1 魔物図鑑士はくじけない
ちぎれ雲の浮かぶ青空の下に森があった。幹の太い木々は高くそびえ、その間には無数のレンガ造りの家が並んでいる。
まばらに人が行き交う市場にも幾つもの木が生えており、幹に出来た樹洞の中に入った人々が露店を開いていた。
森と共に生きる街、フォレストテイル。貿易も盛んに行われており、その静かな印象とは裏腹に木々の間に埋められた石畳の上を幾つもの馬車が通り抜けていく。
その様子を黒髪に緑瞳の青年――エルレスが物珍しそうに眺めていた。
上下白い衣服を身に着けたエルレスは、純白の外套を揺らしながらゆっくりとした動きで石畳を踏みしめて歩いていく。さえずる鳥が羽ばたいていくと共に、上から木の葉が舞い落ちてきた。
異世界クレスフォード。あの死闘を終えた後、エルレスは気が付けばチキュウではなくこの世界にいる事を知覚した。正確には八歳になった時に前世の記憶が蘇ったのだが、さすがにいきなり子供になっていた事に戸惑ったのをよく覚えている。
それからは各地の街を転々として渡り歩き、大人になっても森や川でほぼ自給自足の生活を続けていた。
だが、そんな世知辛い生活も今日で終わりを告げる。ギルドに赴き、就職する。それが今のエルレスの目的だ。
物思いにふけっていたエルレスは、そこで騒がしい音と小さな悲鳴が聞こえてくるのに振り返る。
馬より大きい緑色の鱗を持つトカゲが、市場の中を凄い勢いで走り抜けていくのが見えた。
「誰かっ、ウチのハシリザードを止めてくれー!」
慌てながらさきほどのトカゲを追いかけていく男性の姿を見て、エルレスは近くの木の中にある売店まで走る。
「キミ、これ貰うよ」
ゴールドを置いて、骨付き肉を掴むとエルレスは走り出す。
骨の部分を口に咥え、走る速度を上げていく。地面を蹴って跳躍するとその身体は高く跳び上がり、屈んだ姿勢で木の枝の上に飛び乗った。
さらにそこから跳んでレンガの家の屋根を掴んでよじ登っていく。
屋根の上で立ちあがると、エルレスは再び駆け出し様々な色の屋根から屋根へと飛び移っていく。
土煙を上げて街中を暴走するハシリザードの姿を視界に捉え、追いかけていく。そのハシリザードは角を曲がるために減速しているのが窺えた。
その進行方向の前方付近で、エルレスは屋根から下へ跳び降りて方膝を折って着地する。
エルレスの方へ向けて駆けてくるハシリザードに対し、咥えていた骨付き肉を突き出して見せる。それに反応して、ハシリザードがわずかに走るスピードを落とす。
骨付き肉を上に放り投げると、ハシリザードはそれにつられて頭を上げる。さらに速度を落としていき、口を開いて落ちてくる骨付き肉に噛みついた。
ゆっくりと足を運ぶハシリザードが近づいてくるのに、エルレスが胴体を撫でるとハシリザードはようやく歩みを止めた。
そうしているといつものように不思議な感覚が沸き起こり、エルレスの網膜にハシリザードの情報が浮かび上がっていく。
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ハシリザード 生息地、クレスフォード全域(寒冷
地帯以外) 危険度、無害
緑色の鱗に包まれた馬くらいの大きさのトカゲ。気
性は大人しく、雑食ではあるが生きている生物を捕食
する事は無い。また、人間になつきやすい。
じっとしていられない性質で一日の長い時間を走る
事に費やしている。しかし、走り過ぎてもストレスが
溜まって、逃げ出す事があるので注意が必要。
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目に映り込んだ情報が消え去ると共に、ホルダーの中に収まった魔物図鑑の一ページが淡い光を帯びる。
ホルダーを開け、魔物図鑑を取り出してそのページを開くと今見た文章がそこに記されていた。
そこで、さきほどの男性がこちらに向かって走ってくるのを視界の端で捉え、エルレスはそちらに顔を向ける。
「やぁ、助かったよ……。コイツ、腹が減っていたのかい。ちゃんとエサはあげたんだがな……」
男性は汗だくになって、荒く息をつきながら骨付き肉を咀嚼し続けるハシリザードを眺めた。
「いえ。このハシリザードはお腹を空かせていたわけではないです。今は休憩してくれているだけですよ」
「ん? それはどういうことだい」
魔物図鑑をホルダーの中に仕舞いながらエルレスが言うと、言葉の意図が掴めていない様子の男性が首を傾げる。
「この子、どのくらい休ませずに走り続けさせていたんですか?」
穏やかに尋ねるエルレスに、男性は方腕を持ち上げて開いた指を一つ一つ内側に折って数えていく。
「三日間になるな」
「駄目ですよ。ハシリザードは確かに走るのが好きな魔物ですが、走らせ過ぎるとストレスが溜まってしまうんです。働かせ過ぎたら、また逃げ出してしまいますよ?」
「……気を付けるよ、すまなかったな」
静かな声色で注意するエルレスに、男性は苦笑する。
ハシリザードの方を見ると男性の事を嫌っている様子は無く、そこから逃げ出そうとする様子は無かった。無理強いはしていたのかもしれないが、彼とこのハシリザードは良きパートナーなのだろうとエルレスは思った。
「わーっ! お兄さんすごーい!」
そこへ、肩まで伸ばした金髪を揺らしながら接近してきた若い女性が声をかけてくる。
エルレスの胸に頭が届くかというくらい背丈が小さい女性は、緑色の頭巾と衣服にエプロンを着けていた。
こちらを尊敬の眼差しで見てくる彼女には見覚えがある。それはさきほど骨付き肉を売っていた女店主であった。
「どうも。ああ、もしかしてお釣りですか」
「ううん、お金が足りてなかったのよ」
女店主が申し訳なさそうに言ってくるのに、エルレスは慌てて腰の布袋を開いて中を見る。
「あれ、中身が無い……って、袋に穴が開いてる」
ゴールドの入った袋の底が破れており、中に一枚も硬貨が入っていないのを見てエルレスの顔が青ざめる。
「ま、まけてもらえませんか?」
「お金落としちゃったの? かわいそうに……」
エルレスが困った表情になって懇願するのに、女店主は悲しそうな顔になりながらエルレスの腕をがっしりと掴んだ。
それから、彼女は慈愛に満ちた優しい笑顔を浮かべる。
「じゃ、内臓売りにいこっか?」
その小柄な身体からは想像出来ない力で、女店主はエルレスを引き倒す。そのままエルレスは地面に引きずられながら腕を引っ張られていく。
エルレスが必死な顔になって助けを求めようと男性に顔を向けると、視線をそらされた。
「おっと、早く国に戻って陛下に報告しないとな」
男性はハシリザードにまたがると去って行ってしまった。
見捨てられた事実に、形容し難い絶望感と焦燥感が込み上げてきてエルレスは青ざめる。
「かーんぞうっ、すーいぞうっ、しーんぞうっ」
陽気に恐ろしい歌をうたいながら女店主はエルレスを引きずっていく。
「ひーきにくっ、ミーンチっ」
「殺される!?」
「大丈夫だよっ、痛いのは最初だけだから」
「それって、明らかに即死させるって言ってますよね! し、仕事を手伝って返すっていう風にさせてもらえませんか?」
焦りながらエルレスがそう提案するのに、女店主は歩みを止めてこちらを見てくる。
「え? でも、内臓売った方が高いよ?」
「在庫分も含めて全部売るのでっ、そこをなんとか!」
懸命に説得を試みるのに、女店主は顔を持ち上げてしばらく思案する。
それからエルレスの腕がゆっくりと離された。
「じゃ、それでよろしく。お兄さん」
「はい……文字通り命がけでがんばります」
「もし売れ残ったら、腕か足どちらか選んでね」
「ケジメをつけろと言われている……っ!」
微笑む女店主の言葉に、汗を流しながらエルレスは戦慄に震えた。
さすがに逃げ出して捕まったら今度こそ命は無いだろう。それに、金額の確認をしっかりしていなかった自分にも責があるとエルレスは思った。
女店主が元来た道を戻っていくのを追って、エルレスもその後をついていく。
「あの骨付き肉は何の肉なんですか?」
「羊の肉だよ。あたしの家族が牧場をやってて、そこから持ってきてるの」
「なるほど。それなら、光明はあるな……」
胸の内に希望が湧いてくるのと共に、エルレスは気持ちを引き締めた。
そうしている間に店の前に辿り着くと、女店主が樹洞の中に入ってテーブルの前に立つ。
「じゃんじゃん作り置きしていくから、ガンガンお客さん連れてきてねー」
「ご期待に添えるかは分かりませんが、行ってきます」
「あんまりがんばらなくてもいいよ。その時は――」
「尽力致しますっ!!」
にこやかに言う女店主の言葉に、必死の形相になってエルレスは身を翻して駆けだした。
エルレスは一人の女性の許へ向かい、会話をするとその人を店まで誘導する。骨付き肉を購入していった彼女に頭を下げると、エルレスは次の女性に声をかけに行く。
やがて、次々に客が集まってきて瞬く間に骨付き肉が売れていった。
「おおぉーっ! まさか本当に在庫全部までもが売り切れになるなんて……お兄さん凄いねぇ」
テーブルに乗った売上金を見て女店主は微笑んでいた。
「ちょうどお昼なのと羊の肉だったのでなんとかなりましたね。あれは低カロリーな上にアミノ酸やビタミンが豊富ですので、ダイエットに向いている商品だったのが幸いでした」
ゆっくりとした口調で説明すると、女店主がエルレスの方に顔を向ける。
「ダイエット? それで女性客が多かったんだね。最初はてっきりナンパでもしてるのかと思ったよ」
「あはは……何度かそれと勘違いされました」
エルレスが困った顔になって少し笑うと、女店主は僅かに首を傾げて見上げてくる。
「でも本当、大したものだったよ。どこの商人なの?」
「いえ。実は商人じゃなくて魔物図鑑士なんです」
「へぇ、危ない事をやっているんだね。魔物図鑑士って世界にまだ三人しかいないから大変じゃない?」
「はい。でも、好きでやっている事ですので……」
真面目な表情でエルレスがそう言いながら、内心で内臓や手足を売られるよりは危険ではないと口走りそうになって自制した。
エルレスの言葉に女店主は感心したような顔になる。
「それだけの手腕があるのなら、商売人になればいいのに。むしろ、ウチで雇いたいくらいだよ」
「ありがとうございます。全力でお断りします」
「残念。じゃ、これバイト代ね」
女店主は売り上げのほとんどを布袋に詰めるとエルレスに放り投げる。
エルレスはそれを両手で受け止めると、意外そうな顔になって手の中の布袋に視線を落とす。
守銭奴かと思っていたが、あまりの報酬の多さにエルレスは困惑していた。
「いえ。今回はそういう契約ではないので、これは受け取れないです」
「……いいの? あなた、いま無一文なんでしょ」
布袋をゆっくりと返されるのに、女店主は驚きながらエルレスを見る。
「大丈夫です。これから働いて稼ぎますので。このお金で、少しでもご家族に贅沢をさせてあげてください」
エルレスは笑みを浮かべて穏やかに話す。
その言葉に、女店主は俯いて肩を震わせる。
「……きゃー! お兄さん素敵―っ!」
言葉と共に顔を振り上げると、目を輝かせて感極まった表情になっていた。
何か妙なスイッチでも入ってしまったのだろうか、テンションが上がった女店主を見てエルレスは思わずたじろぐ。
「お兄さんっ、名前はっ、住所はっ、スリーサイズはっ!?」
言葉を発しながら徐々に近づいて身を乗り出してくる女店主に、エルレスは困惑しながら後ずさる。
「な、名前はエルレスでまだこの街に来たばかりで、スリーサイズは測ってみないと分からないので」
「よっしゃー! 個人情報ゲットぉー!」
「……教えたらいけなかったかも」
握りこぶしと共に腕を持ち上げて叫ぶ女店主から視線をそらし、エルレスは額から汗を流した。
「あっ、あたしの名前はディアセラだよ。気軽にセラちゃんって呼んでね、エル兄さん!」
「う、うん……よろしく。それじゃ、またね」
片目をつむって笑みを向けてくるディアセラに、エルレスが困った笑みを向けながら手を振ってその場を去ろうとする。それを見て、ディアセラがその場に泣き崩れて腕を伸ばしてくる。
「行かないでっ、エル兄さん! あなたに捨てられたらあたしはっ……ぐすっ、うえぇーん……チラッ」
「どう見ても嘘泣きだから、もう行くね」
「チッ、引っかからないか。さすがあたしの見込んだお兄さんだ。でも本当にまた来てよね」
立ち上がるとディアセラが笑い、エルレスは少し疲れながら頷いた。
「分かりました分かりました。……あ、そうだ。この街のギルドってどの辺りにあるんでしょうか?」
「ん? それなら」
一瞬、きょとんとしたディアセラがエルレスの背後を指差す。
「ギルドを探している、だと?」
背後から声がするのにエルレスは振り返る。
そこには、栗色の髪にバンダナを巻いた巨漢の男が立っていた。
その衣服は、シャツにズボンに腹巻きという格好だった。
【変更点】11/7 エルレスが目で視た情報が図鑑に登録されるようにしました。
11/8 全体的に文章の加筆を行いました。(内容に変化はありません)