第8話 父子
熟練者の部の稽古を終えて皆が帰った後、袴を脱ごうとしていた誠司に父であり道場長の信一郎が声をかけた。
「誠司、久しぶりにちょっとやってみるか」
信一郎にそう言われて誠司は袴の紐を締め直す。
合気道は道着の股と呼ばれる部分、つまり脚の方の道着を指す言葉だがその上に有段者になれば袴を穿く。
信一郎が師範を務める誠真館では男性は初段から、女性は二級から袴を穿いて稽古をすることになっていた。
袴は合気道の足捌きを相手に読ませないために穿いているという説がその世界でよく言われているが、他にも色々説はあるらしい。
誠司は今二段だったが、稽古は五歳の頃から欠かさずやっており、その実力は段位で簡単に測れなかった。
「ほんと久しぶりだね」
「ああ、お前が手を怪我してからはやってなかったからな」
夏にあの事件で怪我して以降、稽古に復帰してからも誠司と二人で試技をやり合うことはこれまでなかった。
二月に入って誠司も進路を確定した今、信一郎は春になったら家を出て行く息子に少し感傷的になっていたのかもしれない。
そんな父の気持ちも誠司には分かっているようで、一度冷えかけた体をほぐし始めた。
先ほどまでの稽古で道着はもう相当な汗を吸っていたため、冷たい空気に晒されている間に冷たくなってきていたのだった。
「こうやって道場で稽古できるのもそんなにないしな」
信一郎も同じように体をほぐし始める。
父子はそこそこ温まったところで向かい合って、袴を捌きながら少し膝の間隔を空けて正座する。
「よろしくお願いします」
手を畳につけて礼をする。
その視線は相手を見たままだ。
信一郎はそのまま誠司に手刀で打ちかかった。
合気道特有の動きで座法と呼ばれるもので起座、つまり足の指を立てて正座することにより、座ったまま自在に移動を行うことが可能だった。
そうして移動することは膝行というふうに呼ばれている。
信一郎は座技と呼ばれる立ち技ではない動きで、誠司に打ち込んだのだった。
誠司はその手刀を間合いを詰めながら受けると、角度をずらして力を逸らしながら切り返す。
信一郎は誠司の切り返した腕の動きを綺麗に受けながら、低い体勢でさらに切り返す。
普段はあまりやらない返し技と言うものだった。
信一郎は誠司の腕を取って手首関節を極めに来たが、誠司も膝行で位置をずらし手首関節を逆に取りに行く。
その動きを読んで信一郎は間合いを取る。
普段から鍛え上げている二人は、座っている状態でも立っているときのようにスムーズに動き回っていた。
座法の攻防が続いた後二人は立ち上がった。
お互いにやや息が荒くなっている。
間合いを取って相手の出方を探る。
誠司が唐突に仕掛けた。
全くの予備動作もなく、信一郎の腹部に正拳をはしらせたのだった。
信一郎はそれを退がらずに前に出て捌く。
そして誠司の側面に入り、伸びきった腕に重心をかけ崩す。
そしてそのまま渦を巻くように反転すると切り返した。
誠司の肘関節が綺麗に極まっていた。
そしてそのまま腰を切って信一郎は投げ技に入る。
誠司の両足が宙を舞う。
肘関節を破壊されないように、弱い部分を支点に誠司は回転する。
綺麗な受け身を取って誠司は立ち上がった。
「やられたな」
投げられた誠司は笑顔を見せた。
「ふん、うまく力を逃がされたな」
信一郎は逆にやられたという顔つきだった。
「本当に綺麗な受けを取るな。感心するよ」
信一郎は誠司のまるで猫の様な身のこなしに舌を巻いた。
「手の方は何ともないか?」
信一郎は誠司の使えない右手には関節技を使っていなかった。
「うん。もう慣れてきたから平気だよ」
もともと合気道は柔道のように相手を掴みに行く動きのある技は少なく、どちらかといえば仕掛けた相手の力を利用しているものが多かった。
誠司が右手のハンデを超えて稽古できているのも、その辺りが大きかった。
「おまえは俺とタイプが違うな。先代とも違うし、なんか上手く言えないが独特だな」
信一郎は誠司と立ち会うと、いつもなんとなくやりにくかった。
攻め急ぐことはなく受け主体でもない。押せば引き、引けば押す。そう言った感覚に近かったが、まだ何かが違っていた。
「おまえ俺が何をするのか分かっているんじゃないのか?」
誠司はなんのことかと不思議そうな顔をする。
信一郎は息子の顔を見て何の自覚もないことを知ったが、余計に心配になった。
「素質か……しかしとんでもないやつだ」
恐らく誠司は合気道自身は嫌いではない筈だ、しかし争いごとを好まない大人しい性格の人間が、これほど強力な素質を持っているというのが信一郎にとって悩ましかった。
「寂しくなるね……」
誠司の言葉は父信一郎に向けられたもののようだが、恐らくこの誠真館の道場に対してもそんな気持ちを持っているのだろう。
「お前が言うなよ。俺の方がきついんだ」
信一郎は素直にそう口にすると、ニッと笑って見せた。
「まあ、気にするな。卒業したら帰ってこい。ひかりさんを連れてな」
「あ、うん。そうしたいな……」
照れながら誠司は袴の紐を解き始める。
そんな誠司を眺めながら、信一郎は少し楽しいことを思い浮かべるのだ。
いつかこの家で新しい家族が暮らし始める。
そんな楽し気な未来を描いているうちに、また信一郎の口元には笑みが浮かんできたのだった。




