第8話 ひかりと楓2
中学生になったら陸上部に入るんだと橘楓は決めていた。
小学校の連合運動会で100メートル走三位。
陸上の短距離選手になったらいいんじゃないと、友達からもてはやされて楓はその気になっていたのだった。
陸上部に入部届を出しに行った楓は、顧問の先生に短距離走の選手を目指しているのだと明確に告げた後、体操服に着替え意気揚々と放課後のグラウンドに出て行った。
「集合!」
部長の掛け声で一斉に皆が整列する。背の高い先輩たちの後ろに並ぶと部長の顔は見えなくなった。
中学校の三年間というものは成長著しい時期であるから、小学校から上がって来たばかりの楓からすると、周りの先輩はその身長だけで大人っぽく感じられた。
あまりよく見えないものの、前で部長が話し始めた内容に楓は耳を集中させた。
「早速初日から新入生が入部してくれました。紹介するので前に出てきてください」
前の先輩のせいで声だけしか聞こえなかったが、楓は自分のことを言っているのだと先輩たちの脇をすり抜けて前に出て行く。
皆の視線が集まっているのを感じながら部長の傍に行こうとした時、すでに一人の少女が部長と並んで立っているのに気付いた。
楓は真っ先に入部したのが自分ではなかったということよりも、部長の隣にいたそのスラリとした可愛らしい少女に目を奪われた。
えっ?
少し緊張気味にこちらを見ている少女は、可愛いというだけで形容できる様な生易しいものではなかった。あえて言うなら少女漫画から飛び出してきた女の子。その子がそこに立っているだけで周りがキラキラしている。そう感じずにはいられなかった。
「さ、私の横に並んで」
優しそうな部長が楓を手招きして隣に並ばせる。
楓は部員の方を向いていたが、部長を挟んで並んで立っている女の子のことが気になって仕方なかった。
「さあ自己紹介して。先に入部届を出したあなたからね」
部長がそう言って肩を叩いたのは、楓ではなくあの少女だった。
「時任ひかりです。よろしくお願いします」
耳に心地よい涼しげな声。楓はあの可愛い唇からこんな声が出てくるんだと感心していた。
「はい、次はあなたの番よ」
肩を叩かれて楓はやや慌ててしまった。
「た、橘楓です。よろしくお願いします」
二人に拍手が送られる。楓は少し照れながら、もう一人の一年生の少女に目を向けた。そこには楓よりも恥ずかし気な少女がいて、微笑む姿にちょっとだけ目を奪われてしまったのだった。
本格的な練習が始まる頃には部員もかなり集まって、一年生の数は二十人を超えていた。
新入生の実力を見るために行われた記録会で、楓は自分の考えが甘かったことを早くも痛感していた。
楓が得意としていた短距離走。先輩はもとより同じ学年でも楓が勝てる部員は殆どいなかった。
いきなり落ちこぼれになり、きつい練習をただ辛いと感じながら続けていた時、幅跳びグループの記録会で何やら盛り上がっている声が、たまたま楓の耳に聴こえてきた。
楓はワイワイと賑わいを見せる遠目で行われていた幅跳びの方に視線を向けた。
手を上げて走り出し跳躍した選手は、流石先輩だと納得の跳躍を見せた。
大勢飛ぶので記録会は二回しか跳ばないみたいだった。
先輩たちは全員跳び終わり、あとは一年生だけとなった。
先に跳んだ二人の一年生は、楓でも失笑してしまうほど大して跳んでいなかった。
そりゃそうよねと、自分の練習に戻ろうとした時だった。
あの子だ。
少し長めの黒髪を後ろに括り、手を上げて合図したあの時任ひかりという女の子。
可愛いだけでどうせ大したことないんでしょ。
楓が頭の中で想像したものは数秒後には跡形もなくなっていた。
少女はスタートを切るとぐんぐん加速していった。
いったいその細い体の中の、どこにそのような爆発力を秘めていたのかというほどの加速。
そしてさらに踏み切って空に舞い上がった時に、楓の目はくぎ付けになった。
飛んだ……。
楓は遠目に見えている少女が跳躍したのではなく、飛翔したとその時感じた。
そして幅跳びグループがざわつく。
楓はその時気付いていなかったが、一年生の少女、時任ひかりは次の大会に参加できる候補の二年生を押さえて、幅跳びグループ全体の三番目の記録を出したのだった。
「ねえ。時任さん」
声を掛けたのは楓の方からだった。
練習後の下校途中、桜並木の道で先を歩いているひかりの背中を見つけて、楓は小走りに追いついた。
「いい記録出たって聞いたよ。すごいじゃない」
「うん。ありがとう」
少し人見知りなのか、ひかりはあまり楓と視線を合わさずに歩きながらこたえた。
「ねえ聞いた? 監督も驚いてたって」
「え? そうなの?」
「知らなかったの? すごい褒めてたって。次の大会はひょっとするとあなたが選ばれるかもって噂だよ」
「まさか。たまたま良かっただけだし、選ばれるのは先輩だよ」
「時任さんって見掛けもそうだけど、控え目でおしとやかなんだね」
楓はびっくりするほどの跳躍を見せたこの少女のギャップに、かなり興味を持ってしまっていた。
「ねえ、時任さん、私さ、今ちょっと悩んでるんだ。時任さんって短距離走も速いでしょ。助走の時の加速のコツ教えてくれない?」
「うん。いいよ」
「あれ? いいの?」
「うん」
あっさりしすぎるくらいあっさり返されて、楓は拍子抜けした。
この子ってひょっとして天然?
こんなに可愛いのに何にも計算高そうなところがないということに、有難い反面少し心配になった。
それから楓はクラスが違うひかりのもとに昼休み通うようになった。
放課後は別々の練習なので、お昼休みに三十分ほどスタート練習するのが日課になったのだった。
「はあ、はあ、どうだった?」
「うん。速くなった気がするよ。スタートも加速も」
「そう、ありがとう。なんか私も手ごたえ感じてるのよね。今度の記録会がんばるね」
「うん。がんばって」
手を胸の前でギュッと握ってはじける笑顔を見せるひかりに、良いものが見れたと得したような気分になったのだった。
「でもどうして時任さんってそんなに跳躍できるの? まだ一年生なのに」
「小学校の時の先生のお陰かな。ずっと練習見ててくれてるんだ」
「見ててくれてるって、今もなの?」
「うん。休みの日に学校で教えてくれてるんだ」
「なにそれ、あんだけ練習してるのにまだやってるの?」
話の流れで一度その小学校での練習に付き合うことになった。ひかりは仲間が増えたことを素直に喜び、楓は休みが潰れてしまったことを半分後悔していた。
日曜日の小学校のグラウンド。
お弁当持参で八時半に集合って本気過ぎない? 楓は内心どんなことをするのだろうかとドキドキしていた。
グラウンドで体を伸ばしていると、校舎から体操着に着替えた女性教員らしき人が走って来た。
「ひかりちゃん。早かったね。で、今日はお友だちも連れてきたのね」
「橘楓と言います。専門は短距離走です。よろしくお願いします」
「早瀬久美です。ひかりちゃんの幅跳びを四年生から見てるの。よろしくね」
「先生、橘さんは私といっつもお昼休みに練習してるんだ。もう凄いがんばってるの」
「ひかりちゃんみたいに橘さんも燃えてるのね。私も頑張らないとね」
やる気に満ち溢れた恐らく二十代であろう女性教員は、飛び込みで参加してきた楓を歓迎している様だった。
「さあ、いつものアップしてきなさい。ひかりちゃんが橘さんに教えてあげてね。その間に私もちょっと軽くほぐしとくね」
「はい先生」
ひかりは楓を振り返るとトラックを軽い足取りで走り出した。
リズムよく走る背中を追いかけて走っているうちに、いい感じで体が温まって来た。
そして先生が遠くから呼んでいる。
「じゃあ次行くわよー」
ラジカセのスイッチを入れるとラジオ体操が流れ出した。
先生とひかりはラジオ体操でしっかり体を動かす。
楓はなんでラジオ体操なのとブツブツ言いながらも、ひかりに倣って結構しっかりと体を動かした。
「やっぱり朝はラジオ体操よねー」
なんだか爽やかかつ和やかに先生が笑った。しかしその雰囲気とはまるで正反対のきつい練習がその後待っていたのだった。
「はあ、はあ、はあ、せ、先生、あ、足がつりそう……」
楓は開始一時間ほどで音をあげた。
「あらら、ちょっと飛ばし過ぎたかしら。ごめんね。ひかりちゃんがついてくるんで、ついいつものペースでやっちゃった」
先生はぺろりと舌を出した。なんとなくこの人も天然みたいだと思った。
「ひかりちゃーん、ちょっと休憩しましょうか」
「はい先生」
ひかりはニコニコしながら戻って来た。楓と違い余裕が感じられる。
楓はひょっとしてえらいところに迷い込んでしまったのではないかと、早速後悔し始めていた。
そしてその後も、お昼ご飯を挟んで夕方遅くまで練習は続いたのだった。
「さー最後は記録取るわよー」
朝から変わらず元気そうな早瀬久美は、ひかりにスタート位置につくよう指示した。
「ひかりちゃんのタイミングで行っていいからね」
ひかりは手を上げると颯爽と駆け出した。
ぐんぐん加速していく。
ザッ。
ひかりは再び楓の前で飛翔した。
きれい……。
思わず跳躍の距離よりも、そちらの方に見とれてしまっていた。
先生はメジャーを持ってすぐに計測しに行く。
「またちょっと伸びたわ。よく頑張ったわね」
先生はひかりの頭をごしごしと撫でまわした。
ひかりは嬉しそうに笑っている。
なんだかちょっと楽しそうだな……。
ストップウオッチが無いのでタイム計測が出来ない楓は、今日一日の成果が分からず少し残念だった。
「ねえ橘さん、あなたも一本だけ跳んでみなさいよ」
「はい」
なぜそう言われた時に、はいと答えたのだろう。
その一言がその後の楓の競技人生を決定する一言だったことに、この時は何も気付いていなかった。
あの子の様に私も飛べるかな。
そして楓は手を上げた。
スタートを切った楓は、自分でもびっくりするほどの加速を感じていた、
踏切線があっという間に近づいてくる。
そして踏み切った。
ザッ。
そしてようやく分かった。なぜあの少女があんなに楽しそうに何度も跳び続けていたのかを。
楓はこの時、本当にやりたいことに出会ってしまったのだった。




