プロローグ
七月二十五日、それは過去最高といわれる記録的な豪雨だった。南鳥島近海で発生した台風十八号は非常に強い勢力のまま関西に上陸。午前0時を回ってから避難警告が発令された。
それが僕、日下部進、九歳の誕生日の始まりだった。
その夜、何かいつもと違う空気に僕はハッと目を覚ました。隣にいたはずの母はいない。築八十年にもなる祖母の家は少し傾いていて、ぎぃぎぃと柱のきしむ音、バババっと機関銃のように激しく雨が窓を打ち付ける音だけ残っていた。
こうして毎年夏休みになると僕は母の故郷である河森町にくる。祖父の墓参りをするためだ。山林に囲まれた小さな田舎は近隣が遠く、ほとんど人がいない。電波も悪いので仕事がある父は今回一緒にくることが出来なかった。
僕は直ぐ台風が上陸したのだと気づいた。家を揺らされているようで畏縮する。母さんを探そうと毛布に包まり立ち上がった。
「おかあさん、婆ちゃんのいる一階かな?」
すると突然バンッ!と目の前の襖が開いて僕は驚愕した。勢い余って尻餅をついた。さらに見上げると全身水浸しの女性が立っている。ヒッと肩を竦めると聞き慣れた声が耳に響いた。
「進、急いで!」
「え、おかあさん?」
頭についたワカメみたいな物体を取る女性は僕の母さんだった。だがいつもの穏やかな母さんとは違う。血相を変え、こちらに駆けつけると眉間に皺を寄せて濡れたオレンジ色のライフジャケットを僕の腕に通した。「わっ!」あまりの冷たさにギョッとする。水浸しのライフジャケットをパジャマの上から着るなんて、どうかしていると思ったのだ。
「時間がないの。いいから早く」
その言葉に僕は首を傾げた。逼迫した母さんの様相。一体、何が起こっているのだろうかと目を泳がせる。すると母さんの手が小刻みに震えているのがわかった。
「ど、どうしたの?」
「……ダムが決壊したのよ」
「えっ?」
決壊? その意味は幼い僕にも分かった。何がどうなるか分からないけど、とても悪いことだ。嫌な予感が疾風のように横切った。
するとガタンと大きく家が傾きはじめた。はっとした母さんは天井を見上げると険しい顔で僕の腕を引いた。
「進、窓からロープをつたって降りるわよ!」
「ええっ」
青天の霹靂が耳を殴る。窓から飛び降りるなんて自殺行為だと思った。だから僕は必死で首を横に振った。だが母さんはそんな僕の意思を尊重する気はないと言うように、僕の体にロープを括り付けた。「そんな」と言った直後、母さんの目線の先を追った。その瞬間、空いた口が塞がらなかった。窓の外は木や家が次々になぎ倒されていたからだ。それだけじゃない。川の水は氾濫し二、三メートル水深していた。
暗黒に満ちた異世界だ。こんな光景は初めてだ。
「なんだ、これ」
「進、落ち着いて、大丈夫。うまくいくから」
「やっぱ飛び込むの?」
こくりと頷く母さんに絶句した。恐る恐る氾濫した光景を凝視する。暗くてよく見えないが残骸が滝のように流れていたので、思わず唾を呑み込んだ。
「進、向こう岸まで渡れば避難所にたどり着く。とにかく母さんに掴まって、絶対に離れないで」
「む、無茶だよ! ここ二階だよ? 危ないよ」
「ここに居たほうが危ない」
「助けを待とうよ、ね?」
「ダメ、この数分が命とりになる」
「おばあちゃんは? 一緒に行かなくちゃ」
「それはあとで話す、いいから早く、言うことを聞いて」
そう言うと母さんは急いでロープを柱に括りつけ窓から身を乗りだした。
僕の膝は尋常でないほど震えだし思うように動けなかった。
「さぁ、手をとって」と手を伸ばす母さんに僕は首を横に振った。
「む、無理だ。絶対に無理だよ。僕は嫌だ」
「大丈夫、信じて、時間がないわ」
逼迫した空気。一刻を争う事態だということは分かっていた。だが昔から怯懦な性格の僕に順応力はない。だが母さんは強引に僕の手を取った。
「わぁ!」
僕は泣きながらも母さんの背中に捕まり下に降りた。水は約二メートル冠水していた。体が水に浸かった瞬間、肺まで凍るほどの冷たさだった。残骸がいたるところに浮いている。それが肌に張り付く度、ヒャッと悲鳴を上げた。
「こ、怖いよぉ、流されちゃうよ、お母さん!」
「大丈夫。あなたを絶対に離さないわ」
母さんは僕を背負い自分の体に括り付けているロープの強度を何度も確認していた。運動神経が良い母さんは流されながらも間違いのない方向へ進み、着実に避難所へと向かっていた。ロープの長さが足りなくなると予め用意してあるロープを再び木に括り付け先へ進む、というのを繰り返し少しずつ前に進む。次第に凄まじい濁流の場所から離れ、煽られながらも高い山を目前にする場所まで辿り着いた。とはいえ、まだ数十メートル先だ。眼前には危険な残骸が容赦なく流れている。余りに大きな残骸が流れるので僕たちはゴール直前という所で身動きが取れなくなってしまった。
「ねぇやっぱり家に戻ろうよ。こんなところ渡るなんて、どう考えても危ないよ」
「家にいるほうがもっと危ないの」
「でも、このままじゃ流されちゃうよ? 屋根に登れば誰かが助けにきてくれるかもしれない。今からでも遅くないよ。家に戻ろう。ねぇ、ねぇてばっ、おかあさん」
僕は泣きじゃくりながら母さんの肩を揺らした。
「落ち着いて、動くと危ない」
「こんな状況で落ち着いてなんかいられないよ! それにお婆ちゃんだはどうしたのさ! 早く助けにいけないと!」
「お願いだから黙って」
「黙っていられないよ! 婆ちゃんに会いたい! 早く戻ろうよぉ、わぁぁぁん」
僕は大声で泣き叫んだ。もう限界だったのだろう。だけど母さんは体に巻きつけたロープを慎重に緩め背中にいた僕を向かい合わせにして、ぎゅっと優しく抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫」そう言いながら頭を撫でてもらう。少し安心し僕は泣き止んだ。
「聞いて、進。おばあちゃんは……もういないの」
「えっ」
「だから戻らなくていい。最後、おばあちゃんも同じことを言ったわ。でも、いつまでもそこにしがみついちゃいけない。だって自分の生きる道をつくるのは自分しかいないのよ? 誰かが助けてくれるなんて期待しちゃいけない。まず出来ることがあるなら行動しなくちゃ。自分のことは自分で守らないといけないの」
「おばあちゃんがいないって……最後ってまさか——」
母さんはさらに強く僕を抱きしめた。
「絶対に乗り越えられる。どんな不幸もそれを乗り越えられる強さが私たちには備わっている。どんな時も自分を信じて幸せになるためなら自分の弱さに負けちゃいけない。今は耐えるのよ」
「そんな、おばあちゃんが……おばぁちゃぁぁぁん」
「大丈夫、とにかく生きることだけ考えるの。どんなに今が悲しくても生きていれば必ず笑える日がくる、母さんを信じて」
「……ほんとに?」
「本当よ、それに母さんはね、あなたにいつか見つけてほしいものがあるの」
「見つけて欲しいものって?」
「うん、それは——」
その時だった。
何か大きな物体が勢いよく向かってくるのが見えた。母さんは咄嗟に僕を庇うように抱きしめた。たちまちドッと大きな衝撃が走る。僅か抱きしめる母さんの腕がぎゅっと強くなった。
「……今の何?」
顔をあげると突然母さんの体がダラリと水に沈み込んだ。
「おかあさんっ!」咄嗟に母さんの服を掴んだ。しかし瞬く間に水が押し寄せあっという間に僕たちは流されてしまった。
「お母さん、お母さんっ起きて」
いくら叫んでも母さんはピクリとも動かなかった。それより括り付けていたはずのロープが外れ、ライフジャケットを着た僕の体だけが水面をクルクルとまわりだし、次第に掴んでいた母さんの服がねじれ始めた。
指先が恐ろしいほど圧迫された。耐えられない痛みが襲い僕はとうとう母さんの服を離してしまった。
「いやだ! お母さんっ! 待って! おかあさぁんっ おかぁさぁぁぁぁんっ」
流されてゆく母さんの姿。僕は声が枯れるほど叫び続けた。