第7話 あなたの背中で
月曜日の朝、ひかりはいつものように二人分のお弁当を作って家を出ようと玄関の扉を開けた。
「誠司君!」
ひかりは家の前で待っていた誠司を見て思わず声を上げた。
「どうしてここに?」
「あら?」
ひかりに続いて出てきた母もびっくりした顔をする。
「ひかりを迎えに来てくれたの?」
母が尋ねると誠司は恥ずかしそうに「はい」と応えた。
「この間はお騒がせしてすみませんでした」
誠司は深々と頭を下げた。
「ひかりさんだけじゃなく、ご両親にも娘さんの心配をさせてしまって申し訳ありませんでした」
「そんな、当たり前のことじゃないですか」
ひかりの母は誠司がなかなか頭を上げようとしないので恐縮している。
「逆にもっと娘を頼ってください。この子意外といざという時にちゃんとできる子なんですよ」
「意外となんだ……」
ひかりはそう言う風に見られているんだと苦笑いした。
「本当にひかりさんには助けられました。感謝してもしきれないぐらいです」
「そんな、当たり前だよ……」
ひかりは誠司にそこまで言われて少し紅くなった。
「誠司君、風邪の方はもう大丈夫なの?」
「うん。お陰様で。かえって調子がいいぐらいなんだ」
「良かった」
ひかりは弾けるような笑顔を見せた。
「それより足の方は?」
誠司はまだ固定具をしているひかりの足を見て心配そうな顔をした。
「あ、これね、うん。もう歩けるよ。昨日も誠司君のお父さんに診てもらったし」
誠司の前でひかりはぎこちなく足を踏みだした。その足の運びを見て誠司の表情が曇る。
「歩きづらそうだね」
「あれから歩くの初めてだからかな、すぐ慣れると思う。心配しないで」
心配そうな誠司にひかりは気遣いを見せながら母を振り返る。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ひかりは誠司と並んでぎこちなく歩き始めた。
十歩ほど歩いてから誠司は立ち止まって、ひかりに向き直った。
「ひかりちゃん」
「はい」
「もし嫌じゃなければ俺に負ぶわせてくれないかな」
「えっ? それはさすがに……」
ひかりは見送ってくれている母の視線を背中に受けて躊躇う。
「やっぱり嫌かな……」
ひかりは母の方をちらりと見る。
満面の笑みを浮かべて二人を見ている。
「誠司君も恥ずかしいでしょう?」
ひかりは恥じらいながら小さく言った。
「おれ、恥ずかしくなんかないよ。ひかりちゃんのために何だってしたいんだ」
「誠司君……」
誠司にじっと見つめられてひかりは頷いた。
誠司は膝を折って振り返る。
「さあ」
「うん」
ひかりは誠司の背中に身を任せた。
振り返ると母が真っ赤になって二人を見ていた。
「まあ……すごいもの見ちゃった……」
ひかりは母の視線に耐えられずに前を向いた。
「ひかりちゃんは羽のように軽いね」
「本当に? 重いと思うんだけど……」
ひかりは誠司の背中に身を預けてとても幸せそうに笑顔を見せる。
誠司もひかりのぬくもりを背中に感じながら幸せそうな笑顔を浮かべていた。
お互いの表情は見えなかったが、二人ともずっとこうしていたいと願っていたのだった。
「ねえひかり、凄い噂になってるよ」
楓は休み時間、席の前に座ってひかりの恥ずかしがる顔を楽しそうに眺めていた。
「今週に入って二日も高木君に負ぶわれて登校しちゃったもんね。もう失恋男子が続出でしょ」
「もう、からかわないで」
頬を紅くしながらも、ひかりは少し嬉しそうだった。
「これで二人が付き合ってるってこと、みんなに知れ渡っちゃったね」
「うん。それでいいの」
ひかりは恥ずかしそうだったが堂々としていた。
「だって本当のことだし……」
「へへへ、なんだかひかりってだんだん大胆になって来てるよね。高木君がひかりを変えちゃったみたいね」
「そうかも……」
「否定しないのね……」
楓は嬉し恥ずかしげなひかりに苦笑いした。
「でもひかり酷くない?」
「何が?」
ひかりは訊き返した。
「だって高木君が休んでた金曜日って私も休んでたんだよ」
「そうなの?」
「何よ、親友をほっぽって男に走ってたって酷くない?」
ひかりは誠司のことで頭がいっぱいで、楓がいなかったことにすら気付いていなかったのだった。
「えっ、ごめん。全然気付いてなかった」
「もういいよ」
楓は膨れてそっぽを向いた。
「ごめん、ごめん。次からは気をつけるから」
「次からじゃないよ」
楓は、フンと余計に膨れた。
「でも楓はなんで休んでたの?」
「よくぞ聞いてくれました」
楓は少し自慢げに話し始めた。
「私だって高木君みたいに大変だったんだから。何だか木曜の朝から調子悪くてさ、お昼ぐらいから寒気がしてきだして、帰ってからは熱が出だすし、金曜日は一日中寝てたんだから」
「へえ、そうだったんだ」
「へえじゃないわよ。ほんとにしんどかったんだから。次の日には楽になってたけど」
楓はひかりの反応に不満げだった。
「もうちょっと心配してもバチは当たらないよ」
「うん、そうね。でもなんだか誠司君の感じと似てるわね」
ひかりは楓の話を聞いてそう思った。
「へえ、高木君もそんな感じだったんだ。そりゃ大変だわ」
楓はなんだか納得しているみたいだった。
「あ、そうだ、その木曜日の話なんだけど面白かったのよ」
楓が思い出したように話し始めた。
「休み時間に自動販売機でなんとなくその時の気分でコーヒーを買ったんだけど……」
「うん、それで?」
「砂糖もミルクも入ってない苦いだけのやつ押しちゃってて、ちょっと飲んでからげーってなったのね」
「ふんふん」
「でも捨てるの勿体ないじゃん」
「そうね」
「そんで新にくれてやろうって思ったのよ」
「ひどいわね……」
「そしたらあいつ丁度いなくって頭に来たの」
「もうそこまでいったら外道ね」
「そしたらさ、丁度高木君が通りがかってね」
「え?」
「私、機転を利かせてひかりが押し間違えて買ったってことにして高木君にあげたの。ちょっとひかりが口を付けたって言ったらなんだか赤くなって喜んでもらってくれたって訳。ね、面白い話でしょ」
そこまで聞いてひかりの表情が変わった。
「楓……あんたって子は……」
ひかりは楓をすごい形相で睨みつけていた。
「それってあんたが誠司君に風邪をうつしたんじゃない!」
「え?」
楓は首をひねって考える。
「私は朝から変で、高木君は夕方からおかしくって高熱が出て大体同じような症状で……」
楓の顔色が青くなる。
「ひょっとすると私かも……」
「ひょっとしなくてもあんたよ! 楓のバカ!」
ひかりはカンカンになって怒った。見かねて勇磨が誠司を連れてきてくれたので、ようやくひかりは落ち着きを取り戻した。
「誠司君、楓をかばうことなんてないんだから」
ひかりはまだ怒っていた。
猛省している楓を見かねて誠司がなだめる。
「いや、俺も悪かったんだ。ひかりちゃんが口をつけったって聞いてつい……ごめんおれ、変態でした」
それを聞いて楓はクスクス笑った。
「おかしくない!」
ひかりにぴしゃりと言われてまた楓は猛省する。
「誠司君はいいの。私だってそんなシチュエーションならそうしちゃうかも……とにかく嘘をついた楓が悪い」
「反省してます……」
また楓は小さくなった。
「でも風邪をうつそうとしたんじゃないし。ね、ね」
誠司になだめられて、ひかりは膨れながらも少しは機嫌を直したようだった。
「次やったらもう許さないんだからね。分かった?」
「うん。もう絶対しない。ごめんなさい」
楓は机に額を擦り付けて謝った。
「わかった。許してあげる」
そう言いつつもひかりの機嫌はまだ若干収まっていない感じだった。
「あー良かった。こんなにひかりが怒るなんて初めてだから怖かったー。これに懲りて気をつけるね」
「もう、お願いね」
ひかりもやっと納得したようだった。
「ところで高木君、あのコーヒー全部飲んだの?」
楓がなにげに訊いた。
「あ、うん。全部飲んだ」
「そうなんだ……私、高木君に間接キッスされちゃった」
頬を少しピンクに染めた楓に、ひかりの顔色が一瞬で変わる。
「かえで!」
ひかりの怒りに再び火が付いたのだった。




