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第2話 溺愛されたければこちらから連絡してはいけません


 人間の本能には進化の過程が組み込まれている。

 そして、人類の歴史は600万年の進化史でみればほとんどが狩猟採集生活であり、生きるために一番大事なことは『狩猟』だったのだ。だから、人間のとくに雄(男性)にはいまでも狩猟本能が根強く生きている。

 だからわたしは、『溺愛されたければ、彼の狩猟本能をうまく利用しなければならない』と手帳の一ページ目に書いた。そして、矢印をひいて、つぎの行に、『こちらから先にウルフに話しかけてはならない』と書いた。

『ウルフから話しかけられなくてはならない』

『そのために、ウルフの視界に入ること』

 これがわたしが作った溺愛法則の一つ目のルールだった。

 男性は自分から女性をみつけて、興味をもち、話しかけて、手に入れようとする狩猟本能に従うときに興奮し、恋心に目覚めるのだ。だから、決して、わたしから話しかけてはならないのだ。彼が先にわたしに話しかけなくてはならない。

 これは、とても大切なことなのだと、わたしは考えたのだった。


「ねぇリリィ、あんた、ウルフのことが好きでしょ?誘ってみれば?」

 ある日、学食の対角線上にあるいちばん遠い席で美女の会話にうつろな目をして頬杖をついて窓の外を見つめるウルフをこっそり観察していたわたしに向かって、サチが言った。

「あんたの顔、ステーキ肉を前にしたうちのロッキーにそっくりよ」

「ロッキー?」

「愛犬。レアな肉が好物なの。涎を垂らしてはぁはぁ言ってるわよ」

「わたしはそんな顔してない」

「してないけど、そう見えるの!鏡みてみたら?」

 サチがロンシャンのバッグからフエルト地のケースを取り出し、そこからディオールのサマーコフレに付いていたゴージャスなクリスタル付ミラーを取り出してわたしに向けてくるから、わたしは大袈裟に首をふった。

「こっちから誘ったら、不幸になるもん」

「え?なんで?」

「自分を安売りする女は、ぼろ雑巾みたいに捨てられるだけよ。使い捨てされるの。この紙カップみたいに、ぐしゃって潰されてポイっと。一度味わったら即ゴミ箱行きよ」

「なにそれ。どういうこと?」

「ほら、サチだってその鏡、わざわざ一か月前から予約して買ったから大事なんでしょ?そのへんで無料で配られてたら、そんなに大事にしないはず」

「そうかな……。でもこれ、すっごくかわいいでしょ?」

 新緑の芝生がみえる窓から射す光が鏡の背面のクリスタルを反射してキラキラと光る。その向こうでウルフが一瞬こっちをみた気がするけど、光に反応しただけだろう。わたしは手の中にあるカップからキャラメル・ソイラテをひとくち口に含んだ。

「たしかにそれ、めっちゃくちゃかわいいけど。何かを手に入れるときは、苦労したほうがもっと大事に思えるでしょ?男は女よりも、そういうのが大切なのよ」

「ふぅん。でもさ、こっちから誘わなかったら一生チャンスないんじゃない?ウルフが女を誘ってるところなんて、見たことないわよ。誘ってくる女の中から適当に選んでるだけじゃん?モテ男なんだからさ」

 

 たしかに、ウルフが女を誘ってるところを見たことがない。モテる男は女を誘う必要がないのだ。

 次から次へといい女が自分から無料で身を差し出すから、気まぐれでそれを受け取って楽しんで捨てるだけなのだ。この大学の美女のほとんどがウルフに捨てられて泣いた経験があるという噂だ。じゃあ次は美女じゃなくてもイケるんじゃない?なんて思って血迷った地味めな女子までが今年のバレンタインデーにはウルフのアパートの部屋の扉の前に列を成していたという噂もある。 

 わたしは絶対に、そんな女と一緒にされたくない。


「っていうかさ、リリィ、ウルフのことが好きだって認めたわね?」

 そういってサチがうふふとわざとらしく笑った。

「リリィならお似合いよ、なんとなく、美男美女の根暗同士で」

「ちょっと!なんでわたしが根暗なの?」

「え、違うの?いまさら?」

 サチとわたしは顔を見合わせて笑った。わたしが根暗なのは、高校時代からの親友であるサチとわたしだけの秘密だ。この話はまたいつかすることにしよう。

 

 サチにわたしの壮大な計画が理解できたかどうか怪しいけれど、わたしが練った計画は、それはそれは壮大なものだった。もともと根暗で想像力が抑え込めないほどに豊かなのだから、わたしの中ではウルフとわたしはとっくに熟年夫婦になっていた。けれど、現実はそううまくはいかない。

 初めての会話は、『いつもここにいるよね?』というような言葉から始まるはずだった。けれど、彼が発した想像以上の傲慢さと、わたしが得た想像以上の驚きと、想像以上に高鳴る胸の鼓動に圧倒された。

 どんなに用意周到に準備しても、人生は計画どおりにはいかないものだ。

 

 わたしはベッドの上に座り、スマホの画面を眺めた。あたりには甘い蜂蜜のボディクリームの香りが漂っている。

 夜の11時。毎日このくらいの時間から、恋する女にとって魔の時間が始まる。

 恋する女は夜ひとりの時間には後悔することしかしないものだ。いきなりラブレターを書き始めたり、電話越しに愛の詩を朗読したりと、男性の狩猟本能を萎えさせる言動ばかりとってしまうのが恋する乙女。だから、わたしは『夜10時以降はアクションを起こしてはいけない』というルールも手帳に太文字で記してある。


 あの夜、ウルフと初めて話してから一週間が経った。

 ウルフを恋に落とす壮大な計画を実行中のわたしは、毎晩、狩猟本能を萎えさせてはならないというルールから派生する『こちらから連絡してはならない』というルールを守っていた。

 けれど、わたしはウルフの電話番号を知らないから、守る守らないにかかわらず、守れていた。

 そして、ウルフからは、連絡はなかった。

 あの夜の出来事は夢だったのだろうか。

 彼はわたしの番号なんか、忘れてしまったか、または、とっくに削除したのかもしれない。

 あれはモテ男特有の挨拶にすぎず、それ以上の意味はなかったのかもしれない。

 木苺がプリントされたウエッジウッドのカバーに包まれた枕に頭を沈めてそんなことを悶々と考えていたとき、

 ブルブル…ブルブル…

 手の中にあるスマホが振動したから、わたしは飛び起きた。

 表示されているのは、知らない番号だった。

 20秒ほど振動が続いたあと、切れた。

 間違い電話だったのだろうか、と思って枕に頭を戻そうとしたとき、また、

 ブルブル…ブルブル…

 振動が始まった。19秒経ったところで画面をタップする。

「…はい」

「おそい」 

 低い声。

「え」

「さっさと出ろよ」

 傲慢で、でも怒っているわけでもない、優し気で、すこし切なげなウルフの声だった。

 胸に手を置いて、わたしは前もって決めておいたフレーズを言う。

「誰ですか?」

「おれだよ、おれ」

「おれおれ詐欺?」

「あほか」

 そういって彼は喉の奥で笑った。電話越しに聞くウルフの声はまるでビロードのように厚く深くわたしの耳の鼓膜をふるわせた。

 

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