第1話 両親との対面
目覚ましのアラームが鳴ってひかりは目覚める。
もう冬休みに入っているので、慌ただしく学校に行く準備をする必要はない。
体を起こして手の届く範囲のカーテンを引くと、明るい朝の陽ざしが少し肌寒い部屋に射し込んできた。
その眩しさに目を細め、ひかりはもう一度横になって布団にくるまった。
そして昨日の特別な夜のことを鮮明に思いだす。
初めてのキス……。
布団にくるまったまま、ひかりは段々体全体が熱くなってくるのを感じていた。
私、自分から誠司君にキスして欲しいって言っちゃったみたい……。
夢にまで出て来た昨晩の出来事。何度思い返してみても、あのとき自分から彼を求めた。
今日どうやって顔を合わしたらいいんだろう。恥ずかしくてまともに見れないよ……。
ひかりは頬を紅く染めたまま、布団から顔を出す。
でも会いたい……すぐにでも誠司君に会いたい……。
矛盾している感情の行き先を決められないまま、火照った頬にあたるひんやりとした部屋の空気を、少しだけ心地いいと感じているひかりだった。
まだ暖房のあまり効いていない車の助手席で、誠司はハンドルを握る信一郎の話を、ぼんやりとした頭で聞き流していた。
「誠司、おい聞いてるか? ひかりさんのご両親には、お前の方から俺の分のお礼も言っておいてくれよな」
「ああ、うん。言っとく……」
昨晩、誠司はあまり眠れなかった。
それは昨日のクリスマスイブに、人生初の体験をしてしまったからだった。
朝ご飯を食べた後、父の運転する車に揺られてひかりの家へと向かう誠司の頭の中には、昨晩起こったあの光景が、エンドレスで再生されていた。
車ならすぐに着いてしまうひかりの家。
もうすぐ顔を合わせるひかりのことを思い、誠司の胸は激しく高鳴っていた。
キスしたんだ……ひかりちゃんと……。
もう頭から離れないその感触を、またはっきりと思いだす。
誠司の頭は朝からぼんやりと霞がかかったような感じだった。
ひかりの自宅に車で送ってもらった誠司は、父から大量の空になった重箱を受けとり、走り去ってゆく車を緊張した面持ちで見送った。
誠司の父は自分が顔を出すと、ご家族が気を使われるだろうと、あとは誠司に任せたのだった。
昨晩のことも誠司の平常心をグラグラにしていた原因の一つだったが、もう一つ、昨日家まで送って行った際に、ひかりが言ったひと言が、誠司の心に重くのしかかっていた。
「明日はお父さんもいるけど、いいのかな?」
昨日誠司が重箱を返しに行くからと伝えると、そう告げられのだった。
誠司は沢山の重箱と、ひかりに昨日見せた絵を持って来ていた。
誠司が大きく息を吸ってインターホンを鳴らそうとした時、ドアが開いてひかりが出てきた。
「おはよう。荷物いっぱいだったね。ごめんなさい」
「おはよう。朝からごめんね……」
何だかひかりは、誠司をまともに見れないみたいだった。
そんな恥じらいを見せたひかりのことを、誠司もあまり見ることができない。
気にしているのは二人とも同じようだった。
ひかりは空の重箱の包みを持って、そそくさと家の中に運んでいく。
誠司も持てるだけ手に持って玄関に入ると、奥からひかりの母が急いで出てきた。
「あら、すみません。荷物になっちゃったわね」
誠司はすぐに深く頭を下げた。
「昨日はありがとうございました。おかげさまでとてもいいクリスマス会をさせて頂きました」
しっかりと姿勢を正してお礼を言った礼儀正しさに、ひかりの母は恐縮したように胸の前で手を振った。
「そんなにかしこまらないでください。でも、喜んでもらえたのなら良かった」
「はい。みんなで美味しく頂きました。それとあの、これ、父からです」
誠司は用意しておいた菓子の包みを手渡した。
「まあ、すみません。かえって気を使わせてしまったみたいね」
「いえ、父からくれぐれもお母様に宜しくお伝えするようにと言われてます。それとあんなに美味しいもの、久しぶりに頂いたって喜んでいました」
「まあ、お世辞でもうれしいわ」
誠司の言葉を素直に受けとったひかりの母は、嬉しそうに少し頬を紅くした。
誠司が母と話している間に、ひかりは外の残りの包みを運び終わった。
「これで全部。お母さん、上がってもらっていい?」
「勿論よ。ゆっくりしていってもらいなさい」
ひかりは誠司の肩にかけていたキャンバスの入った大きな袋を手に取った。
その時、奥からひかりの父が顔を出した。
誠司は緊張気味に深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております。いつぞやはお見舞いに来てくださってありがとうございました」
「高木君、よく来てくれたね」
八月の病院以降、久しぶりの対面をしたひかりの父は、笑顔で誠司を出迎えたのだった。
明るいリビングに通された誠司は、勧められたソファにひかりと並んで座っていた。
少しゆっくり話をしたいと、ひかりの父が申し出たからだった。
ひかりの母は煎茶の入った湯呑を、硬い笑顔を顔に張り付けた誠司の前に置いていく。
「高木君、そんな硬くならないでいいのよ。まあお茶でも飲んで」
母は誠司の緊張ぶりを見て、優しい口調でお茶を勧めた。
「すみません。いただきます」
誠司は白い湯気の立つ湯飲みに手を伸ばして、息を吹きかけながら口をつけた。
分かっていても落ち着くことが出来ない。誠司はぎこちない笑顔を浮かべたまま、固まっていた。
顔を上げることができないのは、向かい合って座るひかりの父の視線が突き刺さってくるのを感じているからだ。
全く知らない者同士ではないとはいえ、可愛い娘が連れてきた男子に、父親がそういった感じになるのは仕方のないことなのだろう。
ひかりの母が席に着いたと同時に、父が口を開いた。
「どうかな、怪我のほうは、だいぶ良くなったのかな?」
ひかりの父は誠司の右手に目をやってからそう尋ねた。
「はい。お陰様でもう痛みはありません」
ひかりの父とは病院に二度見舞いに来てくれた時に顔を合わせていた。
誠司の父とずいぶんと話していたみたいだが、誠司本人とは実際あまり話をしたわけではなかった。
声の感じすら憶えていなくて、初めて話をしたみたいに誠司は感じていた。
「そうですか。うん。良かった。こうして君が元気になっているのを見れて本当に良かった」
そしてひかりの父は、突然誠司に深く頭を下げた。
「ひかりを助けてくれてありがとう」
頭を下げたまま動かないひかりの父に、誠司はどうしていいか分からず戸惑ってしまう。
「いえ、あの、頭を上げて下さい」
「君には申し訳ない気持ちと感謝しかないんだ……本当にありがとう」
「もう、そのぐらいにして下さい。恐縮です」
誠司がどうしていいのか分からず困った顔をしていると、ようやくひかりの母が入ってきてくれた。
「お父さん、高木君困ってるわ」
隣に座る母に背中を軽く叩かれて、父はやっと顔を上げた。
父はフーと一つ大きく息を吐いた。
「やっと君にちゃんとお礼が言えたよ。今日は本当によく来てくれたね」
ひかりの父もきっと緊張をしていたのだろう。少しほっとした感じの笑顔を見せた。
「ひかりはちゃんと君の身の回りのこと、やっていたかい?」
「はい。ひかりさんにはあれからずっと色々助けてもらって、すごく感謝してます」
「私は全然……」
ひかりは誠司の横で照れくさそうに頬を紅くしている。
そんな娘の恥ずかしがりように、母も少し上気しつつ温かな視線を二人に向けた。
「ひかりったら、毎日お弁当作ってたわよね」
「うん……それぐらいなの」
両親の前でモジモジしっぱなしのひかりの隣で、誠司はひかりから昨日、お父さんが家にいると聞かされた時から話さなければと思っていたことを、ここで切りだした。
「あの……」
暖房の効いた部屋はそこまで暑くなかったが、誠司の額には薄っすらと汗が滲んでいた。
「突然でびっくりされるかとは思いますが……」
誠司の声は少しうわずっている。
ひかりは緊張した面持ちで、何かを言い出そうとしている誠司の横顔を見る。
「あの……」
誠司は音がするほどゴクリと生唾を飲み込んだ。
「今、僕、ひかりさんとお付き合いさせてもらってます」
誠司の口から出た言葉に、ひかりは両手を口に当てて、言葉もなく驚いた表情をしていた。
ひかりの父は少し表情を変えたが黙っている。
ひかりの母は誠司が緊張しながら絞り出した言葉に、優しい笑顔を見せた。
「そうだと思ってた」
ひかりの母は明るい声でそう言った。
「ひかりがはっきり言わないものだから、お母さん気になってたのよ。高木君の口からちゃんと聞けて良かった」
まるで肩の荷を下ろしたかのように安心した顔をした母に、ひかりは申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
「今まで黙っててごめんなさい」
「いいのよ。やっとちゃんとした報告を聞けたから。それにあなた、最初から何にも隠せてなかったわよ」
ひかりは母のひと言で赤面した。
「お母さん、知ってたんだ……」
「そりゃ分かるわよ。あなたあんなにいつも嬉しそうにお弁当を作ってたじゃない」
そして頬を緩めたまま、母は誠司に向き直った。
「この子が高木君のこと好きなんだって知ったとき、私本当に嬉しかったのよ。だって……」
感極まったのか、ひかりの母は言葉に詰まって少し目頭を熱くした。
「高木君よりこの子を大切にしてくれる人なんていないもの」
ひかりの母は誠司を顔を真っすぐに見ながら、目じりに浮かんだ涙を指で拭いた。
「ひかり、あなたは高木君と巡り合えて本当に幸運ね」
「うん」
「あなたも高木君のこと、ちゃんと大事にするのよ」
「うん。私、誠司君を大切にする」
「あら、もう下の名前で呼んでるのね」
ひかりは指摘されて頬を紅く染める。
「高木君、これからも娘のことよろしくお願いしますね」
「は、はい。勿論です」
そのとき、黙ったままだったひかりの父が口を開いた。
「高木君」
誠司はまた姿勢を正した。母の和やかさとは正反対に、向かい合う父の圧迫感は半端なものではなかった。
そのまま誠司は固唾を呑んで、なにを言われるのかと固まった。
そして父親は、再び誠司に向かって頭を下げた。
「娘をよろしくお願いします」
切実な声で父は誠司にそれだけ言った。
娘を大切に思う気持ちが、そのひと言には詰まっているようだった。
誠司はすぐに父親よりもしっかりと、テーブルに額が付くくらい頭を下げた。
「そんな、こちらこそよろしくお願いします」
誠司も持てる限りの誠実さを込めてそう返した。
頭を上げた父は、ひかりに目を向けて一度頷いて見せた。
「ひかり、お前が高木君を選んだのはきっと間違いじゃない。彼を大切にしなさい」
「うん。約束する」
ひかりは隣に座る誠司に、恥じらいながら微笑んだ。
誠司は胸にこみ上げるものを押さえながら、自分の裡にある覚悟を、はっきりと口にした。
「ひかりさんのこと、大切にします。約束します」
ひかりは隣の誠司を見つめたまま、その言葉に夢うつつのような顔で頬を紅潮させた。
誠司は言ってしまった大胆な発言にいたたまれないように、頬を紅く染めながら下を向いてしまった。
ひかりは何も言わず、誠司の袖を少しだけ引っ張る。
そして二人はお互いに恥ずかし気な顔を見せあった。
そんな二人を前に見せつけられたひかりの母は、ハーと小さく息を吐く。
「本当に大好きなのね……」
ひかりの母は、頬を染めて微笑み見つめあう二人の姿を見て思うのだった。
こんなにお互いを思いあう特別な恋をしているのが、どれだけ幸せなことか。
夢のように幸せそうな娘のしぐさを見て、この世界に運命というものがあるとするならば、この目の前にいる二人がそうなのだと思い、またそう願うのだった。