第2話 少女はまだ少年を知らない2
夏休み、八月に入って数日が経ったある日。
午前中の強い陽射しの中で、バスの到着を待つ少年の白い夏服が、太陽光をはね返す。
ムッとした湿度を含んだ空気、うだるような暑さの中、やかましい蝉の合唱に迎えられ、少年の待つ停留所にようやくバスが入って来た。
低い排気音を出して、停車したバスの扉が開くと、ひやりとした空気と独特の匂いが吐き出された。
少年はステップに足をかけ、車内の空いている席に座る。
夏休み中は部活は週三回。
休みに入ってから三年の先輩たちは、殆ど部活に顔を出さなくなり、残った二年生と一年生もけっこう休みがちだ。
そんな中でこの少年だけは、部活を休むどころか、顧問の教師に頼みこんで活動日以外の日も美術室に通い詰めていた。
美術教師で顧問の島田も、半ば呆れながら、この取り憑かれたように絵を描き続ける少年につき合ってくれていた。
車内のよく効きすぎているくらいのエアコンに、ようやく汗が退きだした時、停車したバスの扉が軋んだ音を立てて、黒髪の少女が乗り込んできた。
あの子だ……。
たまに見かけるあの少女。
バレーボールを拾い集めた時に、お礼を言ってくれたあの子だった。
少女はスッと少年の横を通って、一番後ろの席に向かう。
何の匂いだろう。
甘い蜜柑のような匂い。
艶のある長い黒髪が残したその香りに、少年の意識は集中してしまう。
少女と少年は、時々こうして同じバスに乗り合わせることがあった。
制服で通っているその少女は陸上部の幅跳びの選手だった。
夏休みに入る前、窓から見えるグラウンドの奥で練習しているグループの中に、少女の姿を見かけた。
このところ見かけていなかったのは、恐らくインターハイに出払っていたからなのだろう。
少年の通う高校は陸上の強豪校で、聞いたところによると有名な監督がいるらしく、毎年優秀な選手が入学して活躍していた。
今年もインターハイ出場の垂れ幕が校舎にかかっていたのを、少年も目にしていた。
インターハイ、どうだったのかな。
少女がインターハイに出場したのかどうかも知らなかったが、少年は後ろの席に座る少女を気にしながら、そんなことを考えていたのだった。
夏休みが終わってすぐの始業式。
まだけだるげな生徒たちの注目を集めたのは、校長の微妙なカツラではなく、スラリと壇上に上がった黒髪の美少女だった。
夏休みに開催されたインターハイの表彰で壇上に呼ばれた美少女に、恐らく男子生徒の殆どはくぎ付けになったに違いない。
「時任ひかりさん」
「はい」
数名の生徒の並ぶ中、壇上で賞状を受け取ったその少女は、特別な光を放っていた。
大多数の男子生徒がそうであったように、普段伏し目がちなその少年も、しっかりと目を見開いて、その少女の一挙一動に目を奪われたのだった。
「時任ひかりさんか……」
今年最後のプールの授業を終えた少年のクラス。
そこまで得意でないクロールで、そこそこ水を飲んでしまった少年は、あの少女のことを思い浮かべながら、プールサイドで脚を投げ出してへたり込んでいた。
そこへいつもの坊主頭が、ひょっこりと顔を出す。
「なんだ誠ちゃん、だらしねえな」
「なんだ、勇磨か」
「なんだは無いだろ。しかし誠ちゃんは水泳だけはダメだな」
言われなくとも自覚はしている。泳ぎに関してはこの坊主頭の方がだいぶ上手かった。
「夏休み、俺が誘ったのにプールを断ったからだ。ちゃんと練習したら誠ちゃんなら泳げるようになるって」
「いや、そうかも知れないけどお前には教わらない。前に一緒にプールに行ったときのことがあるからな」
「は? なんだったっけ」
「忘れたとは言わせないぞ。俺がなかなか上手くならないから、途中でキレてただろ。市民プールで散々おまえに叱られて、どんだけ恥ずかしかったか」
「ハハハ。そうだったっけ。でもそれも愛のムチってやつだよ。気にすんな」
「これだよ……」
そうしてへたり込んでいる少年に、体育教師が声を掛けて来た。
「おい高木、それと新、おまえら何時までそうしてんだ。つぎ女子が入って来るからさっさと出てけ」
そして二人は慌てて更衣室へと向かったのだった。
着替え終わって髪もよく拭かないままプールから出ようとしたとき、ぞろぞろと女子の一団が入って来た。
まだ残っていた男子二人に女生徒たちは、ちょっと冷たい目を向ける。
わざとかどうか知らないが、先生が男子生徒が残っているのにも拘わらず女子を入れてしまったのだった。
勇磨は冷たい視線をジロリと睨み返し、誠司は顔を赤面させて下を向いた。
いそいそと誠司が女子の流れに逆らって出て行こうとすると……。
あの蜜柑みたいな匂いだ。
すれ違ったときにフワリと香ったあの匂い。
誠司は思わずその匂いの先を目で追っていた。
長い艶のある髪。柔らかそうな肌に涼し気で大きな目。形の整った鼻に、ピンク色の柔らかそうな唇。
その横顔を間近で見て、思わずまた目を奪われていた。
一瞬の白昼夢に足を止めた誠司の腕を勇磨が掴む。
「おい、誠ちゃん、早く行こうぜ」
「あ、ああ」
時任ひかりさん……。
心の中でその名を口にするたびに小さなさざ波が起こる。
その感覚の正体をこの時の少年は知らず、少女は少年の眼差しにすら気が付いていなかった。




