅうなら、あんたに払ってもらわんとな。あんた息子やろ? 今いくら持っとんの」

「ぼ、僕は持ってません」

「嘘つくなボケっ!」


 声をあげる男に僕は畏縮した。鎮まりかえる空気の中、男はぎょろりとこちらを睨みながら、タバコに火をつけはじめる。そして意地が悪そうに、ふーっと俺の顔に煙を吹きかけた。


「ええか坊主。わしはなぁ、あんたの親っさんに二十万貸しとんねん。今直ぐその金返してもらわな、こっちも大変な目にあうんや。偉そうな口聞いたらタダじゃおかんで、クソったれ」

「す、すみません」


 男は煙草を玄関に投げ捨てると、それを猛威に踏みつけたていた。その姿はまるで狂態ともいえる。見ているだけで下腹部がひねられそうだ。


「まぁ、ええわ。正夫がおらんのやったらまた来週くるさかい、その代わり絶対っ二十万耳揃えて返せ言うとけ。ええな? 中島といえば分かる」

「は、はい」

「もし返さんかったら、お前のその首へし折るからなっ!」

「は、はい……」


 首をへし折る。その言葉に夥しい汗が背中に流れはじめる。男が「ほな」と吐き捨て鉄骨の玄関を降りていくと俺は急いでドアを閉めた。そこで初めて気づいたが、俺の鍵を閉める指は尋常でないほど震えていた。


 翌朝、父さんは沈痛な面持ちで遺影の前に座っていた。

 仏壇は質素な棚に線香と赤いガーベラが一本、供えられているだけだった。

 ガーベラは母さんの好きな花だった。俺は暫くして口を開いた。


「昨日、中島って男がきた」


 その名前に父さんの背が些少ながら揺れた。


「来週までに二十万返せって」


 だが父さんは不機嫌そうに舌打ちすると「そんな金はない。放っておけ」と返した。

 俺は顔が歪んだ。その無責任な態度に憤懣したからだ。


「放っておけるかよ。恫喝されたし、あのひと何するか分かんないよ」

「だから、どうした」


 まるで他人事だな。そうやっていつも解決しようとしない父さんの態度が俺は心底嫌いだった。

これまでもそうだ。俺がどんな苦労をしたのかも知らず、どんな思いで過ごしたかも知らず、無責任なことばかり言う人間だった。だいたい働こうともせず朝から酒なんか飲んで、どういうつもりだろう。

 俺はこれまで溜まった鬱憤を晴らしたくて抑えきれない感情をぶつけた。


「いい加減にしてよ」

「ああ?」

「返せないならちゃんと話し合うべきだろ? 大人なら責任ある行動取れよ」

「だまれっ!」

 父さんは、そう叫ぶと俺にビールを投げつけた。液体のこぼれた缶が足元に転がってくる。視線を父さんに戻すと血走った目で俺を睨んでいた。


どうしてわかってくれないのだろう。

憤懣と憐憫が俺の中を掻きまわす。

説明のつかない苛立ちと悔しさで頭がどうにかなりそうだった。


「もういいよ」


 そう言って俺は玄関を飛びだした。

 いつまで我慢すればいいのだろうか。

 とうか何故、俺はうまれたのだろうか。

  


 あの災害の日、母さんじゃなくて俺が死ねばよかったといつも思う。

 きっと父さんも同じことを思っているに違いない。


 俺は夜道を全速力で走った。走っても、走っても逃げられないこの世界はまるでラットレースのように思えた。どこまで走っても、最後はただ残酷な生活に戻されるだけ。俺は自暴自棄になってボロボロになるまで走ったが次第に息が切れ、気がつくと遊具もない小さな公園にたどり着いていた。


 顔をあげると眼前には小さな男の子を肩車している父親が見えた。胸がちくりと痛み出す。

 その後ろにはコンビニ袋をもった母親が嬉しそうに笑っていたのだ。

 

昔は俺もあんな家族だった。


その光景に俺は嗚咽した。




               ※



 二日後、俺は道明書店で本のラベル打ちをしていた。

 ハンドベラーを強く握りながら父さんのことを思い返していたせいで、うまくラベルを貼ることができなかった。


「どうした進。何かあったのか?」

 店長の声にハッと顔をあげた。振り返るとカウンターであぐらをかいた店長は心配そうにこちらを見ていた。


「い、いえ、別に何でもありません」


 俺は努めて明るく返した。


「そうか。じゃが、随分何か思い詰めているようじゃぞ。もし悩みがあるなら話すといい。人に話せば悲しみは半分に、楽しみは二倍になるんじゃ」

「はい、お気遣いありがとうございます」


 俺は目を逸らしながら心配かけまいと平然を装った。このままじゃだめだ。金や父さんのことで悩みながら仕事をしていては、せっかく掴んだ仕事を棒に振るかもしれない。気持ちを切り替えないと。

 すると店長はゆっくりこちらに近づき財布から一枚の写真を取りだした。


「どうじゃ。可愛いじゃろう?」


 写真には五、六歳くらいの男の子が写っていた。店長の膝に嬉しそうに座っている。微笑ましい二人に僕は破顔した。


「可愛いです。店長のお孫さんですか?」


 店長はにっこり頷いた。


「話すと悩みが半分になる。この言葉は、わしが悩んでいるとき孫がよぉく言ってくれた言葉なのじゃ」

「え、店長も悩んだりするんですか?」

「はっはっはっはっ! 当然じゃ。この世に悩みのない人間などおらんわ。隣の芝生は青く見える。じゃが、みんな何かしら悩みを抱え生きておるものじゃ」


 みんな何かしら悩みを抱え生きている? 新鮮だった。何故なら、こんな悩み苦しむ人間は自分くらいだと思っていたからだ。


「なぁ進、知っとるか? 悩み苦しみにはひとつ良いことがあるんじゃぞ」

「良いこと?」

「そうじゃ知りたいか?」

「はい」


 そんなものあるのだろうか? 俺は店長を真っ直ぐ見えると店長はこう言った。


「悩み苦しみはなぁ人生が良くなる展開の一歩なのじゃ」


——え? 


 俺は眉をしかめた。一体どういう意味だろうか。理解が追いついていなかった。


「えっと、悩み苦しみが……人生を良くするんですか?」

「そうじゃ」


店長は躊躇もなく頷いた。

俺は苦笑した。そんなはずはない、そう思ったからだ。だってこれまで、苦しいだけの人生だけで、冗談でも悩んで良かったと思ったことはなかった。


「人はなぁ進。悩むから成長するのじゃ。悩み苦しみが無ければ、自分がどうしたいのかさえ見えてこない。何かに感謝することも、自分を変えようともせんじゃろう。じゃが、悩みがあるからこそ立ち止まり、自分の人生をより良くしようと行動し始めるのじゃ。それは人生が良くなる展開の一歩ということじゃ」


「悩むから人は成長する?」


——何のために?


 正直、悩みは人生を良くするどころか人生を不幸にするものだ、という考えが拭えなかった。

 貧困、死別、いじめ、これまで経験したその全ては苦しい記憶にすぎず、そこに成長など一切ない。

ただ凋落していくだけではないのかと思っていた。


「店長はすごいですね。俺には、とてもそんな風には思えません。できれば悩みのない人生でありたいです」


 当たり障りのないように返したつもりだった。だが嘘でも、そうですねと返すべきだっただろうか。今更、店長の顔色を伺った。


「わぁっはっはっはっ! 普通はそう思うじゃろうな! おまえは素直でよろしい」


 だが意外にも店長の反応は肯定的なものだった。俺は店長の意図が読めず苦笑していた。


「じゃがなぁ、進。覚えておくといい」

「え?」

「苦労のない人生は喜びも感動もうまれんぞ」


 確かに言われてみればそうかもしれない。こんな当たり前のこと言われるまで気づかなかった。


「この世では、喜びと感動こそが人生を豊かにする。不幸や苦労こそなければ喜びや感動というものがどんなものかも分からんしの。辛い経験こそ真の幸福を教えてくれる貴重な経験なのじゃ」


 ——なるほど。


店長は部屋の間にある段差に腰をかけ、まぁ座りなさい、と言いながらお茶を入れ始めた。俺は言われた通りに腰をかけ、ただ耳を傾けた。手際良く葉を蒸らし茶瓶を持ち上げ湯呑みに注ぐと店長は話を続けた。


「進、人がいちばん幸せに感じる瞬間が何か知っておるかな?」

「えっ、いちばんですか?」

「そうじゃ」


 俺は暫くして応えた。


「ご、ご飯を食べている時でしょうか?」

「わっはっはっ! 確かに、それもあるな」

 店長は高笑いすると、熱いぞ、と湯のみを僕に差しだした。

「まぁ飲みなされ」

「はい、ありがとうございます」


 ぎこちなく湯呑みをすすると、その瞬間、茶の香りが鼻にすっと抜けてほっとした暖かさが胸中に広がった。こんな美味しいお茶を飲んだのは何年ぶりだろう。


「どうじゃ、うまいじゃろう」

「は、はい。 昔、婆ちゃんの家で飲んだお茶と同じだ。すごく美味しいです」

「玉露といってな、わしはこれに目がない。わしの若い頃は今のようにうまいもんが少なかったからのぉ」

「なんだか癒されますね」

「進、人がいちばん幸せを感じる瞬間はな「感謝」している時じゃよ」

「え、感謝ですか?」


 店長はこくりと頷いた。


「口にいれたものがうまいと感謝できるのも、食べることができない辛さを知るがゆえ気づけるもの。その辛い時間がなければ食事を口にした瞬間、感謝という心を知ることはできん。だから悩みというのは報われたとき最高の瞬間を与えてくれるものなのじゃ」


そうだったのか、と思う反面、俺はどこか納得できないでいた。悩みが最高の瞬間を与えてくれるなんて、これまで感じたことも聞いたことないからだ。


「まぁお前さんの年で、悩みや苦労に感謝するのは難しいかもしれぬ。しかしな、苦労があるからこそ人は感謝を知るということを忘れてはならんぞ。そして感謝の心が高まれば高まるほど幸福感は高まってゆくというわけじゃ」


——感謝の心が高まれば高まるほど、幸福感が高まっていく


 妙にその言葉が胸にひっかかった。

 確かに感謝すると幸福感を味わえるかもしれない。だが悩みや苦労が感謝になるとは天地がひっくり返っても思えない。だってそうだろう? 誰が不幸を喜ぶというのか。出来れば苦労のない人生を送りたい。

「ところで、おまえさんは、何か夢があるのかい?」

「えっ夢ですか?」


 突然の質問に喫驚し俺はぎこちなく頷いた。


 夢ならたくさんある。借金で苦しまないこと、金持ちになること、出来れば将来は会社の社長になってプール付きの邸宅に住みたい。毎日うまいもの食って、これまで自分を欺いた人間を見返してやりたい。そんな叶うはずがない夢ならいくらでもあった。

 だがそんなもの、ただの夢想にすぎない。所詮、金も学歴もない人間に夢など叶うはずがない、そう思っていた。


「おまえさん、いま夢など叶わん、と思たじゃろう」

「ぶっ!」


 思わず玉露を吹き出した。まさか心が読めるなんてことないよな? と思いながら恐る恐る店長に視線を向ける。だが店長は屈託のない笑顔をこちらに向けていた。


「はーっはっはっはっ! 面白いやつじゃなぁ!」

「す、すみません、汚してしまいました」

「気にするな。それより進、覚えておきなさい。夢とはなぁ叶えるためにあるのじゃぞ」

「叶えるため……ですか?」

「そうじゃ、心がそうなりたいと感じるものは人生の羅針盤が動いておる証拠なのじゃ」

「人生の羅針盤?」

「人生の羅針盤とはな、その道へ進むべき心の声のことじゃ。我々は、ちゃんと目的があってこの世に生まれてきておる。心にそう思い描くのは、その道へ進むように人生の地図が目的地をさしておる証拠じゃ」


 その堂々たる発言に俺は呆気に取られた。楽観的な人なのだろうか。まぁ俺もそう思えたらいいけど、そう簡単には……


「おや、信じておらんな?」

「い、いえ。そんなことは!」

「わっはっはっはっ! まぁよい。信じるか否かはお前さんの自由じゃ。しかしな、心の声に耳塞ぐといつまでも、お前さんに必要な経験を手にすることはできんぞ」

「俺に必要な経験ですか?」

「そうじゃ。お前さんに必要な学び、必要な感情、必要な経験。この人生において我々は経験せねばならんことを人それぞれが持ち備えておる。だから、夢があるならまずそれに向かって行動してみなされ。旅の途中で出会うべくして出会うものが必ず訪れるじゃろう」

「わかりました」なんて見えすいた嘘、バレてないだろうかとひやっとする。いくらそう言われても、この世の中、何をするにも金がいると思っていたからだ。夢を叶えられる人間は、元々金のあるやつか、よほど運のいい人間か、どちらにしろ、自分には関係ない話だろうと思えた。


「でも俺にはお金も才能もないので」


 そうして終話するのだと思っていたら店長はあっさり俺の言葉を覆した。


「あ、それはお前さんが作ったただの思い込みじゃ。忘れなさい」

「えっ?」

「お前さんの考えを否定するつもりは毛頭ないぞ。じゃが、どんな分野も成功に必要なのはな金でも才能でもないからの」

「じゃぁ、何が必要なんですか?」


「強い意志じゃ」


「……強い、意志?」

「ほれ、試しに外に出て太陽を見てごらんなさい」と言った。


 え、今? 何故?  と思いながらも俺は外に出た。一体、今の話と何の関係があるのだろうと首を捻りながらも太陽を見上げる。

 だけど、さんさんと太陽が輝いているだけで、何が言いたいのかさっぱり意図が掴めなかった。



「太陽の光はこんなにも明るいのに金などいらんじゃろう?」

「は、はぁ」

「それでも日中はずっと我々の道を照らしてくれている」

「は、はい」

「進、何時も善き見解を探すのじゃよ。そこに道がうまれる」

「善き見解?」

「そうじゃ。人生というものは物の見方次第で今を天国にも地獄にも変えられる。夢は叶わぬものと否定的に生き続けるのか、叶うものと肯定的に生き続けるのか、それはお前さんの見解次第じゃ。見解は唯一、自分自身が作り出せる。無いものに焦点をあてておると何も生まれん。それどころか不平不満、不幸がうまれるものじゃ。じゃが、あるものに目を向けることでチャンスに出会う。善き見解を見つける努力は人生をどんどん善き方向へ転換させる力があるのじゃ。お前さんは自ら作った否定的な見解に囚われておるようじゃ」

 俺は顔を歪めた。物の見方。そんな発想なかったからだ。ただ流れてくる感情のままに俺は見解を無意識に選んでいた。だから否定的な見解しか持ち合わせていない。というか肯定的な見解とはどんなものだろうか。全く分からなかった。


「無理もない。見解は自ずと見つけようとせねば出会えぬものじゃ。お前さんはすごいものを持っておる。善き見解を持たねば人生もったいない」

「俺そんなの持ってないですよ」

「もっておる。お前さんが持っておる素晴らしいもの、それは時間じゃ」

「え、時間?」


 からかわれているのだろうか、と思った。時間なんて誰でも持っているだろう。


「当たり前に思ってはならんぞ。ひとには与えられ時間が必ず決まっておる。どんな人間をも一日二十四時間しかない。時間とは命そのものじゃ。その命である時間は誰かに借りることも増やすこともできん。誰もが平等に与えられた有限なものじゃ。だから、今この瞬間、どんなことに命を削るのか。どんなことに時間を使うのか、とても重要になる。無いものに焦点を当てて苦しみに時間を使うのか、あるものに焦点をあて楽しいことに時間を使うのか、それはお前さんの自由じゃ。しかし物事を否定的に考え生きるのは実にもったいない。人生は楽しんだもの勝ちなのじゃ。お前さんなら残り1日しか命がないと言われたらどうする? 楽しく過ごしたいじゃろう?」

「そ、そりゃぁ勿論、楽しく過ごしたいです」

「ならば命という時間がどう楽しくなるのか「意地でも考える」のじゃ。それが見解を変える真なる意味じゃ。無いことに目を向けている時間は実に進歩がない。できない理由を並べている時間と労力があるのなら、どうすればできるのか、どうすれば楽しめるのか、そこに死ぬ物狂いで焦点をあてなされ。そして何事もやってみるのじゃ。例え失敗しても、やがてその経験は自信を創り、その自信がお前さんの偉大なる武器となるじゃろう。時間を無駄にするでないぞ」


 経験をつくり、自信がやがて自分の武器となる?

 俺はもう一度、太陽を見上げた。


 確かに太陽ひとつ感謝できる見解があれば、幸福感は増える。自ら善き見解を探し感謝できる心を育てれば人生は少し色づくのかもしれない。

 だけど、これまでの思考習慣を容易に変えられるだろうか? できることなら俺もそうしたけど怖さが勝つ。もし失敗したら自分はどうなるのか? 今よりもっと大変な目にあうかもしれないなんて不安が拭えない。だから善き見解を探しても悪い考えに軌道修正されるんだ。


「でも俺……失敗するのが怖いです」

「失敗とは実に素晴らしいことなのじゃぞ」

「えっ」


 俺は聞き間違えたのかと顔をあげた。失敗が素晴らしい? まさか。


「あの、すみません、今なんて——」

「失敗は実に素晴らしいこと、と言ったんじゃが?」

「ええっ、失敗が素晴らしいですか?」


 思わず声が大きくなってしまった。

 失敗は成功のもと、とは言うが、素晴らしいなんて言ってるひと初めて見たぞ。


「わっはっはっはっ! まぁそんなに驚くことはない。失敗とは視点を変えれば“最高の贈り物だとわかる。まぁお前さんの気持ちは分からん訳じゃない。じゃが、自ら挑戦し失敗を経験しながら見つけた答えは他人から教えてもらうより何倍もの価値がある。例え失敗したように見えても、そこに学びがあれば大成功なのじゃ。その失敗があったからこそ知らなかったものに出会い、大切なことに気づくことができるじゃろう。結局学びは失敗から得るのじゃよ」

「でも、それだと大変じゃないですか? もし失敗したら大損くらって金や時間を失うかもしれないし。それだけじゃありません。不幸になって取り返しがつかない人生になるかもしれません。そう思うと怖くて」


「我々人間は転ばない人生が大事なのではない。転んでも、転んでも、何度でも立ち上がる、その粘り強さが大事なのじゃ!失敗しても、それは伸びるチャンスじゃ。人より多く失敗した分、他人に見えないものが見えるようになる。そうやって失敗しながら経験した人生とは誰よりも多くのことを学び心が磨かれてゆくものじゃ。むろん、わざと失敗してやろうという根性ではいかんぞ。じゃが、誠の心で尽くした結果、失敗したのなら、そこには学ぶべき事があったということじゃ。いちばん恐れなければならぬことは失敗を恐れ、何もしないで人生を終えることじゃ」


 俺ははっとした。

 母さんも同じ事を言っていたからだ。だからあの災害の日、母さんは俺を連れて川に飛び込んだんだ。

後のニュースで災害の死者のほとんどは崩壊した家の下敷きになっていたそうだ。確かに何もしないで人生を終えるくらいなら、何かをして人生を終えるほうがいいかもしれない。ただ現実はそう簡単じゃないのもまた事実。


「まぁそんなに難しく考えるでない。とにかく失敗は悪いものじゃないのじゃ」


 そう言い終えると店長は本棚から一冊の本を取り眼前に差し出した。


「これをお前さんにやろう」

「えっこれは?」

「この本には、哲学がかかれておる」

「哲学?」聞きなれない言葉に俺は首を傾げた。

「哲学とは自分の人格を形成する“考え方”のことじゃ。人生とは迷いの連続じゃ。正しい道を踏み外さずに進むには、この先、生きる上でどんな思想をもつのか、どんな言葉を使うのか、日々の習慣がお前さんの人生を左右する」

「言葉や思想で僕の人生が左右されるんですか?」

「そうじゃ。お前さんの思想、言葉、そして反応すべてが人格という種によって創られ、人生に反映する。むろん、どんな哲学を持つかはお前さん次第じゃ。しかし考え方ひとつで人生に花を咲かせることも、腐らせることもできる。これがさっきの見解じゃ」


 見解。俺はごくりと息を呑むとその本を受け取った。


「よいか進。間違っても哲学はひとりひとり違うということを肝に免じなければならん。自分が正しいと思う考え方が必ずしも他人と同じとは限らんということじゃ。逆にいえば他人の価値観や社会の常識が必ずしも正しいとは限らんとも言える。この先、誰に何を言われようが、自分のなかで揺るぎない哲学を持つのじゃ。決して周りに流されることのない強い軸を心に創り、どんな境遇にも立ち向かえる武器として哲学を人生に活かすのじゃ」

「哲学を武器として人生に活かす……」

「知ることが力になる」


 そう言うと店長は店内奥のカウンターに戻っていった。


           

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