第1話 少女はまだ少年を知らない1
美術室で黙々と絵を描き続ける少年に、美術部顧問で担任教師である島田隆文は呆れたように声を掛けた。
「おまえ、いつまでやってんだ」
窓際でキャンバスに向かう少年は、一度手を止めて島田に会釈をした。
五月の連休明け、もうすぐ六時になろうとしているこの時刻でも、三階の窓から見える空はまだ明るかった。
遠方から通っている生徒の多いこの学校は、あまり遅くまで部活で残ることを推奨しておらず、今美術室に残って絵を描いているのは新入部員の少年一人だけだった。
島田は無造作に寝ぐせのついた頭をボリボリと掻いて、大きな欠伸を一つすると、少年の描くキャンバスを覗き込んだ。
「ふむ……」
腕を組んで描きかけのキャンバスを見つめる島田の目から眠たげな感じが消え、代わりに普段はあまり見られない集中力が顔を覗かせた。
キャンバスの中心には瑞々しい青い花が描かれていた。
「桔梗だな」
「はい」
あまり表情を変えず、少年はひと言そうこたえた。
その少年の肩を島田はポンとたたいてから、空いている席に腰を下ろした。
「まあがんばれ。俺ももう少し付き合うよ」
「すみません」
寡黙な少年は、またキャンバスに向かう。
美術教師は再び集中し始めた教え子の筆の動きに目を向けながら、胸ポケットの煙草に手を伸ばしかけた。
「おっと」
島田は小さく呟いて手を戻す。
マゼンタの光の射し込む教室で、少年の筆は彼の内にある世界を再び描き始めた。
高木誠司。それがこの寡黙な少年の名前だった。
体育の授業終わり、水道の蛇口から出る冷たい水をゴクゴクと飲んでいた少年は、後ろに人がいることにようやく気が付いた。
坊主頭の見慣れた顔。
中学時代からの友人がニヤついた顔をしてそこに立っていた。
「なんだよ誠ちゃん、給水機で飲めよ」
「給水機並んでただろ。こっちの方が早いんだ」
「そっか、そんじゃあ俺も」
そして坊主頭の少年も蛇口から直接ゴクゴクいき始めた。
新勇磨。この目つきのやや鋭い丸刈りの少年は、誠司と同じクラスの空手部の一年生。
やたらと声のでかいちょっと怖そうな少年と、伏し目がちで大人しい少年。一見するとお互いに合いそうな感じに見えないこともない二人だったが、大概何をするにも二人は行動を共にしていた。
どんだけ飲むんだというくらい水を腹に入れた勇磨と、誠司は教室に向かっていた。
「なあ、誠ちゃん、今度の日曜空いてるか?」
「えっと、日曜は駄目だな。演武大会があって駆り出されてるんだ」
「なんだそうか、じゃあ仕方ないな」
「なんだ? 大事な用か?」
「いや、妹の誕生日なんだ。夕方から誕生日会をするんだけど、千恵のやつ誠ちゃんに来て欲しいって言っててさ」
「そうか……」
誠司は少し考えたあと、勇磨の肩に手を置いた。
「大会が終わったらすぐ行くよ。ちょっと遅れるかもだけど必ず顔を出すから」
「ホントか? 悪いな。あいつも喜ぶよ」
勇磨は腕を伸ばして誠司と肩を組むと、喜びを大らかに表現した。
はばからない勇磨に、誠司はちょっと人目を気にして少し嫌そうにしている。
あまりベタベタするのは苦手なのだ。
二人が談笑しながら花壇のある中庭に差し掛かった時だった。
「なんだあれ?」
勇磨が指さした先に、バレーボールがたくさん転がっていた。
黄色と青のラインのボールが、体育館を出てすぐの通路を彩っていた。
誠司はその一つを手に取って、体育館の解放された入り口に目を向けた。
入り口を出て二段ある階段下で、ボール籠が見事に倒れていた。
何かの拍子で籠が外に出てしまってこうなったのは一目瞭然だった。
すぐに四人ほどの体操着を着た女子が顔色を変えて出てくると、籠を戻そうと頑張り始めた。
「しゃーない。手伝ってやるか」
勇磨が率先してウンウン言っている女子に手を貸そうと歩み寄った。
それから階段下で横倒しになっていた籠を、男子二人がかりで中に運び込み、あちこちに散らばっていたボールを回収するのを手伝った。
「すみません。ロックかけてなかったみたいで、そこに私がもたれかかっちゃって」
短髪の女生徒が、顔を真っ赤にしながら二人に謝って来た。
「まあ、気にすんなよ。袖すり合うも何とかってやつさ」
感謝されることに慣れていないみたいで、勇磨はちょっと照れながら残ったボールを拾い集める。
誠司はいつものようにやや伏し目がちに、散らばったボールを回収していった。
ようやく最後のボールを長い黒髪の少女に手渡した時、顔を上げた誠司の目に、今まで見たことのないような可憐な笑顔が飛び込んできた。
「本当にありがとうございました」
光に包まれた真っ白な一輪の花。
その笑顔の眩しい美しい少女をひと言で言い表すとしたら、少年はそうこたえただろう。
一瞬言葉を失った少年は、慌てて少女から視線を逸らせると、もごもごと良く分からないような口調で「どういたしまして」と言い、さっさとその場から退散した。
「ったく、あのショートカットのせいで休憩時間潰しちまったよ」
ぶつぶつ言いながら渡り廊下を歩く勇磨は、言葉とは正反対に上機嫌だった。女子にお礼を言われたことが余程嬉しかったと見える。
普段、ちょっと怖い人と警戒されているこの坊主頭は、実はこういった感じのイベントに飢えていたのだ。
キーンコーン……。
始業のベルが鳴った。
「やばいぞ誠ちゃん。走れ!」
駆けだした坊主頭の後ろを走る少年の頬は、さっきの少女に会ってからずっと薄っすらとピンク色に染まっていた。




