第7話 運のいい男
下校時刻を過ぎ、職員室に戻って来た清水ゆきは、勇磨が持ち帰って来た問題用紙を机に置いてひと息ついていた。
入試の手ごたえを勇磨から聞いただけではどの程度できたのか分からなかったので、勇磨を放課後残らせてもう一度どう解答したのか問題を見ながら確認したのだった。
部活を終えて職員室に戻って来た島田が、お疲れ気味のゆきを労ってコーヒーを淹れて机に置いてやる。
「あ、すみません。頂きます」
「ご苦労様です。新、どうでした?」
「ええ、ざっとは答え合わせしました。あらかた終わりましたけど、あの子頑張ってましたよ」
「じゃあ、いけそうってことですか?」
島田は自分のコーヒーカップに口を付けた後、意外そうに尋ねた。
ゆきは同じようにカップに口をつけると、フーと一息ついてニコリと笑みを浮かべた。
「思った以上に出来てましたよ。まだ分かりませんけど、これならいけそうかもって私思ってるんです」
「そりゃよかった。あ、でも、あいつの試験結果が出るまで黙ってましょう。変に期待させてもいけませんから」
「そうですよね。島田先生の言うとおり。勿論私からはこれ以上言わないようにします。でもあの子たち、上手く三人で同じ大学に行けたらいいなあ」
「やるだけのことはやった。それでいいんですよ。もし上手くいって清水先生が新を大学に行かせたって教頭に知られたら、来年受験特別クラスを任されそうですね」
島田の言葉を冗談と受け止めて、ゆきは笑いながら首を横に振った。
「やめて下さいよ。今回はたまたま新任の私が特に仕事を任されてなかったので個人的に指導できただけですから。他の先生方の様に忙しかったら絶対できなかったと思います」
ゆきはかなり控えめだったが、島田はあの勇磨がもし大学を通ったとしたら、ゆきのことをただ者では無いなと感じていた。
「しかし、もし受かっていたとしたら新ってホントに運のいいやつだな。あいつこの先もこの強運で世の中渡っていけそうだな」
「まあ、志望校に受かればですけど。でも高木君たちみたいな友達に恵まれてるっていうだけで運がいい子なのかもしれませんね」
少し冗談交じりのゆきの言葉を、島田は真面目な顔で肯定した。
「そうですよ。よく考えたらあいつホントに運だけのやつかも。橘と付き合えたのも高木がいたからだし、あの焼肉のときだってあいつはかき回しただけなのに、高木のお陰でありついて滅茶苦茶食ってたし」
島田が勇磨のラッキー説を語ると、ゆきは少し目線を変えて、勇磨に関することを島田に語った。
「そう言えば新君、高木君に相談して大学受験を決めたって言ってました。それから高木君が放課後ずっと付き合ってくれていたらしいし、運がいいというよりも高木君にぶら下がってるって感じかも」
「そうですね。しかしあいつ大学に行ったらどうするつもりだろうな。高木はいないから困るだろうな」
腕を組みながら、島田は真面目にそう言った。
「そうですね。高木君を追いかけて美大を受けた方が良かったかも」
「ハハハ、清水先生も言いますね。でも橘を追いかけるより高木を追いかけた方が良かったんじゃないかって俺もちょっとは思いますよ」
二人っきりの職員室。島田はゆきと気の置けない生徒の話で笑い合えていることを嬉しく感じていた。
そして春になったらいなくなる生徒達に寂しさを募らせながらも、隣の席でこんなに華やかに笑ってくれる人がこれからもいてくれるのだと、感慨深げに見つめてしまうのだった。
楓は久しぶりに、勇磨と放課後に寄り道をしていた。
入試が終わったことで、やっと時間が出来た勇磨が楓を誘ったのだった。
二人はドーナツ店の飲食コーナーで向かい合って座り、なんだか話し辛そうにしている。
手元のコーヒーの入ったマグカップに口をつけ、勇磨は向かい合わせに座る楓の様子を窺う。
いざ誘ってはみたものの、こうして向かい合うと、何を話していいのかまるで浮かんでこない。
あまりのいたたまれなさに、勇磨はだだ苦いばかりのコーヒーを口に含む。
「久しぶりだよな。こういう感じ」
ようやく口から出た気の利かない言葉に、楓はありきたりの言葉で返す。
「うん。そうだね……」
会話が続かず、誠司とひかりも誘えばよかったと勇磨は後悔していた。
「あのさ、これ、返しとくよ……」
勇磨が取り出したのは、試験の日の朝、楓が手渡してくれたお守りだった。
「それ、良く効いたかも……結構手応えあったんだ」
「そう、良かった」
勇磨から戻ってきたお守りを、楓は掌に載せてじっと眺める。
「ん?」
楓が眉間に皺を寄せる。
険しい目つきでお守りを裏返した時、今度はハッとして目を大きく見開いた。
「あーっ!」
「な、なんだなんだ? 一体どうした?」
勇磨も何事かと覗き込む。
「いや、あの、ちょっと言いにくいんだけど……」
「え? なに? どうしたんだ?」
「いや、その、これなんだけど」
楓はお守りの裏を勇磨に見せた。
恋愛成就と書かれていた。
「何だそれ? 学業のやつじゃなかったのか?」
「みたいね。間違えちゃった」
「マジか? それって、なんも効かないやつだったってことか?」
「そうかも……」
二人はくすくす笑い出した。
「ホント頼むよ。どんだけズレてんだよ」
「いいじゃない。さっき効いたって言ってたじゃない」
「まあ、いいや。そっちの方も大事だしな」
勇磨の言葉に楓は少し紅くなる。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「え?」
「新がY大を受けたのは私の為なんだよね」
「それを聞くなよ……」
「でもちょっと嬉しかった……」
今日の楓はいつもより素直だった。
「ひょっとして、一緒にいないと私を誰かに取られるとか思ってる?」
「いや、そんな風に思ってないよ……」
勇磨は下を向いたまま、ボソボソと口を動かす。
「やっぱりちょっと思ってるかも……」
楓はそう言われてまた紅くなる。
「馬鹿……」
お互い下を向いてしばらく黙り込んでしまった。
「なあ橘」
「うん」
「俺、やるだけはやったけど、もし大学駄目だったとしてもまた会ってくれないか……」
「うん……」
「そうか、良かった……」
きっとずっとそんなことを考えていたのだろう。勇磨は楓がそうこたえてくれたので少しほっとしたみたいだ。
楓は自分の返事で安心した顔を見せた勇磨のことをじっと見つめる。
「何言ってんの、そんなの当たり前だよ……」
「そうか……でも、ありがとう」
ほんの少しだけ、二人はいつもよりも素直にお互いの気持ちを伝えあう。
それはとてもぎこちなくて、とても話がはずんでいると言う訳ではなかった。
なんとなく居心地の悪い飲食コーナーの狭いテーブル席。
ドーナツを食べ終えてからも二人は長い時間ここで過ごした。
それはもしかしたらあのお守りの効果なのかも知れない。
二人がそんなことを頭に思い浮かべていたかどうかは分からない。
ただ二人の距離がまた少し近づいたのだけは間違いなかった。




