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「かあさんっ」
自分の叫び声で目を覚ました。瞼を開けると見慣れた天井が見える。自分の部屋だと気づくのにぼんやり時間がかかった。俺はゆっくり上体を起こすと荒くなった呼吸を整えた。皮がはりついたように喉が渇、背中にはびっしょり汗をかいていた。
「また、あの夢か」
あれから六年が経つというのに俺は未だ祖母の家で起きた災害を忘れることができなかった。
一夜にして母さんと婆ちゃんだけでなく町全体が失くしたからだ。
幸い救急隊員により心肺蘇生を受け一命を取り止めた。
だが自分だけが助かっても何ひとつ嬉しくなかった。
仕事で居なかった父さんは母さんの遺体を見るなりひどく取り乱していた。
以後、歩く屍のようになり会話も碌にしなくなった。
災害の翌年には家を手放した。
そして築五十年になる古さびた木造アパートへ引っ越したのだが
父さんは直ぐ会社を辞めた。
父さんは酒に溺れ、貯金が底をつくと、借金は膨れ上がったようで、冷蔵庫の中は空っぽ。
食に飢える生活は想像以上に過酷で、水道も電気も自由に使えなかった。
給食があるから通う中学はさらに地獄だった。
登校する朝はいつも死にたいと強く願い歯を食いしばる。
俺はイジメられていた。
下駄箱に着くと当然のように鞄から上靴を取り出す。持ち帰らないと便器に投げ込まれるからだ。
それならまだしも、以前、履けないほどナイフで切り刻まれていたことがあり金がかかって仕方なかった。
「おい日下部。お前のようなクズが俺の前を歩くな」
三年二組の教室へ入ろうとすると、背後に立っていたクラスメイトの猪田毅が声をあげた。
逆らえば集団リンチだ。弱者は強者に勝てない。俺は小さく震える背中をそっと壁に寄せ道を開けた。
中一から始まったイジメは何気ない一言で始まった。
クラスメイトからサッカー部に誘われ「ごめん」と断っただけだ。
家に金がないので何も買え揃えることができないのが理由だった。まったく悪気はなかった。
だが恨みをかったのだろう。
そのクラスメイトは「あいつ気にいらねぇ」と猪田に告げ口をした。
それからだ。上履きがなくなり、机は落書きだらけになった。最初は気丈に振る舞っていたが、日を追うごとに嫌がらせはエスカレートし、誰も俺と口を聞かなくなった。
ぎょろりと睨む猪田を横目に拳を握る。我慢すれば全て終わる。そう願って。
だが猪田は横柄な態度で教室に入ると、突然、俺に向かって椅子を蹴り上げた。
咄嗟に椅子をかわしたが大きな音のせいで周囲の視線を逃れることはできなかった。この視線もまた俺の精神を破壊するのに十分な力があった。
「んだコラ、かわしてんじゃねぇぞ、こらぁ!」
そう叫んだ猪田は俺の腹部を蹴り飛ばし、勢いよくドカっと倒れ込んだ。
周囲の者は同情するどころか見なかった振りをする。
人間は誰かひとりを排斥することで絆を深めるというが全くその通りだった。俺は彼らにとって丁度いい的に過ぎなかった。猪田の視線を掻い潜れるし、自分に矢が飛んでは困るから犠牲が必要なのだろう。
だが生きる価値もない人間。そう言われているようで、早くこの世から消えてしまいたかった。
でもそんな時、いつも母さんの言葉が脳裡をよぎった。
“とにかく生きることだけ考えるの。どんなに今が悲しくても生きていれば必ず笑える日がくる”
“本当よ。母さんはね、あなたにいつか見つけてほしいものがあるの”
一体、何を見つけて欲しかったのか分からない。
だが僕は母さんの犠牲の上で生きている。だから……
簡単にこの世から消えるなど出来なかった。
※
放課後、教室を出ようとする担任の先生が引き止めた。
おそらく進路相談についてだろう。親も同席しなかった俺の相談会は「進学しない」というたった一言で終わったからだ。
「なぁ日下部。本当に高校いかないつもりか? 絶対苦労するぞ。今ならまだ間に合う。少し話さないか?」
苦労しないために働くんだ、と言いたかったが、俺は「もう決めたことなので」と小さく返した。
「しかしだなぁ、君の将来が心配だ」
顔に痙攣が走り、俺は担任を見た。
その見え透いた嘘に贓物を吐き出しそうだった。バレていないと思っているのだろうか?
担任はいつも猪田の暴力を見て見ぬ振りをしていたのだ。
俺は子どもながらに悟った。
誰も助けてくれない。みんな、まず自分を守るからだ。
先生だけじゃない。他に助けを求めても、保護者と話し合ったから大丈夫。それだけで終わる世の中だ。
俺はもう、自分を良く見せようと必死になる大人を見たくなかった。
「すみません、急ぐので」
俺は逃げるように教室をでた。
高校は通信制もある。十五歳からであれば年齢に関係なく高校資格を取得できるらしい。
だから働きながら、という事も考えたが……
——怖いんだ。
人の視線が怖い。疎外感に押し潰されそうだからだ。
また陰口を言われていると考えてしまう。
心がどうしても拒絶する。
もう学校という組織に耐えられない。
この世界は腐ってる。
校門を出ると俺は真っ直ぐ公園に向かった。
父さんの顔を見たくないから直ぐ家に帰るの憂鬱で、俺はいつも公園でやりすごしていた。
ベンチも水もあるし、何より人気がない。
教科書を開いていれば補導員が来ても塾帰りだと言い訳もできるから、俺はいつも奥張った茂みに隠れていた。
だが今日は足止めを食らった。
前方から猪田とその仲間の姿が目に飛び込んだからだ。さっと血の気が引いた。
咄嗟に手前にある細い道に身を隠すしかなかった。
ここで見つかっては血祭りにされるのは一目瞭然だからだ。こそこそ逃げ隠れしなければならない人生に辟易する。だが立ち向かう勇気もない俺は自嘲する他なかった。
俺はそのまま、その細い道を抜けようと歩きだした。人がひとり、やっと通れるほどの狭い道だ。薄気味悪くて、こんな場所から本当に抜けられるのだろうかと不安になりながら足を進めると、道を抜けた先の光景に瞠目した。
まさに眺望絶佳とはこのことだろう。
古い家々がたち並ぶ高台からは、何とも美しい夕焼けが新興住宅地をオレンジ色に照らしていた。
ふと左に視線を向けると、眼前にはひっそり佇む小さな店がみえる。手前には酷く錆びついた青い看板が風にキコキコと揺らされ、入口前には古いワゴンの中に、日焼けした文庫本がたくさん積まれてあった。
——古本屋?
俺は首を傾げながらゆっくり店に近づいた。
そしてワゴンにあった張り紙に思わず足を止めた。
——出張買い取りしています・求人募集中・年齢学歴不問
求人募集中?
ハッとして周囲を見渡した。この辺りは門前雀羅だ。ひっそり働くには条件がいい。
だけど、こんな場所で本当に営業しているのだろうか?
俺はこっそり店内を覗き込んだ。
目先には年季の入った柱が見える。約十五畳くらいだろうか。古い本が天井までぎっしり陳列され、脇には本が無造作にいくつも積まれてあった。
よく見ると漫画や雑誌はないようだ。
それより読んだこともない難しそうな本ばかりが、ずらりと並んでいた。
書架の向こうには小さなカウンターがあり、そこでひとりの爺さんが居眠りをしていたのが見えた。
バイトを雇うほど繁盛しているのか? と思いながらも、人気がないほうがもいいかと気を取り直して俺は再び張り紙に視線を戻した。
すると——
「いらっしゃい」
「えっ」
振り向くとあの居眠りをしていたはず爺さんがいつの間にか入り口の前に立っていたのだ。
——な、なんだ、このひと
「す、すみません」
喫驚した俺は咄嗟に頭を下げると逃げるように踵を返した。
「待ちなさい」
「え」
恐る恐る振り返ると爺さんは俺に向かって微笑んだ。
「卒業したら面接においで、ずっと待っておるからの」
——えっ
驚きのあまり卒倒しそうになった。一言も働きたいなんて言ってないのに何故分かったのだろうか?
というか、よく見ると爺さんはうつらうつらしていた。まさか寝ぼけているのか?
「あ、え、その……はい、ありがとうございます」
俺は軽い会釈をすると逃げるように背中を向けた。