第5話 美術館
誠司とひかりは休日に待ち合わせて、以前から約束していた山路光徳絵画展を訪れていた。
ひかりの足が治ってからの久しぶりのデート。
学校で毎日会っているというのに、二人とも少し緊張してる様だった。
美術館のチケットはありがたいことに山路から誠司宛で送られてきていた。
美術館で山路に会えるわけではないが、もともと観に来たかった山路の個展に招待してもらえただけでなく、落ち着いてひかりとデートできるということに誠司はこの上はない喜びを感じていた。
「誠司君と美術館デートだね……」
手を繋いで隣を歩く今日のひかりは、また一段とおしゃれして来ていたので、誠司の胸は高鳴りっぱなしだった。
「うん。デートだね……」
絵よりもこっちの方が気になっちゃうな……。
ひかりの可愛らしさは誠司だけではなく、すれ違う人たちもつい振り返ってしまうほど視線を集めていた。
美術館の中に入ってからも、誠司はひかりのことが気になって仕方がない。
この可憐な姿で館内を周ったら、お客さんの視線はみんな展示そっちのけでこの美少女に集中してしまうのではないか。
可愛すぎるひかりをちらちら見ながら、どこに連れて行くにも心配はついて回るんだなと考えていた。
個展には山路光徳の新作が数多く展示されていた。
誠司は絵を描く者の視点で、ついそれらの絵を眺めてしまっていた。
一方、誠司から見たひかりは素直に絵を受け止めている。そんな印象だった。
「私この絵が好きだな。明るくってすごく居心地が良さそう」
ひかりが立ち止まって観ていた絵は、新緑の木立に囲まれた森の中にある池の絵で、透き通った水の湧き出ている池を描いた透明感のある作品だった。
誠司はひかりの何気ないその言葉に何度も頷いた。
「そうだね。今俺もそう思った。ひかりちゃんと一緒だ」
「うん。良かった。一緒だね」
ひかりは嬉しそうにまた少し寄り添う。
「君はやっぱりすごいや。また気付かされた」
「えっ? どういうこと?」
「絵を見てしまってた。ひかりちゃんみたいに楽しまないといけなかった」
ひかりは少し首を傾げ、また笑顔を見せた。
「私すごく楽しいの。誠司君の好きなことに誘ってもらえて、こんなに綺麗な絵を観られて」
「俺も楽しい。君とこうして好きな絵を観ていられるなんて」
そして誠司はひかりと共にまた絵に向かい合う。
「ひかりちゃんの言うとおりだ。君とここに行ってみたいな」
「うん……行ってみたい」
頬を染めて誠司を見上げるひかりはすぐに気付いた。
同じ様に誠司も紅くなっていることに。
美術館に併設されてあるレストランで昼食を二人はとっていた。
ほんの少し高校生のカップルには背伸びした店だったが、美術館にひかりを誘う時にここで食事しようと、最初からデートコースに入れていたのだった。
それにお正月に帰って来た祖父から、びっくりするほどお年玉をもらっていた。
「誠司。可愛いガールフレンドを紹介してもらってたまげたよ。もういつ死んでもええと思ったぐらい嬉しかったぞ。お前は本当にええ子だ。とにかくお年玉をたっぷり渡しとくからデート代に使え」
誠司は祖父誠太郎が帰り際、そう言ってお年玉をはずんでくれたことをひかりに話した。
「気に入ってもらえたんなら良かった。でも誠司君のお年玉でしょ。私、半分出すから」
「いいのいいの。ちょっと言いにくいほどおじいちゃんにもらっちゃったんだ。その代わりその……」
「その代わり?」
誠司はなんだか少し言いにくそうだったが、続きをひかりに聞かせた。
「おじいちゃんがね、デートしたら二人の写真を送ってくるようにって言ってて……」
「え? 私たちの?」
「うん。ごめん。なんだか俺が奥手だから心配してくれてるみたいなんだけど……」
「そうなんだ。きっと安心したいんだよね。誠司君がすごく可愛いんだよ」
「まあ、そう思ってくれてるのかな? ただ単にひかりちゃんの写真が欲しいだけかもしれないけど」
「まさか。そんなこと無いよ」
クスクス可笑しそうに笑うひかりに見とれながら、半分ぐらい誠太郎がひかりの写真を欲しがっているのではと思っていた。そして父信一郎と同じように、周りに自慢して回るのではないかと懸念していた。
そしてクラシックが流れる、上品なレストランで楽しく食事した。
ひかりが美味しそうに食べているのを見て、誠司はなんだか嬉しかった。
きっとひかりも、いつも心を込めて作っているお弁当を自分が食べているのを見てそう感じている。そう思うと胸が熱くなってしまうのだった。
食事を終えて、ゴブレットの水を一口飲んで一息ついたとき、ひかりは言いようのない背筋がゾゾッとするような感覚を覚えた。
なに? この感覚は!
少し離れたテーブル席。どうやらその方向から痛いくらいの視線を感じる。
目を向けるとすぐにその正体が分かった。
「誠司君」
「え? どうしたの?」
「あっちあっち」
「あっちって……あっ!」
振り返って誠司が目にしたものは、恐らくデート中の島田と清水ゆきだった。
そして食い入るように見つめるゆきの憧れの視線は、ひかりが少し恐怖を覚える程だった。
「いや、まさかお前たちも来てるとは思わなかったよ」
「そうね。偶然だわー、こんなところで二人に会えるなんて」
同じ様に食事を終えていた島田とゆきは、向こうのテーブルからこちらに合流してきた。
席に着いたゆきは羨望の眼差しで誠司とひかりを見ている。
「なに? ここに高木君が時任さんを誘った訳? つまりデート中なのよね。いいなー。静かに絵画を手を繋いで眺める。同じ絵を観て感動しあうなんて映画みたいだわ……」
「清水せんせーい。ちょっとそれは教師が生徒に訊いていいことじゃないかと……」
「それでお昼ご飯も食べたし、これからどうするの? 私も一緒についてっていい?」
「いや、あれ? 俺の話聴こえてないな。すまん高木、時任。過度の興奮状態みたいだ」
ゆきは島田の言葉が耳に入らないぐらいに、ときめき純情恋愛の舞台に魅了されて入り込んでいってしまっていた。
「高木君のことだから、デートプランしっかり考えてるよね」
「いや、まあ、もう少し周ってから帰ろうと思ってますけど」
「え? そうなの? 勿体ないな。まだこれから二人っきりの時間は続くんだよ。あ、そうだ、海を見に行ったらどお? ここからなら歩いていけるよ」
恐らく何かに影響を受けているのだろう。海に行くことで二人にドラマティックな展開が待ち受けているのだと想像しているみたいだ。
「ええ、まあ、じゃあ参考にさせていただきます……」
「え? じゃあこれから行くのかしら。なら私もついて行こうかなー」
「いえ、それは遠慮してください……」
誠司とひかりが困り果てた様子なので、島田は流石にゆきをあちらの世界から呼び戻した。
「清水せんせーい。これ以上やったら駄目ですよー。こいつら本当に困ってますよー」
「ハッ!」
ゆきはやっと正気に戻った。
「そうだったわ。私、教師だった。危なかったー」
「俺が止めないと家までついて行きそうでしたよ」
「すみません。あ、時任さんも高木君もごめんね。でも二人で海に必ず寄って帰ってね」
そこは譲る気はなさそうだった。
「あ、そうだ。清水先生、俺とひかりちゃんの写真撮ってもらってもいいですか?」
祖父誠太郎に送る写真を、今撮っておこうと誠司は思ったのだった。
「え? 私、二人の写真をもらえるの?」
「いや、多分違うと思いますよ」
島田はそう解釈したゆきの頭の中がどうなっているのかと苦笑した。
「ちょっとおじいちゃんに送る写真を一枚撮りたいんです。いいですか?」
「勿論いいわよ。ちなみに二人の写真、私も貰えたりしないかしら」
ゆきはしつこく食い下がって来たが、二人は丁重にお断りした。
そして結局島田に写真を撮ってもらってから、二人は島田たちと分かれることになった。
「すまんな高木、お前たちの邪魔しちまって。あとは時任と楽しくやってくれ」
「先生こそ清水先生とごゆっくり。あ、女性の扱いに慣れてる先生に俺みたいなのが言うことじゃなかったね」
「こいつ」
島田は誠司を小突いて、じゃあなと手を振った。
美術館を出て少し歩いた後、誠司はひかりに話しかけた。
「ね、さっき清水先生が言ってた近くの海に行ってみない?」
「えっ? 本当に行くの?」
「ひかりちゃんさえ良ければ」
「うん。誠司君となら行きたい」
海浜公園が美術館の裏手から続いていて、誠司とひかりは手をつなぎながら海を目指す。
冬場の海浜公園はすれ違う人もなく、松の木が立ち並ぶ整備された細い通りを、他愛ないおしゃべりをしながら歩いた。
波の音が聞こえてきた。
誠司はひかりと二人で初めて海を見ることに興奮を覚えていた。
そして二人は広々とした砂浜に足を踏み入れた。
少し風のある明るいビーチ。
遠くに見える水平線と冷たく澄んだ青い空。
海水浴シーズンには大勢の人たちが集まるビーチには、見渡す限り人の気配はない。誠司とひかりは白砂の眩しさに目を細める。
「とっても綺麗」
ひかりは海から吹く潮風に髪を揺らしながら、透き通った海に目を向けた。
「うん。綺麗だね」
誠司はひかりと同じ海を見ている事に、しばらく感動していた。
そしてひかりの手を引いて、波打ち際まで足跡を残す。
冬の海の透明度の高さに、二人は少し驚きを見せた。
「こんなに綺麗なんだ、冬の海って」
「うん。私もびっくりした」
ひかりはその澄んだ水に触れようと、少しかがんで手を伸ばした。
潮が引いてひかりの指が湿った砂に触れる。
また静かな波が来て、ひかりはその冷たさに触れた。
「気持ちいいよ。誠司君も触ってみて」
「うん。じゃあ俺もちょっとだけ」
誠司は少し腕まくりして波を待つ。
ザザー。ザザー。
誠司が腰をかがめて待っていると少し強めの波が来た。
誠司は慌ててひかりの手を引いて逃げ出す。
ひかりも迫ってきた波に靴を濡らしそうになって、慌てて逃げ出した。
「ふー、危なかった」
「油断してたら濡れちゃうね」
二人は可笑しそうに笑いあう。
ザザー。ザザー。
遠くで白波がいくつも見える。
ほんの少しだけ風が強くなってきたようだ。
誠司はひかりに寄り添って、冷たい風からひかりを守ってやる。
「ありがとう」
「少し風が出て来たね。寒くない?」
「うん。大丈夫」
誠司はコートの内側にひかりを入れてやった。包み込まれるようにコートに入れてもらったひかりは、誠司にぴったりとくっつく。
「清水先生に見られてないかな」
「ホントだね。一応周りを確認しとこうかな」
遠くまで見通せる砂浜には、やはり誠司とひかりだけだった。
少しほっとした笑顔を二人は見せあう。
「今日は楽しかった。誠司君が誘ってくれた美術館も、お昼ご飯も、島田先生たちに会っちゃったことも、それとここに来たことも」
「そうだね。俺も楽しかった。それと美術館に行ったせいかな、なんだかまた絵を描きたくなってきたんだ」
コートの中でひかりは誠司を見上げた。
「試験や勇磨の進路のこととか色々有って、本当に描きたいものにじっくり向き合う時間がなかったからね……勇磨のことがひと段落したら描けないことも無いんだけど……でも困ったな……」
「どうして? 描きたいものを描いたらいいのに」
「描きたいものは一つなんだ」
そして誠司はひかりを見つめる。
「君だよ。ひかりちゃん」
ひかりの頬は見る見る紅く染まっていった。
「君を描きたいけれど、君と一緒にいるときはキャンバスに目を向けるよりも君を見ていたいんだ。一緒にいるのに、君が近くにいるのにそんな勿体ないことできないよ」
「誠司君……」
「だから大学に行ってから、君と会えない時に君を思い出しながら描くよ。そうすればずっとひかりちゃんのことを考えていられる……」
誠司はいつもひかりに向ける優しい笑顔を浮かべた。
「ただ君が好きなんだ」
「うれしい……私も大好き」
誠司は凄く近い距離で見上げるひかりに赤面してしまう。
そしてどうしても、あの星の綺麗だった夜、初めて触れた柔らかなひかりの唇を意識してしまうのだった。
黙り込んでしまった誠司を、ひかりはどうしたのだろうと見上げる。
「誠司君?」
「あ、いやその、うん……」
誠司はごくりと生唾を飲み込んだ。
誠司はこんなに近くにあるのに触れられないものがあることに、不思議な感じすら覚えていた。
ひかりは誠司の躊躇いを感じ取り静かに囁く。
「何も遠慮なんてしなくていいんだよ……」
「うん……そうだね。でも、いや、何て言ったらいいか……」
「誠司君、どうしたの? 余計気になっちゃうな」
真っ直ぐに見上げるひかりに、心の中まで覗き込まれた気がして、誠司は目をそらした。
「誠司君が言ってくれるまで待ってるね……」
その一言で誠司は、想いを口にするしかないのだと知った。
「いや、つまりその……忘れられないんだ。その……あの夜に触れた君の唇を……」
誠司は最後まで言ってしまってから、恥ずかしさに頬を紅潮させ目を瞑った。
ひかりはその意味を察して目を大きく見開く。
「ごめん。急にこんなこと言って、ごめんね」
「私も一緒だよ」
「えっ?」
「毎日思いだしてる……誠司君とキスしたこと……」
誠司を見上げるひかりの頬が紅く染まってゆく。
そして誠司はひかりを求めた。
「もう一度、君にキスしていいかな……」
ひかりは黙って恥ずかし気に頷いた。
ひかりは目を閉じて少し上を向く。
誠司はゆっくりとひかりの唇に自分の唇を重ねた。
まだぎこちない二人のキスは、あの星空の夜の様にほんの少し震えていた。




